平野啓一郎の長編小説「マチネの終わりに」を紹介します。

2019年に映画化もされて話題となったこの原作は、通常の恋愛小説の枠には収まらない魅力が詰まっています。知的な人物達の生活描写や会話の描写が随所に見られ、真に大人の恋愛小説と言えます。

マチネ(matinee)、ソワレ(Soiree)はともにフランス語でそれぞれ昼公演、夜公演を表しますが日本ではあまり馴染みのない単語です。

本作は天才的なギタリストの蒔野聡史と、国際ジャーナリストの小峰洋子によるそれぞれの視点が交叉しながら主に二人の一人称で進んでいきます。故に、男女の読者どちらも感情移入を余儀なくされる作品です。

序盤で本作品で基盤となる「人は、変えられるのは未来だけだと思い込んでるが、未来は常に過去を変えている。変えられるとも言えるし、変わってしまうとも言える」という蒔野の象徴的な言葉が、通奏低音として鳴り始めます。

本作はクラシックギターを含む音楽をテーマに扱っていることも手伝ってか、静寂と音を扱う上で非常に鋭敏な表現が目立ちます。「組み替える足の衣擦れ」「歯の隙間で鳴る唾液の響き」といった表現は静寂を僅かに崩す音として、作家のずば抜けた描写力が光っています。

また、知的な登場人物たちの会話の描写がとても自然で、洋子と会話する上司のフィリップが「笑いながら波打つように(タバコの)煙を吐く」といった表現が、その光景を読者に想像させるのに効果的に働いています。

本作は、登場人物の善悪(読者視点での良い人、悪い人)がはっきりしているのが特徴ですが、後者に類する洋子の婚約者リチャードが語る教訓は考えさせられる一文です。「人類は、生物として、せいぜい歩いて移動できる程度の環境の中で進化してきた。現在の地球全体がリアルタイムでリンクされている状況は、一個人のポテンシャルを超えている。だから、自分が生き抜くためには最適の環境を選択して、それを自分の世界とするしかない」というのは、走りすぎる現代生活のビッグバン的な広がり方に一石を投じられた気分になります。
そのリチャードとの婚約解消が上手く進まない中で、洋子は「繊細なニットに引っかかったアクセサリーのように慎重に扱わないと、心に取り返しのつかない痕を遺してしまう」と、若者には無い配慮をするくだりは大人の恋愛小説ならではという心理描写です。
また、「出口の幾つもある迷宮を彷徨っているものの、引き返せず、どの道を選ぼうと行き止まりはなく異なる出口が準備されている迷宮の方が、遥かに残酷だ」と洋子は思います。これは、四十代という世代の恋愛観を投影した、証徳とも諦念とも取れる思考です。

本作品での最大の悪人と言っても良い、蒔野のマネージャーの三谷早苗の思考の揺らぎも注目すべき部分は多いです。「どんな人でも、死ぬまでにはそれなりの罪を犯すはずで、自分の場合、許される罪の重さの制限に対して、まだまだ余裕があるはず」という自分勝手な思考回路は、若さや短慮が為せる人間の弱さを良く示しています。一方で、許される罪の重さの制限に達していない人物の死が、彼女のこの自己中心的な思考に激しい揺らぎを与えていきます。
洋子は早苗の自己中心的な言動に対する嫌悪感を抱きつつも、ここまで狡猾な方法を取らずに蒔野を得ることに執着することが自分自身に出来るのかという煩悶をしています。正しいことをすることと、強い思いを持つことの二面性が必ずしも相乗性を持たないことを読者にも考えさせる場面です。

蒔野がスランプ期間中に反芻したという「尊ばれないことは忘れ去られる。これは、人類の最も美しい掟の一つだ」と言葉が、個人的には一番印象に残りました。これは心を通わせる人類だからこその深い教訓のように感じられることと、自分以外の何者かにとって尊ばれることこそが自分が生きる証明になるのだと強く感じます。

マチネの終わりに、洋子を見つけた蒔野がアンコールに「幸福の硬貨」を、for you(観客のみなさんにではなく洋子)に向けて演奏をするシーンは、ありきたりなシーンですが純粋な感涙を誘います。

ヨーロッパ音楽とナショナリズムの関連性や、グローバリズムと報道の関連性など、恋愛小説とは別の視点で、読者の思考を促すサブテーマ群がこの作品の人気を広げている魅力であると感じます。

恋愛小説自体は個人的にあまり好きなジャンルではありませんが、本作品の本質的なテーマは全く別物ということもあり非常に面白い作品です。この作品をきっかけに興味を持った音楽や文献もあり、読んで良かったと思える良作です。

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