新米田舎暮らし

八ヶ岳南麓の暮らし 紹介 世の中の懸案事項を掘り出しましょう 日本人から「卑怯」を恥とする心根を広げましょう

日本国憲法に在る「法の下に平等」とはどう云うことだろう?
人間は、取り分けその価値は生まれながらにして平等である、とは一つの思想である。理想と言っても良い。
何故なら、平等とは全て等しいと言うことだが、人間は一人として同じ者は居ないからだ。だからこの条文は、国家に依る国民に対する法律上の不公平、不均一の取り扱いを禁じたものと言う解釈が出来る。
つまり国民個人の努力や才能によって経済的、あるいは社会的に差が生じることを憲法で規制するものでは無いと言うのだ。それは「自由」を追求する権利と矛盾するからだろう。

然し現代の自由資本主義の結果、行き過ぎた経済格差が不平等を生み、社会問題から政治問題にまで及んでいる。つまり、純粋に個人の能力、才能とは言えない処で所得格差が広がる一方なのだ。
石川啄木では無いが、「働けど働けど我が暮し楽に成らざり じっと手を見る」である。
従って、国家に依る不平等の取り扱いの禁止と言う消極的な考え方から、寧ろ国家が積極的に平等社会を実現する方向へ進むべきと言う考え方が生まれて来た。

日本でも嘗て百姓一揆が有った様に、孰れの国も民衆の経済的不満から騒動、紛争が起きることを懸念している。フランス革命、ロシア革命などその最たるものだ。フランスでは、絶対君主制(アンシャン・レジーム)に依る極少数の第一身分(僧侶)と第二身分(貴族)とが特権を欲しい儘にし、重税を課せられていた第三身分の平民が蜂起してバスティーユを襲撃した。
彼等が訴えた「平等」はそうした身分と特権に対するものだったのである。

日本では「男女平等(同権)」を観念的に捉え、女性も働きに出ることで男性と同等に成れると言う意識と、働かないと食って行けないと言う現実とが、労働人口の増加と、其れに依る低賃金に成って表れている。
【平成9年の平均賃金467万円に対し、平成27年は411万円と下がって居る。平均値が当てに成らないことはこれまでも散々述べて来たが、中央値でも平成11年の312万円に対し、26年では263万円に落ちている】

相対的貧困率も益々上がって居る筈なのだが、2012年までしか発表されて居ない。安倍政権は突かれると困るから内緒にして居るのだろう。因みに二次安倍内閣発足が2012年である。
アベノミクスは遣ってはならないことだった。何故なら、その政策は大企業と大富豪に税金や控除、補助金などで恩恵を与え続け、格差増長に寄与して来たからだ。彼は平等社会の実現などと言う思想も哲学も持って居ない。

平等社会の実現と言う意味では、寧ろ鄧小平の言った言葉に感銘する。即ち「先に豊かになれる者から豊かに成れ。そして落伍した者を助けよ」なら解るではないか。
彼は共産主義経済を打開するために『改革開放』を唱え、市場経済を導入し、中国を建て直した人物である。
当時の中国は将に彼の言う様に、出来る者から実績を作り、下を引っ張って行くしかない状況だった。

今の日本で経済的平等社会を実現するにはどうしたらよいか?
今の状況は、夫婦共稼ぎで兎も角収入を少しでも増やすことを主眼としているが、老齢化と共に働き口の無い年金生活者が増える一方で、若い人達は低賃金で生きて行くだけでやっとと言う。
従って結婚も儘ならず、況してや子供の出産、育児をするゆとりが無い。保育所や老人施設の充実を図っても切が無い。
婚姻率が落ち、出産率が減り、離婚率が増える様では活力の無い社会に成って終う。

大企業は製品開発より資本の増大のみ考え、吸収、合併しか能が無く、中小企業は大企業の締め付けと、過当競争で自転車操業だ。
大企業は金融取引で資産を増やすことしか考えず、画期的な製品開発の意欲が失われた。
今年も敗戦記念日が回って来たが、廃墟の中から、資源も無い中で、がむしゃらに働いて経済大国にまで発展した日本人は如何したと言うのか?

