2006年10月14日

ハマの建築家 … J・H・モーガン 2

ハマの建築家 J・H・モーガン(1873-1937)たま夫人日本に残って建築家として生きる道を選んだモーガンは、自身が建設に関与した日本郵船ビルに設計事務所を構えた。その後1926年にはアメリカ人のコミュニティーがあって、東京以上に関東大震災の地震被害を受けていた横浜に移った。1928年からはモーガンが設計した横浜関内のユニオンビルディングに設計事務所を置いて1937年に亡くなるまで旺盛な設計活動をしています。

 

 

クラスト・チャーチ(1934 横浜山手聖公会)外国人墓地正門モーガンの絶筆 旧チャータード銀行神戸支店(現チャータードビル)モーガンはアメリカ人特有の明朗快活な性格を特に強く持っていたそうです。その性格も幸いしたようで、横浜の欧米人コミュニティーの公的な施設――アメリカ領事館、根岸競馬場(現存)、クラスト・チャーチ(現存)、外国人墓地正門(現存)――から、ミッション系の学校建築――関東学院専門部校舎(現存)、同中学部校舎(現存)、立教大学予科校舎(現存)、東北学院礼拝堂(現存)――まで設計している。この他に外資系銀行や欧米人の住宅などを10年少々の間に横浜近郊に実現した。大忙しですね。

作風も多彩。お得意の古典様式であったり、スパニッシュ風、中世城郭風など持ち前の器用さを大いに発揮しています。

 

アメリカ領事館(1931 現存せず)関東学院中学部(1929 現存)このように、J・H・モーガンは横浜の建築文化を彩った外国人建築家の筆頭です。

来日のキッカケとなった旧丸ビルは1999年に取り壊されました。が、奇しくもこの年に藤沢市大鋸に1931年頃建てられたモーガン自邸が現存しているのが判明したんです。

 

当時、債権整理回収機構の管理下にあった敷地の深い緑の中に埋もれていた旧モーガン邸が偶然発見された。この敷地はすでに開発の危機にあった。急遽、地元を中心に『旧モーガン邸を守る会』が結成され、現在日本ナショナルトラストによる募金活動が展開されています。

  

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2006年10月13日

ハマの建築家 … J・H・モーガン 1

J・H・モーガン(1873-1937)関東大震災に関わる一人のアメリカ人建築家で、日本の建築文化に花を添えてくれた人物のことに触れたいと思います。

大地震が起きない地域であるシカゴやニューヨークの高層ビルの建設で頭角を現したアメリカの建設会社フラー社は、第一次世界大戦後の日本にアメリカ式の近代的施工方法を伝授すべく三菱地所などから招聘された。そして、フラー社は丸ビル日本郵船ビルなどの施工を手掛けることになった。

 

フラー社は日本進出に際して、事業展開のためには自前の建築家が必要と考え、アメリカから建築家を連れて来た。その人物が来日当時46才であったJ・H・モーガン(18731937)――私が紹介したい建築家です。

 

モーガンはアメリカでは個人設計事務所やニューヨーク州の建築課、鉄道会社、フラー建設会社などで建築実務を学んだ。そして、30才ころからはニューヨークで設計事務所を自営していた。作風は古典主義の様式建築がほとんど。ということは、当時の建築家としては穏健な作風であったということです。そして、劇場・オフィスビル・集合住宅など多種多様な設計を経験していた。フラー社はモーガンのこういった豊富な経験と手堅さを買ったんでしょう。

 

旧モーガン邸旧モーガン邸 応接間創建当時のモーガン邸丸ビルの設計では、三菱地所に建築家桜井小太郎たちがいたためモーガンの役どころは施工図(工事用図面)の作成でした。

しかし、その後フラー社が工事受注した神戸クレッセントビル(1921)や立憲政友会本部(1922)はモーガンが建築設計を担当。日本での設計活動をスタートさせている。

しかし、1923年の関東大震災後、耐震技術を持たないフラー社は日本からの撤退を余儀なくされた。この時、モーガンもアメリカに帰国することも当然考えられた。

50才のモーガンを日本に踏みとどまらせたのは、秘書役を務めてくれる日本人の妻の存在と皮肉にも関東大震災後の旺盛な建設需要でした。 (続)

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2006年10月12日

旧丸ビル の 松杭

400年前は海だった軟弱地盤に、どのようにして旧丸ビル(地下1階地上8階建)を建設可能にしたんでしょうか?

