新米田舎暮らし

八ヶ岳南麓の暮らし 紹介 世の中の懸案事項を掘り出しましょう 日本人から「卑怯」を恥とする心根を広げましょう

沖縄戦から72年目に成るそうだ。小生は8年前に平和の礎に参拝し、ひめゆりの塔を詣でた。長崎は一昨年、広島は昨年訪れた。日本国内で此の三か所だけに未だに戦争の傷跡を見ることが出来る。と言うことは、他では殆ど痕跡が残されて居ないと言うことだ。

戦争がどんなものか、多くの若い人は知らない。シリアで内戦があっても、他岸の火事だ。つまり、我々日本人には痛くも痒くも無いと言うことだ。
今の我々日本人は「お利口さん」で通って居ると思って居る。然し72年以前の日本はどうだったか?鎖国を解き、西洋文明の吸収に努め、短期間で一等国にまで成ったのは良い。然し、西欧諸国の植民地政策に危機感を覚えたとは言い訳で、其れに便乗して軍備を増長し、他国を侵略仕様とした。挙句は西欧諸国との利益がぶっつかり合い、戦争を引き起こした。その最後は第二次世界大戦で、完膚無き迄に叩きのめされるまでの政府と軍とは狂気の沙汰であったとしか言い様が無い。
今では「お利口」ぶって居る同じ日本人が鬼畜と化し、他国に侵略し、米英他に刃を向いたのである。戦争とは人間を其処まで変えるのだ。

72年間もの間、平和裏の内に我々は過ごして来たが、他国の脅威を口実に戦争を遣りたい人間がまたぞろ頭を持ち上げて来た。戦時下で日本人が陥ったあの精神狂乱時代を見ている小生には、日本人が信じられないのだ。
集団的自衛権が国会を通り、特定秘密保護法、安保法制、そしてテロ等共謀罪法と、何時政府が戦争を始めても可笑しくない状況が整いつつある。後は憲法九条を葬ればいいだけだ。それは現実味を帯びている。

沖縄、長崎、広島の戦争体験者や家族などが戦争の悲惨さ、馬鹿らしさを幾ら訴えても、国の権力者は聴く耳を持たない。彼等は、国を守る、国民を守ると言いながら戦争を正当化仕様とする。
国を守ると言っても、核ミサイル一発で都市はぶっ飛んで仕舞う。国民を守ると言っても、その国民はいずれ戦争と成れば徴兵制度が敷かれ、戦地に派遣され、命を落とすのである。
一家の主が戦死すれば、家族は路頭に迷うしかない。どうして国民を守ることに結びつくと言えようか?

戦争と成れば、戦費を捻出するために年金や社会保障などはすっ飛んで終う。庶民の預貯金は凍結されるのだ。国の為に国民個人個人は生存権まで無くなるのだ。
先の戦争を知らない人は、この様に戦争と成れば国民の権利も人権も無くなると言うことを知らない。国会もマスコミも政府の言いなりになって、戦争を後押しする様に成るのだ。
今は野党が与党を追及、監視して居る様に見えるが、戦争と成れば与党も野党も無くなる。大政翼賛会なる合同政党が有ったことを知らなければならない。
国民の人権を守ってくれる機関は無くなる。最高裁判所ですら、憲法が改正されれば、安保法制の下で政府の正当性を認めることになる。最高裁は国民を守る機関ではなく、憲法を守る為に存在するのだ。

日本は明治時代までは封建社会だった。これは、日本では武士階級、西洋では貴族階級から出た夫々の国の最高権力者が、部下に土地を(ほう)じ、見返りに忠誠と手足となって働くことを命じた。当時はそうした封建制度が当たり前で、其れは其れで上手く行って居た。
明治より日本も民主主義国家と成る。それは国民が選挙で選んだ国会議員が更に総理大臣を選び、行政を任せる仕組みである。実際は国民が選んだ臨時雇いでしかなく、主権は飽く迄国民にある。
だから議員は国民に成り代わって行政の監視役を果たさねばならない。

処がその監視役であるべき第一党は監視役どころか、行政そのものである。内閣と国会の第一党とは同じ穴の狢なのだ。いずれ狸か化け狐である。
国民の目には、国会でその第一党も政府に対して質問をしている様に映る。然し、内容は行政の正当性を第三者の振りをして遠回しに国民に説得しようとしているだけだ。
その挙句は多数決である。総理大臣を出した第一党は、
党議拘束に依って政府案には賛成票を投じる。幾ら国会で審議をしても、結果は最初から分かっている。此処が民主主義の欠陥である。

