2006年09月25日

喜怒哀楽の向こう側

 お気に入りのアーティストのアルバムが3年ぶりに発売されました。タイトルは「A Posteriori」。posterioriとは、うしろを意味する語のようです。背骨という意味もあるみたい。

 それにしても、聞いてみて不思議な感じ。
 この人のアルバムはいつもそうなんだけど…今回は特に。まぁ相手は元々音楽だから、当然言葉にするのは難しい。それでもなんとか言葉にするなら…喜怒哀楽の向こう側、とでも言えようか。そこには「感情」が読み取れない。音楽にも関わらず、沈黙と鼓動が脈打つ意識とでも言うべき「何か」が存在する。


 これを解説は「コズミックな」と書いていた。
 う〜ん。宇宙かぁ…。確かに、命を最大限に拡散させたものが宇宙。そして私たちはその中に抱かれた行為者であり、その息吹の背後には常に永遠の照覧者たる者がいて、沈黙を守りながら私たちとともに存在している。

 そのような混在を許可する大いなる者。その存在を最近やっとわかるようになってきた。私がここにあることに理由なんてないってことも。だから今はただ「考える」より沈黙に浸っていたい気がする。喜怒哀楽の向こう側で。


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2006年09月13日

ダイヤモンドの効用?

 私がダイヤモンドを卒業して少し経ちますが、今更気付いて成功したんだなと思ったこと。それはたぶん「自分」という殻を外すこと。中山さんはきっと私にまずはそれを言いたかったんだと今なら思う。

 最近ある記事を読んで、生き難さとは何なのか、正体がわかった。私は意外と他人のことも世間のことも見ていないのだということも。じゃぁ、その間何をしてきたのかというと…ただひたすら「自分のこと」を考えてきた、らしい。

 ところで、他人て目の前にいる本人が話す「自分のこと」には興味がなく、そこにはいない他人のことに興味があるらしい。そういえば、中山さんに最初にお会いした時も「こんな人がいてね…」と沢山の方を引き合いに出されていた。それは掴みだったのだと思う。でも私は「なぜ」その話なの?と訝りながら、私はとてもそうはなれそうにないと多少凹みながら黙って聞いていた。反応のないヤツと思っていたかもしれない。

 確かに、興味があったかというと…ハテナ。

 重要なのは、過剰な期待と要求を取り払って「素になる」ってことかな。素の自分ができることなんてたかが知れている。でも、たかが知れてるってわかった瞬間から、何かが始まるのかもしれない。

 中山さんは最後まで「自分のとは自分ではわからないから、他人に聞いてみなよ」と言っておられた。その通り聞いてみたけど、たぶん「それが何なのか」私はわかってなかったと思う。確かに悪いことは言われなかったけれど…。そこでもまだ「何かを得られる」と「期待」していたんだね。

 そう、この「何かを求め」たり「期待」したりすることが、素の自分をわからなくさせるものらしい。今までそういうことに散々時間を使って、よくわからないことを考えまくって、意味もなく脳を酷使していた。

 だから、しばらくは今までの逆?ってこともないけど、何ともないままで「なんとなく」生きてみようと思う。「なんとなく」って悪いこと?でもそれはあなたの「思い込み」。きっとね。


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2006年09月04日

私の物差

 昨日は東京で行われた異業種交流会に参加して来ました。仕事以外での交流会に参加するのは初めて。しかも人見知りも手伝って、かなりドキドキ。時々一人ぽつんと佇む少し挙動不審な私でした(^_^;)。

 やっぱり慣れられない。初対面の人との場。

 で、交流会では「島田流 負けない生き方」というテーマで、島田士郎さんというビジネスプランナーの方と主催者の方がトークショーという形でお話をくださいました。色々な面で行方の定まらない迷える私には、ヒント盛り沢山のトークでした。

 その中でも一際心が晴れたのは「自分の人生は自分の物差で測ればよい」という一言。確かに、それはその通り。でもいかにそうせずに言い訳をすることか…。苦笑してしまいます。思い通りの人生を歩きたいと言いながら、自分の物差で生きることができない。そういうギャップに苦しんだり。白か黒かとか All or nothingで、自分で自分を追い詰めたり。苦しむための行動を自分で選んでやっているのだなと。

 私は生きるのがうまくない。島田さんがおっしゃってた「そうじゃなくて、人間はできることしかできないんだよ」という言葉が胸に沁みました。そしてまた考えた。私の物差は何なんだろう?と。

