2010年01月
2010年01月28日
お地蔵さん
お地蔵さんは、子供が大好きだ。
昭和30年代のこと。
小学校低学年の私は、その頃耳鼻科と歯医者に通っていた。
当時はみんな鼻水なんか平気で垂らしていたし、
私は歯も数本抜けていた。
しかし耳鼻科で診てもらうと、蓄膿症とのこと。
放っておいては悪化するということで、耳鼻科通いが始まった。
同じ頃、歯も虫歯だらけということで、耳鼻科の近くの歯医者へも
通う羽目になった。
耳鼻科では、先生なんか診てくれない。5円玉を持っていくと、
いきなり中に通され、現在の耳鼻科がやっているのと変わらない、
例の二股に分かれたガラス管を鼻にあて、蒸気を通す治療を
繰り返すだけだった。
怖いのは歯医者だ。
昔はどこの歯医者も、入り口に赤い電球を点けていた。
中では、誰かの泣き声、いや、叫び声が聞こえることもあった。
当時の歯医者は、戦場帰りの軍医上がりが多かったらしく、
痛くて泣くと、必ず「泣くな!」と怒鳴られ、同時に頭を叩かれた。
で、余計に泣くと、そのまま治療を放棄する先生もいた。
とても偉かったのだ。そして、怖い。
私は、そんな痛い思いをした帰りや、耳鼻科の帰りに、
急に腹が減るのだった。
当時のおやつは、良くてかりんとうに砂糖水だ。
いまでは信じられないだろうが、少なくとも貧乏な私の家のおやつは
そんなものだった。
いつものように治療が終わり、とぼとぼと歩いていると、
途中の道端に、細い目をしたお地蔵さんが立っていた。
木でつくられた小さな家の形をした中で、そのお地蔵さんは
いつも笑っているようにみえた。
見ると、お地蔵さんの前に、お魚の形をした煎餅が皿に乗せられ、
山盛りになっている。
私は、その煎餅をじっと眺めていると、すっと私の手が伸びて
その煎餅を食べていた。ちょっと気が引ける感じがしたが、
しまいにはお地蔵さんの横に座り込んで、全部食べてしまった。
次の日も鼻の治療だったので、帰りにその前を通ると、
前の日と同じように、お魚煎餅が山盛りになって置いてあった。
私は当時、それが誰かが置いたものとは知らず、
不思議なお皿だなっと思っていたことを、いまでも覚えている。
ポリポリ食べながら、お地蔵さんをじっと見ていると、
お地蔵さんは笑っているようにみえた。
そんな日が何日か続き、何かの用で母親と歯医者へ行くことになった。
歯医者で泣いている間中、母は何かの用足しに行っていた。
私の治療が終わって涙をいっぱい溜めていると、
母親が「男が泣くんじゃないよ!」と笑っていたのを覚えている。
帰り道、私と母の前に、例のお地蔵さんが現れた。
私はお地蔵さんに駆け寄り、またその煎餅を食べ始めていた。
すると振り返り様、いきなり母親に殴られた。
私は訳が分からず、
「なにすんだよ、お地蔵さんがボクにくれたんだぞ!」
と泣いて母親に抗議した。
「バカ野郎!このばち当たりが!」と言って、また頭をひっぱたかれた。
母親は、通りがかりの人にぺこぺこ頭を下げて何かを口走りながら、
必死に謝っていた。
幾度となく叩かれながら、私は引きづられるように、家に帰った。
そして、延々と説教された後、
我が家の伝統でもあるお灸を手の甲にすえられた。
後にいろいろなことが分かった私だが、
あのときは「お地蔵さんって凄いな」と思っていたし、
お地蔵さんはやさしいな、というのが私の偽らざる思いだった。
あのやさしい目。
毎日私のためにお煎餅を用意してくれていたお地蔵さん。
いまでも、時折、お地蔵さんにお目にかかることがあると、
私は、手を合わせて頭を下げてしまう。
昭和30年代のこと。
小学校低学年の私は、その頃耳鼻科と歯医者に通っていた。
当時はみんな鼻水なんか平気で垂らしていたし、
私は歯も数本抜けていた。
