凡ゆる運動競技に練習が欠かせないことは誰しも分かって居ることだ。否、運動に限らず、芸事に始まり、学校で学ぶことだって全て人生練習で在る筈だ。

「練習」の反対語は「本番」である。

 

映画の世界では、本番前に遣る“テスト”で、“リハーサル”とも言う。役者の芝居やセリフも然ることながら、カメラの動きや照明、音声、エキストラなど全てテストの対象だ。テストだから、何かが上手くなければ出来るまで何度でも繰り返される。其の本番ですら、完璧でなければ何度も繰り返して遣る。テストを繰り返せば時間も掛かるがフィルムが勿体無い(今はデジタルだからNGなら消せるが・・・・)。全てが大掛かりで、遣り直しが大変な場合とか、全員が自信を持てる時にはテスト無し、つまり「ぶっつけ本番」も有る。

 

詰まり「練習」とは何時も同じ様に事が運ぶ様、繰り返して動作を行い、身に付けることを言う。又、更に技量の達成度を高いレベルに押し上げたり、必要な筋肉など体力を付ける目的もある。

 

競技と言うからには、対戦相手が居る。其れに勝つことが当面の課題だ。囲碁将棋の場合でも、「練習」は凡ゆる石や駒の動きの型を覚え、その中から今の局面で最適な手を本番で選び出す訓練をすることに成る。その際には相手の心理や癖を読むことも必要で、其れも練習の内に入る。

 

小生は趣味でテニスを遣るが、こんな面白いゲームは無いとすら思う。じゃ上手いのかと言うと、どうして、どうして。巧く行く時も有るが、ミスも多い。「奥が深いのがテニスだ」と慰めてみるものの、思った様に何時でもボールが打てればどんなに楽しいか、と考えないでもない。

 

 

其れに就いては”基本が出来て居ないから“と良く言われる。ではその基本とは一体何だ?

小生は”こう来たら、こう打つ“と言う型が身に付いて居ることだと思う。

型を身に付けるのは理屈では無く、反復練習で体に覚えさせることである。頭で理論を思い出し、それを体に一々指令して居たのでは遅れて仕舞う。咄嗟に身体が正しく反応する様で無いと勝てない。

 

返球することだけを頭に入れ、無心で打つと案外難しい球が打てるものである。其れは頭では無く、身体が覚えて居るからだ。テニスを遣る人なら、フォルトと判ったボールを、偶々レシーブして仕舞ったら、結構良いリターンに成ったと言う経験がある筈だ。是は打たなくてはと言う意識が引っ込み、身体だけで反応したので、覚えて居た型が生きたと言える。

 

愉しいからと言って、ゲームだけして居ても上達して行かないのは、ゲームでは凡ゆる球種の球が、彼方此方に来るので、反復練習には成らないからである。却って折角体が覚えて居た型を崩すことにも為り兼ねない。乱打と言うのも同様で、反復練習には成らない。

偶に好球が打てても、身体に覚え込ませること無く、其の時だけで終わって仕舞うからだ。

 

身体に覚え込ませるには、行き当たりばったり(at random)の球にその都度対応して居たのでは幾ら遣っても身に付かない。旨い日本語が思い当たらないのだが、パターン化したものでないと体に覚えさせることは出来ないと思うのだ。”こう来たら、こう打つ“と言うパターンを何百種類も繰り返し練習することだ。

 

理想的には“テニス球出しマシーン”を使って、同じ所、同じ速さ、同じバウンドの球を、狙った処に正確に返球出来る様に成るまで練習することだ。唯、マシーンでは多種多様のパターン練習は出来ない。だから、テニスの選手に成ろうと思う人は、コーチに球出しをして貰って練習する。

 

小生が昔観た映画に「リトル・モー」が有るが、此れはアメリカの女子テニス・プレーヤー“モーリン・コノリー(Maureen Connolly)”の伝記映画だ。背が低かったのでリトル・モ―の愛称なのだが、10代で交通事故に遭い選手生活を絶たれた。彼女はエリナー・テナントにコーチを頼むが、テナントの条件は”自分以外の選手とは絶対に練習をしない“と言うもので、徹底してパターン練習をした。其の甲斐あって彼女は19歳で女子選手としては初めて年間グランド・スラムを達成した。テナントが中古のラケットを集めて来て、ラケットを投げさせ、サービスの型を覚えさせるシーンを思い出す。

 

元デ杯選手だった岡留恒健氏の練習風景を偶々見ることが有るが、氏はコートに来ても何時も練習しかされない。練習相手とラリーの繰り返しなのだが、観て居るとどんな球に対しても何時も体の同じ高さで、同じフォームで返球される。80も半ばのお歳にも拘らず、お元気そのものである。基礎練習を未だに続けて居られるのであった。