 それで思ったのは、私の根本の物差は、ここにも何度も書いたけど「命」なんだなとまた改めて認識。生きているから価値があり、生きていることだけで価値がある。でもそれを実感できることが少なくて、時々哀しくなってイヤになる。

 でも、それを感じられる生き方を選んでいるのかというと、生き方が世間に迎合してる。「自然体で自分が伸び伸びといられる楽なことを選んでもいい」という言葉にも勇気をもらった気がします。

 べつに、世間の物差で自分を測らなくてもいいんだと、心の中で繰り返し唱える今日です。まだ「私の物差で測ろう!」と言えないところが、今までの縛りのキツさを物語ってるのかもしれない。


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2006年08月28日

成功とは

 より多くのものを自分の手に収めることを指すのではなく、より多くのものをあなたの手から送り出すことができることを指すのではないでしょうか?

 そう考えると「自分にできることは何だろう?」と悩む必要なんて全然ないんだと気づきます。あなたが今できることを精一杯やって、社会に貢献すれば良いのです。何をするのかは、全くあなたの自由です。

 ネットワーク地球村の主催者である高木善之さんが、あるインタビューでこんなことをおっしゃっておられました。

 『幸せになるぞ、と人間は考える。そして幸せの条件を数え上げていく。富、地位、成果、名誉など、その条件に照らして自分を計り、実現できないとあせりながら不幸せだといい始める。これで自由がなくなる。でも、本当は生きているだけで幸せではないでしょうか。先進国で教育を受けた人間の方が、条件にがんじがらめになって追い込まれていく。不自然な生き方のワナにはまるといってもいい。』

 多くのものを手にしようと思う時、人はあれもこれも必要だと感じ、自分には何もないような焦りを感じ始める。でも、あなたがただ純粋に社会のために何をしようか?と思うのなら、謙虚にできることから始め、ワクワクする心に出会うのではありませんか?

 だったら、仕事の原点だって同じことでは?

 求める心より送り出す心でいられるなら、物事は意外とすんなり進むのかもしれません。


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2006年07月27日

承認することと受け入れること

 ここのところずっとコーチがブログで「承認」について書かれています。(承認とは何か?と思う方はこちら → http://counseling.exblog.jp/)。


 自分であれ、他人であれ、「それでいい」と思えることは何よりも重要な第1歩。このことに私は深く助けられています。とにかく「私はそう感じているのだから、それでいいのだ」です。

 しかし、相容れない考えを持った人は必ずいるものです。
 その時が問題。

 私はずっと、それでいいのだ=相手を受け入れなければならないと感じてきたのですが、そうではない。自分とは相容れない考えを受け入れるというのは「できないこと」ですね。できないことを無理にしようとするから、常に心の葛藤を呼び起こしてしまうわけです。

 冷静になって考えてみれば「受け入れなくてもいい」のです。そしてそれを承認します。

 ただし、相容れない考えだからと言って拒否する必要もない。向こうには向こうの考えがあるわけですから、単純に「そうですか」とだけ言っておくことに決めました。ここで「そうですね」と同調しないのが私にはまた良いやり方のようです。

 その意見を一応は聞くけれども、内容は相容れない。だからと言って特にそれを拒否もしない。それが正しいとは限らないけれども、自分が正しいとも限らないわけですから、こういう場合においては、「何が正しいのか」と根を詰めてじっくり考えることよりも、まずは距離を取ることの方が良いようです。


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2006年07月25日

ありのままで

 私がありのままでいるとしたら、唯一「私がやろう」と意思することは「常に道を求める」ことです。

 最初からあって、最後まで残った疑問はただひとつ。「どうして私はここにいるのか?」「私はどう生きたらいいのか?」それを知りたい ということ。だから素直に「求道者でいよう」と今は思います。真の求道者として、全てを肯定的に受けとめられるその日がくるまで、結果を思い煩わずにいきたい。

 今願うのはそれだけです。
 実際、私にとって「何をして生きていくのか」はあまり重要じゃない気がします。外側に何かを求めることよりも、内側にあることを外に出す。道を求めるのなら、常にどんな場面でも良心に従う以外に方法がありません。今はそれでよい気がします。