100年前の欧米の杭打ち光景昭和初期に打設された松杭松杭丸太この方法は洋の東西を問わず同じです。建物の基礎の下に木の杭を打ち込んだんです。松を使うことが多かった。

 

木は水に漬かったままだと半永久的に腐らない。軟弱地盤は地下水とセットなので、その条件に合っているわけです。

今も時々、遺跡から何千年も昔の木簡や丸木舟がかなり良い状態で発掘されるニュースが流れることがありますね。これらの物も水没した状態が運良く続いていたということなんですね。

 

 

旧丸ビルの松杭独立フーチング基礎1920年に起工された旧丸ビルの基礎は、松杭(米国北オレゴン産の米松丸太)支持の独立フーチング基礎。松杭は柱1本あたり2030本も打たれ、杭の径は約30cm、長さは15mのものが1350本、13.5mのものが4093本、総計5443本。いずれもGL−20mの安定した東京礫層にまで達していたそうです。

 

大正末期から昭和30年代前半まで、ビル建設の支持杭としては米松が使用されていたそうで、旧丸ビルはその初期のものだったんです。79年後に取り出してみたところ、腐食の進展はほとんどなくて松の木口は瑞々しくまだヤニも含んでいたそうです。

 

三菱地所はこの松杭をチップにして封筒やノートにリサイクルしたそうですが、これを聞きつけた山梨県のある家具職人さんが、三菱地所から状態の良い30本の松杭を譲り受けて3脚のベンチに再生したという話。

このベンチは旧丸ビル近くの新大手町ビルの一隅に置かれたそうです。今もあるんでしょうか?

  
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2006年10月07日

旧丸ビル と 地震 6

世界建築史的には“最後の大規模様式建築(ネオバロック様式)”といわれた霞ヶ関の組積造『赤レンガ棟(旧司法省本館)』が、濃尾地震の反省点を取り入れて補強されていたとは言え、関東大震災で無傷であったのに対して、近くに建つ『丸ノ内ビルディング』がここまで地震に痛めつけられたのは少し合点がいきません。

私は、建物の耐震性以外にもう一つ別の問題があったと考えます。それは、『地盤』の問題です。

 

1590年ころの江戸東京の表層地盤の揺れやすさ徳川家康が江戸に入城する少し前1590年ころの現在の丸の内辺りは、日比谷入江と呼ばれた海だったんですね。これに対して霞ヶ関は海を臨む小高い場所だった。

ですから、丸の内一帯は下町に見られるようなヘドロの軟弱地盤なのに対して、霞ヶ関は山手の地盤のように関東ロームで覆われていた。恐らく、地盤の卓越周期は丸の内が1.0秒くらいで、霞ヶ関は0.5秒くらいじゃないでしょうか

それに、フラー社が構造設計した『丸ノ内ビルディング』は解体直前のエントランスホールあたりの写真で見ても8階建のビルとしては柱梁など随分華奢な印象です。建物の振動の固有周期は結構長かったと思われます。

ということは、地盤の卓越周期と建物の固有周期が近かったということが想定されるんですね。そうであれば『丸ノ内ビルディング』が地震に大いに悩まされて、度重なる補強工事にも関わらず最後も地震が命取りになったということはよく理解ができます。(続)

  
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2006年10月06日

旧丸ビル と 地震 5

三連アーチのエントランス

エントランスドア

エントランスホール

ポスト

 

 

 

 

 

 

 

旧丸ビルは運が悪いようでいて、結局は運のいいビルだったと思います。

何故なら、1923年の関東大震災以後は関東は然程大きな地震に襲われなかった。そして、いつしか竣工前後の地震被害のことも一般の人には忘れられて『昭和の日本人の憧れのオフィスビル』となったんですから。それでも、その後も数回におよぶ改修・補強工事を行ってきたそうです。

 

そんな中、思わぬところで大地震が発生します。1995117日の阪神淡路大震災です。この地震でいわれたことの一つは、1981(昭和56)以降の『新耐震構造基準』の有効性が証明されたということです。

