“・・・― ― ―・・・”

 

斯の表記だが、「点字にしては少し変だ」と思われるだろう。是はモールス信号で“SOS”を表して居る。“S”が“・・・”で“O”は”― ― ―“だ。

是は打電し易いから決まったらしいが、実際に無線士でない者が聞くと速くて解り難い。一方、言葉としての“SOS”は浸透して居て、災害時に避難所の校庭に石を並べて“SOS”を描いたところ、ヘリに発見されて救助物質が運ばれた例もある。

 

1912年北大西洋で氷山に衝突し沈没した処女航海中のタイタニック号もSOSを発信した。尤も当時遭難信号は決められたばかりで、英国の通信会社マルコーニ社はCQDCQは“All Station”の意味で、広く呼び掛ける時に使われる。アマチュア無線でも「CQCQ! こちら〇〇!感度有りますか?」と呼び掛けて居る。DDanger又はDistressで危険、遭難を意味する。独逸のテレフンケン社はSOSSOSには意味は無い)を使って居て、1906年に共通の遭難信号としてSOSの方が採用された。タイタニックではCQDSOSの両方を使って打電した。

 

通信機器が発達した現在、モールス信号は使われなくなり、1999年にSOSも廃止となったが、救助信号としては未だに活きて居る。

今は言葉としては「Mayday」が使われる。フランス語の“Venez m’aider(私を助けに来て)が語源だ。「メーデー、メーデー、メーデー」と3回繰り返すことに成って居る。

 

視覚障碍者が持つ白い杖も、本来は視覚に障害を持って居る事のシグナルである。其れに依って、周囲の人が気を配って呉れることを期待する訳だ。勿論同時に、杖の先で障害物を見分けたり、道路の誘導用ブロックを拾って進んだり、転ぶのを防ぐ杖としても用いる。此方はフランス人のジャン・ドラージュ(Jean Delage)が第一次世界大戦の中で考え、ヘレン・ケラーが推進した。

 

其処に視覚障碍者が居ると周囲の人に判れば、其れなりの配慮がされるだろうが、視覚障碍者特有の手助けが欲しい場合がある。

例えば「一番線に東京行きの電車が来ます」とアナウンスがあっても、自分が今立って居るプラットホームが一番線か、二番線か分からない。確かめ様が無いのだ。

外出先でトイレに行きたくなっても、声を出してトイレは何処か訊くのも憚れる。そう言う時、白い杖の先に黄色のハンカチを結び付け、高く掲げれば周囲の人が気付いて「どうされましたか?」と訊いて呉れる。其処で、「一番線は此処で良いのですか?」とか、小声で「トイレに行きたいのですが」と言えば、教えて貰えるだろう。

 

周りに居る人が親切な人ばかりとは限らない。だが、黄色いハンカチを認めて、声を掛けて呉れた人なら、間違いなく親切な人だ。何でも相談出来るだろう。縦しんば彼に、彼女に判らないことであっても、代わりに駅員を見付け訊いて呉れるだろうし、一緒に探して呉れるかも知れない。

問題は、自分が助けを必要として居る時、周りに居る人の中から親切な人が見付かる様に上手くシグナルを発信出来るかだ。其処で『幸せの黄色いハンカチ』が登場することに成ったのである。

 

SOSを傍受した船舶は救助に向かわなければ成らない不文律がある。船長は、船主、荷主の了解無しに現場へ直行しても咎められないそうだ。其れこそ相互扶助の精神だからだ。

其れと同じ様に、救助を求めている人に手を貸すのだから、何ら躊躇うことは無いのだ。自分が困った時、他人の助けが欲しい時と言うのは誰にでも起こり得る。

 

其処で思い出すのが1934年の映画「或る夜の出来事(It happened one night)」。小生の好きなフランク・キャプラ(Frank Capra)監督、クラーク・ゲーブル、クローデット・コルベール主演である。二人の珍道中でヒッチ・ハイクする場面があった。ヒッチ・ハイクを知ったのは、この場面を見たからであった。男が得意のポーズで車を停めようとするのだが、一向に捉まらない。見かねた女がこれ見よがしにスカートの裾を一寸持ち上げる。すると急ブレーキで車が止まると言う話だ。