しかし耳鼻科で診てもらうと、蓄膿症とのこと。
放っておいては悪化するということで、耳鼻科通いが始まった。
同じ頃、歯も虫歯だらけということで、耳鼻科の近くの歯医者へも
通う羽目になった。
耳鼻科では、先生なんか診てくれない。5円玉を持っていくと、
いきなり中に通され、現在の耳鼻科がやっているのと変わらない、
例の二股に分かれたガラス管を鼻にあて、蒸気を通す治療を
繰り返すだけだった。
怖いのは歯医者だ。
昔はどこの歯医者も、入り口に赤い電球を点けていた。
中では、誰かの泣き声、いや、叫び声が聞こえることもあった。
当時の歯医者は、戦場帰りの軍医上がりが多かったらしく、
痛くて泣くと、必ず「泣くな!」と怒鳴られ、同時に頭を叩かれた。
で、余計に泣くと、そのまま治療を放棄する先生もいた。
とても偉かったのだ。そして、怖い。
私は、そんな痛い思いをした帰りや、耳鼻科の帰りに、
急に腹が減るのだった。
当時のおやつは、良くてかりんとうに砂糖水だ。
いまでは信じられないだろうが、少なくとも貧乏な私の家のおやつは
そんなものだった。
いつものように治療が終わり、とぼとぼと歩いていると、
途中の道端に、細い目をしたお地蔵さんが立っていた。
木でつくられた小さな家の形をした中で、そのお地蔵さんは
いつも笑っているようにみえた。
見ると、お地蔵さんの前に、お魚の形をした煎餅が皿に乗せられ、
山盛りになっている。
私は、その煎餅をじっと眺めていると、すっと私の手が伸びて
その煎餅を食べていた。ちょっと気が引ける感じがしたが、
しまいにはお地蔵さんの横に座り込んで、全部食べてしまった。
次の日も鼻の治療だったので、帰りにその前を通ると、
前の日と同じように、お魚煎餅が山盛りになって置いてあった。
私は当時、それが誰かが置いたものとは知らず、
不思議なお皿だなっと思っていたことを、いまでも覚えている。
ポリポリ食べながら、お地蔵さんをじっと見ていると、
お地蔵さんは笑っているようにみえた。
そんな日が何日か続き、何かの用で母親と歯医者へ行くことになった。
歯医者で泣いている間中、母は何かの用足しに行っていた。
私の治療が終わって涙をいっぱい溜めていると、
母親が「男が泣くんじゃないよ!」と笑っていたのを覚えている。
帰り道、私と母の前に、例のお地蔵さんが現れた。
私はお地蔵さんに駆け寄り、またその煎餅を食べ始めていた。
すると振り返り様、いきなり母親に殴られた。
私は訳が分からず、
「なにすんだよ、お地蔵さんがボクにくれたんだぞ!」
と泣いて母親に抗議した。
「バカ野郎!このばち当たりが!」と言って、また頭をひっぱたかれた。
母親は、通りがかりの人にぺこぺこ頭を下げて何かを口走りながら、
必死に謝っていた。
幾度となく叩かれながら、私は引きづられるように、家に帰った。
そして、延々と説教された後、
我が家の伝統でもあるお灸を手の甲にすえられた。
後にいろいろなことが分かった私だが、
あのときは「お地蔵さんって凄いな」と思っていたし、
お地蔵さんはやさしいな、というのが私の偽らざる思いだった。
あのやさしい目。
毎日私のためにお煎餅を用意してくれていたお地蔵さん。
いまでも、時折、お地蔵さんにお目にかかることがあると、
私は、手を合わせて頭を下げてしまう。
2010年01月22日
最近見た景色
ほぼ、神奈川県内をウロウロしているが
所用で東京へ行くこともしばしばある。
世田谷には長いこと住んでいたので
違和感はないが、山手線の内側は
その頃から疲れるエリアだった。
新宿、渋谷は何となく分かるが
新橋あたりに泊まるのは初めてだった。
東京湾に面したホテルを取ったのだが
夜景でも見ようとカーテンを開けた。
対岸にお台場あたりだろうか?
