あまり大きな声ではいえないが、

先日私は衝撃的な話を小耳に挟んでしまった。

ああ、いまでも悪夢のような光景が頭に浮かぶ。


先日ご近所のAさん宅に上がり込んで、

と言っても頼まれごとで立ち寄っただけだったのだが、

新茶が入ったので一杯飲んでいったらということで、

お邪魔したのだが…


あれやこれやとよもやま話が高じ、

はあとか、そうですかとか私の返答も、

かなり平坦かつ不自然なものになってきた。


ここは山あいの静かな住宅街で、

東京・横浜方面への通勤もなんとか大丈夫という、

一応首都圏の一角ではあるが、

そうは言っても住宅街を一歩離れれば

うっそうとした山々が背後に鎮座する田舎である。


要するにここはトカイナカと呼ばれる地域で、

夜も6時ともなれば人通りも途絶え、

商店も皆無で、最寄りの駅からのバスは、

1時間に2本という不便さである。


という訳で、この住宅街も夕方ともなれば、

黒い山々が覆いかぶさってくるように、

その影を長く伸ばすのだった。


話もそろそろ尽きてきたし、昼も過ぎた。

腹も減ってきたので、

そろそろおいとましようと座敷を立ち上がり、

玄関でスニーカーに足を突っ込んでやれやれと

立ち上がろうとしたときである。


「そういえばさぁ」とAさんの奥さんが、

突然目を見開き、苦虫を潰したような表情で、

前のめりに私の肩を叩くのだ。


(ああ、また始まったなぁ)と

私は胸の内でつぶやく。


「ウチの対面の3軒先の空き家があるじゃない、

Bさんよ、Bさんとこの空き家ね、

あれ、まだ売っていないんだって。

でね、先日あそこの娘さんがあの空き家の掃除に来たんだって。

また住むらしいのよ。娘さん夫婦が。

でね、庭の木の枝や葉も伸びっぱなしだということで、

鎌を持ってきたらしいのよ。

でね、玄関を開けて中に入ったら、あんた、

猿がね、いたんだって。

もうビックリよね。

エライ大きいのがいたんだって。

そしたら向こうも驚いてキィッて歯剥いて」


Aさんの奥さんが金歯だらけの歯を剥いてみせた。

それは普段私が見たこともないおぞましい表情だった。

Aさんの奥さんの顔が上気してきた。


「えっ、それでどうしたんですか?」と私。


「でね、そりゃあもうお互いに驚いちゃってね。

そしたらさ、びっくりした娘さんがね、

無我夢中で手に持っていた、あんた!

その鎌をね、怖いねー、

猿に投げつけたらね、あんた、

その鎌の先が猿に当たったらしいのよ、

でね、それも怖いねー、

猿の頭にグサッてね、

刺さっちゃったんだってよ!」


Aさんの奥さんの顔が、

口いっぱいに梅干を含んだような表情に変化した。


「でさぁ、ぎぃえーとかぎょうえーとか

凄い声がして、あの娘さん、放心状態で

なにがなんだか分からないまま、

一目散に空き家を飛び出して、あんた、

あの家、それっきりなんだってさー」



私の脳裏に、

あの古いプレハブの家の台所が映し出される。

土地の広さは約40坪くらいだろうか。

建物の築年数は約40年くらいの、

当時はカッコよかったであろう、

しかしいまは、肌色の少し傾いた外観には所々に錆が目立ち、

門扉や柵はやはり錆で少し崩れはじめ、

古いブロックの階段の先にガタついた玄関ドアが、

たいした役目も果たさずに立てかけてある、

そんな記憶だ。


更に、私の脳が勝手に台所の様子を描く。


なにもないガランとした薄汚れた台所に薄日が差し、

流し台の下あたりだろうか、

その猿は額から血を流し、

薄い茶色の毛は血で黒ずんで束になって固まり、

両手両足をダランとさせ、

それでいてまだ半目を開け

こちらを見据えているのである。


「うーん、なんだか怖い話ですね。で、

その後あの空き家へは誰か入って、

室内の様子を確認したのですか?」


突然に覆いかぶせられた風呂敷を避けるように、

私の片手が平静を装おうとして勝手に動いている。

これが止まらない。


「冗談じゃないわよ、怖い怖いってね、

あれっきり誰もあの空き家へは行っていないんだって。

嫌だねぇ」

とAさんの奥さんは、もう笑っているではないか。


(この人のメンタルは一体どうなっているんだろう)



