俺ジャーナル

翻訳やったり物書いたりしています。文章の著作権は私に帰属します。

下で冠を正してはいけないような木を、
あまり増やさないでほしい。

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 僕はただでさえ仕事が速いほうではないのだけど、疲れてくるとさらにスピードが落ちてしまう。連綿と連なる英文を見てすっかり呆然としてしまい、気力が削がれてしまうのだ。そこでちょっと前から、電子版を底本として使う場合は、事前にテキストをハイライトするようにしたところ、これがいい!

 普段はだいたい、まずピリオドまで訳したらそこでキーボードから手を離し、次のピリオドか、次の大文字を探す。要するに、どこまでが次の1文になっているのかを探す。でもこれが割と曲者の作業で、せっかく大文字を見つけたと思ったら地名や人名の類だったり、さらには思いのほか次が長文だったりして、やる気を削がれることが割と多いのだ。どうしても前の文を訳してからその文を訳すまでに間が空いてしまうため、気持ち的にリズムが悪くなってしまうのも頂けない。

 そこでこうして、1文ずつハイライトしてみたんだけど、これはもう「なんでもっと早くこうしなかったのか!」と思うくらいに良かった。ちなみにオレンジの部分は「ここは前の文と繋がってるけど長文だから、一応ここで切ることもできるよ」的な感じ。とにかく「ここまで訳す」を視覚的に把握しながらの作業は非常にやりやすくていい。

 ちなみに紙の本を底本とする場合は、遠慮なく蛍光ペンで文尾に印をつけてしまう。たぶん、似たようなことをしている訳者さんも多いんじゃないだろうか。

 あとひとつ、仕事の能率アップのために鉄則にしていることがある。

 訳していると、どうしても「うーん、ここは難しいし訳しづらいし文章複雑だし……」という難所に出くわし、その難しさとモチベーションの低下の相乗効果で、下手をするとそこを突破するのに小一時間かかってしまうことがある。以前はそういう部分で「今日はやめたやめた! やってられるか!」とふて寝してしまうこともあったのだけど、そうすると、翌日に「あー、あそこやらなくちゃいけないのか……」と気が重く、作業になかなか取り掛かれないことに気づいた。

 なので、難所は意地でも突破し、翌日の出だしには楽な部分を残してから寝るようにしている。そうすると、その日一日の作業に向けて助走が付けやすいように感じている。

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 まずは、今月発売になった『レッド・クイーン』から。著者、ヴィクトリア・エイヴヤードのデビュー作にして大ベストセラーとなり、なんと初版25万部、25カ国で翻訳出版されているというのだから驚き。日本でも売れてくれますように。

  内容は、「シルバー」と呼ばれる銀の血を持つ支配階級と、「レッド」と呼ばれる赤い血を持つ奴隷階級が住まう世界の話。シルバーは強力な特殊能力を持っており、無力なレッドたちを蹂躙、支配しているのだけれど、ある時、ひょんなことからレッドであるはずの主人公メアが、シルバーしか持たないはずの特殊能力に目覚めてしまう。シルバーはそれを隠蔽するためメアの肌を塗りたくってシルバーに仕立て上げ、王宮に幽閉して王子の嫁にしようとたくらむが……。

 と、差し障りのない程度に書くと、そんな話。「ロマンス+X-MEN+シンデレラ+ちょっとスチーム・パンク」みたいな感じで、人気の要素がてんこ盛りなのが最大のウリだろうか。でも散らかった話というわけではなく、それを巧みにまとめあげて1本の小説にしているあたり、力のある著者だと思う。

  これは、俗に「エンタメ系」と分類されるタイプの小説ではあるけれど、支配層と被支配層に明確に、そして圧倒的に分けられたこの世界観は、僕たちが今暮らす現実にとても共通している。そういう意味でも時代が色濃く反映された小説だし、だからこそメアに共感を覚える読者がたくさんいたのではないだろうか。この本がベストセラーになったこととドナルド・トランプが大統領選に勝利したこととは、同じ文脈の中にあるような気もするわけだ。具体的な話はまだ聞こえてこないけど映像化もありそうなので、これは今から楽しみ。

 そして、来月25には『新訳 ジキル博士とハイド氏』が刊行される。これはもう、本当に本当に面白い小説。144ページと大した厚さでもなく、本棚に入れておいてもしょっちゅう迷子になるほどなのだけど、その分いろいろと想像を働かせながら読む楽しみに満ちていると思う。訳すにあたり『性のアナーキー 世紀末のジェンダーと文化』(E・ショーウォールター 富山太佳夫、上野直子、富永久美、坂梨健史郎訳 みすず書房)や『ナボコフの文学講義』(ウラジーミル・ナボコフ 野島秀勝訳 河出書房新社)の他、いろいろと海外のサイトや本を見てみたのだけど、ロンドンの富裕層の男性たちが持った密かな楽しみ、いわゆる同性愛的なものを扱った作品なんじゃないかと思い、そんな目で読んでみた。薄い本だし。

 ちなみに著者のスティーヴンソンは同性愛者でこそなかったものの、男性からものすごくモテた人物で、本人もそれを愉快に思っていたらしい。クレア・ハーマンという女性が書いた彼の伝記『Robert Louis Stevenson』にその辺が書かれているのだけど、やはり相当に面白い人だったんだな。

 この本は、不品行を働くことのできる状況、つまりハイドという別の肉体を手に入れたことにより悪行に走るうちに、だんだんと人間らしい善心や理性を失いすっかり悪人へと変容してしまうことへの恐怖を描いた、非常に道徳的テーマを持つ作品としても読むことができるし、いろんな読みかたを楽しめるはず。いずれにしろ「悪のハイドが悪事を行い善のジキル博士がそれに苦悩する、二重人格の人物を描いた小説」みたいな、さっぱりとした善悪の物語ではないので、もしそう思われている方がいるなら、ぜひこの機会にご一読いただきたい。ジキル博士自身、根っからの善人ではなくて、そこが面白いところなのだ。

 個人的には、友人ジキルの男色的所業の数々を必死に隠そうとするやんごとなき独身友人たちの奔走を描いた物語として読むのが、ものすごく楽しい。割と「そうとも読める」よりも「そうとしか読めない」といった感のあるちょっとした要素があちこちに散りばめられているので、そういうものを拾い上げながらほくそ笑むのも、この作品の楽しみかたとして正しいと思う。事前に、いわゆるソドミー法やラブシェール修正条項など、そしてその周辺事情や事件などなど、いろいろ調べてから読んでみると、面白さが増すかもしれない。クリーヴランド・ストリート・スキャンダルなんて、事件のあらましを読むだけでも壮絶だったろうな。

 ラブシェール修正条項では、公私を問わず男性同士の親密な関係を示唆するあらゆる行為が「著しいわいせつ行為」として取り締まりの対象になっていたわけだけど、そういう社会的背景のある時代だったわけだし、この『ジキル博士とハイド氏』は、かなり鮮烈な問題作として扱われたのではないかという想像もできる。この辺はオスカー・ワイルドの『幸福な王子』にしても同じことで、ついついそういう前提での裏読みをしてしまっていけない。

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