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ベーシック・インカム制度(BI)を導入する必要を感じたのは、国民の給与が下がり続けて居る一方で、超富裕層が益々増え、所得格差が留まるところを知らないことにあった。以前から問題にして居るのは、人間の労働価値に然して差は無い筈なのに、最高で500万倍もの差が有る。アメリカはもっとすごいらしいが、何事もアメリカ追従の日本でもいずれそう成るのは目に見えている。

 

内閣府の国民生活調査に依ると、昭和33年(1958)から20年以上に亘って、国内では1億総中流時代と言われ続けていた。当時の社長と社員の給与差は5倍から精々10倍だった。
ご記憶があると思うが、当時は池田勇人総理が所得倍増計画を宣言し、経営者も労働者も挙って勤労に励み、その結果1968年には国民総生産(GNP)は初めて世界第二位を占めるに至った。労使とも日本の経済成長に揃って貢献した時代だったのだ。それは国民全てが豊かに為れると言う思いが在ったからだ。言い換えれば、皆で幸せに成ろうと言う意識が在った。会社も社員在っての繁栄だと言う意識だった。社員も会社に貢献することが自分達家族の将来に利すると信じていた。年功序列、終身雇用は疑う余地も無く、其れで将来の夢もあり、生活の安定が保証されて居た。

 

年功序列を考えると、一つには儒教精神に基づく年配者を敬う態度の現れと見ることが出来る。理屈上では、経験を積むことに因って技能、技術、判断力が向上するとの判断も在る。若い頃に苦労することが家族愛を育むと共に、謙虚な気持ちを持つことに繋がるとも考えられる。此れも孟子の惻隠の情に即したものだ。

 

終身雇用は紛れも無く労使の信頼関係を築くものだ。事業の目的を実現する為に労使が運命共同体として協力し合うのだ。其れで居て、諸般の事情で勤務から離れる自由は有り、不祥事を起こすなど事業にそぐわない社員は理由を付けて解雇する権利も保証されて居た。

 

年功序列と終身雇用とで、日本経済は他国に例を見ない殆どゼロからの発展を成し遂げたのである。そのシステムを古いと決めつけて捨てて仕舞おうとする動きがバブル期に始まった。当時、リストラ(restructuring)と言う言葉が社会に蔓延し、寄らば大樹の陰だった筈の大企業でも何時首に成るか分からなく為った。

本来の意味は、事業規模や従業員数には触らずに組織を効率的に再構築するものだが、実際には企業が不振に陥った際、リストラを含むダウンサイジングを行うことを指した。取り分け、コスト削減の為に工場ごと賃金の安い近隣国に移転し、国内の労働者を切り捨てたのだった。一企業で何万人と言う社員の首を切り、失業者が増えたのだから、国内の労賃もどんどん下がった。其処で前回述べた様に、28年度の勤労者の年収の中央値が359万円なのだ。

 

こうしたリストラが良心の呵責、自責の念も無く断行されるのは、企業の中身が労使協調、共存との考え方が無くなり、資本家の利益追求の手段でしか無くなったからだ。労働は道具の一つに成り下がった。

生産手段を持たない人間は資本家に対し、契約に依って労力を時間で売る道具と化したのである。資本主義が進んだ国では、労働者は唯言われたままの仕事を時間内に熟すだけで、仕事上のアイディアの提案を採り上げて貰えることは無く、労働者の生存を維持する為に已む無く行う苦痛に満ちた時間であり、自分を取り戻せるのは我が家に帰ってからである。当然仕事に生甲斐などは無い。一昔前の奴隷と変わりは無い。

 

小生が定年後、職安(当時既に“ハロー・ワーク”と言う気の効いた名称に成って居たが)から派遣された企業の或る部署はセールズ・マンの集まりで、日々契約を何件取って来るかだけで評価され、取れないと皆の前で罵倒され、ケツを叩かれて居た。契約を取る方便は問われない、と言うより出任せでも取れば勝ちと思い込ませる雰囲気があった。売り上げが達成出来なかった部長は何と部下の見ている前で上司に土下座して謝るのだった。似た様な企業はそんじょ其処らに在る。仕事の中身に人間性が無いのだ。

 