当時は、貧しいなりに経済的平等社会だった。今の活力の無さは、所得格差に原因が有ると考えている。経済的不平等社会なのである。裕福な家庭でないと、子供を大学にやれないとか、金持ちでないと病院に掛かれ無いと言った状況に成って行くだろう。つまり、保険料の高騰である。
アメリカではそうした格差が既に在ると聞く。富裕層だけの市や町が存在するそうだ。富裕層は特権意識を持ち、貧困層に自分等の税金が回ることを忌避する意味で、そうした地域から逃避するのだ。すると、税金の集まらない市町村が増える。経済格差が増え続けるのである。

経済的平等社会はお互いに助け合う、互助精神があってこそ実現する。鄧小平の言葉で、”落伍した者を助けよ“の部分が抜けたのでは意味が無い。
敗戦後の日本で国民皆保険が実現し、厚生年金に皆が加入し今の年金が出来たのも互助精神である。創意工夫の活力も其処から生まれた。
今小生が一縷の望みを掛けているのは、中小企業の連携である。情報を交換し合い、知恵を出し合い、協力体制を作って行けば、大企業恐れずに足りずだ。戦後の日本の経済発展は将に其処に在った筈だ。
国家が積極的に経済的平等社会を実現する方向へ進むべき時が来ている。果たしてその策は見つかるだろうか?

自由の次は「平等」で、筆頭は「男女平等」だ。終戦後一時期は「男女同権」が叫ばれて居た。其れが「平等」に成った。
「平等」を辞書で引くと、「差別が無く、全て等しいこと」とある。男女が全て等しいと考える人は居ない。異なる部分が有るのなら、其れを持って男女を区別することは出来るし、区別自体には何の問題も無い。
公衆便所では、男は男便所に、女は女便所に入る様区別されている。銭湯では男湯、女湯に分かれている。温泉場でも混浴が少なく為ったのは残念だが・・・・。

こうした男女の区別を差別と感じている人は居ない。男は逆立ちをしたって子供を産むことは出来ないし、男は体力的に女より強い、と言うのは近頃では怪しくなった。
一昔前までは、マラソンは男のものと思われていたが、最近ではマラソンどころか、スキー・ジャンプやボクシングにまで女性が進出している。

だが、オリンピックでは全ての競技が男女によって区別されて居て、これを差別だと異を唱える人は居ない。テニス界でも、ウィンブルドン初めどんな大会も男女別である。
其のウィンブルドンでボビー・リッグス(米)は1939年に男子シングルス、同ダブルス、混合ダブルスで優勝(ハット・トリックス)を成し遂げた選手だが、55歳に成った1973年、マーガレット・コート夫人に男女対決を挑み勝利し、次いで賞金格差に男女同権を主張して居たビリー・ジー・キング夫人にも挑戦、此方は負けている。この試合は、性別間の闘いとして当時注目を集めた。

世の中は似た様なものを他と区別して纏めて置くことが何かと便利だ。例えば6歳に成ると男女を問わず小学校1年生と成る。7歳では2年生で、1年毎に生徒は区別されて居る。それは成長過程で同じ歳同士が似ているから、便宜上区別しているのだ。
ゴミにしても、焼却するものとリサイクル出来るものと区別して出す。国籍だって、都道府県だって便宜上区別される。区別は悪いことだとは誰も思って居ない。
ボクシング、柔道、レスリング等体重に依ってクラス分けをして対戦するのは却って公平だと認められて居る。大相撲は体重別とはいかない。「柔よく剛を制す」と言う言葉が在るが、「少よく大を制す」が相撲の魅力でもあるからだ。

働く社会で女性が「男女平等」を訴える気持ちは分かる。終戦からついこの間まで、女子社員はお茶汲みだった。其れも、2,3年で結婚退社するのが普通だったからだ。
20歳から24,5歳が結婚適齢期である。それは生理的な観点と同時に、子育て、将来の家庭生活の上からも妥当なのだ。平均寿命が87歳に成ろうとは当時は考えられなかった。

企業や官庁などはもともと男社会だった。もちろん、女性にしか出来ない、或は女性に相応しい職業も少なくは無い。だが、全体的には仕事場は男、家庭は女と隅分けが出来て居た。勿論、農業や商店などでは夫婦で仕事を分担し合っていた。それは何処の国でも同じようなものだった。
今の人は「男女平等」が頭の中に沁み込んで居て、女も社会に出て働くことが当然と思って居るが、そう成ってからまだ半世紀も経っては居ない。今の状況が良いのか如何かは判断の分かれる処だろう。

