4月の中旬に、山梨県都留市のミュージアム都留に増田誠の展覧会を観に行った。彼は大正9年に都留郡谷村で生まれ、永くフランスで活躍した県人画家である。平成24年に、友人のグループ展を観に、山梨県立美術館(ミレーのコレクションで有名)へ行った際、別室で展示されて居た増田誠氏の絵を見る迄、小生は此の画家を知らなかった。小生の芸術品を観る眼は貧弱で、彼の絵が一遍に気に入ったにも拘らず、「巧い」としか言い様を知らない。「絵の職人」だと思う。

 

以前、国立博物館で皇室の所蔵する美術品展が在った時、伊藤若冲の絵を見て吃驚したものだが、増田誠の絵の味わいは別物だと思った。荻須高徳や佐伯祐三に似てなくも無いが、パリの街と市井人、港の風景などでは独特だし、呑舟と言う雅号で書いた墨彩画や戯画も実に楽しい。書も中々のものだし、ギリシャ神話や宗教画迄多才だ。増田の他に此処迄幅の広い画家は居ないだろう。

 

日本では小田急百貨店で10回以上も個展を遣って居たそうで、在京時代に観なかったのが不思議な位だ。

彼の絵を知らない人の為に、著作権に触れるかどうかは知らないが、図録と絵葉書でご紹介したい。


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2010年 『遊行寺博物館 特別展 増田誠 ―呑舟として描いた墨彩―』」



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「山梨県立博物館で2012年に開催された『増田誠 パリ―人生の哀歌』図録」


以前訪れた都留市中央の増田誠美術館と上谷に出来たミュージアム都留とは27年に移転統合した。山梨に来られる機会が有れば是非行って御覧に成ることをお奨めしたい。

 

増田誠は床屋を営む父清治郎の次男で、幼い頃から絵は得意だったと見え、中学では「似顔絵の天才」と言われて居たそうだ。父の死後、(富士)吉田尋常高等小学校の教員と成り、浅間神社に近い時宗西念寺に下宿して居たが、大晦日の夜起こされ、浅沼住職の奥さんが産気づき、産婆さんを呼んで来て呉れと頼まれる。生まれた娘さんがその後の再婚相手と成った。「彼女は内助の功大で、福の神の様な存在だった」と彼はのろけて居たそうだが、その曙美夫人に会場でお目に掛かり、長話に成った。

 

彼は徴兵され近衛野戦砲連隊の幹部候補生で、九州南方警備で終戦を迎える。戦後は北海道に入植し、釧路では看板業を営む。其処で、一線美術の画家上野山清貢と親しくなり、彼の勧めでパリ遊学を志す。看板屋の光工芸社を売却し、37歳で渡仏、モンパルナスの安ホテル・リベリアに滞在し、絵を描き捲る。
翌年の1957年ザンデパンダン展に出品した小品2点に、7区の小さな画廊のモランタンが関心を寄せ、絵を買い取り、契約を結ぶ。彼は増田の絵を地方都市の美術展やパリの新人作家展に出品し、其れが増田の励みに成った。翌年からはサロン・ドートンヌやサロン・ナショナル・デ・ボザールに出品、パリ市買い上げと成ったり、会員に推挙される。

初めに画商モランタンに認められたことがパリ画壇で増田の道が拓けた切っ掛けと為る。晩年は故郷の富士河口湖周辺で富士山や桂川などを描く。彼の題材にドン・キホーテや架空の王様、仏像、万葉歌人、鳥獣戯画の鳥羽僧正等が登場するのも面白い。

 

オンフルールやブルターニュと言った港と、其処に浮かぶ漁船などを好んで描き、「水の画家」とも言われたが、何と言ってもパリのカフェや市場、街頭にたむろし、遊ぶ極普通のパリ市民の表情を描いたものが小生は好きだ。