「黒門町」と言う名前から何を思い浮かべるだろうか?我々の年代だと「桂文楽」だ。文楽師匠が上野に在った黒門町に住んで居たからで、古今亭今輔は同じ町内に住んで居たが「黒門町」とは言われなかった。「黒門」とは上野寛永寺の総門が黒かったことから付けられた地名である。人の名前に代わって地名で呼ぶことは芸人などには屡見られるし、親類同士を住居の在る地名で呼び合うことも良くある。

 

三遊亭圓生は「柏木」(新宿)、林家正蔵は「稲成町」(上野)、柳家小さんは「目白」、古今亭志ん朝は「矢来町」(新宿)。歌舞伎役者では中村歌右衛門が「千駄ヶ谷」、尾上松緑が「紀尾井町」、中村芝翫(七代目)が「神谷町」、と言った具合である。

 

もっと皆さんにお馴染みなのは、「霞が関」と言えば官僚を指し、「兜町」が証券会社、「永田町」が政治家、「桜田門」が警視庁、そして「柴又」が寅さんと為る。

こうした町名は何故か懐かしい響きを持って居るでは無いか。

 

町の名前を思い出した切っ掛けは、従兄弟から譲って貰ったDVDの落語全集を聴いたからである。其れはTBSと竹書房から出版された落語研究会の「八代目桂文楽全集」である。小生が好きな落語家では先ず、三遊亭圓生、古今亭志ん生、桂文楽、である。三者三様の味わいがあり、いずれも甲乙付け難い。此処に書いた三人の順番は持ちネタの数に依る。其れしか、小生如きに御三家を評価することが出来ないからだ。

 

芸風は違っても、同世代の三人は或る意味では仲が良く、お互い切磋琢磨して居たそうである。何しろ志ん生と圓生とは戦時中に満州に慰問に行き、2年近く一緒に暮らして居た程だった。文楽が高座でしくじり引退同然だった時期に、ウィスキーを土産に志ん生の家を訪れ「二人会を遣ろう」と相談を持ち掛けていたと言う。其の文楽が亡くなった時、その前日妻のりんの葬儀でも涙を見せなかった志ん生が、訃報を聞いて号泣したと言う話もある。

 

完璧主義の文楽がしくじった高座と言うのが、昭和48831日の国立劇場で「大仏餅」を演じて居た時である。盲人の乞食が慈悲を掛けて呉れた店の旦那に問われるまま名を名乗る場面で、「私は、芝片門前に住まいおりました、神谷幸右衛門と申すものでございます」と言うべきところを、名前を失念した。「台詞を忘れてしまいました……申し訳ありません。もう一度勉強をし直してまいります」と言って舞台を降りた。

 

それ以降の予定は全てキャンセルされたことは聞いて居たが、翌日の91日には東京四谷の満留賀と言う蕎麦屋(廃業)で文楽の話を聞く会があって、小生は予約を入れて居た。其処は月に一度噺家を呼んで酒を飲みながら蕎麦を戴く会を遣って居て、よく通って居たのだ。どう成るかと行ってみたところ、店は開いて居て、文楽の代わりに圓生が来たのには驚いた。

 

其の時の演目は忘れたが、何しろ彼の噺は何百とあって、聴く度に違う噺だからだ。小一時間江戸時代の貨幣に就いて話が続き、突然上手を見上げる形に成って「おーい!」と叫び、其処からが本題で、其れ迄は「枕」だったのだ。鮮やかな展開に痺れた。

古典落語では現代では廃れて仕舞った風習や言葉や通貨等が有り、話の中身や落ち(下げとも言う)を理解する為にも予備知識が必要で、圓生はその点で親切であり、巧みであった。

 

その年の暮れに、文楽師匠は亡くなった。今回図らずも半世紀振りに彼の演じる落語を堪能することが出来た訳だ。

小生の従祖父がNHKのアナウンサーだった昔、神田の寄席、立花亭を遣って居て、父に良く連れて行って貰ったし、もう一人の大叔父もアナウンサーで、虎ノ門飛行館ホールでのNHK落語番組収録のチケットを貰ったお蔭で戦後の娯楽の少ない時期に落語にだけは接する機会に恵まれていた。

 

DVDの中から「富久」を早速女子高校生に成った孫に聴かせた。笑いもせず聴き終わった彼女を不審に思い「どうだった?」と訊くと「全然分からなかった」と言う。落語を聞いたのは初めてだそうだ。それにしても同じ日本語で訳が分からないとは不思議に思った。分かったのは「サイコラサ!」という掛け声だけと言う。以前の旦那の家に火事見舞いに行った幇間の久蔵が、今度は自宅の方角が火事だと聞き、走って戻る際「サイ、サイ、サイコラサ!」と掛け声を上げる。何のことは無い。小生が散歩に疲れた幼い彼女を「サイコラサ!」と呟き乍ら田舎道をよく負ぶって帰ったのを覚えて居たのだ。