皆さんは机上に漢和辞典をお持ちだろうか?小中学校では漢和辞典の引き方を教わり、実際に使ったこともお有りだろうが、それ以降では精々国語辞典が一冊あれば、漢和辞典のお世話に成ることは無いだろう。何故なら、国語辞典には巻末の付録で字画別の漢字の音訓の読み方が大抵付いて居るし、偏旁冠脚の一覧も有るから、分からない漢字は其処で読み方を調べ、意味は国語辞典の本文で当たれば事足りる。

 

其れに何と言っても、パソコンやスマホを遣る若い人たちにとって、其方の方が遥かに手っ取り早い。

平仮名にせよローマ字にせよ、音を入力すれば漢字交じり文が画面に出て来る。是を“不思議”とも思わず使って居るが、是は実に一大発明なのだ。

 

諸橋轍次先生が作った大漢和辞典は古今の書物から拾い集めた五万の漢字と、53万の熟語をその意味、出典を明記したものだが、其れは補巻まで含むと75年の年月と高等師範学校の教え子の国語学者や助手達の労作だった。途中から、活字を彫る職人が居なくなり、石井茂吉(写研)が加わり、写植で組版を作り直した。この「写真植字機」も今は無い。

 

1971年、毎日新聞で現行の電送や紙面作成をする技師弓場晋太郎は、記事を早く活字にする方法を考えあぐねていた。手で書いた記事を、ファックスで送って居たのでは能率が上がらないし、間違いが多かったからだ。

 

川崎の東京芝浦電気の総合研究所の森健一(郵便番号自動読み取り区分機の開発者)は弓場の要請を受け、誰もが使える日本語タイプライターの開発を、研究所長澤崎憲一の予算援助を受け着手した。森は東大の工学部応用物理学科を出た工学博士で、国語学者では無い。諸橋教授が大勢の弟子である国語学者、文学教授を動員したのと違って、コンピューターの専門家では在っても、言語では専門外の社員達で、この世界に挑戦したのだ。

 

大学で電気回路理論を学んだ河田勉は京大で情報工学を学び直す。其処で知り合ったAIを使った自動翻訳を研究する天野真家を引き込む。

欧米のタイプライターが26文字に対し、日本語は5万以上の漢字と、48文字(“ゐ”と“ゑ”を含む)の平仮名との組み合わせである。其処で平仮名46文字だけで入力し、機械で仮名交じり文に変換する方法を考える。

河田は記憶装置に言葉を覚えさせる辞書作り、天野は変換時に必要となる文法を機械に覚えさせることと、同音異議語の区別を担当する。

 

日本語には此の同音異議語が多い。其処で森が最初は候補を沢山出し、使う人がその中から選ぶと言う案を出す。「答え一発!」では無く、“きしゃ”と入力すれば、「帰社」、「記者」、「汽車」、「貴社」、「喜捨」と出て来るのだ。其処でその候補の中から使う人が「貴社」を選択し、確定する。

次回からはコンピューターが使用者の癖、必要性を学習して、その単語を優先的に表示する様にする。是を「短期学習機能」と言う。

又、使用者の使った頻度の高い単語から頻度順に候補を並べる「長期学習機能」が有る。

此の両者を組み合わせることで変換率は格段に上がった。

 

新たに加わった斎藤光男はモニターやプリンターで見易い日本語フォントを開発。

システム・エンジニア―の武田公人は地名、駅名、人名等と言った固有名詞を辞書機能に加えた。

 

大型コンピューターを製作する東芝青梅工場溝口哲也は、工場が過当競争から売り上げが落ちたことで新しい仕事を求めていた。

森達の作った漢字変換機は、ミニコンとは言っても巨大で、値段も2千万した。然も何十万、何百万もの漢字の組み合わせから選ぶ変換時間は長く、登録語を増せば記憶容量がパンクする。

森達と溝口達は協力して小型化と変換率、変換時間の短縮に取り組むことに成った。

 

其処にプロジェクトに待ったを掛けたのが事業部長の都築公男で、10万人居るタイピストの為に従来のタイプを電子化するのが先だ、と言う。

だが、和文タイプは嫌われ者だった。何しろ2000文字以上がアイウエオ順(いろは順も有った)に並んだ活字の上に、上下左右に動くアーム(バケット)が有り、選んだ文字を打ち付けるピックアップが有るのだが、細かい上に、文字の配列を覚えるのに熟練を要する。間違えば全て遣り直しになるし、うっかり盤をひっくり返したりしたら、専門家に並び直して貰わねばならなかった。公文書の清書用に使われるのが精々だったのだ。個人が英文タイプライターの様に、印刷用に使えるものでは無かった。

森は国民全てが使える機械を作れば新しい産業を興すことが出来ると反発する。此処に森達の信念が伺える。

 

1ヶ月の猶予が与えられた。事務机のサイズ迄小型化、記憶装置に磁気ディスクを使うことで十分の一に成った。「切り貼り」、「枠空け」、「禁則処理」と言った機能を組み込んだ。

プリンターには一字に付き24マス四方のドットの採用で画数の多い「鬱」の様な漢字に対応した。カタカナに一発で変換するキーも作った。

 

ワープロを操作する役に工場の伝票処理を遣る本多のり子が起用された。この時点で変換時間は11秒だった。目標は3秒。

河田はテレビのマジックショウを観て居て思い付いた。其れ迄平仮名を入力し終わってから変換装置を動かしていた。其れを平仮名を打つ端から入力と並行して変換を始めれば作業は早まり、然も選択肢も絞られて行く。そうして3秒の壁が突破された。

 

テストの場に都築が現れた。本多が文章を打って、其れが返還されてモニターに次々映し出される。

都築は本多に、行き成り「使い心地はどうだね?」と訊く。

「面白い機械ですね。ひらがなが漢字交じりに代わるんですもの」と本多。其れが、一般の人にも使える機械である証と成った。

 

三ヶ月後の1978年、晴海のデータ・ショーでワープロJW-10は披露された。翌年630万円で発売。ルポを経て1985年ノート型パソコンTT1100を実現させた。森はその後「音声処理ワープロ」を開発した。

コンピューター技師だけで挑戦した、日本語ワープロの誕生である。

 

この文はプロジェクトXを参考にさせて頂いた。プロジェクトXには「胃カメラ」、「漁群探知機」、「トランジスターテレビ」等数々の人類に貢献した発明、発見が登場したが、小生は此のワープロが白眉であると思う。