社員、即ち労働者を如何に動かして資本家の為に利潤を上げるかが経営陣の仕事で、今や資本家、経営陣、労働者の三階級にはっきり分かれて居る。

資本家と経営者とは一体のこともあり、そうでないこともある。確かなことは、資本家、経営陣と労働者とははっきり分かれていることだ。以前は生え抜き社長も有ったが、現在では如何だろう?
労働者で在った者が、幹部と成り、社長にまで上り詰めるには社内で熾烈な戦いが有るのだろう。その戦いに勝つと言うことは、報酬にも係わって来る。尤もその戦いに勝ち抜くには、報酬と権力、名声とがその原動力なのだろうが・・・・。

 

所得格差に戻ろう。所得格差が生まれる根っこは、他人と差別化を図りたい人間の欲求がある。所得が増えるのは、企業の利益を上げた成功報酬としてである。然し其れには限度がある。
蓄財と言う言葉が在るが、是は報酬を倹約して使わず貯蓄することだ。蓄財では貰ったもの以上には成らない。其処で更に其の上に利殖がある。此れは御存じの様に蓄財した資金を効率よく運用し、利子や配当金を受け取り、或は投資をしたりする。そこで生まれた資金を更に回して行く。資金が多ければ多い程儲けも多額に成る。此れは低所得者には真似が出来ない。だから、低所得者は一生その地位に留まり、富裕層は益々金持ちに成る理屈である。其れを陰で支えて居るのが政治家だ。政治家は富裕層の為になら便宜を惜しまない。其れが自分等党の存続に繋がる近道だからだ。

 

富裕層はその報酬を給与としては少なく、株や配当、債券などで受け取ることが多く、其れ等は所得税率が低く設定されている。役員賞与などを退職金に回せば、是も所得税が優遇されている。給与所得の一部を、一時所得として受け取れば税率は25%だそうだ。ストック・オプションと言う言葉が在るが、自社株を格安(1株1円)で買え、それを売って差額をそっくり手にすることも出来る。

つまり、富裕層は何処までも資産を増やすことが出来、且つ税金が安く成る手段がある為、所得格差は何時まで経っても解消しないことに成る。

日本人の大部分は、自分の生活レベルが向上するとは思って居ない。パート・タイマーの年間定期昇給は時間当たり10円とか20円単位である。年収にすれば1000円から良くて2000円で、是は一般企業でも恐らく変わりは無いだろう。年金生活者に定期昇給の様なものは無い。物価上昇、介護保険料の値上げなど全て黙って飲み込むしかない。


若い世代は如何か?吾が子等の生活振りを見ても、収入が増える可能性は殆ど無い。何しろ、現代の若者は厚生年金や健康保険は元より、生命保険、火災保険などにも加入して居ない人が増えて居る様なのだ。好んで加入しないのではない。そうした出費が生活を脅かすから出来ないのだ。


世間体と言うものがある。今の貧困層の人々は外観では其れと分らない。分らない様に取り繕って居るからだ。子供が学校に着て行く服装から、収めなければならない学習用品費、部活や遠足の費用など、吾が子に惨めな思いをさせない為に、親は外に出ない食費その他を切り詰めて捻出して居るのだ。家族で旅行に行ったことの無い児童、映画を観に行けない子供、履きつぶすまでは買って貰えない靴等数え上げれば切が無い。街には狭いアパートが一杯在る。其処に住む家族の多くはそうした暮しを余儀なくされている。塾へ行く振りをしてアルバイト先へ出掛ける生徒も居る。


世の中の不景気は間違いないもので、こう言う状況に政治家は良く黙って居られると感心する他は無い。高給取りで、政治家を生涯の職業と課して居る人達に庶民の苦労は解らない。解ろうともしない。

政治家としての職業がプロフェッショナルとしてなら好い。そうでは無く、自分の地位(権力を含め)の保全と、金儲けの為の職業としての政治家であってはならないのだが、現実は選挙で敗れても政治家として党に残って居られる。こうした政治家は、貧困層の為に働いても己の評価には繋がらないと思って居る。富裕層、其れも超富裕層の為に働けば世間で認められると為れば、貧困層の味方は何時の時代にも居ないと言うことだ。


又もこうした話のぶり返しになり、読者の顰蹙を買うであろうが、一介の老人としては世の中の仕組みを変え、つまりベーシック・インカム制度を採り入れる様な改革を実行出来るのは政治家しか居ないので、勢い有能な人材の登場を期待せざるを得ないのだ。『天句践を空しゅうする莫れ、時に范蠡無きにしも非ず』である。政治家に一人の范蠡が生まれて欲しい。


前回、国民総生産の話をした。国には555兆円を超す稼ぎが有りながら年122万円(貧困線)しか稼げない人が居る。国民年金生活者なら60万円である。一人当たり555万円稼ぎながら、報酬が122万円と言うのは可笑しくないか?