 これで私の中の全てに「YES,YES,YES」と言えた気がします。


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2006年07月24日

「私がやろう」と意思すること

 実を言うと、今やっている仕事や職場でのことについて、本当は全く何一つ一生懸命にもなれず、これっぽっちも協力的な気持ちすら抱いていない、超後ろ向きな私がいます。

 ある側面では、これが私の本当の顔です。

 これを今まで「それはいけないことだ。人間として大問題だ。どうにかしなければ。」と心の中は大騒ぎのまま、無理矢理前を向かせてやってきた。なんとか外側だけは、色々な理論を持って来て武装してはみたけれど、もう限界だというのが本当のところ。


 突然何を言い出すのかというと、ここ2年ほどの失敗プロジェクトの反省をしていて、問題だらけの仕事も会社も組織も本当にイヤになり、それをどうすればいいのかなんてことより、どうしてこんなことを私が考えなきゃならないのかと憤っている自分に気付きました。

 そこで、普通ならそれを解決しようと思うはずなのに、なぜ私はそれに一生懸命になれないのか?と疑問に思い、その理由を考えてみると、根底にはいつも「それは私のことじゃない」という意識があることに思い当たりました。どうしてなのかは知らないけれど、とにかく常にその意識が邪魔をしています。しかし、どうしてそう思うのかは心の問題で、たぶん踏み込むと出てこれなくなると思うので、やめておきます。

 もしかして最初から、もうずっと前、子供の頃からずっと心の中のどこかで「それは私のことじゃない」と思ってきたんじゃないか?そう思って今の今まで生きてきたということは、全て、今の状況においては何も「私がやろう」と意思していないことを意味しているんじゃないのか?と考えると、ある意味では今抱えていることの全てに対する回答になると直感します。

 これでは何も見つかりません。でも気付けて良かった。もう無理をしなくていいのですから。なんだか軽くなりました。


 今日からは、これは「私がやろう」と意思することは何なのか? それを探していこうと思います。


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2006年07月21日

憧れ〜3歳の自分に戻って

 先日の深夜「明石家さんま〜白洲次郎に会いに行く」という番組を見ました。気付いたのが遅くて途中からになってしまったのがとても残念なのですが、やはり憧れますね。あの生き方・信念・潔さ。

 ご本人曰くあの信念は「幼稚な正義」なのだそうですが、高潔さはどこからきたものかと考えるに、自己都合ではないからこそなのだろうと感じます。

 番組中では英国の「ノブレス・オブリージュ」や日本の武士道についても触れていましたが、それを自身の正義と信念に替えて貫くという不屈の強さはいつ触れても鮮烈です。また『役損を考えなさい』と言うように、物事の裏側や側面までも見通す視点の鋭さに敬服します。

 欠片でもいいから欲しいと心の底から願う姿です。

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 白洲次郎の生き方に今改めて少し触れたことで、忘れられない私の原風景も思い出しました。3歳くらいのことだったと思いますが、黄金の稲穂と畦道に咲く幾つかのピンクのコスモスが風に吹かれて揺れるのを前に、このまま生きていられたらいいのになと思ったことがあります。

 あの頃に戻りたいわけじゃない。ただ、何も心配せずにそこに佇んで在るその感覚のまま常に過ごしていけたら良いのに、と思ったような気がしています。


 実は私は未だに一体自分が何を望んで生きているのかがさっぱりわからないままです。だいいち望みがあるのか、ないのか…。それは子供の頃からずっとそうで、今でも同じなんです。他の人たちのように、欲しいものがあるわけでもなく、なりたいものがあるわけでもない。しかも、やりたいことすらありません。だからいつも、自分はどうすればいいのかわからない。何で自分がここにいるのかがさっぱりわからないんです。

 自分のそういう性質に気付いたのは16〜17歳の頃です。以来ずっと「どうしたい」という意思が持てない自分をどうすればいいのかわからず、迷走です。「どうしたい」とかいう意思は、何かどこかを探せば持てるものなのかどうか。ずっと探し続けてきたというのが実態なんです。

 自分は一体何なのか? 自分は一体誰なのか?
 私はおかしい、としか思えなかった。でもわからないから、そんなことばっかり考えて生きてる。考えてるけど、未だにさっぱりわからない。


 でも今なら「どうしたい」という意思なんてどうでもいいじゃないかという気がします。どう考えても無気力、ダメ人間にしか思えない時期もありましたが、実はもう一度3歳の頃の私に返って生き方を考え直してもいいんじゃないのか。人間、最後は食べていければ何でもいいのだから。特別気張らずにいこうじゃないか、と。


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2006年07月19日

私流、プレゼン資料の作り方

 先週は夏風邪をひいてしまい、3日間も寝込んでしまいました。今も咳が続いていて、イマイチ治りが悪いようです。暑くなったり、涼しくなったり。大雨だったり。みなさんも体調/天候、共に注意してくださいね。

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 では、プレゼン資料の作り方最後の項目「表現方法を磨く」を書いていきたいと思います。と言っても、表現方法をこの場で表現する手段は基本、文字!

