2009年02月09日

一般閲覧室

明るかった。ただ西日がきつくさし込んだ。それで、勉強にはふさわしくない眩しい反射が頁の上に出来ているのにかまわず、若い専門学校の女生徒らしい人たちがあちらこちらにかなり多勢読んでいる。婦人閲覧室が別になっていたとき、その室には女ばかりの空気があって女学校の寄宿舎の勉強室のようであった。同時に、友達同士で来ている人たちの私語がかなりやかましいようなときもあった。男の人々と交って一般閲覧室にいる女のひとたちで、気になるような話をしているものはない。度々同じ閲覧室で出会い、ときには必要な本の索引のひきかたをきき合ったりすることから、婦人閲覧室の仲間が出来て、東京でたった一つ、それがきっかけとなっている興味ある婦人たちのグループがある。その人たちは、十年前には、それぞれ専門学校生徒だったり勤めをもっていたりした人々であった。若い女性の心にうごく願望に導かれて、それらの人はばらばらに図書館に来て、学校の課目や勤めの義務以外の勉強をしているうちに、段々互に顔なじみになり、話しがはじまり、御弁当のとき一緒に食堂へ行くようなことから、一つの集りが出来た。互に励しあい勉強しあって、夜が更けてからの気味わるい上野の山内をみんでかたまって帰って行くような扶け合いから、これらの人々は若い女の人たちの集りとしては珍しく、時によっては経済上の援助もしあった。その時分、一番早く一本だちになって開業した女医さんである一人の仲間が、そういう場合、よくみんなのために尽力した。

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2005年12月30日

以前に来たときは

三階の大廊下を右へ入ったところに婦人閲覧室があった。重い古新聞の綴じこみをかかえて、廊下へ出て来てみると、そっちへ行く大扉が閉められて、つき当りの一室が開いているだけである。新聞は「特別」で、先頃は特別閲覧室でみなければならなかった。広間の入口で、学生に、婦人閲覧室はどこでしょうときいたら、不思議そうに一寸黙っていて、ここです、と答えた。ここというのは、一般閲覧室である。入って行ってみると、男女区別なしに隣りあって読書したり、ノートしたり、居睡りしたりしている。戦争はその結果としていろいろの変化をもたらした。けれども、この役人くさい図書館が、やっと世間なみに、男女共通の閲覧室をもつ決心をしたということには一種のユーモアがある。
 男子、女子の区別は、従来の日本の半官的な場所では愚劣なほど神経質であった。上野の図書館には、明治の前半期に樋口一葉がよく通った。一葉日記に、ここは屡々出て来る。その頃、おそらく一人か二人しかいなかったであろう女子の閲覧人は、どういうところで読んだり勉強したりしていたのであったろうか。私の記憶にあるはじめの婦人閲覧室は、現在、手洗場のある長廊下のつき当りの小さい光線の不十分な一室であった。そこだけは、カタログ室からも一般閲覧室からも遠くはなれていて、薄暗い灯にぼんやり照らされたその長廊下を受付けまで歩いて来る宵のくちの図書館の気分は、独特であった。暗くなって、その室の人数が一人一人減ってゆくと、少女の心は落付いていにくかった。背筋のひきしまるような気もちで、人気のない長廊下を来て柵のところの机に、電燈の光を肩から浴びた受付の人の姿を見るとき、人里に近づいた暖かみと安心とを覚え、階段にかかっている円形時計の面を見上げるのであった。その円形時計は、針が止ったまま、恰(あたか)もその壁の上についている。そして、こんど行ってみると、その長廊下へ出るところに、木箱がどっさりつみ重ねられていた。深い長めな四角い箱で、積んである外見に、そのなかにつめられている本の重量が感じられた。今年の夏、駿河台にある雑誌記念館へ行ったときも、その建物の中の使われていない事務室の床の上に、こういう木箱がずっしりとつみ上げられていた。日本から海を越えてアメリカへ送られる書籍だということであった。上野図書館の廊下につみあげられている木箱の形は、その印象を思いおこさせた。