何故なら、現在の社会の歪は女性の社会進出と無縁ではないと思うからだ。アメリカでは弁護士と精神科医が多いと聞く。其れは女性が男社会に入って行った為のストレスから来るものが大きいと言われている。アメリカはレディー・ファーストの国と言うかも知れないが、其れは女性が貴重だった開拓時代を今に引きずって居るだけで、あれは建前に過ぎず、日本人がエレベーターに女性から乗せることに感心することは無いのである。

戦後朝日新聞にチック・ヤングの『ブロンディ』が連載され、アメリカの暮し振りの良さを見せつけられたものであるが、風采の上がらない安サラリーマンの亭主、ダグウッドにしても財布はしっかり握って居た。現代の日本人の家庭と比べるのも一興ではないか?
男女間の壁が無くなると、家庭内に於ける主従の関係が崩れるのである。主従などと言うと、袋叩きにされそうだが・・・・。

先ずヨーロッパ、アメリカで離婚が増えた。何かと西欧を手本にして居る日本人の間でも離婚率は急上昇だ。
離婚率が最も高い国はロシアである。共産主義は崩壊したが、ソ連の男には当時は国から与えられた職が有った。言ってみれば、社会は安定して居たのである。家族は飢えないで済むので、家庭もご近所同士も平和だったろう。処がロシアに成って国営企業が無くなり、さぁ自分で仕事を探せ、と言う社会に成り、当時のロシアは収入の道を閉ざされた貧民が巷に溢れた。店に食料品が姿を消した。男も女も争って職を求めた。「男女平等」処の騒ぎでは無い。少し落ち着いてみたら離婚が増えていた、と見ても好いだろう。だからロシアの事情は少し違うのである。

アメリカは無論のこと、女性の社会進出のお手本の様なスェーデンも、独・英・仏、何れも離婚率は高い。離婚は家庭崩壊である。それは子供にとって更に深刻であって、親の名前を問われて逡巡する様では、親への愛情など持てないのではなかろうか?
主義だか、理想だかに浮かれて居て、現実を見ないととんでもないことに成る。

女性の社会進出で男の職場が奪われた。「そんなことはない」と反論されそうだが、少なくとも男の給料は減った。働き手が増えれば、人件費は安くなるのは当然だ。だから、今子供の数は少なく為ったにも拘らず、亭主の給料だけでは子育ても儘ならず、否応なしに夫婦共稼ぎでないと生活が成り立たなくなった。
後進国(差別用語らしいが)では男の働き口が中々無いと言う。何故なら、先進国の工場が進出して来ても、今や機械化、コンピュータ化で男の体力は必要なく、男の求人は無いそうだ。男は路上でぶらぶらしている。
それは日本でも言えることだ。パワー・ハンドル(この言葉も死語らしいが)のお蔭で、女性がダンプを乗り回す時代である。
それでも子育ての為に懸命に働く内は良いが、その時期が過ぎれば熟年離婚も増えると言う訳だ。要するに、権利の主張に追われて、辛抱が足らなくなった。

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「今年の夏は天候が悪い。我が家から見る甲斐駒は常に雲の中だった。其れが一昨日は久々に頂上までくっきりと見えた」

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そして夕方には夕焼けまでも・・・・」

ブログは人様に読んで頂く為に書く。願わくば次回を愉しみにして貰える儚い希望も持って居る。其れには目先も変えなければならない、題名に工夫を凝らし、関心を惹く必要も感じている。
何よりも、他人が知りたいと思って居ることを書くことが肝心だ。其れを見付けるのは難しく、人様が知らないことなら小生如きが知っている訳はない理屈であって、書籍や伝聞、ネットで調べたことなどを然も知っている振りをして書くのである。

勿論、良心が咎める。其処で、「お披露目屋」と言う副題を持って来て、他人様の知識を受け売りする、つまりもっと多くの人にお披露目するのだ、と体裁を繕っている。元が広告屋で、人様の手に依る商品やサービスをお披露目して飯を食わせて貰って来た。
だから、ブログに書いて居ることは、大したことじゃない。その割に、文章が長い。CMじゃないが、15秒で読める程度でないと他人は付いて来ないよ、と友人に忠告もされている。

小生は今年秋には78歳を迎える。最早ジタバタする歳ではない。何時、お迎えが来ても受け入れる覚悟はある。だが心は若憎の如く、世の暮しを良くすることをこの歳で考えている。其れには、世の中から卑怯者を無くすことも必要と考え、どうしてもその主題が多く成りがちだ。