学問的に地震のメカニズムと地震が建物に及ぼす影響がわかってきたんですね。それまでは単純に『地震が起きると、建物の自重の20%の力が横から押されると仮定』して構造解析をしていた。しかし、多くの地震を経験していくうちに『建物は揺れると丈夫な部分を中心に建物が捻れてしまい、この中心から離れた部分ほど大きな力が掛かる』のだということが判明してきたんです。新耐震構造基準はこの『捻れの概念』を取り入れたのが特徴なんですね。

 

三菱地所は199511月に旧丸ビルの耐震診断を行った。当然『新耐震構造基準』は満たしていません。これが決定的な理由で1999年旧丸ビルは取り壊された。短いようでいて長い76年の寿命でした。 (続)

  
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2006年10月05日

旧丸ビル と 地震 4

旧丸ビル 外観三菱地所は経歴・経験・実績のいずれも充分で、これから働き盛りを迎えようとする建築家桜井小太郎を社内に迎え入れた。そして、アメリカで高層ビル建設に実績のある建設会社フラー社に構造設計と施工を発注した。

 

こうして1920(大正9)7月『丸ノ内ビルディング』の工事はスタートしたのです。万全の態勢で臨んだ工事です。順調に進捗したんだと思います。

 

ところが、ビルの外装工事がほぼ終了し竣工日が見えてきた時点の1922426日にM6.8の浦賀沖地震が起きた。然程大きな地震エネルギーを持っていたものではありません。地震被害史を当ってみても、この地震には特別の記述は残されていません。にもかかわらず、竣工間際であった『丸ノ内ビルディング』は大きな被害を受けた。

 

 

エントランス の アップエントランスホールショッピング街共用廊下共用便所入口2年足らずの短い工事期間で東洋一の規模のオフィスビルを完成させるとは、流石は日の出の勢いの国アメリカの近代的最先端施工技術である」という評価を華々しく受けようという矢先の出来事だった。この地震被害で、その後8ヶ月をかけての補修・補強工事を余儀なくされた。それでも、まだこのビルは幸運だった。この時点での補強工事がなかったら、恐らく関東大震災では修復不能の全壊の憂き目を見たんじゃないでしょうか?

 

震災後の丸の内震災後の旧丸ビル1923220日、丸ノ内ビルディングはなんとか竣工した。しかし、半年後の91日に起きた関東大震災でこのビルは内外の壁に亀裂が生じるという大被害を被った。三菱地所もフラー社も面目丸つぶれです。そして、ここは本格的な補強工事が必要だという判断で、何と新築工事期間と同じ約3年という期間をかけて補修されたんですね。これは賢明な判断であったと思います。多分、日本で始まっていた佐野利器たちの耐震設計界の判定も仰いだんじゃないかと私は想像します。

 

この地震の時、幸か不幸か、桜井はすでに丸ノ内ビルディングの竣工を見届けて19235月に桜井小太郎建築設計事務所を設立して独立していたんですね。そして、耐震技術を持たないフラー社は当然日本からの撤退を余儀なくされた。 (続)

  
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2006年10月04日

旧丸ビル と 地震 3

地震は世界のどこでも起きるというものではありません。地震を全く経験したことがないという人もたくさんいる・・・というか、こういう人たちの方が地球上には多いくらいなのです。いわゆる先進国の区域で地震の多いのは、日本の全域とアメリカの西海岸くらいなものです。

 

世界の主な海嶺海嶺の模式図地球の表面は10数枚の板(プレート)でおおわれています。各プレートは厚さが100km程もあってそれぞれが違う方向に動いているといわれます。

大洋の底にある海底山脈でマントルが地下から上がってくる場所、すなわちプレートが生まれる海嶺では小さな地震が起きます。逆に、ヒマラヤのようにプレートがぶつかったり、日本海溝のようにプレートが地下に潜り込んでいる所では、巨大地震が発生します。

つまり、建造物に被害を与えるような大地震のほとんどはプレートの境界でしか発生しないんですね。

 

 

世界のプレートとその境界世界の地震分布世界の地震分布図を見ても、日本は全域で地震が多発しているのに対して、アメリカでは西海岸地域だけが地震多発地帯です。大地震の起こらない地域では、何も建造物を耐震的にする必要は全くありません。

 