70何年も経てば、憲法も時代にそぐわない面が出て来る。国民の暮しや世界情勢がそうさせる。
世論調査をすると『どちらとも言えない』と答える人が少なからず居る。それは判断出来ないと言うのでは無く、個々の内容には是と非とがあり、其れ等をひっくるめて賛成か、反対かと問うからである。その『どちらとも言えない』層を無視して、賛成が多いと言って、其れを国民の総意と決めつけるのは間違っている。国会では賛成か、反対かの多数決で決定する。中間は無い。これが民主主義の欠陥の第二である。

未だ未だ民主主義の欠陥は在るが、現内閣と与党とが目論んでいる先に戦争が在ると小生は危惧して居る。軍事力や経済圧力等の方策でなく、何故対話その他の平和的手段を採ろうとしないのか?
北朝鮮拉致問題も、現政権発足時の最重要課題の一つであったが、何も進展して居ない。解決の道筋を作ろうと言う気が全く無いのである。其れ処か、北朝鮮の脅威を煽り、敵国扱いを国民に印象付けようとしている。
国連加盟国192ヵ国の内、北朝鮮と国交を結んでいない国は26ヵ国で、残り166ヵ国は交流がある。その中にはイギリスやドイツも含まれている。外交上は国交が無くても、国交のある国を通じて手段は在る筈なのだが、拉致被害者とその家族、支援者を含む国民の声を無視し続けている。
中国や韓国に就いても同様だ。殆どの日本人は戦争は在り得ないと信じているが、其れなら何故憲法九条を改訂仕様として居るのか、疑問に思わないだろうか?
我々は日本国憲法の前文をもう一度読み直す必要が有る。

運動選手の引退表明が報道されることが良くある。「体力の限界!」と言った人も居た。確かに、運動選手には体力が必要だ。競技には力を使うのものが多い。従って、他の選手と競う為に体力を付けざるを得ないのが運動競技の宿命であるかも知れない。
技術だけでは勝負に成らない。持久力も瞬発力も体力である。集中力も在る。雑念を払い、或る一点に気持ちを集中させるのも、体力が必要らしい。
歳と共に体力は衰える。技術にしても若い人が新しい技術を持って迫って来る。自分なりの技術を習得するだけでも大変なのに、新しい技術を採り入れ、修正して行くのは難しい筈だ。

走り高跳びと言う競技が在る。今では背面跳びだが、我々の頃は正面跳びとかベリー・ロール跳びだった。当時あの様な姿勢でバーを飛び越えるなど考えも付かなかった。
昔の選手は背面飛びに替えることが出来たのだろうか?それとも、最初から背面跳びで育った選手と或る時点で入れ替わったのだろうか?
1968年のメキシコ・オリンピックでディック・フォスベリー(米・21歳)がこの跳び方で優勝して、世界の流れが変わった。彼はより高く跳ぶための技術革新をしたのである。

若い選手は新しい技術も採り入れられただろうが、自分のフォームが出来上がっている選手には難儀だったに違いない。
小生が遊びで遣って居るテニスも、ラケットと共に大いなる技術革新が有った。最も違ったのは所謂ドライブ打ちである。ドライブ打ちそのものは昔も在った。唯、グリップが違った。昔はイングリッシュ・グリップ乃至はイースタン・グリップだったが、今はウェスタン・グリップに替わった。前者が薄い握りと言われているもので、後者は厚い握りである。

ドライブ打ちとは、飛んでくるボールにラケットを地面に垂直に当て、ワイパーの様に上に振り抜き、球にタイヤが回る様な正回転を掛けながら、ラケットは体を軸として一番近くを回る。肘が曲がり、ラケットは肩の後ろまで回る。ラケットが軽くなり、分回しが利くように為ったこともこの打ち方を可能にした。
その結果ボールの速さが物凄く早くなった。相手の球も早いのだから、勢い全力で振り抜かないことには球威に負けて仕舞う。昔は、全力で打とうものならボールはコート内に収まらず、ホーム・ランに為った。今のドライブは回転が良く掛かって居るので、強く打ってもボールが落ちて、ベース・ライン内に収まる確率が高くなった。

