暗闇の中に世界がある ーこの映画を観ずして死ねるか!ー

物心ついた頃から映画は日常でした。映画に関わる仕事にもつきました。映画製作に関わることを目指したこともありました。 才能のなさを自覚し道を離れました。人生の黄昏時が近づいてきた今、映画と自分との関りを見つめ直すためにブログをはじめました。※映画についてのコメントにはネタバレ情報が含まれている場合もあるのでご注意ください。

雑録・雑感・雑記

C3REYtZUoAAPUcz
大友純と聞いて、すぐにその顔を思い浮かべることのできる人はよほどの映画通であろう。しかし、オールド・ファンなら、名前は知らなくてもこの顔を見ればすぐに思い出すだろう。鋭い目つきと太い濁声、電車に乗っていて、こんな人が目の前に来たとしたら絶対に目を合わすことはできないだろう。原型そのものが怖い顔の俳優といっていい人である。

1899年11月21日、宮城県仙台市に生まれる。

旧制・東京音楽学校(現・東京芸術大学)乙種師範科卒業後、1923年から1929年まで、旧制・大阪市立難波高等小学校(現・大阪市立難波元町小学校)と旧制・群馬県師範学校(現・群馬大学学芸学部)に音楽教師として勤務した。

1929年、田谷力三、淡谷のり子らと松竹座チェーンのアトラクションに出演し、以後は歌手兼俳優としてカジノ・フォーリーやムーランルージュ新宿座、榎本健一一座などで活躍した。

1935年、成瀬巳喜男監督の『乙女ごころ三人姉妹』で、浅草六区の不良役で映画デビューする。

第二次世界大戦中は、国策で作られた移動演劇隊のひとつである東宝移動文化隊に所属し、地方巡業や慰問活動の演劇に出演した。
o0800060013321081549

戦後は、悪役を中心とした脇役俳優として、おもに東宝と新東宝の映画に出演。1961年に新東宝が倒産するまで映画を中心に出演した。以後は、テレビドラマに活躍の場を広げ、1973年まで俳優として活躍した。
C3REaR4UcAADMZ6

C3REWAIUoAALuS9
新東宝時代には石井輝男監督と中川信夫監督の作品に多数出演した。
中川監督の『東海道四谷怪談』ではお岩とともに亡霊となって伊右衛門を呪い殺す按摩の宅悦役となり、この役は彼の最高傑作とも言われている。
また、大蔵映画で製作された小林悟監督『怪談残酷幽霊』では、生涯で唯一の主演も務めている。この役は、大蔵貢社長に「憎らしそうな男を選べ」と言われた小林監督が、それならということで大友を選んだのだという。

没年月日は不詳である。

<大友純フィルモグラフィー>
    1. 1935.03.01 乙女ごころ三人娘  P.C.L.  ... 六区の不良
    2. 1938.11.09 鶯  東京発声  ... 警官
    3. 1956.03.14 地獄の波止場  日活
    4. 1956.06.22 極楽第一座 アチャラカ大当り  連合映画  ... キングコング(ギャング)
    5. 1956.11.14 波止場の王者  新東宝  ... 鄭朱来
    6. 1957.01.15 蜘蛛巣城  東宝  ... 武将8
    7. 1957.04.30 剣聖暁の三十六人斬り  新東宝  ... 星合段四郎
    8. 1957.06.26 風雲天満動乱  新東宝  ... 大淀屋八郎右衛門
    9. 1957.07.03 続風雲天満動乱 完結篇  新東宝  ... 大淀屋八郎右衛門
    10. 1958.01.15 張込み  松竹大船  ... 飯場の人夫頭
    11. 1958.09.21 白線秘密地帯  新東宝  ... 河津
    12. 1959.02.25 戦場のなでしこ  新東宝  ... 張建竜
    13. 1959.04.29 猛吹雪の死闘  新東宝  ... 大平剛
    14. 1959.07.01 東海道四谷怪談  新東宝  ... 宅悦
    15. 1960.01.13 黒線地帯  新東宝  ... 橘
    16. 1960.02.27 女体渦巻島  新東宝  ... 張
    17. 1960.04.29 黄線地帯  新東宝  ... 阿川
    18. 1960.07.30 地獄  新東宝  ... 谷口円斉
    19. 1960.09.01 女王蜂と大学の龍  新東宝  ... 呉
    20. 1961.04.25 用心棒  東宝=黒澤プロ
    21. 1963.08.28 男の嵐  日米映画  ... 坊主の七造
    22. 1964.05.17 怪談残酷幽霊  大蔵映画  ... 権藤大佐
    23. 1966.04.23 網走番外地 荒野の対決  東映東京  ... 尾形
    24. 1966.10.29 クレージー大作戦  東宝=渡辺プロ  ... 暗黒街のボス
    25. 1969.03.29 さくら盃 義兄弟  ニューセンチュリー映画  ... 藤辰
    26. 1972.11.26 混血児リカ  オフィス203=近代映画協会  ... 田淵

