2011年06月
2011年06月23日
かげろう
重くしだれ
それでも伸びようとする
6月の木々は
わずかな陽と
豊富な雨に支えられ
ようやく生きようと考えたのか
この雨は
何を記憶しているのだろう
風は
何を運んできたのか
あの日以来
何かがぼんやりとしてしまった私が
しだれ雨の朝を歩く
春のかげろうの頃は
桜も散り
山が芽吹くと
私も何か心の整理に追われていた
この立ちゆかなくなった状況に
どんな手を打つかということを
いつも考えていた
それから1ヶ月が経ち
事はさらに後ずさりを始めていた
湿った葉を踏みしめ
赤土を叩き
誰もいない朝の公園に立つと
四方の山々の美しい情景が
艶やかに雨の中に浮かび上がる
木々から立ち上る湯煙のような
生命の吐息
ああ
私ひとりが
この公園に置き去りにされたような
心細さ
雨のはねる音
地面から立ち上る水蒸気
これは
6月のかげろうなんだ
雨のかげろうなんだ
と思う
自然の力は
それでもやはり奮い立つんだ
この雨は
何を記憶しているのだろう
風は
何を運んできたのか
相変わらず
うつむいて歩いている私に
過去からの追っ手がのし掛かる
そこには
やはり溜め息を吐くしかないおとこが一人
空を見上げていた
2011年06月14日
くうねるあそぶ
震災後、風呂にゆったり浸かることもなく、
さっと出る習慣が身に付いた。
飯も素早く喰うようになった。
で、よく喰う。
寝る時間も長くなった。
明らかに太った。
自然に備わっていたカラダの危機管理システムが
稼働し始めたと、自分では考えている。
生き延びようとする本能。
このところは、喰う量も減り、
睡眠時間も短縮され、
風呂も少しのんびり入るようになった。
が、カラダは元にもどっていない。
腹の肉をつまみながらベッドにごろんとしていた先日、
ふと、くうねるあそぶ、というフレーズが頭に浮かんだ。
くうねるあそぶ?
ん、これはコピーライターの糸井重里さんが80年代の
クルマのコマーシャルで披露したコピーだった。
くうねるあそぶ。
要は、喰う、寝る、遊ぶ、だ!
それをひらがなにしてコピーにした。
いまでは信じられないが、こんなコピーが、
当時の一世を風靡した。
この頃、イメージを重視したコマーシャルが、
主流だった。
ビジュアルは、
クルマに乗った井上陽水さんが笑いながら
「みなさ〜ん、お元気ですか〜」と言って走りすぎてゆく、
というだけのもの。
他と較べても、このコマーシャルは、
相当ぶっとんでいたと思う。
クルマと、喰う、寝る、遊ぶ?
近いような気もするが遠いとも思う。
イメージとしても、高級そうでもなく、
早そうな感じもしない。
まして、キャンピンカーでもない。
こんなコマーシャルがヒットした80年代は、
要するにこういう呑気でいい時代だったのだと、
最近、私は身に染みて感じている。
いま、遊ぶはとにかく、
喰うことと寝ることは、まさに生きる術、
それが実感できる時代なのだ。
花よりだんごの如く、
見栄えではなく、実利を採ることを最優先する。
生きているものは、もちろん、みんな生きようとするものだ。
よって、イメージではなく、喰う、寝るだ。
あと、住むところがあるか否かという切実な問題。
仕事をなくした方たちも、このままでは立ちゆかなくなる。
喰う、寝るがひとまず落ち着いたら、住むことも考えなくてはならない。
そして、働かなくては生きてゆけない。
震災後、AC(公共広告機構)のコマーシャルが頻繁に流れた。
人を思いやる心の啓発とか、挨拶の重要性を説くもの、
世界の人たちが日本を応援するというもの、等々。
一連のコマーシャルは、昔でいえば、道徳の教えだ。
こうしたものの良い悪いは、あまり考えたくない。
こんな希に起こる災害時に頼れるものは、
人の道徳心なのかも知れないのだから…
また、不況という時節柄、もう何年も前から、
広告というものも様変わりしていた。
簡単に言うと、広告にリアリティが求められる。
数字、裏付け、ユーザーの歓びの声など。
そして、メリットの最大拡大表現なども、
通販の国、アメリカから輸入されたのテクニックだ。
ネット時代に、通販のテクニックは相性がよい。
で、アメリカのマーケティングが日本に上陸、
いまの日本の広告文化を形づくっている。
ここで私が率直に思うのは、いまの時代の広告は、
かなり神経質で細かい。
電卓を片手にコピーを書かなくてはならない、
ような気分にさせられることもある。
で、ダイナミックな表現もない。
併せて、詩のような美しさも消えた。
私は、広告は文化だと思う。
この異常な事態に文化もへったくりもないが、
いつか、文化が語られるときがくる。
今回の震災を機に、私たちは日本という国、
日本人という人の本質も考えたことと思う。
政治の限界もみた。政治家の器もみえる。
官僚のやることも、なんとなく見透かしてしまった。
世界のなかの日本という立ち位置も、
改めて教えられることとなった。
これからの日本は、軍事でも経済でもなく、
やはり人が築き上げる文化なのではないかと思う。
文化には、メンタリティが欠かせない。
メンタリティは、人の心がつくる。
そんなとき、人はアレコレ想像し、創造する。
次の時代をつくる原動力は、何にも増して
精神力は欠かせないのかも知れない。
が、貧困な精神では立ちゆかなくなる。
この国のこれからをイメージする力。
それは経済的にはちょっとお粗末でも、
気持が豊かであれば、限りなく広がるものが、
イメージの力なのだ。
さっと出る習慣が身に付いた。
飯も素早く喰うようになった。
で、よく喰う。
寝る時間も長くなった。
明らかに太った。
自然に備わっていたカラダの危機管理システムが
稼働し始めたと、自分では考えている。
生き延びようとする本能。
このところは、喰う量も減り、
睡眠時間も短縮され、
風呂も少しのんびり入るようになった。
が、カラダは元にもどっていない。
腹の肉をつまみながらベッドにごろんとしていた先日、
ふと、くうねるあそぶ、というフレーズが頭に浮かんだ。
くうねるあそぶ?
