俺ジャーナル

翻訳やったり物書いたりしてる田内志文のブログです。

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 1月31日は、下北沢B&Bにて開催された、ドリアン助川さんと管啓次郎さんのイベントへ。昨年12月に刊行されたドリアンさん訳『星の王子さま』(皓星社)の刊行記念イベント。僕はこの話を長い間、定番ともいえる内藤濯氏の訳でしか読んだことがなくて、その後、管啓次郎さん訳で読んだ。うーん、どれも違ってどれも面白い。

 翻訳はどこか、クラシックの演奏に似ている。クラシックで初めて聞いた演奏を気に入り、他の誰の演奏でも満足できない気分になってしまうように、僕は翻訳も、最初に読んだ訳が気に入ってしまうことが多い。おそらく、僕と同じような読者は少なくないのではないだろうか。作品も訳も引っくるめて気に入るわけだから、これはある意味当然のこと。その訳でなかったら作品そのものも気に入らなかったかもしれないのだ。なので、旧訳が存在する仕事をするときは、その作品のファンにはまず嫌われる覚悟を固めることにしている。逆に自分が読者となる場合は、できるだけ自分が既に読んでいる訳のことは頭から追い出し、初めて読む作品のつもりで読む。

 僕は実のところ、「原書を可能な限り忠実に再現するのが翻訳」とは、あまり思っていない。その努力をしないということではないが、結局は自分の知識や経験を離れて作品を解釈し、理解することは(少なくとも僕には)無理なので、どうしたって作品はどこかしら、著者を離れて自分に寄り添ってくる気がするのだ。そういう意味で僕にとっての翻訳は、音楽で言うところの「カバー」にとても近い。同じビートルズの曲でもプリンスとジュディ・オングがカバーしたらまったく別の歌になるだろうけど、翻訳もそういう部分が大きいと思うのだ。

 かといって「他の訳とは違う雰囲気の訳にしよう」とは思わない。他の訳者と自分が別の人間である以上、自然に訳せば違う訳にしかならないからだ。同じ海を見て、青さに感動する人もいれば、深さに胸をときめかせる人もいるわけだけど、そういう話。『星の王子さま』も、管さんの訳はいかにも管さんらしく、力強く作品をリードしていくような頼もしさがあって面白いし、ドリアンさんの訳にはいかにもドリアンさんらしいサービス精神とひょうきんさがあって面白い。

 訳者の姿や、訳者がその作家をどう思い描いてるのかがページの向こうから立体的に浮き上がってくるのは、本当に楽しい。「翻訳を読む面白さってこれだよな」と思う。他にもたくさん訳が出ているので、どんどん読んでみたくなる。そうすると、その訳者さんたちのことを知りたくなるだろう。訳者が登場するイベントが好きなのは、その辺。訳者本人を知っていると、翻訳を読むのは絶対に面白くなるのだ。そして、面白い訳者の訳は絶対に面白い! やっぱり翻訳って「translation」である反面、完全に「representation」なんだろうな。翻訳はほんと奥が深い。

 なんてことを考えながら、打ち上げ終了後は『松』から『わたくしごと』の、お決まりのコース。懐かしい友人たちと朝6時まで飲み明かしてしまった。またいろんな人に絡んでしまったけど、ご容赦。でろんでろんになった翌朝には、必ず恥ずかしくて死にたくなります。

「もうすぐ2016年か」と思っていたのがついさっきだと思ったら、もう2017年が目前に迫っている。そういうのは単なる記号だから別にどうでもいいとは思っているが、やはり多かれ少なかれ実感はあるし、気持ちも動くものだ。

 今年は、ブログを書くぞと思って迎えた1年であった。しかしいざ大晦日になってみると、なんと投稿の少ないことか。だが、これは書いていないわけではない。かなり書いているのだ、実は。投稿していないだけなのである。

 書いていると、やがて「うわ、すげえつまらねえ」という気持ちになってくる。俺は基本的に、実に多くのことを「実はどうでもいいこと」か「実はどうしょもないこと」のどちらかに分類してしまっているので、ブログを書くとなると、本当にどうでもいいことしかネタがない。そのどうでもいいことを書くと、どうでもいい文章になる。だから、さんざん頭を悩ませながら2時間3時間かけて書き、「あーだめだめ、糞だわ」と消してしまうわけだ。本当に今年はかなりの量を書き、そのまま消してしまった。「何を書いたっけな」と思い出そうとして何も浮かんでこないあたり、本当にどうでもいいことを書いていたのだと思うと、死にたい気持ちになってくる。

 自分の仕事や社会について、何か意見めいたことを書きたくなることも、ないわけではない。が、これは書き始める前に諦めてしまう。「たぶん、すでに同じ意見を持っている人は賛同し、違う意見を持っている人は2行も読めば投げ出すはずだ」と思うと、とても非生産的な行為であるように思えてしまい、速攻で「意味ねーなー、そんなことしても」になってしまうのだ。そもそも、何かに対して意見ができるほど偉くもなければ知識もない。そもそも、俺ごときが書くようなことはほとんど既に人が書いている。本当に、話すほどのことがほとんどない人間が俺なのである。おまけに「話すと誰かに怒られる」という強迫観念に取り憑かれているので、なおさら寡黙にならざるをえない。

 そんな俺の今年のトップニュースは、なにはともあれ愛車、ロードスターとの出会いであった。

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 とにかく、乗っていて楽しい車である。俺に購入を決意させた島下泰久氏のインプレッションを観ていただければ伝わると思う。ご本人がずっとニヤニヤしながら運転しているのが、とても印象的だ。一生乗るぞ。

 と2行で済ませたけど、実はかなり長く書いて消した俺であありました。

 

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 12月11日、『はじめての海外文学フェア Vol.2』に行ってきた。僕はビギナー編で、サリー・ガードナーの『火打箱』(山田順子訳 東京創元社)を紹介。「これしかないだろう」と思って行ったのだけど、登壇された他の訳者の方々の話を聞いていると、読みたい本がどんどん増えて困ってしまった。

 会場はとても盛り上がり、訳者のひとりとしては非常に勇気づけられたが、「でもここにいない人たちに翻訳書の魅力をアピールしていくことができないといけないんだよな」と、気持ちを引き締めながら過ごした。とにかく具体的に考え、行動していくしかないな。ともあれ、他の訳者さんたちの熱気に当てられて、自分の仕事に気合が入ったのでよかった。がんばろう。ちょっとここのところ仕事で忙しくしすぎていたので反省。こういう外向けの活動も、やっぱ大事だ。来年は機会を増やしていかなくては。

 僕は父親が英米文学の翻訳家だったこともあり、「翻訳」とか「文学」とかそういう言葉にはアレルギーに近い苦手意識がある。「翻訳文学」と聞くだけで「うわ、読みたくねえ!」と、条件反射で心が動いてしまう。自分の仕事を人に伝えるときにも、そういう言葉はほとんど使わない。だから自分が翻訳家になって仕事をしているという事実は心の片隅にずっと引っかかり続けており、ともすれば大きな苦しみになったりすることもあるのだけど、当日に登壇された訳者の方々の発する雰囲気や空気には、深く救われたような気持ちになった。来年は重い腰を上げて、自分が抱えたジレンマに折り合いを付けていく年なのかな。そう思えるくらいには、ようやくなってきた実感がある。

 このフェアの実現とイベントの開催に関わられたすべての人びとに、感謝と敬意を捧げます。

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