Tanba_Tetsuro
この大俳優を「悪役俳優」という単純なカテゴリーでくくってしまうのは大変失礼で無謀なことかもしれない。ジェームズ・ボンド=ショーン・コネリーと五分で共演した国際的男優、大物俳優、霊界俳優など、この人のイメージは様々である。丹波プロダクションや俳優養成所「丹波道場」を設立し、後輩の育成も手掛けた。そんな丹波の礎を育てたのは、やはり新東宝時代に悪役俳優として生きてきたことではないか。

1922年7月17日、東京府豊多摩郡大久保町(現・東京都新宿区)に丹波家の三男として生まれる。
家系図をたどると、天平の昔から伝わる薬師の名家で、医学書『医心方』を著した丹波康頼にたどり着くという。祖父は東京帝国大学名誉教授の丹波敬三、父は日本画家の丹波緑川、従妹には音楽学者の丹波明、親戚に元大審院院長の林頼三郎らがいる。サラブレッドの血筋である。

成城中学から陸軍幼年学校を受験するが失敗、仙台の二高を受験するも二度失敗、林頼三郎が総長を務める中央大学法学部に無試験で入学したという。
在学中に第1回学徒出陣で佐倉歩兵第60連隊に入隊、しかし態度が大きいという理由で普通の3倍ほどの体罰を受けることもあった。彼の態度の大きさはこの頃からすでに身についていたのだ。

立川陸軍航空整備学校で整備士官としての教育を受け、上官には巨人V9の監督だった川上哲治がいた。丹波はのちに、その著書で、「軍隊時代に上官だった川上哲治からリンチを受けていた。終戦後に川上が『あの時は仕方なかった』と頭を下げて廻り、巧みな処世術をするのを見たとき、川上の本性がわかった」ということを述べている。

終戦を立川で迎え、大学に復学し、学業の傍らGHQで英語の通訳のアルバイトをしていた。しかし、実際には英語は半分程度しか理解できず、トイレに逃げ込み仕事が終わるのを待っていた毎日だったという。

1948年に大学を卒業。卒業後は、公社職員となるも俳優を志し、1950年に創芸小劇場を主宰後、劇団文化座に加入した。

1951年春、勧誘されていた新東宝に入社。同期には、高倉みゆき、中島春雄、広瀬正一がいた。
新東宝では、丹波の態度が大きいことが問題とされ、1年以上役が付かないでいたが、1952年に電通傘下DFプロダクション制作・新東宝配給のセミドキュメンタリー映画『殺人容疑者』に主演級の役でデビューした。もともとこの役は、当時文化座にいた山形勲にオファーされたものだったが、山形が骨折して応じられないため、そのことを丹波が伝えにいったところ、プロデューサーから「お前がいい。お前に決めた」とと言われ決まったものである。

その後は新東宝映画の中で、陰のある二枚目として、おもに敵役・悪役として活躍した。
d421383870562f8e152465fc9c193f95

tanbateturou_satujinyougisya-e1489238375970

mig
1959年、丹波の「新東宝の作品のレベルが落ちている」という発言が記事となった。これを知った新東宝社長・大蔵貢が激怒したが、丹波が謝罪すれば許す考えでいた。しかし、丹波は所信を曲げず、『双竜あばれ雲』を最後にこの年の6月新東宝を退社した。

以後は、フリーランスとなり、フジテレビのディレクターだった五社英雄と邂逅。テレビドラマ『トップ屋』の主役として抜擢され、以後はテレビ・映画に活躍した。

丹波は先輩、後輩、監督、スタッフ、エキストラなど誰とでも分け隔てなく接することを徹底していた。撮影現場では、大俳優、大女優からエキストラに至るまで、まったく同じつき合い方をしていたという。みんな同じ、人間みな平等だと心の底から思っていたためという。