 限界があります(>_<)。その点、何卒ご理解ください。


 さて、前回までで、ストーリーなんとかまとまりましたでしょうか?キーワードを探して、どんな手順で説明したら良さそうか。その流れが決まったら、今度はいよいよ説明内容を作成していきます。

 タイトルに記入したキーワードや説明の流れ、話そうと思うことをイメージしながら、もちろん横目でメモも眺めながら、そこにふさわしい「画面」を作ります。

 そうココがポイント!『画面を作る』んです!
 紙芝居と一緒です。目の前にポンと出して、その1画面で一番言いたいことがわかるかどうか。相手にまず理解して欲しいことから順番に目立つように情報を配置していきます。画一的な方法はありませんから、表現は自由でいいんですよ。

 これから説明しようとしていることについて、あまりよく知らない人のことを想像しながら作ってくださいね。どうやったら興味を持ってくれそうですか?どんな順番に目が動くでしょうか?

 画面の構成には、目の動きも意識してくださいね。自然に視線が置かれ流れる、その順番に情報を置いてください。その時、情報を置く構成要素を何にするか。もちろん、それも検討します。それが表現方法。


 表現方法って、どんな手段があるでしょうか?
 文字やキーワードの場合もあるし、線や円、絵や画像の場合もある。図の時もあるでしょうね。情報それぞれについて、どんな表現方法がふさわしいのか、ここでじっくり検討してみてください。もちろん、グラフだって地図だってありますよ。

 一番言いたいことにふさわしいものを入れましょう。

 と言っても、そのふさわしいものが何であるのか。ここでもメモを見ながら、あなたの頭の中ではどのように整理されているのかをもう一度思い出してくださいね。そして、相手に伝えるにはどのようにしたら良いか考えてください。

 箇条書き。矢印。円や四角。これらを組み合わせた図でもいい。はたまた、説明したいことが伝わるようなイメージ画像を挿絵のように入れてもいい。画面に置くものそれぞれの意味や位置づけを考えながら、置く場所や背景、効果も考えていきましょう。

 イメージ画像がメインの場合は、まずは中心に置いてみましょうか。周辺には、キーワードを並べてみたらどうですか?説明したいことを箇条書きで整理したのなら、その隣には補助イメージとしての画像を少し小さめに置いてみてはどうしょう?

 上下、左右、対角、左上〜右下、2コマ、3コマ、4コマ、中心を入れて5コマ、中心と環状など。表現する画面の中の分割構成も一緒に考えましょう。

 音で表すなら、ポンッ!パッ、パッと流れるように要素を置いたり。または、ポンッ・グるりでもいいし、ポン・ポン・ポンでもいい。

 とにかく頭の中だけで描かずに、実際に画面を作ってインパクトや色彩・視線の流れなどをチェックしながら配置してみましょう。しっくりこない時はどんどん修正していきます。

 テーマやキーワードなどは文字情報は大きくはっきりと、画面上や中央、下などに配置してみましょう。説明の場合は短く表現すると効果的。見てすぐに頭に入っていくようにすることが大切です。更に、文字の場合は大きさだけでなく、色やフォント、背景色も構成要素のうちですよ。文字だけ?でも侮ってはいけません。効果を引き出せる組み合わせは沢山あります。

 ただし、文字を使う時は注意点が1つあります。
 それは絶対に「文章を書かない」こと。プレゼン資料に文章はダメです。それはなぜか。文章って長いですよね?読まなければ理解できないですよね?読んでいると時間がかかりますよね?何より、読んでいる間に話は先に進んでしまうんです。これでは相手に、聞けなかった・理解できなかったというストレスを与えてしまいます。

 そうすると、さっきの話は何だったろう?と気になってしまい、次の話に乗りにくくなってしまいます。これでは、伝えきれていないですよね。プレゼン資料は見せて、聞いてもらうように作るのもコツだと思います。


