2005年12月01日

支配者から奴隷まで

今日晩御飯を作った。

鶏肉と豆腐と焼きねぎのとろとろ煮…大戸屋で気になったメニューを想像で作ってみた。非常にまいうーだった。ポイントは下ごしらえと塩加減だ。

ひじきの煮物…ひじきにあぶらあげとちくわが入っているとそれだけでハッピーな気持ちになれる。これ常識。なのでハッピーにならせていただいた。これまたいい塩梅でござんした。

ほうれん草のオイスターソース炒め…シンプル。だがにんにくとごま油とオイスターのきいた本格中華テイストに。定番にしたい。

豚汁…定番。野菜のうまみを存分に引き出して。いつものごとくウマス。

ということで今日の晩御飯は大変おいしゅうございました、と。


プロ意識について考えてみる。

僕の中でプロ意識というのは、仕事によって得られる見返りではなく仕事そのものに喜びを感じ、自分の仕事にプライドを持ち、どんな状況においても、よりいい仕事をしようと日々精進しようする心構え・心持ちのことだ。プロ意識をもって仕事をしている人はかっこいい。そしてみていて清々しい。
自分はいま歌をやっている。全然プロなどではないがやるからにはそのようなものをもっていないと聞いていただく人に対して失礼に当たると思い、可能な限りでプロ意識(もどき)をもつよう心がけている。お金をもらっている肝心の家庭教師に関してはいまいちプロ意識を徹底しきれていない。大変よろしくない。僕の中では、プロ意識っていうのは自分のおまんまを食べるためにやる仕事にだけ発揮されるものではなく、あることを突き詰めようとするあらゆるときに必要とされる心構えだと思う。そういった意味でプロ意識を持っている人が必ずしもその分野の「プロ」でなくてもいいわけだ。

で何でプロ意識なんかの話をしているのか、と。
最近受講している講義でよくプロ意識が欠如している講師を見かけていた。やれ「講義中に部屋を入退室するのは失礼だ」とか「授業中寝ているやつは教室から追い出す。テンションが下がるから」だとか「授業中に授業と関係ないことをするなんて礼儀がなっていない」だとかいちいちしち面倒くさいことをだらだら言ってくださるバカが少々いらっしゃるのだ。それはプロ意識の「どんな状況においても」よりいい仕事を、という部分に反している。生徒が授業中にでていったり寝たり関係ないことをしたりするのは講師がやっている授業にその人が興味を感じられないからであり、ひとえにその講師の責任だ。それにたとえ一人の生徒がなにをしていようとも講師は他の話を聞いてくれている生徒のために最善を尽くすのが筋ってもんだろう。お賃金をもらっているわけだからたとえ客がどのような態度をとってもサービスするというのがプロの姿勢ではないか、と。もちろん講師は生徒の奴隷ではないし、騒ぐなどの授業を妨げる行為をするものがいたらソッコーでつまみ出すほうがプロとして正しいとは思うけれど。
でも今日授業を受けていてふと思った。自分の仕事をとことん突き詰めてやって100%の準備と心構えで授業にのぞんだら自分の授業をきかないで寝ているやつとか関係ないことをしているやつをほっぽけるわけがないのではないか、と。逆にいうと自分の授業を聞かずに関係ないことをやっているやつを平気な気持ちでほっぽっておけるようだとまだまだその仕事に対するプロ意識が足りないのではないか、と。究極的には自分の100%のちからで仕事にのぞみ、なおかつ客がどんなことをしようとも自分の仕事をやり通すのが理想だとは思うが、人間そう良寛さまみたいな人ばかりではないしね(僕はそうなりたいが)。ようは100%の心構えで望んでいるのなら、それに対してまじめにとりあってくれない生徒を見たときにそれでもしっかり仕事をこなせるか切れてしまうのかというのはもはや人間としての度量の問題であり、そこまで大学教授みたいなイモ軍団に求めるのは酷かな、と。そうも思ったわけですよ。皆さんどう思いますかね。

今日市役所にいったのだが、今日接した市役所役員の人はみんなプロ意識をもっているようだった。かっこいい、そして清々しい。

常にプロ意識を持ち続けていたいものだ。自分に厳しく、客にはとことん親切に最高のサービスを提供する、ということで。


前まえから「柔軟性」を身につけたい、と繰り返し言っているが、それは人間関係においてもいえることだ。自分をしっかり持ちつつも一番その集団に必要とされている役回りに徹せる能力が重要だ。しかもその役割に徹することを楽しめる能力。支配者から奴隷まで、柔軟にしなやかに楽しんでときに毅然として自分がこなすべき役割をこなせるように。しかもそれを意識的にでなく無意識に、あたかも自分がもともとそう人であるかのように「自然」にふるまえればなお良い。ようは上手に空気を読んでそれに対応するということ。

最近は二つの集団の境目にたつときのふるまいかたの難しさをかんじている。自分が役割にあわせるだけじゃなくてあるていど役割を自分の形にあてはめることも当然ながら必要なわけだ。

日ごろなんとなくやっていることを意識化する。それだけでも見える世界が全然違うものだ。もしその意識が邪魔だったらまた無意識に追いやってしまえばよい。もっとも「無邪気さ」を意識してしまった時点で本当の「無邪気さ」を失ってしまうように、一度手に入れた意識というのは無意識に戻せないこともあるだろうが。まぁそれはしょうがない。何も考えずに漫然と生きるよりはまぁいいだろうということで。



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