2005年09月11日

軍師諸葛亮

いま当たり前のように使われる軍師という言葉。軍師とひとたび検索すれば、世間一般で当たり前のように使われている「軍師≒参謀」の図式が、誤った解釈であると分かる。しかしながら、テレビや新聞で軍師という言葉が一般的に使用される場合、やはり「軍師≒参謀」として使用される場合は少なくない。WEB総合辞書として名高いWikipediaも例に漏れず「軍師≒参謀」論から脱却できていない。これは三國志演義や各種民間講談もの、あるいはテレビゲームなどの影響が大きいと思われる。

軍師という文字は師と軍から出来ている。師はそのまま「師」だ。これは中国においては決して逆らってはいけない者のうちの一人として考えられている。残るは父であり、残るは君である。日本における家父長制とは違った意味で、純粋に尊び、敬うべき対象として考えられている者である。たとえ世界を席巻した帝王であろうとも、この三者には逆らえない。これを総じて三尊と呼ぶ。

軍師は師であるから、三尊と考えてよい。天下、すなわち中華を治める王の師である。魏呉蜀三国時代の蜀漢の劉備が諸葛亮を軍師将軍につけたとき、パトロンとして劉備に貢献した麋竺よりも座席が低いことを指摘する人がいる。正史にある以下の点を見てのことであろう。

益州が平定されると安漢将軍となり、席次は軍師将軍諸葛亮を上まわっている。

(許麋孫簡秦伝第八/むじん書院)

師は三尊のひとつであり、それは俗世の上下関係を超越している。したがって、ここで麋竺と諸葛亮の席順を論ずるのは見当違いだ。劉備は諸葛亮を「師」として迎えており、その時点では王を教え導くための職種である宰相位につけることができなかっただけである。劉備が諸葛亮を迎えるには国王でなければ分不相応なのだ。王となってはじめて国家の大事を任せられる最高職である宰相位につけることができる。そして劉備は、蜀漢を建国した際に諸葛亮をもって丞相位に「就いていただく」のである。ちょうど子が父を敬うがごとく、臣が君を尊ぶがごとく。軍師将軍という座席は宰相位を用意できない劉備が便宜上設けて「座っていただいた」職にすぎない。

よく諸葛亮は劉備の臣下であるとか参謀であるとか言う人がいる。違うのだ。劉備にとって諸葛亮は、俗世のしがらみを超越した、ある意味神のごとき人物であり、そこには打算も何も無く、子が父を敬うかのような純粋な敬慕があるのみである。見ようによっては「劉備が諸葛亮の下にいる」とすら考えられるだろうが、三尊とは、そのような単純な人間関係で捉えきれるような小さなものではない。

後、劉備臨終の際に、劉備は諸葛亮に対して次のように言っている。「あなたに国家を託します。私の息子が不甲斐なければ、(国を導くべき『軍師』である)あなたが、この蜀漢を導いてください」と。これは信頼される臣下と国王の会話ではない。劉備が終生をかけて見つけた、『師』との会話であり、請願である。英雄と呼ばれ、梟雄と呼ばれ、同時代の誰からも一目置かれていた男の願い。そしてそれを受け取った諸葛亮。水がなければ魚は生きていけない。ここにきて、水魚の交わりの真の崇高さを垣間見ることができる。

「われは古の管仲楽毅とならん」

諸葛亮が若かりし頃に思い描いた理想、管仲は「管父」と呼ばれ、やはり桓公の「師」であった。

劉備が先生と呼び、慕い、敬い続けた偉人諸葛孔明。軍師という言葉がもつ本当の意味を知るだけで、歴史はまたあらたな輝きでもって私達の前に姿を見せる。学問のなんと素晴らしいことか!

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