 さて、これだけ話してもまだまだ伝えきれていない暗黙の感性みたいなものが沢山あるのですが…なかなか言葉にするのは大変です。なので、ここから先はもう伝えたいというあなたの意思と、伝えたいことへのあなたの理解度とその表現方法を想像するあなたの感性を信頼しようと思います。

 と言っても、表現方法としてグラフや図などを用いる場合には、ある一定のテクニックがあります。それは私からではなく、プロの説明にお任せしようと思います。

 私が参考にした書籍です。
  ★マッキンゼー流 図解の技術(4492555226)

 タイトルの通り図解の技術が載っていますので、是非参考にしてみてください。他に参考になりそうな書籍も紹介しておきます。

  ★マッキンゼー流 プレゼンテーションの技術(4492555277)
  ★図解主義!(4757303165)

 図解主義は今私が読んでいる本です。実際にはプレゼンの技術の本ではなく、相手や相手の立場、交渉のことを理解するために書かれた本です。しかし、考え方や理解を深めるという点ではとても参考になると思っています。それらを「図で考える」という点がポイントです。


 また、言葉にできることがあったら、ここに書いてみようと思います。とにかく、プレゼンは「伝えたいことは何なのか」が基本です。図でも絵でもグラフでも、華美にせず、主役と脇役をきちんととらえて画面構成していってくださいね。

 全体ができてきたら、スライドショーを何度も見直して、情報の過不足、最初の視点からの視線の移動方向などをチェックして修正していってください。大切なのは、まずあなたが見て見易いもの、説明し易い流れに仕上げることです。

 最初は慣れないかもしれません。でも作っていくうちに、5枚に1枚は上出来のものがきっとあります。そして、3回も資料を作るうちにはコツが掴めてきますよ。その頃には、表現方法の感性の引き出しに道具が幾つか入っていることでしょう!


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2006年07月06日

私流、プレゼン資料の作り方

◆ストーリー作り

 ストーリーは起承転結で考える。
 とは言っても、物事はそんなに簡単じゃないよ!という時もありますよね。でもやっぱり色々なことがある中でも、よーく考えて情報に目を凝らして見てみれば、大きな流れと小さな流れがあることに気付くはず。

 整理が簡単ではない場合、簡単になるように考えることも役に立ちます。複雑と思えることでも、流れが複雑に覚えられているだけということがあります。ひとつひとつ糸を解きほぐすように、これはどこに属している?大きい流れか?小さい流れか?よく考えて分類してみてください。

  ・それぞれの要素が全体の中のどの部分にいるのでしょう?
  ・それは、どこから出てきましたか?
  ・それは、何と関連していますか?
  ・それなしでは、説明できないのでしょうか?
  ・今書いたことは本当にそうですか?

 ほら、少しずつ見えてくるような気がしませんか?
 ストーリー作りの基本は、大きな流れから小さな流れへです。説明しようとしている内容の大まかなことは何でしょう?それを詳しく言うと、どうなるのですか?よーく考えてみてくださいね。きっと整理できるはずです。


 それから、どうしても整理できない考えがたくさん散らばっている場合もありますよね。イメージとキーワードが一緒くたに湧いてきて、それと同時に関連事項が次々と…。

 それらはとにかく根気強く紙の上に書き出してみてください。ひとつひとつ何と何が繋がっているのか、視覚として捉えることが整理の第1歩です。そして、パズルのピースを組み合わせるように、それらがどこに入るはずなのか、共通していることはないか、考えてみてくださいね。


 とっても大事なことのように見えて、実は枝葉の問題ということは多いものです。1度に伝えられることは、そう多くはないのです。だからこそ、何が一番伝えたいことなのか。そのためにはどんな手順で話す=どんなストーリーにするのがわかり易いか。そういう視点で、何度も何度も見直して、納得いくまでやってみてくださいね。

 やっているうちに、慣れてきて、きっともっと良いキーワードやアイデアが出てきますから。


 ここまで、どうですか?何かうまくいきそうでしょうか?
 私自身、今までこういったことを説明した経験がないので、これを書きながら「私の言いたいことは本当に伝わるんだろうか?」
か、とても不安です。
 プレゼン資料の作り方をプレゼン。難しい!!!(>_<)


silence_master at 17:29|この記事のURLComments(2)
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