また、丹波は事前に台本を読まずセリフを覚えないことで有名だった。『柳生一族の陰謀』のとき、深作欣二監督から「自分のセリフくらい家で覚えてきてよ」と注意されたが、丹波は「俺は仕事を家庭にい込まない主義なんだ」と返したという。

2006年9月24日、肺炎のため三鷹市の病院で死去した。享年、84歳。死去する前には「霊界は素晴らしいところだ」などと遺言を残したという。

<丹波哲郎フィルモグラフィー>

gunsin3
天知茂といえば「ニヒル」という言葉が代名詞となるくらい、どんな役をやらせてもニヒルに演じてしまう俳優だった。といってもそれは彼の晩年の話。初期の頃は新東宝の悪役俳優として強烈な存在感を発揮していた。

1931年、愛知県名古屋市山口町に生まれる。本名は、臼井登。
芸事の好きな母親の影響で、幼い頃から芝居や映画の影響を受けて育ち、やがて俳優を志すようになる。

1949年、東邦商業学校(現・東邦高等学校)卒業後、松竹に入社。ここでは大部屋俳優以下の仕出し扱いでを受け、通行人などの役をこなしたものの2年後に解雇される。

1951年、兄の勧めで、第1期新東宝スターレットに応募し、合格。芸名をファンであった中日ドラゴンズの天知俊一監督と杉下茂投手から取り、天知茂とする。同期には、左幸子、久保菜穂子、高島忠夫、三原葉子らがいた。これら同期の新人たちが次々と主演に抜擢されていくなか、天知だけはここでもほとんど仕出し扱いで、最初の2年間は給料がわずか5千円、兄からの仕送りがなければ暮らしていけない日々を送った。彼のニヒルさは、この頃の経験が影響しているのではないだろうか。

1954年、蟻プロ制作の低予算映画『恐怖のカービン銃』で初主演。しかし、その後はまた脇役ばかりであった。

1955年、大蔵貢が新東宝に就任すると、経費削減のため給料の高いスター俳優とは契約を打ち切り、それまでの脇役俳優に主演が回ってくるようになる。天知もその一人であった。
1957年、『暁の非常線』で2度目の主演に抜擢された。同作で悪役俳優として注目されるようになるが、本人は二枚目俳優を望んでいたので不満であった。
199b63b427ea18aff7ea1ba26ff21179
1959年、中川信夫監督『東海道四谷怪談』で田宮伊右衛門役に抜擢される。天知がこの役に抜擢された経緯については、前回の『江見俊太郎』の回で書いたとおりである。天知の伊右衛門役は、単なる悪役ではなく善悪を超えた人間感情を表現し、迫真の演技力が評価された。これによりその後は多くの主演作が作られるようになった。
1c2fbf8906054694bad53f9639bd80b9

73_199

新東宝は東宝の労働争議を嫌ったスタッフやスターで作られた会社であるが、大蔵貢が社長になってからの利益主導のエログロ大衆娯楽路線により、かえって経営が悪化、結果、激しい労働争議が起こった。天知はその時、労働組合委員長として争議の前面に立ち、新東宝倒産まで在籍した。こうした経験も彼のニヒルな演技と風貌の形成に影響したと思われる。

新東宝倒産後は、大映や東映の作品に出演。準主役的な悪役を演じていた。『座頭市物語』の平手造酒役、『眠狂四郎無頼剣』での敵役は主役を食ってしまうほどの存在感を発揮し、主演の市川雷蔵から「どちらが主役かわからない」と不興を買ったほどだった。
また、三島由紀夫は天知のニヒルな演技を気に入り、美輪明宏主演舞台の『黒蜥蜴』での明智小五郎役を依頼した。これが後のテレビドラマ『江戸川乱歩の美女シリーズ』での明智役につながった。
以後、天知はテレビドラマを中心にニヒルさを前面にだした主役クラスで活躍する。

晩年は俳優以外の活動としてアマチフィルムを設立。宇寿木純というペンネームで『秘蔵版 日傘の女』という作品で自らメガホンもとった。
新たな映画製作の企画をすすめていた矢先の1985年7月27日、クモ膜下出血により渋谷区の日赤医療センターにて死去。享年54歳という若さだった。