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2005年12月29日

そう思って、

新刊書のおかれている網棚の方へ目を移そうとしたとき、入口わきの凹みに、横顔をこちらへ向けて小卓に向い、何か読んでいる一人の司書の老人に注意をひかれた。黒い上っぱりを着ている。袖口がくくられてふくらんでいる。その横顔の顎の骨は、私の記憶のなかにくっきりとしているとおりのおとなしい強情さで小さく張っている。それは、あの顔であった。図書館につきものの顔である。が、髪の白さはどうだろう。脊のかがまり工合はどうだろう。この人は最近に全く老人になった。ひょいと、何かのはずみで、その人がこちらへ顔の正面をむけた。私は、一層おどろいた。その顔は、さっき正面からじっとみていたときには、別人としか思えなかった円顔の老司書の容貌である。栄養が十分足りて、ふくらんでいるとは思えない、むくんだような艷のわるい老司書の顔である。再び横に戻ったその輪廓を眺めれば、それはまぎれもない昔馴染の耳の下から顎へかけての線である。生活の物語が、そこから溢れてこちらの胸に流れ入るように感じられた。歳月によって老い、面変りした正面の顔、それにもかかわらず失われることのないその人の俤が小さく保たれている横の顔。こんな永年、経済の上では成り立ちようもない俸給で司書の仕事をしつづけて来ているのだから、この人の三十年の生計は平安であり、寧ろゆとりがあるものかもしれない。そうだとしても、三十年という時間は人生における何かである。そして、この人は三十年間一つの仕事にしたがいつづけ、高い卓のうしろのその場所から動かなかった。

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2005年12月28日

この前に来たときと、

きょうとの間に七年の月日が経過している。間に戦争のはさまった七年であった。あの司書はいるだろうか。左へ右へ司書の顔を見くらべた。それらしい人は見当らない。ぼってり太った、白い無精髭の生えた爺さん、この司書は体つきからして別人である。若い人は論外だし、もう一人いる人も、円いような顔の老人で、すっかり背中を丸め、机の下でこまかい昔の和綴じの字書の頁をめくっている。もうあの人もいなくなったのかもしれない。
 時の推移を感じ、私は視線をうつして、前後左右に待っている閲覧人のどっさりの顔を眺めわたした。ここには青年が多い。それは、いつもそうであった。だけれども、今そこここに佇んだり、長椅子にかけたりして本の出されるのを待っている若い人々の顔つきは、こうして集っているところを見ると、もととはちがっているのにおどろかされた。何と、これらの若い顔々は、木彫りか土偶かのような、単純に目、鼻、口と切りあけたというようなマスクをしているのだろう。顔だちとしては、一人一人が別の自分の顔立ちをもってはいるけれども、奇妙な無表情の鈍重さが、どの顔にも瀰漫している。医大の制帽の下の眉の濃い顔の上にも。無帽で、マントをきた瘠せた青年の顔の上にも。しかも、その顔々は、図書館の広間に集り、街頭には無い何かのゆたかさを、それぞれの精神に摂取しようとして、待っているのである。混む省線の中で、どっと乗りこんで来た専門学校の学生のかたまりなどと、計らずも密着して立ち、揺られてゆくようなとき、それらの若い顔の粗笨な単調な刻みにおどろきを感じたことが一度ならずある。戦争は、におやかであるべき青春の相貌を、このようなものに変えた。その思いで、いつも、心の底ふかくこたえて来る感銘があるのであった。戦争をさしはさんで何年ぶりかで図書館へ来て見れば、図書館に充満しているのは、そのような青春の顔々である。これらの顔々が、人間らしい軟かさ、鋭さ、明確さの交々流動するものに、両び成りかわってゆこうとしている。その無言の欲求が、ここにこれだけの数のその顔々をあつめていると思えるのである。これらの人々が、今日読もうとしている書物は、何であろう。


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2005年12月27日

きょうもまた、

古い昭和初期の新聞を出して貰うのを待ちながら、私は特別の関心で、高い卓のあっち側で事務をとっている黒い上っぱりの三人の男の顔だちを見くらべた。まだここにつとめているだろうか。そう思いながら来た人があった。
 はじめてこの図書館へ来たのは、女学校の二年ごろのことであった。元禄袖の着物に紫紺の袴、靴をはいた少女が、教室の退屈からのがれてこの高机の前に立ち、手を高くのばして借出用紙を出したとき、それをうけとった黒い上っぱりの人が、あなたまだ十六になっていないんでしょう? ときいた。早生れの二年生であったから、十六になっていなかった。返事に困って黙っていると、ここは十六からなんですよ、と云って、それでも何だったか、借りようとして書き出した本をわたしてくれた。そのとき、年のことを云った人の顔立ちが、不思議に後々まで鮮やかに私の記憶に刻まれた。どこと云って目立つところのない、おとなしい小ぢんまりした色艷のよくないその顔は、顎の骨がいくらか張っていた。特徴がないその顔には、しかし、何年も一つ仕事についていて、しかも朝暮本ばかりを対手にしている人間の、表情の固定した、おとなしい強情さというようなものがはっきりと感じられるのであった。
 それから三十年近い歳月の間には、波瀾があった。私は一人の女として、何年も図書館など見向きもしない有様で暮したことがある。そうかと思うと、又ひょっこり現れて、暫く熱心に通いつづけるという工合であった。そういう風にして、何年ぶりかで図書館へゆくとき、いつも、そこに一人の司書の小堅い顔と黒い上っぱりのくくれた袖口とを思い出した。その人はいるかしら、と思って来て、待つ間に見まわすと、たがわずその司書は、もとのように司書の席にいるのを発見するのであった。それは、たまにゆく古馴染の家の見なれた目じるしの柱の節のようであった。格別何という意味はない。けれども、そこへ行って見てその節があると、何となく心がおさまる。私にとってそういう風な、図書館の一つのつきものなのであった。書籍をかかえて書庫との間を往復する少年や青年たちの、あの興味なさそうな、のろくさいすべての動作と埃っぽい顔色と同じように。――


