最近、自分で贅沢だなと感じるのは、

たとえば夜、風呂から出て寝るまでのわずかな時間に

古いポップスを聴きながらぼおっーとすること。


聴く曲は、そのほとんどが洋楽。

最近はなぜかカーリー・サイモンが多い。

他は、ジョージ・ハリスンのマイスィートロードとか

ジャニス・イアンの17才の頃とか

パティ・ペイジのテネシーワルツとか。


聴くのはYouTubeだから、音にはこだわっていないし、

曲の頭にPRが入っても仕方がないと思っている。


一体、これらの曲にどんな記憶が刷り込まれているのか、

自分でもホントのところはよく分かっていないのだが…


きっと10代の後半に何かがあって、

そのなかの忘れてしまったエピソードみたいなものと

リンクしているのかも知れない。


そのくらい鷹揚で、のんびりとした時間が過ぎてゆく。

そうすることで、とてもハッピーでいられる。


こうして聴くともなく流れる時間があるということは、

要するに緊急の問題とか心配事がないということ。

いや、あったとしても、必要不可欠な時間だ。


ふと、自分の若い頃の映像がよみがえる。

いま思い返すと幸せな時だったように思えるが、

現実的にその頃なにがあったのか、

冷静に振り返ればロクな事はなかった。

いまは穏やかな気持ちにさせられるから、

夜は、とりわけ遠い過去の記憶は、

私のアタマに巧妙な細工が施されるのだろう。


時間の流れというものは、とてもやさしい。


そして、やれやれとベッドに入って、

昨晩の小説の続きを読む。


ここでも最近のものは読まない。

ジャンルはアクションでも推理でもなく、

主に80年代のある種かったるいものが最近の傾向。


なぜか以前は全く見向きもしなかった片岡義男が、

現在の私の愛読書である。


近々では、「彼らがまだ幸福だった頃」が良かった。

この小説は、時間の流れが丹念に描かれていて、

その空気感のようなものに気づかないと、

この人の小説は結構辛いものとなる。


そしてもうひとつ。

彼の実験的な文が、

実はとても興味をそそるのだ。


「彼らがまだ幸福だった頃」という小説は、

或る男と女がバイクのツーリングで出会い、

夏から秋にかけてを過ごすストーリーなのだが、

主人公の青年が相当なカメラマニアで、

相手の女性が圧倒的に容姿が美しい。


小説全体は、心理的表現というより視覚的な描写が、

ほぼそのすべてを占める。


青年は、知り合ったこの美しい容姿の女性を

被写体として、夏の高原のホテルから

秋までを執拗にカメラに収める。


ストーリーの進み具合はとても細密で、

ひょっとして時間が

このまま止まるんじゃないかと思うくらい、

ある種執拗なまでの情景が描写されている。


最初の読み始めの頃に感じたのは、

この主人公はひょっとして変態なんじゃないかと。


しかし、これがやがて

主人公の絵づくりに対する探究心に変化する。


確信犯的な書き方もこの作家の才能であろうし、

なにより小説による視覚化、映像化に賭けた

片岡義男の挑戦ともいえる書き方には驚かされる。


とここまで書いてきて思うのだが

こうした作品は、或る人にとっては

時間の無駄になるのかも知れない。

冒険ものみたいなワクワクもドキドキもない。


だけど、彼の作品は、

とてもたおやかで贅沢な時間が流れている。

言い換えれば、創造力が作り上げた贅沢、

とでも言おうか。


深夜、疲れた心身をベッドにもぐりこませ、

さてと、こうした贅沢な物語りを読み進めるとき、

こちらも貴重な時間を消費する訳で、

これほどの相性の良さは他にないと、

最近になって心底思うのだ。


テレビもネットも、

ザラザラしたものばかり。

みんなとても窮屈している。

そしてキナ臭い。


やはり時として、

現実逃避的な時間って必要だ。

なにより救われる。


贅沢って素敵だ!