三菱地所は、絶対に失敗の許されない『丸ノ内ビルディング』の構造設計と施工を(結果的には)こともあろうか、大地震の起きないシカゴやニューヨークの高層ビルの建設で頭角を現してきた建設会社フラー社に依頼してしまったのです。 (続)

  
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2006年10月03日

旧丸ビル と 地震 2

桜井小太郎(1870-1953)三菱地所の万全の態勢とは、まず設計者として40才代半ばの桜井小太郎(18701953)を三菱財閥のお抱え建築家であった曽根達蔵の仲介で1913年に三菱合資会社に入社させた。三菱地所は今も自社設計に拘る会社です。その心意気や良し―とすべきですね。

 

 

旧呉鎮守府司令長官官舎(1905桜井小太郎設計)陸奥石造ダム(1909桜井小太郎設計)桜井は東京帝大からジョサイア・コンドルの設計事務所を経て4年間の英国留学。その間に英国公認建築士資格取得(日本人で最初)。帰国後は海軍技師として17年間勤務。今も残る桜井の設計としては旧呉鎮守府司令長官官舎(国指定重要文化財)陸奥石造ダム(県指定重要文化財)など。経歴、経験、実績いずれも充分でした。

 

ただ、残念なのは1891年の濃尾地震の折に桜井が日本にいなかったこと。この地震が起きたのは桜井の4年間の英国留学のちょうど中ほどのころだった。地震直後の名古屋の惨状を直接目にする機会はなかった。

辰野金吾を始めとする日本の建築家第一世代も、この大地震を契機に耐震性の重要性を嫌と言うほど骨身に染み込ませたんですね。私の経験でも、阪神淡路大震災を自分の目で見たことは私にとって大変重要で貴重な体験でした。桜井はそんなまたとないチャンスを失した。

 

シカゴの摩天楼それとこれは推測ですが、桜井には旧呉鎮守府司令長官官舎のような英国風ハーフチンバーなどの様式的なものへの強い関心が感じられるのに比べて、陸奥石造ダムを見ると桜井自身にあまり構造面への関心が高くなかったことが覗えるんです。

大学で10才年下である佐野利器(18801956)達の耐震設計ができる人脈ともあまり接点はなかったんでしょう。

 

では、構造設計はどうしたのか?

三菱地所はこれからの日本のビル建設を考えると、当時めざましい勢いで発展していたアメリカの高層ビルの近代的施工技術を取り入れたいと願ったんですね。 (続)

  
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2006年10月02日

旧丸ビル と 地震 1

解体直前の 旧丸ビル東京駅前の丸の内の一等地に建っていた旧丸ビル(19232月竣工)は昭和前半の大方の日本人の憧れのビルでした。

 

当時の世界の最新技術が導入された地下1階地上8階建のビルは、『東洋一』の桁違いの規模で日本における近代的オフィスビルの到来を告げる建物でした。オフィスビルの低層階を一般客に開放してショッピングモールを展開する形態も、このビルで先駆的に試みられたんですね。

 

 

歌謡曲『東京行進曲』(1929年、西条八十作詞)でも「恋の丸ビル あの窓あたり 泣いて文かく 人もある・・・」と歌われましたし、小津安二郎の映画でもエリートサラリーマンの出る場面になると丸ビルらしき雰囲気の建物でした。そして、東京ドーム以前は、大きな物の表現としては『丸ビル何杯分』というのがよく言われましたね。

 

 

現丸ビル と 旧丸ビル私も旧丸ビルには何回か入ったことがあります。確か『丸ノ内ビルディング』という真鍮製箱文字の古めかしい館名が掛かっていたように記憶しています。ビルの中に入ると、共用通路や階段はやけに幅広で年季の入った大理石張りでした。この大理石には貝などの化石がたくさん見られるという話で、少し探して回ったんですね。階高が普通のビルよりかなり高く、時代錯誤と言ってもよいような床屋や靴磨きなどのテナントに驚くと同時に歴史も感じたものです。

 

このように華やかに見える旧丸ビルも、実は、竣工以前の工事中からすでに満身創痍だったんです。

ビルの所有者である三菱地所も絶対に失敗の許されない建設計画であるとして万全の態勢で臨んだ・・・はずでした。この万全の態勢をいとも簡単に揺るがしたのはまさに『地震』だったんです。()

  
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