此方は色仕掛けなのだが、「黄色いハンカチ」は映画の影響もあって、人の持って生まれた信頼感に基づいて居ると小生は考える。其れは容易に『善意』に結び付く。

 

海外からの旅行者に、「日本人は親切な国民だ」と言われれば悪い気はしない。我々だって、海外で些細な親切でも受けると、途端にその国民が好ましく思えて来るものだ。外国へ行けば未知の体験をする。心細い筈である。そんな心理状況の時、些細な親切、一寸した微笑みが人の心に大きな風船を膨らませる。

 

だが、逆の場合がある。こちらが困って居て、助けが欲しいのに相手にされない時である。

故宇野弘信氏は重度の内臓疾患で一級障碍者だった。だが外見では其れと判らない。白い杖を持つ視覚障碍者や車椅子の人、松葉杖を突いて居る人なら誰でも判るので、求められれば手助けをして呉れる人も居るだろう。彼の場合は何処から見ても健常者だった。

 

或る日悪天候の中、自車がパンクして仕舞った。彼には体力が無く、手を振って助けを求めた。止まって呉れる車は無い。白いタオルを振った。やっと止まった車の運転手は「パンク位自分で直しな」と言い捨てて去った。最後に紙に障碍者手帳を貼って助けを求めた。その経験から、自分の様な障碍者でも、障碍者で無くても、助けを知らせる方法は無いかと考え、黄色いハンカチ運動を始めた。外国人で、言葉が解らなくて困って居る場合だって在るからだ。

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「黄色のハイビスカス 花言葉は《輝き》」

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「菜の花 花言葉は《快活》・《明るさ》・《小さな幸せ》


その運動は、困って他人の助けが欲しい時の合図として黄色いハンカチを振るなどして知らせること、其れを見た人は声を掛け、出来る限りの手助けをすることを世に広めることだった。

何故、ハンカチを振って居るのか理解して居なければ助けることには成らない。だから、黄色いハンカチは助けを求める合図だ、と言うことを約束事として普及させなければ成らない。其の為の「黄色いハンカチ運動」なのだ。

降参する時、白旗を掲げて敵の前に進む。これに対して敵は決して銃を向けることは無い。是は双方がそのことを了解して居て初めて成立する。

 

此の運動が広がるにつれ、一人暮らしの高齢者宅で、「無事です」と言うことを自宅前の道路を通る人に知らせる為に黄色のハンカチを門や玄関に掲げて置くことを奨励する地域が出て来たと言う。是では意味が正反対だ。助けを求めるのでなくして、助けは要らないと言うのだから。

 

家の中で転んで骨折し、病院に連れて行って欲しい人が居たと仕様。何とか這って窓辺に黄色のハンカチをぶら下げ、救助を待とうとする。然し、此のシグナルが「私は無事です」と受け取られたのでは、誰も助けに来ては呉れない。

 

よく、ポストに新聞や郵便物が溜まって居ると、その家は長期の留守か、病気で動けないのか、と言う話を聞く。

其れと同じく、昨日は無事だった人が脳梗塞を起こし、黄色のハンカチを外しに行けなくなった、という事態だって在り得る。出し忘れ、出しっ放しだって在るのだ。

 

白旗を掲げて敵前に出て行き、相手が「降参」だと思って銃を下げた途端、隠し持った銃を発砲することが有ったら、もう誰も白旗を信用しなくなる。

だから、「助けて!」と「無事です」が混在することは許せない。

 

「無事です」の方は早速色を変えるなりして貰わねばならないと思うのだが、如何であろう。

良かれと思って自治体などで色々運動するのは善いのだが、何でも尻馬に乗る軽率さ、浅墓さは頂けない。人間は無精に出来て居る。本来余程必要な時でも無ければ、動こうとしないものだ、との認識を持つことだ。

「黄色いハンカチ」を「無事です」のシグナルとして居る自治体の職員は直ちに改めて欲しいと考える。そして、この運動が人々の優しい気持ちを育む切っ掛けに成って欲しい。