<天知茂フィルモグラフィー>
  • 歌の山脈 (1952年、新東宝
  • もぐら横丁 (1953年、新東宝) - 光田文雄
  • 明日はどっちだ (1953年、新東宝)
  • 青春ジャズ娘 (1953年、新東宝) - 石川
  • 若き日の啄木 雲は天才である (1954年、新東宝)
  • 潜水艦ろ号 未だ浮上せず (1954年、新東宝)
  • 悲恋まむろ川 (1954年、新東宝) - 三条の新三郎
  • 恐怖のカービン銃 (1954年、新東宝) - 大津
  • トラン・ブーラン 月の光 (1954年、新東宝) - ゲリラ隊長
  • 悲恋まむろ川 (1954年、新東宝) - 三条の新三郎
  • 神州天馬侠 (1955年、新東宝) - 木隠龍太郎
  • 爆笑青春列車 (1955年、新東宝) - 渋谷正夫
  • 悪魔の囁き (1955年、新東宝) - 黒眼鏡の男
  • 森繁のデマカセ紳士 (1955年、新東宝) - 画家
  • 君ひとすじに (1956年、新東宝) - 大原英次
  • 女真珠王の復讐 (1956年、新東宝) - 山内雄三
  • 空飛ぶ円盤 恐怖の襲撃 (1956年、新東宝) - 大杉助手
  • 剣豪相馬武勇伝 檜山大騒動 (1956年、新東宝) - 弥太郎
  • 人形佐七捕物帖 妖艶六死美人 (1956年、新東宝) - 浅香啓之助
  • 桂小五郎と近藤勇 龍虎の決戦 (1957年、新東宝) - 永倉新八
  • 警察官 (1957年、新東宝) - 吉田
  • 明治天皇と日露大戦争 (1957年、新東宝) - 代議士
  • 憲兵とバラバラ死美人 (1957年、新東宝) - 恒吉軍曹
  • 暁の非常線 (1957年、新東宝) - 馬島政吉
  • 五人の犯罪者 (1957年、新東宝) - 天野
  • 飛竜鉄仮面 (1957年、新東宝) - 坂本竜馬
  • 稲妻奉行 (1958年、新東宝) - 秋月典膳
  • 女王蜂 (1958年、新東宝) - 真崎
  • 勝利者の復讐 (1958年、新東宝) - 深沢正夫
  • スター毒殺事件 (1958年、新東宝) - 上原城二
  • 憲兵と幽霊 (1958年、新東宝) - 波島憲兵中尉
  • 白線秘密地帯 (1958年、新東宝) - 久保木
  • 毒蛇のお蘭 (1958年、新東宝) - ザンギリ源次
  • 女王蜂の怒り (1958年、新東宝) - 剛田昇
  • 女間諜 暁の挑戦 (1959年、新東宝) - 岸井隆
  • 女吸血鬼 (1959年、新東宝) - 竹中信敬
  • 無警察 (1959年、新東宝) - 北村浩一
  • 日本ロマンス旅行 (1959年、新東宝) - 明智光秀
  • 東海道四谷怪談 (1959年、新東宝) - 民谷伊右衛門
  • 黒線地帯 (1960年、新東宝) - 町田広二
  • 女体渦巻島 (1960年、新東宝) - 陳雲竜
  • 太平洋戦争 謎の戦艦陸奥 (1960年、新東宝) - 伏見少佐
  • 黄線地帯 イエローライン (1960年、新東宝) - 衆木一広
  • 皇室と戦争とわが民族 (1960年、新東宝) - 椎崎少佐
  • 地獄 (1960年、新東宝) - 清水四郎
  • 女王蜂と大学の竜 (1960年、新東宝) - 駒形金竜
  • トップ屋を殺せ (1960年、新東宝) - 島木浩
  • 怒号する巨弾 (1960年、新東宝) - 天田公一
  • 女王蜂の復讐 (1961年、新東宝) - 田代政一郎(無鉄砲の政)
  • 恋愛ズバリ講座 (1961年、新東宝) - リッチマン社・富田社長
  • 地平線がぎらぎらっ(1961年、新東宝) - 教授
  • 南郷次郎探偵帳 影なき殺人者 (1961年、新東宝) - 南郷次郎