海の中から天に向かって
高層マンションが建っているようにしか見えない。
お馴染みのフジテレビの社屋が遠くに光っている。
(すげぇなぁ)
翌朝、この景色を眺めながら朝食をとったのだが
どうも落ち着かない。
腰が引けている。
そういえば、昨夜見た
反対方向のシオサイトあたりは
もう未来都市の様相を醸し出していた。
巨大なビル群がいろいろな光りを放ち
夜空を明るくする。
(都会で星なんか見られないのだ!)
遠くに、六本木ヒルズや新宿のビルまで見えたときは
東京は怖いか、と自分に自問してみた程だ。
品川や田町、浜松町辺りも随分と
変貌を遂げていた。
名も知らないビルの中の飲食街でメシを食ったとき
気のせいか、皆さんお疲れのような顔をしていました。
で、街を歩いていても、座るところがない。
(ベンチぐらい置いておけよ!)
ついでにワガママを言わせてもらうと
タバコなんか吸うところ、ないのね?
たまに喫煙エリアなんていうのがあるんだけど
人が溢れかえっていて大変。
喫煙者の私でさえ、煙ったい。
山手線に乗ろうと浜松町の駅に近づいたとき
人人人の波がワットこっちに向かってきて
思わず私はひるんでしまいました。
(どっきりカメラかと思ったんだけどな)
私の知っている東京はもうバブルの彼方。
どこへ行ってしまったのだろうね?
蜘蛛の巣地下鉄の乗り換えと
出口を間違えたときのミステリーは
もっと凄いぞ!
(つづく)
景色評論家 冬景色宗介
2010年01月17日
千年の眼
語りぐさになるほどの
あの強者どもが
足元の草を這う虫となり
夢を語る頃
家々のやれ夕げに忙しく
子供は勉強に忙しく
足早のターミナルも
言葉少なく
夢もなく
高層ビルの
その一升で
ひとはなぜひとを追い込むのか
ひとはなぜひとから逃げるのか
サンドウィツチを土のように
コーヒーを苦々しく
いや売上げだ利益だ
数字を語る
笑顔に光なし
眼に力もなく
その頃
あの強者どもは
足元の草を這う虫となり
月に照らされ
さも
墓などなかったかのように
夢を語る
命は尽きないかのように
酒杯の酒を煽るように
露と戯れる
男であれ女であれと
その声は語るのだ
生きることにのみ
幸あるように
喜びに満ちるように
世界をみるのだ
ひとと交わるのだ
ひとはひとらしく
生きてくださいと
利益に先んずるものなどないと
笑わせるようなことを
知ったような分かったように
生きることを語るなと
ひとは愛らしく
ひとはまっすぐに
ひとはひとらしく
決して世界を縮めるな
墓など探して安堵するなと
かの声は
家々に語りかけるのだ
2010年01月06日
冬のことば
ピンと張りつめた夜明けの気配
かすかな陽に向かい今日という日を考えるとき
昨日までの総てを忘ると思うも
やはり脳裏で輝くあの光景に惹かれ
どうしたたものかと倦ねても
心は躍るものだ
冬に出会い春が訪れることもなく
ふたりに別れがきたこともあった
それはもう善いにしても
冬に流す涙のなんと熱いことか
胸いっぱいの呼吸もできず
吐息の白さが痛いと教える
考えることよりいまはただ歩くことだと
陽に染まる赤い山が諭すように
ただ茶の枯草を踏む
高台に立って空を見上げると
私という存在の小ささよ
言葉というものを通り越して
胸に迫る深遠の絵物語
下弦の月はかすかに笑うが
うっすらと見える星はそれを誘うように
夜明けの空を満たす
春を待つも冬に遊び
夏を恋しがるもその面影
想うことなく
秋を過ぎたり冬にいる
冬は想うもの
冬は黙るのみ
冬は過ぎた日と
或る日あの日を
映し出す
冬は透明で美しく
せめて気持ちすがすがしく