未だ有る。今世界中の懸案事項の最たるものは、所得格差であろう。現代世界の大勢は民主主義、資本主義一辺倒と言ってもいい。
どんな主義を掲げても、世の中は動植物と同様、弱肉強食の世界であることは歴史が示して居る。つまり、弱者を餌食にして強者が生存出来る。従って、弱者が強者の腹を満たす量だけ必要と言う訳だ。

例えば、大企業が生き残るためには、自分たちの商品成りサービスを買って呉れる弱者(?)が一定量以上居ることが必須と成る。すると、弱者を如何遣って生きさせるかが問題と成る。強者だけでは生き延びることは出来ない。
例えば、乳牛一頭を育てるのに1ヘクタール(3千坪)の牧草地と冬季の干し草が必要と成る。人様を牛に例えては申し訳ないが、牛と違って雑草だけで人間は生きて行けない。其の牛の肉も食べるし、乳も飲み、穀類、野菜、魚介類、果物、水が必要だ。其れだけではない。住居も衣類も、凡ゆる消費財、更には娯楽まで欲しいと言う訳だ。

地球上のありとあらゆる資源を消費して人間社会が成り立って居る。其れを可能にして居るのが、”持ちつ持たれつ”の関係、即ち相互扶助、共存共栄だ。人間一人一人の頭脳と労働力を提供し合うことで、強きも弱きも生きて行ける。
其処で、人を雇用する側と、雇用される側、更に物を生産し、流通させる側と、其れを購買する側とが出来る。そうして産業と言う価値が生まれ、貨幣経済がその価値を流通させている。

その舵取りをするのが行政機関で、その指導者は国民の信託に依って選ばれる。従って指導者たるものは常に国民全体の暮しの向上に公平、公正に関わって行く必要が有る。
処が世の中には「自由」、「平等」こそが公平、公正よりも大事だと考える人が居る。何故なら、自由、平等は自分にとって都合が良く、公平、公正は場合に依っては自分に都合が悪いことが有り、その場合、踏み躙られることが屡だ。
小生、前者は権利で、後者は義務だと考えている。

フランスでは之に「博愛」を持って来て、バランスを取った心算である。日本人はフランスの文化に極端に弱い傾向が在り、この三つを信奉する人が少なくないが、小生は世の中がこの三つで成り立っては居ないと確信している。
先ず「自由」だが、我々の暮しの中で何処に自由があるだろうか?生憎六法全書は持ち合わせないが、あれだけ分厚い本で国民の自由を制限している。
「自由」の意味は、「勝手気儘」であって、そうはさせないと言う意味で法律があり、六法全書も印刷され、そこそこの需要がある。

藤原正彦氏は「自由が許されるのは、権力に対して疑義を唱える自由のみだ」と言っている。其れさえ保証されれば、他の自由は要らないと言っても過言では無い。否、他に自由は無いと言っても良い。
そして「権力に対して疑義を唱える自由」だけは死守しなければならない。お隣中国ではその自由を行使仕様とすれば殺されるのである。

処が自由とはそもそも「自分勝手」と言う意味であり、之が罷り通れば世の中は収拾が付かなくなる。つまり金持ち、大企業には資産を無制限に増やす自由が在ることに成って居る。自由である以上、法に触れない限り手段を問わないのだ。
アダム・スミスが、人は幾ら弱者を踏み台にして儲け様とも、神の見えざる手によって弱者にもお零れが行き、全体として経済は発展していくのだ、とのお墨付きを与えて仕舞った。

金の有る所には、権力も揉み手摺り手で忍び寄るのが常である。其処に行政と大企業との癒着が有るのだが・・・・。
こう書いて来ると、賢明なる諸兄は安倍政権の唱える経済政策が大企業に寄り添い、規制緩和、税制の抜け穴を用意し、孰れ弱者にもお零れが行き、雇用も、最低賃金も少しづつ上向きに成るだろう、と言って居る意味がお解りだろう。

抑々自由・平等・博愛はフランス革命の時、貴族階級に対して其れ迄抑圧されて居た人民が唱えた精神である。この内、自由・平等は当時の人民の主張であり、博愛(慈善)は未だ残って居るブルジョア階級への要求であったと考えられる。

次に「平等」だが、是も食わせ物だ。筆頭は「男女平等」だ。(続く)


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