どんなに収入が少なくても、又様々な事情から働けなくても、誰しもが消費行動で国民総生産に寄与して居ることを考えなければならない。消費する人が居るから、産業が成り立ち、経済が動く。国内消費では賄い切れない量の生産品には輸出と言う手段で消費を図っている。人は生きて居ることに価値がある。社会的な意義がある。


就業者、つまり給料の貰える仕事に就いて居る人の平均年収は421万円だそうだ。税込なのか、税別なのかは分からない。算出法が一定して居ないらしく、単純な比較は出来ないとしても、年次統計成るサイトでサラリーマンの年収を調べると、平成13年には505.7万円だった。第二次安倍内閣が誕生した年は下がりつつは有ったものの、未だ473万円だったものが、今や421万円にまで下がっている。安倍政権は国民の年収を減らした張本人である。だから安倍政権が続く限り、上昇することは有り得ない。上昇して居るのは超富裕層のみだ。


平均値でも下がって居ると言うことは実際にはもっと低いと考えるべきである。

何故なら、“平均”と言うのが曲者なのだ。

小学3年生の平均身長は約134cmである。180cm90cmと言う児童は居まい。つまり、団栗の背比べと言われる由縁である。団栗なら平均値を出しても意味が在るが、日本の山の平均の高さを求めようと言う馬鹿は居ない。富士山が3776mであることは皆さんご存知だ。では尤も低い山は?なんと、3mと言う山が宮城県にあるそうだ。日本には山と言われる山が1800座有るそうだ。一方3000mを超す山は21座である。其処で日本の山の平均値を求める意味が何処に在ろうか?


同様に、日本人の年収の平均値を求めることは余り意味が無いと思うのだ。何故なら、年収300万の人が
10名、400万、500万の人も夫々10名居たとする。平均の年収は400万円である。この場合は自分が平均的なのか、上なのか下なのかの目安が付くことで、平均値は意味がある。

処がその中に年収が1億円の人が一人居たとする。すると平均値は716万円に跳ね上がる。その人が年収10億円だったら平均値は一挙に3716万円にも成る。もうお分りだろう。平均値は団栗の背比べなら意味が在るが、極端なものが混ざると一変して意味を持たなく成るのだ。


今所得格差が問題と成って居る。問題と思わないのが政治家だが・・・・。日本一の超富裕者の年収は
100億円程だそうである。

こう言う人が混ざっての平均年収などは意味が無いことはお分かり頂け様。

其処で考え出されたのが中央値である。中央値はこの場合、丁度真ん中の人の年収を指すので、少人数の高額所得者が混じってもその値に影響は及ぼさないからだ。総務省の民間給与実態に依れば、日本人の年収の中央値は、平成28年度では359万円と成って居る。この辺なら実態に即して居ると思われる。だが、是で月収30万円だ。扨皆さんは斯の中央値とご自身の月収と比べた時、どう思われるだろうか?此の半分にも行かない、と感じて居られる人が多いのである。一方、8億円の人も居るとは信じられない。

どうにかしなければならない、と考える政治家は居ないものか!

前回、日本の貧困線が122万円だと言う話をした。然し、現実にはこれ以下の年収しか無い人が16%も居るのだ。其れも、この数字は5年前のもので、今ではもっと悪い筈だ。政府は其のことを国民から隠すために、それ以降の数字を発表して居ない。

 

日本国憲法第25条で保障する、健康で文化的な最低限度の生活が斯の122万円なのだろうか?
文化的と言う以上、風呂、トイレ、台所に、寝室兼居間兼食堂と成る部屋が必要だ。アパートは都市と地方とで差が有るが、どんなに安くとも月5万円はするだろう。122万円から1年分の家賃60万円を引けば生活費は62万円しか残らないのだ。然も2年毎の更新で、手数料と値上げが待って居る。

又、地方で生活すれば交通費が馬鹿に出来ない。仮に日常の足として軽自動車を1台持って居たとする。之に掛かる維持費(購入費は含まず)は年間14万円(任意保険を除く)が最低でも掛かる。寒冷地でスタッドレス・タイヤが必要なら消耗品として年間もう1万円は必要だ。その車は日用品、食料の調達、子供の学校などの送り迎え、パート仕事に必要不可欠なのだ。車が無ければ、歩く以外に移動手段は無い。