  • 火線地帯 (1961年、新東宝) - 黒岩
  • 黒と赤の花びら (1962年、大宝) - 田代雄二
  • 俺が裁くんだ (1962年、新東宝 / 日活) - 興津
  • 座頭市物語 (1962年、大映) - 平手造酒
  • 斬る (1962年、大映) - 多田草司
  • 長脇差忠臣蔵 (1962年、大映) - 小松伊織
  • 青葉城の鬼 (1962年、大映) - 柿崎六郎兵衛
  • 剣に賭ける (1962年、大映) - 寺田七郎太
  • 新選組始末記 (1963年、大映) - 土方歳三
  • 破れ傘長庵 (1963年、大映) - 藤掛道十郎
  • 続・忍びの者 (1963年、大映) - 服部半蔵
  • 第三の影武者 (1963年、大映) - 三木定光
  • 江戸無情 (1963年、大映) - 進藤辰之助
  • 犬シリーズ (1964年 - 1967年、大映) - 木村準太(ショボクレ刑事)
    • 宿無し犬 (1964年)
    • ごろつき犬 (1965年)
    • 鉄砲犬 (1965年)
    • 続・鉄砲犬 (1966年)
    • 早射ち犬 (1967年)
    • 勝負犬 (1967年)
  • 駿河遊侠伝 賭場荒し (1964年、大映) - 岩村の七蔵
  • 博徒 (1964年、東映) - 藤松米太郎
  • 竜虎一代 (1964年、東映) - 縄手清治
  • 顔役 (1965年、東映) - 花岡章
  • いも侍 抜打ち御免 (1965年、松竹) - 所俊二郎
  • 孤独の賭け (1965年、東映) - 千種梯二郎
  • 主水之介三番勝負 (1965年、東映) - 大塚玄蕃
  • 獣の剣 (1965年、松竹) - 星野頼母
  • 黒幕 (1966年、松竹) - 利根五郎
  • 座頭市の歌が聞える (1966年、大映) - 黒部玄八郎
  • 関東やくざ嵐 (1966年、東映) - 柳五郎
  • 男の勝負 (1966年、東映) - 奥田弁次郎
  • 「空の起点」より 女は復讐する (1966年、松竹) - 新田純一
  • 眠狂四郎 無頼剣 (1966年、大映) - 愛染
  • 雪の喪章 (1967年、大映) - 日下群太郎
  • 東京博徒 (1967年、大映) - 志村
  • 男の勝負 仁王の刺青 (1967年、東映) - 滝井伊三郎
  • 侠客道 (1967年、東映) - 中上啓介
  • あゝ同期の桜 (1967年、東映) - 間宮軍医長
  • 恐喝こそわが人生 (1968年、松竹) - 殺し屋
  • 殺すまで追え 新宿25時 (1969年、松竹) - 檜健作
  • 女賭博師 花の切り札 (1969年、大映) - 素走りの浅吉
  • あぶく銭 (1970年、大映) - さむらい政
  • 君は海を見たか (1971年、大映) - 増子一郎
  • 藤圭子 わが歌のある限り (1971年、松竹) - 作曲家・石中
  • 女番長ブルース 牝蜂の逆襲 (1971年、東映) - 土居正也
  • 傷だらけの人生 古い奴でござんす (1972年、東映) - 神田良吉
  • まむしの兄弟 懲役十三回 (1972年、東映) - 観音の弥之助
  • 昭和おんな博徒 (1972年、東映) - 島崎勇三
  • 賞金首 一瞬八人斬り (1972年、東映) - 薊弥十郎
  • 白昼の死角 (1979年、東映) - 福永検事
  • 二百三高地 (1980年、東映) - 金子堅太郎
  • 女帝 (1983年、ヴァンフィル) - 杉浦
  • 修羅の群れ (1984年、東映) - 大島英五郎
  • 狼男とサムライ (1984年、アマチフィルム) - 貴庵


