「平成」から「令和」の時代を迎えようとしている。31年前に「平成」と発表に成った時は、「?」と思ったものだが、何時の間にか馴染み、今では今上天皇と共に一つの時代を築き上げた。新しい「令和」も、過去の元号とも違和感はなく、響も良く、穏やかな将来の日本への期待を膨らませて呉れる。

 

「令」と言う字からは「令息」、「令嬢」と言う言葉を思い出させるが、「命令」とか「号令」と言った“言いつける”と言う意味もある。

論語学而第一に「子曰、巧言令色、鮮矣仁」と言う有名な言葉が有って、「令色」とは「」、つまり“顔色・うわべを“を、「」、つまり善くすると言う意味だ。令の付く字で例を挙げるなら、「令聞」も良い評判、立派な人望と言う意味で、他人の奥さんを尊称で「令夫人」と呼ぶ。

孔子は、言葉巧みにうわべを繕う人には仁が少ないよ、と言って居るのだ。


日本語には漢字が有るから難しい言語に成って居る、と言う指摘は尤もではあるが、文字の持つ情緒に依って様々な受け取り方が生じ、含蓄が深く、人情の機微を映せるとも言える。

日本語には一つの概念にも、文字が複数あることが多い。例えば「あか」は英語では“red”か“scarlet”位だが、日本語では「赤」に始まり、「朱」・「紅」・「丹」・「緋」等沢山ある。

 
「あめ」に成ると、「小雨」、「霧雨」、「豪雨」、「通り雨」、「俄雨」、「春雨」、「時雨」、「梅雨」、「五月雨」、「菜種雨」、「夕立」、「雷雨」、「村雨」等限り無くある。
雨の降り方に情緒が盛り込まれて、斯様な表現が生まれるのである。


其処で「推敲」と言って、唐の詩人賈島が、門を「推す」か「敲く」か悩んだ様に、文字を書く際にはどの字を使うか思案することに成る。

文字の持つ情緒を愉しむために、和歌が詠まれ、俳句が出来たのだろう。

松尾芭蕉の有名な句に「古池や 蛙飛び込む 水の音」が有る。僅か17文字であり乍ら、森羅万象を詠み、且つ作者の気持ちを表すのが俳句であり、和歌である。

是の句を英語で訳すとどう成るか?

 

先日96歳で亡くなられたドナルド・キーン氏の訳は斯うだ。

 The ancient pond

 A frog leaps in

 The sound of the water

 

ラフカディオ・ハーン氏だと斯う為る

 Old pond

 Frogs jumped in

 Sound of water

 

不肖小生がお二人に並んで不遜は承知で訳すと

 No sound
   But only frogs splash into the old pond

(蛙を複数にしたのは、時間を置いて“ポチャン”“ポチャン”と飛び込んで居ただろう、と推測したからに過ぎない。一匹が“ポチャン”と音を立て、又静寂に戻ったという解釈も有ろうが・・・・)

 

日本語の持つ芸術性は、文字そのものを「書」として視覚化して仕舞うことも含まれ様。勿論他国言語にもカリグラフィーと言って一種の装飾文字を持って居る。中でもアラビア習字は芸術的で美しい。

唯、カリグラフィーは究極のお手本が有って、其れに近づけるだけだが、書道では自由奔放に書くことで自己表現をする処が違うと考える。勿論、書道は本家本元の中国で発展したもので、「篆書」「隷書」「草書」「行書」「楷書」と書体も有るのだが、仮名混じり文は日本独自の領域だ。

 

文字の世界は、読む、書く以外に喋る、聞くが有る。詰まり音声学的にどうか?

ややもすれば世界で一番美しい言葉はフランス語だと言われる。其れは響から来て居ると思われる。主観的な評価だから其れをとやかく言うことは意味が無いが、響が良く、聴き易いことは重要な要素だろう。


語尾が全てアイウエオの母音で終わって居る日本語が、他国の人にどう響くのだろう?

強いアクセントは無く、単調で居ながら、微妙なアクセントが有って、意味が変わるのも日本語の特徴だろう。
そのアクセントは、英語の様に強弱(chrythathemum=菊)では無く、高低の違いと言う特徴がある。
先日一休和尚の処で例を挙げた「端(hasi)」と「箸(hasi)」、「橋(hasi)だが、是が「はしだ」と為ると、「端だ(hasida)」、「箸だ(hasida)」、「橋だ(hasida)」、と変わるのも面白い。