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2005年12月26日

下足場へ下りると

ここは昔ながらの薄ら寒いくらがりで、もと二人いた下足番の爺さんが、きょうは一人で、僅かのはきものの番をしていた。わたしは草履をもって来たんだけれど、と云ったら、じゃあ、下駄はもって行って下さいよ、番号があわなくなると困るからね、あとで、番号が分らなくなってこまるからね、とくりかえし云って、新聞にくるんだ下駄がノートの入った風呂しきにしまわれるの迄を見てから、腰をおろした。この爺さんは、もと来た頃いた爺さんだろうか、下駄をあずかる気分にもちがったところをもっていて、来る人間に、目前の利慾からはなれたこころもちをおこさせる調子があるのである。久しく来なかったら、よくよく様子が変りましたね、入場券、あちらで貰うの、そう訊くと、爺さんは、ああと肯きながら又ひとりでに立ち上って、そこを入って行った右手のところでね、と教えた。
 やっぱり柵の間を通るようになっていて、そこにテーブルをひかえてこちら向きに受付がいる。そこで閲覧料を十銭だせ、と書いてある。十銭ですか、特別も? 黒い毛ジュスの事務服を着た中爺さんは、首だけで合点して、そう、と答えた。この役人風な調子も、やはり上野風である。戦争でやけてしまわなかった図書館をよろこんで珍しく眺め直すこころもちには、役人くささも、相変らずとほほえまれた。
 二階へ上ると、おどり場に台と腰かけがおいてあって、喫煙室と書いたしるしが立てられている。そこで外套をきた若い男が二人、てんでにちがった方角を見ながら煙草をふかしていた。三階の書籍かり出しのところとカタログ室とは、もとからここにこうしてあっただろうか、いかにも埃っぽくて奥が深く暗い書庫に向って、裁判所めいた高い卓があるところは、見馴れたここの光景だが、カタログ室の方が妙にガランとしている。書籍かり出しに、相変らず時間がかかると見えて、いつからそうなったのか、皮ばりの大長椅子が二列、三かわほど置かれ、そこにすき間なく閲覧者がかけて待っている。それは病院のような、役所のような燻んだ雰囲気である。婦人閲覧者のかり出しぐちは、別に塗板がかけられて、一人専任がいた。これは元のとおりである。


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2005年12月25日

図書館

 あいそめ橋で電車をおりて、左手の坂をのぼり桜木町から美術学校の間にある通りへ出た。美術館の横手をのぼって、博物館前を上野の見晴しの方へ通じるこの大通りは、東京の風景がこんなに変った今もやはりもととあまり違わない閑静さをたもっている。美術学校の左側の塀を越して、紅葉した黄櫨(はじ)の枝がさし出ている。初冬の午後の日光に、これがほんとに蜀紅という紅なのだと思わせて燃えている黄櫨の、その枝かげを通りすがりに、下から見上げたら、これはまた遠目にはどこにも分らなかった柔かい緑のいろが紅に溶けつつ面白く透いていて、紅葉しつつ深山の木のように重なりあっている葉の複雑な美しさにおどろいた。
 電車の乗り降り場にしては、重々しすぎて陰気な京成電車の、何年もしまったきりの入口を見て左へ折れ、音楽学校前への通りをすぎると、木の下に赤いポストが立っている。そこが上野の図書館入口の目じるしである。きょうは曝書でもやっていてお休みではないかしら、余り久しぶりに行くんだもの、そう云いながら、本当に半信半疑でそこまで来た。けれども、前をゆく三人ばかりの、いかにも図書館の常連らしい中年の男の人々が次々植込みに消えるところをみれば、きょうは開館しているらしい。だらだら坂を、もと入場券売場になっていた小さい別棟の窓口へのぼって行った。そしたら、そこはもう使われていず、窓口から内部をのぞいたら板ぎれなどが乱雑につんであった。七年ばかり前、春から夏、秋、冬と、ちょいちょい通っていた頃は、ここの窓口で特別券を買って昔の新聞などを見た。戦争の間に、ここのしきたりもおのずからかわったのであろう。