ん、これはコピーライターの糸井重里さんが80年代の
クルマのコマーシャルで披露したコピーだった。
くうねるあそぶ。
要は、喰う、寝る、遊ぶ、だ!
それをひらがなにしてコピーにした。
いまでは信じられないが、こんなコピーが、
当時の一世を風靡した。
この頃、イメージを重視したコマーシャルが、
主流だった。
ビジュアルは、
クルマに乗った井上陽水さんが笑いながら
「みなさ〜ん、お元気ですか〜」と言って走りすぎてゆく、
というだけのもの。
他と較べても、このコマーシャルは、
相当ぶっとんでいたと思う。
クルマと、喰う、寝る、遊ぶ?
近いような気もするが遠いとも思う。
イメージとしても、高級そうでもなく、
早そうな感じもしない。
まして、キャンピンカーでもない。
こんなコマーシャルがヒットした80年代は、
要するにこういう呑気でいい時代だったのだと、
最近、私は身に染みて感じている。
いま、遊ぶはとにかく、
喰うことと寝ることは、まさに生きる術、
それが実感できる時代なのだ。
花よりだんごの如く、
見栄えではなく、実利を採ることを最優先する。
生きているものは、もちろん、みんな生きようとするものだ。
よって、イメージではなく、喰う、寝るだ。
あと、住むところがあるか否かという切実な問題。
仕事をなくした方たちも、このままでは立ちゆかなくなる。
喰う、寝るがひとまず落ち着いたら、住むことも考えなくてはならない。
そして、働かなくては生きてゆけない。
震災後、AC(公共広告機構)のコマーシャルが頻繁に流れた。
人を思いやる心の啓発とか、挨拶の重要性を説くもの、
世界の人たちが日本を応援するというもの、等々。
一連のコマーシャルは、昔でいえば、道徳の教えだ。
こうしたものの良い悪いは、あまり考えたくない。
こんな希に起こる災害時に頼れるものは、
人の道徳心なのかも知れないのだから…
また、不況という時節柄、もう何年も前から、
広告というものも様変わりしていた。
簡単に言うと、広告にリアリティが求められる。
数字、裏付け、ユーザーの歓びの声など。
そして、メリットの最大拡大表現なども、
通販の国、アメリカから輸入されたのテクニックだ。
ネット時代に、通販のテクニックは相性がよい。
で、アメリカのマーケティングが日本に上陸、
いまの日本の広告文化を形づくっている。
ここで私が率直に思うのは、いまの時代の広告は、
かなり神経質で細かい。
電卓を片手にコピーを書かなくてはならない、
ような気分にさせられることもある。
で、ダイナミックな表現もない。
併せて、詩のような美しさも消えた。
私は、広告は文化だと思う。
この異常な事態に文化もへったくりもないが、
いつか、文化が語られるときがくる。
今回の震災を機に、私たちは日本という国、
日本人という人の本質も考えたことと思う。
政治の限界もみた。政治家の器もみえる。
官僚のやることも、なんとなく見透かしてしまった。
世界のなかの日本という立ち位置も、
改めて教えられることとなった。
これからの日本は、軍事でも経済でもなく、
やはり人が築き上げる文化なのではないかと思う。
文化には、メンタリティが欠かせない。
メンタリティは、人の心がつくる。
そんなとき、人はアレコレ想像し、創造する。
次の時代をつくる原動力は、何にも増して
精神力は欠かせないのかも知れない。
が、貧困な精神では立ちゆかなくなる。
この国のこれからをイメージする力。
それは経済的にはちょっとお粗末でも、
気持が豊かであれば、限りなく広がるものが、
イメージの力なのだ。
2011年06月10日
こころのなかは…
こころのなかは
白くざらざらだし
黒くヌメヌメだけど
万華鏡のように
水の流れのように
形なく姿もない
広く大きく果てしないのに
狭くて暗く湿ってる
僕の
あの過去はもう消えたけれど
そうさ
ひょこり現れて居座って
やはり
君の寝顔はときどき
微笑んでいたことを
思いだしたんだ
あれこれ考えて考えて
考えているうちに
忘れてはいけないと思いだした
君の誕生日ということばが
転がっている
君の誕生日は
ええっと?
もう分からないと
言いかけて
はっと出てきた
こころのなかから
アイディアは溢れて
記憶は溢れて消えて
空っぽの空のように
そして
星のまたたきと
月の壁紙の日の
こころのなかは
空虚というより
潔く澄んで
銀河に羽ばたくことだって
できる訳さ
たとえば
夢が消え去ったあの日
僕は
泣いたけれども
こころのなかは
何度も何度も
頑張って
崩れ落ちないように
壊れないようにって
何度も何度も
やさしく労ってくれたね?
そうして
要するに生きてゆくんだということが
分かってきたような気もするし…
冬の猫のようにまるまるこころ
伸びる草木のように
飛び跳ねるこころ
こころのなかは
もう一つの世界
限りない宇宙
銀河の草原
想い出のおもちゃ箱
きっとそのなかに
幾重に幾重に
忘れられないものが
重なり
消えて
素敵なことも
悲しいことも
浮かんで
やがてなくなって…
だけど消えない
こころのなかに
確かに芽生えたものがあり
明日に繋がる
よろこびの歌もあると
僕はいまでも
思うんだよ