それでいて、ドライブは回転に依ってボールがよく弾む。だから、落下点より離れたところで打たざるを得なくなった。其処で、テニスは後陣で打ち合うようになった。ネットに出て、ヴォレーで決めるスタイルが余り見られなくなったのは其の為である。
然もコートは唯でさえ弾むハード・コートが主流である。背の低い錦織は高く弾むボールを打たされる対処法として、“エアー・ケイ”なるジャンプして打つ打法を考えた。

バック・ハンドのドライブ打ちを可能にしたのは両手打ちである。両手で打つから体を軸としてラケットが小さな弧を描いて回転する。其処でフォア・ハンドと同様のドライブ・ショットも打てるようになった。両手で相手の球をヒットするので、打ち負けずに済む。

ドライブ打ちはネットの可也上を通ってもコート内にボールを落とせるので、ネットに引っ掛かることが少なく為り、ラリーが長くなった。回転の度合いを調整し、ボールを正確にコントロールすることが出来る様に成った。
ラリーのボールが早くなったために、ガットに当たったボールが衝撃で凹む。するとガットに触れる面積が増え、跳ね返る間にガットに触れて居る時間も極僅かだが長い。其処で、余計球が擦れる。其のことは回転が良く効き、コントロールも自在と成るのである。

従来の様に、ラケットを押し出してボールにスピードを載せるのではなく、身体の周りで腕を短く回転させるだけでスピードが出るのだから、体力消耗も少なくて済む。
今の打ち方のメリットは未だ有る。以前は確りしたボールを返球するには、クローズド・スタンスでなければならなかった。其れが、今のドライブではオープン・スタンスで十分戦えるのである。其れだけリーチに余裕が出来、疲労も軽減される。
其れにオープン・スタンスはボールがよく見えるのである。ボールの距離感は目と目との間隔で掴めるので、クローズド・スタンスだと横向きと成り、一眼で見る様に成るからである。

其れと、オープン・スタンスではストレートとクロスとを相手に覚られずに打ち分けることが出来る。これは非常に有利なのだ。相手の逆を突くことが容易に成る。
プロの選手のゲームをテレビで観ていても、サービス以外、力で相手を圧倒することが難しくなっている。球種を変えて相手のミスを誘う以外には、逆を突くのが一番容易だし、頻繁に見られるウイニング・ショットである。

扨、左程体力を使わず、ドライブに依って相手コート内に正確に落とす今の打ち方だが、イースタン・グリップで育った我々には中々真似が出来ない。ボールを打つ方向にラケットを押し出すのが我々が遣って来た打ち方で、ウエスタン・グリップで軟式の様にスゥイングする打ち方には換え難いのだ。

昔、軟式から硬式に代わった人達は何れもスゥィングには苦労した筈である。今はその逆が求められている。
往年のプレーヤーに清水善造氏が居て、ウィリアム・チルデンといい勝負をしたが、その清水氏は163cm188cmのチルデンに対し、極端なオープン・スタンスで、軟式の打ち方に依って回転を掛け互角の試合をしたらしい。彼のフォア・ハンドは、幼い頃鎌を使って草刈りをした経験から生まれたという話もある。成程、似て居なくも無い。
小生などは趣味でテニスを楽しむだけだから、フォームの改良などは遣らない。今のフォア・ハンドは格好が悪いとさえ思って居る。ネットについて、ヴォレーで決めるテニスが格好好いとも思う。


往年の選手の写真をご覧頂こう。我々の世代がお手本とした豪のローズ・ウォールと、米のジョン・ニューカムである。

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「ローズウォールがオープン・スタンスでサービスを返球しようとしている。
 ラケットのガット面は今のラケットと比べて随分小さい」

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「バック・ハンドで返球する処。神宮国立競技場コートである」

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「ジョン・ニューカムのバック・ハンド。シングル・ハンドでのドライブ打ち」

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「ボールの方向にラケットを押し出している」

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「今のドライブの打ち方。グリップにご注目!我々にはこの様な打ち方は出来ない」