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2005年12月23日

一九三五年の二月十三日、

私の誕生日の祝いに、父が精工社の柱時計を買ってくれた。これは私が自分からたのんだものであった。父の家の台所に美人の絵のついたボンボン時計がかかっていて、それは私の生れる前からのものであった。柱時計なら、なくなることもないであろう。そう思って、私は柱時計をたのんだ。父はどちらかというと、ごくありふれた形の十円内外のものをくれた。それは上落合に私が独り暮していた家の柱にかかって働いていたが、五月の或る朝、私のところへ二人の男が来て、そのまま私をその家から連出した。後ひきつづいた一年の留守の間に、その柱時計は、私のいない跡の家をとりかたづけてくれた友達の家の柱にかけられていた。
 本年の一月三十日に、この柱時計をくれた父は没した。

〔一九三七年二月〕




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2005年12月22日

三二年の二月に私は結婚した

或る晩、風がつよく吹いて、小さい二階をゆるがすような宵、私共は机を挟んで坐っていて、その机の上においた時計の話が出た。さっぱりしているし、ちっとも狂わないから好きさ、と私は云って、ガラスの面を拭いた。良人が、いいねと手にとって眺めていたが、僕にかしておくれなと云った。僕のはホラあれだろうと笑い出した。私も笑わざるを得なかった。彼のクローム腕時計はクロノメータア・ミリカという名をもっているのであったが、ミリカとは何の意味か、夏になるとそれは一日三十分ほどおくれる時計であった。冬になると同じ位きまって進んだ。その時分は寒かったから、何時? ときくと、サア、俺の時計では何時だよ、と答えなければならない有様だった。私は暫く躊躇したが、じゃ、なくさないで。そう云って、彼の皮紐に私のその時計をつけ、クロノメータア・ミリカへ、細い黒リボンとルネサン風の模様をうち出した止金とをうつした。
 そうして二ヵ月ばかり経った。
 ところが、私達の生活は外的な事情から急変して、私の良人とその手頸についたアンリー・ブランの時計とは、共に私の日常の視野から消え去ってしまった。
 そして、二年と八ヵ月の日と夜とが経過した。私が、髪の蓬々とのびている彼に窮屈な場所で会うことが出来るようになった時、俺の所持品はどうしたい? 時計はどうしたい、戻したか、ときいた。
 これが所持品全部だと私に渡されたのは、何も入っていない茶皮のポートフォリオと、背広と、鼻からしたたったらしい血のしみのついたシャツと靴だけであった。財布も文房具もアンリー・ブランもないのであった。だが、彼は、はっきりと固有名詞を云って、それらの人間が、どこそこであの時計を俺の手からはずして机のひき出しに入れた、かえして貰え、いろいろの記念であるからと云った。私も、取戻したく思い、一通りその手続きをした。役人は、品物はないから、金で弁償する、その書類を出せというのであるが、その手続その他いろいろ厄介である上、まして、金で貰って何とするかというのが私の心であり、手続は打切り、私の心に深い憎悪がのこされてある。その時計のことなど跡白波となってしまうであろうと思った者の気持のいきさつが、にくらしいのである。


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2005年12月20日

ホテルの部屋には

連れの方がとまっていて、私はずっと遠方の下宿にいた。そこへその子と一寸よって、私はやがて電車で下宿へかえりかかった。夜十一時頃であったろうか。その混んだ電車の中で、その子に、私は自分の小さい茶皮のハンドバッグをかっぱらわれたのであった。
 私は、ありがとうだの、今日は、だのという慇懃な挨拶の言葉はロシア語で云うことが出来たが、かっ払いだの、泥棒! と絶叫することなどは知らなかった。ベルリッツのロシア語教課書に、そのような言葉はなかったのであった。私は日本語で思わず、畜生! と口走って人ごみをかきわけたが、やっと出口まで辿りついた時どこにもその小僧の素ばしっこい姿は見当らない。こうして私は第三回目に時計を失ったのである。
 その時の秋、宮島幹之助氏がジェネへの途中モスクへよられた。宮島氏と父とは同郷であり、親しかったので、私は自分の下宿へ、この国際連盟委員を招待し、アルコールランプで、鶏のすきやきをこしらえ、馬車に並んでのって、モスク市中見物のお伴をした。とりは大変かたかった。
 正月、大使館のひとに逢ったらジェネの宮島氏からことづかったものがあると、一つの小さい紙包みを渡された。あけて見たら、白い四角い箱が出て、中の薄紙には、アンリー・ブランの金の時計が入っている。私は意外でうれしいのと恐縮したのとで、顔を赤くした。「蛙の目玉」の著者は、あなたでも小僧にかっぱらわれる位抜けたところがあるのが面白いから、この間のとりのお礼にあげます、と書いていられるのであった。
 計らず手に入ったこの腕時計を私は重宝し、無事息災に五年間もっていた。たまには手頸につけたり、多くの時はハンドバッグに入れたりして。出来のよいのに当ったと見えて、この時計は殆ど進んだりおくれたりしたことがなかった。その正確さを私は深く愛していたのであった。


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