立ち直りの早いAさんの奥さん宅を後にし、

私はトボトボと歩きながら考えた。


そして確かこのあたりの猿には、

GPSが付いていることを思い出した。



数年前から急増した猿害により、

農家の畑が荒らされるだけでなく、

猿は住宅街にもしばしば出没していた。


これを問題視した地元の有志と

自治体が結束してつくったのが

「とっとと猿帰りなさい隊」だった。



そのとっとと猿帰りなさい隊は、

主な猿グループのボスを捕獲し、

GPSを付けて、再び放したとのこと。

これにより、山の猿たちが現在どこにいるのかが

一目瞭然となり、その傾向と対策によって、

猿害は激減したはずだったのだが…


しかし、猿社会にもやはりはぐれ者がいて、

こいつらはGPS通りに行動することはない。


単独行動でふらついているので、

どこで人が遭遇するか皆目分からないのである。

更に、これは私の経験と農業を営んでいる方から

聞いた話から導き出したはぐれ猿の印象だが、

奴らは人を避けるどころか威嚇するのである。

そして、はぐれ猿ほど、人を翌々観察している。


相手が子供であるとか小柄の女性だったりすると、

容赦なく近寄ってきて歯を剥く。


その被害は、ちょくちょく自治会報でも報告されていた。


私が遭遇したのはとある日の早朝だったが、

ちょうどAさんの奥さんが話していた

例の空き家付近だった。


最初は大きな猫か犬かと思ったのだが、

どうも朝日を浴びたその形容、姿は

まぎれもない大柄な猿だった。


私がその方角へ近づくと、

猿は大きな手を勢いよく上げたかと思うと、

今度は威嚇のためか、胸を膨らませて、

「それ以上俺に近づくなよ」と

警告しているようでもあった。


当然、この姿を見て

私は足早に今きた道を引き返したのだが、

朝日で逆光に映された姿は筋骨隆々で、

体毛がキラキラと光っている。

若き日のアントニオ猪木もかなわないであろう、

という印象だった。


ご近所の隠居しているおじいさんの話によると、

こいつは普段から民家の庭になっている木の実や、

家庭菜園の野菜なんかを食い荒らし、

どうやらその味を覚えたようである。


この大柄の猿が他のはぐれた猿を取りまとめて、

いわば番町のような地位に君臨し、

その縄張りを徐々に

住宅街の中に広げているということであった。


Aさんの奥さんの話を手繰り寄せる。


先のBさんの空き家で娘さんが遭遇した猿も、

相当大柄だったというから、これはひょっとすると、

Bさんの娘さんは、はぐれ猿の番長を

仕留めたのかも知れないとの結論に

私は達した。



今日は夜明け前から雨がしとしとと降っている。


昨日までの5月晴れはどこへやら、

どんよりとした厚く重たい雲が

この山あいの住宅街に垂れこめている。


私は、この季節にしてはめずらしく

厚手のジャンパーを羽織り、

いつもの散歩道を歩く。


散歩のコースは、

途中でBさんの空き家の前を通るのだが、

この朝は、ふとあの猿の死骸が頭に浮かんでしまった。

しかし朝の散歩3000歩をノルマにしている私の足が、

怖気づいて止まることはない。


なんといっても世の中は朝なのである。


これが薄暗い夜であれば当然コースを変えたであろうが、

私は頭に浮かんだ猿を必死で強制的に脳裏から削除し、

あたたかい日差しのなか、美しいバラが咲き乱れる

横浜の山下公園の情景を頭に浮かべた。


足取りは軽い。


ジャンパーに雨がはじく音がして、

グイグイと歩幅が広くなってゆく。


Bさん宅の空き家の横を通り過ぎるとき、

ふと気になってBさん宅の空き家に顔を向ける。


すると、少し開かれた朽ち果てた風呂場の小窓から、

包丁を額に差したままの猿が、

じっと恨めしそうにこちらを

見ていたのである。


これが現実の出来事なのか、

私が勝手に作り上げた妄想なのか、だが、

そうした事柄には一切触れたくないというのが、

現在の私の心境である。