北魏が華北を統一したころ、江南では武将の劉裕が東晋を滅ぼして宋を建てました(420年)。ここから南北朝時代が始まり、以後南朝は宋→斉→梁→陳と王朝が交替します。HPTIMAGEしかしこの南朝の政権交代は、何とも締まりがないものでした。というのは、王朝がかわっても門閥貴族たちが実権を握っている点でどれも変わりがなく、政権交代というのも、実は都合の悪くなった王朝を、貴族たちの都合で取り替えたにすぎなかったからです。
 例えば東晋の時にこんなことがありました。当時華北から逃げてきた人びとは、「今たまたま江南へ逃げているだけで、本当の戸籍は華北だ。戸籍がないから税を払わない」と言い張り、荘園の小作人になったりしておりました。困った皇帝は彼らを現住地の戸籍に登録し、税を取る土断法を実施しようとしましたが、HPTIMAGE彼らを使ってもうけている貴族たちから袋叩きに合い、法令はきちんと実行されなくなりました。貴族たちはさらに、「こんな王朝いらない」とばかり、内乱騒ぎのついでに司馬氏を叩き出し、新王朝、宋をつくらせたのです。このように、「都合が悪いから王朝を取り替える」という貴族のやり口と、上下こぞって政治に背を向ける世の中は、南朝の終わりまで続きました。
 このように政治的にはちゃらんぽらんな南朝でしたが、政治をしない貴族が暇をもてあましましたので、文化だけは栄えました。中国人が大好きな文化と言えば詩ですが、南朝の詩の代表は何と言っても陶淵明の「帰去来辞」でしょう。ご多聞に漏れずこれも世の中に背を向けた詩ですが、同様に世の中に背を向けていた日本の平安貴族にいたく好まれ、梁の昭明太子がまとめた「文選」とともに、必読のベストセラーになったようです。
 またせっせと筆を握る貴族たちの間では、自然に文字の上手下手が取りざたされるようになりましたが、東晋の王羲之は「書聖」として名高く、代表作の「蘭亭序」の写しなどは、後の世まで取り合うようにして珍重されました。このほか絵画では顧祥之の「女史箴(=女官へのお説教)図」HPTIMAGEなどが有名ですが、見た目のきれいな文体、四六駢儷(べんれい)体の流行と共に、この時代はある意味で中国文化の最高峰と言えるかも知れません。
 一方華北では、戦争続きで詩など作ってる暇が無かったせいか、もっぱら地理書の『水経注』や、農業のマニュアル『斉民要術』などの実用書が書かれておりました。またその一方、貴族の間では当時入ったばかりの新宗教、仏教に人気が集まりました。当時中国西方=西域のオアシス都市、敦煌や亀茲では仏教が盛んで、敦煌莫高窟などの石窟寺院が造られたり、高名なお坊さんが出たりしていました。そこで仏教にハマった十六国の皇帝たちは、西域からやってきた仏図澄に教えを受けたり、果てには乱暴にも軍隊を送って鳩摩羅什をさらい、お経の翻訳などをさせたりしておりました。その後北魏の統一によって世の中が落ち着くと、今度は莫高窟をまねてせっせと雲崗や竜門に石窟寺院HPTIMAGEを掘ったりもしています。
 ちなみに仏教にハマったのは南朝も同じで、東晋のころには法顕が陸路インドへ向かいましたが、梁の武帝なども熱心な信者で、「南朝四百八十寺」と、後に唐の杜牧の詩に詠われるほど寺を建てたほか、自らせっせと寺の雑用や雑巾がけをしておりました。
 貴族たちが仏教に入れ込む一方で、庶民の間では道教がはやっておりました。北魏のころ、道教では寇謙之が出ましたが、彼はどこをどういじったのか、本来「無為自然」を説く道教を、「現世利益(=現実の欲望をかなえる)」の宗教へと作り替えたのです。これは胡族の軍隊や政府にいじめられっぱなしの庶民の間でおおいにうけ、はては北魏の太武帝までがこれにハマって、仏教の弾圧(廃仏)をするまでになりました。