小生の住む山梨県北杜市では、チェーン展開して居たスーパーが昨年暮れに突然倒産、閉店した。車の無い家庭は早速買い物難民に為った。都会に住んで居る人には分からない出費が地方の人には嵩むのだ。その代り、都会では家賃が高い。

 

こうした背景を頭に入れて、BI(ベーシック・インカム制度)では一体幾らの割り当て金を決定すれば良いのだろう。日本の人口は現在1億2千600万人程だ。仮に1万円としても1兆2千600万円の予算が必要だ。月に1万円ではない。年間1万円でその金額に成る。月に均せばラーメン1杯分にしかならない。仮に日本の国家予算全額を使っても、年間100万円に満たず、貧困線にも届かない。

 

それではBIが端から実現不可能な制度と言うことに成って仕舞う。考える余地は無いのだろうか?

その可能性として小生が考えるのは何としても税制である。BIを実行するには国庫にその規模の予算が無いことには始まらない、と言うことが分ったのだ。

 

今は使わなくなったそうだが、国民総生産(GNP)と言う数字がある。国民と企業が生産やサービスで年間に生み出した金額の総額だ。今では国内総生産(GDP)と言うそうだが、計算方法が若干違うらしい。金額に大差は無いと言うので、ここではGDPの値で話を進めたいが、皆さんもよくご承知の様に、日本は第2の経済大国と言って居たのは2010年迄で、それ以降は中国に抜かれたままである。1997年に5506983億円だったGDP2016年には5372894億円に減っている。アメリカのGDPは日本の4倍、中国は2.5倍だ。

日本を基準として、GDPを人口比率から割り出せば、アメリカは日本の2.46倍、即ち1321兆円、中国は10.7倍、即ち5,746兆円で釣り合うと言うことに成る。
然るに、アメリカのGDP2130兆円在るが、中国は1,313兆円しか無い。と言うことは、アメリカには敵わないが、中国より実質的なGDPは多い。つまり、国民生活は少しだけ裕福と言うことに成る。然し、それは全国民の平均値であって、皆さんも耳に胼胝が出来る程聞かされて来た様に、所得格差が大きくなり、今迄に無い程の貧困層が増え続けている。どの程度の速さで貧困が進んで居るか、政府が意図的にデータを開示しないのでネットで調べても分らない。中国人は金持ちで、日本に観光で押し寄せ、爆買いをしたそうだが、陰では貧困で苦しむ国民が大多数居る、と言うことだ。

 

経済政策と言うのは、国民の民力が上がってこそ意味がある。然し今は貧困層を食い物にした富裕層のみが潤う世の中に成って居る。

皆さんのご記憶を確かめたいのだが、「一億総中流」と言う言葉をご存知だろうか?
内閣府の世論調査で、暮し振りが“中の上中の中中の下”の中から選ばせたところ、1958(昭和33年)には7割強が中流、197045年)では9割が中流と自覚している結果が出た。

 

1968(昭和43年)には国民総生産が世界第2位に成り、高度経済成長期と言われた。当時は一流会社の社長と言えど、2千万も貰って居なかった。

因みに1964(昭和39年)に初任給16,400円で始まった小生が、転職したこともあって1972(昭和46年)には10万円に成った。それでも他の社員より少ないと言われたのだ。

 

人間の働きには時間的、能力的に見れば然したる差は無い。月給10万円(年収120万円)の社員が居て、年収1千万の社長で釣り合って居た。余程の大会社の社長で2千万円が精々だった。だから1億総中流で横一線、不満も無く過ごせた時代が在ったのである。

 

其の頃の日本は画期的な製品が続出し、輸出が伸びた時代だった。つまり日本国中元気が在った。保育所など必要なかった。精々保育園で、其れも幼稚園より安かったから、児童を通わせたのである。町には小売業が有り、何でも徒歩圏内で生活物資が買えた。店主と買い物客は顔見知りで、コミュニケーションが有った。商いは小さくとも、家族が暮らして行ける小売業が成り立って居たのである。

然して贅沢は出来なかったが、満ち足りていたと言えよう。国民の9割が自分でそう言って居られたのである。働けば家族が養って行けた。保育所も老人ホームも必要の無い時代だったのである。つまり、国民が政府の世話に成らずに生きて行けると言う自信があった。

 

政府は何もかも高齢化が原因で、今の状態に成ったと言い訳をするが、そうでは無い。国民総生産を皆で等しく分配して居た社会だったから、国民に不満が無かったのだ。BI等考える必要も無かった。元凶は賃金格差を齎したからである。水飲み百姓の時代に戻ったのである。

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