田舎暮らしとしてはこの時期一番忙しい。畑を耕すとか、種蒔き、苗植えはもう済んでいる。今に限ったことでは無いが、其れは草毟りである。
今年の小淵沢は少雨であった。種撒きや苗植えの後は水遣りに翻弄された。然し、雑草だけは生育旺盛で、雨が降らなくても御構い無しだ。野菜に付く害虫も雑草には決して寄り付かない。雑草は冬に為らないと枯れず、抜くか刈るしかない。其の草毟りは長時間に及ぶだけに体に悪い。屈みこむ姿勢が腰や膝を痛めるからだ。昨日も朝から晩まで草毟りを遣った。毟った草は堆肥場に山と成る。根っこから取るとなると、鎌を使う。それでも引き抜く時には全身に力を込めて遣らねばならない。冬を越した雑草は其処まで根を張って居るのだ。

草毟り等、都会に住んで居る人には余り関係が無いかも知れない。田舎では、自宅の庭や畑の他に、道や法面迄遣らなければならない。道は舗装されて居ないので、草が生い茂るからだ。都会からの移住者は、自宅の庭しか草毟りを遣らない。公共の場所は役所が遣るものと心得ている。
実際に田舎の役場には草毟り迄の財源は無い。だから、田舎の道や空き地は篤志家が草刈りをするしかない。小淵沢の吾が地域では月に一回程、住民が一家に一人は出てメインの道路の草刈りと掃除を遣る事に成って居る。他の道は各自で遣りなさい、と言う訳だ。

冬の道路の雪掻きも然り。メイン道路だけは、請負業者が雪掻きをして呉れるが、細い道は自分等で遣らねばならない。機械は持って居ないので、プラスティックのシャベルやママさんダンプで遣る。
夏になると一日中何処かで草払機の音がする。払っている税金は都会も田舎も一緒だが、受ける住民サービスはえらい違いだ。

公共サービスと言えば、交通機関である。田舎で一番の問題、其れに依って過疎化を引き起こしている原因が交通手段なのである。都会の人は報道などに依って、田舎では一家に何台もの車を持って居ると羨むらしいが、其れは公共交通手段が極端に無いからだ。買い物に行く、病院や役場に行く、畑や田圃に行く、学校や保育園への送り迎え、何処に行くにせよ自分で車を運転して行かなくてはならない。バスも無いから、遥か彼方の駅まで車で行かなければ電車にも乗れない。

駅前にはタクシーが有って呼ぶことも出来るが、何せ田舎の道は遠いのである。タクシーでスーパーや病院まで行こうものなら何千円も掛かる。万止むを得ずお百姓は軽トラを買わざるを得ないのだ。田舎では軽自動車の中古が良く売れる。然も四輪駆動だ。そうでないと山道、雪道で用を成さない。四輪だと畑にも乗り入れることが出来る。

都会ではタクシーの初乗りが安くなったが、遠距離は結局値上げだ。あれを田舎で遣って貰っては困る。何事も都会が基準で、田舎の事情は勘案されない。
その一つが、飲酒運転の罰則だ。お蔭で、田舎では飲食店でアルコールがさばけない。住民も、忘年会を遣りたくても出来ない。何しろ、飲食店があっても其処まで車を使わないことには行けないのだ。ハンドル・キーパーを決めて、同乗すれば好いではないかと思うだろうが、軽トラでは出来ない。

田舎ではもともと飲酒運転による交通事故など極稀にしか無かったのではなかろうか?道路を歩く人は居ない。居ても早朝の犬の散歩位だ。自転車、オートバイの類も通らない。何故なら山坂ばかりでしんどい上に、一年の半分は寒くて乗れないからだ。抑々交通量が少ない。酔っ払い運転で田圃に落っこちるのが居ても、自業自得と放って置かれる。都会の様に真夜中に道路を横断する人など居ない。
田舎の道は一車線で、抑々ブレーキが間に合わない程のスピードは出せない仕組みに成って居るのだ。

こうした愚痴は田舎暮らしには付きものである。体力と健康体であることが必要である。家の中のことだけ遣って居れば、と考えたら間違いだ。

それでもこの時期、庭には様々な花が咲き、其れだけでも田舎は好い。小生の愚痴に付き合って頂いた代わりに花の写真をご覧頂けると嬉しい。

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「昼顔」              「エゴ、木の高い処に咲くので、地面に
                   落ちたのを撮影」

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「クレマティス」          「ゼラニウム」

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「けし」              「不明」

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「なでしこ」              「不明」

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「アルストアメリア」        「ルピナス」

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「さつき」              「クリオネ」

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「シモツケ」              「不明」

どうも名前の分からない花が多くて・・・・











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