emi-syuntaro01
新東宝といえば沼田曜一とともに思い浮かぶのはこの人である。準主役も演じていたが、女好きの悪役として活躍した。なんといっても新東宝では代表作として中川信夫監督の『東海道四谷怪談』での直助役があげられる。
ty-emi1
1923年9月16日、東京府豊多摩郡中野町(現・東京都中野区)に生まれる。

早稲田大学卒業後の1944年、学徒出陣により海軍航空隊少尉として神風特攻隊に入る。
特攻隊といえばよくその生き残りとして鶴田浩二が話題になったが、彼の場合、整備科の予備士官であり、特攻隊を見送る立場であった。江見の場合は本物の特攻隊員であった。出撃せずに終戦を迎えた江見は、本当の特攻隊生き残りだったのである。

1945年に復員後、12月に東宝に入社する。その理由は、武力によらず世界と対等に渡り合える場は芸術しかないというものであった。

1946年、江見渉の芸名に『民衆の敵』でデビュー。

翌1947年、東宝争議から誕生した新東宝に移籍する。新東宝誕生時から在籍したという純粋な新東宝俳優である。
新東宝では準主役級の扱いで主演映画はなかったが、悪役俳優として確固たる地位を築いていった。

また、映画出演だけでなく演劇や草創期のテレビドラマにも出演にも出演した。1957年、NTVでの『眠狂四郎』では主役を演じていた。

1959年に江見俊太郎に芸名を改めた。これは新東宝社長の大蔵貢の命によるものである。同じく大蔵に芸名を変えさせられた和田孝⇒桂之助や小笠原弘⇒竜三郎は後に元に戻したのだが、江見はこの芸名が気に入ったのか、その後、俊太郎のままで通した。

俊太郎になってすぐに出演したのが『東海道四谷怪談』であった。この映画では当初、直助役は天知茂、田宮伊右衛門役は嵐寛寿郎であり、江見俊太郎の名はなかった。しかし、同じ頃大映でも長谷川一夫の田宮伊右衛門役で『四谷怪談』が企画されており、伊右衛門役では長谷川一夫にかなわない、新東宝御大であるアラカンに傷をつけるわけにいかないという理由で、伊右衛門役が天知茂に変わった。そこで江見俊太郎が直助役に抜擢されたわけである。この『東海道四谷怪談』は怪談映画の名作中の名作といわれる作品になっており、江見も天知もそれぞれの代表作となったのである。

1960年の新東宝倒産後はフリーとなったが主にテレビの時代劇などで活躍した。
o0480036012706423561

また、日本俳優連合の副理事長、芸術文化振興連絡会議の議長、東京芸能人国民健康保険組合の理事長として、俳優の権利向上・生活向上のための諸活動にも取り組んだ。

2003年11月17日、肺癌のため東京都三鷹市の病院で死去。享年80歳。

<江見俊太郎フィルモグラフィー>
    1. 1946.06.27 人生とんぼ返り  東宝
    2. 1947.02.25 東宝千一夜  新東宝映画  ... 田中君
    3. 1948.02.21 大学の門  新東宝映画
    4. 1948.04.02 花ひらく  新東宝映画  ... 竹尾副院長
    5. 1948.09.21 三百六十五夜 東京篇  新東宝  ... 千光
    6. 1948.09.28 三百六十五夜 大阪篇  新東宝  ... 千光
    7. 1949.06.14 人間模様  新東宝  ... 木下正朔
    8. 1949.09.27 果しなき情熱  新世紀プロ=新東宝  ... 千光
    9. 1950.03.30 銀座三四郎  新東宝=青柳プロ  ... 谷山俊
    10. 1950.10.03 暁の追跡  田中プロ=新東宝  ... 八郎
    11. 1951.01.29 えりことともに 第一部  藤本プロ  ... 学生 久保田
    12. 1951.02.05 えりことともに 第二部  藤本プロ  ... 学生 久保田
    13. 1951.05.11 若様侍捕物帖 呪いの人形師  新東宝  ... 原勝馬
    14. 1951.07.06 有頂天時代  新東宝=綜芸プロ  ... 沼井
    15. 1951.08.03 戦後派お化け大会  新東宝=藤本プロ  ... 学生
    16. 1951.09.14 エノケンの怪盗伝 石川五右衛門  新東宝
    17. 1952.10.23 ひよどり草紙  宝プロ  ... 筧耀之助
    18. 1953.02.25 天狗の源内  宝塚映画
    19. 1955.06.19 たそがれ酒場  新東宝
    20. 1955.07.19 アツカマ氏とオヤカマ氏  新東宝  ... 半田三郎
    21. 1956.04.18 ノイローゼ兄さんガッチリ娘  新東宝  ... 支配人
    22. 1956.08.22 君ひとすじに 完結篇  新東宝  ... 姉小路春彦
    23. 1956.09.12 世紀の勝敗  新東宝  ... フックの鉄
    24. 1956.09.19 怪異宇都宮釣天井  新東宝  ... 本多上野介
    25. 1956.11.27 女優  近代映協  ... 山崎
    26. 1957.02.20 警察官  新東宝  ... 白ジャンパーの男
    27. 1957.04.29 明治天皇と日露大戦争  新東宝  ... 山岡少佐(第三軍参謀・軍使)
    28. 1957.05.29 妖婦 夜嵐お絹と天人お玉  新東宝  ... 中村仙三郎
    29. 1957.08.06 憲兵とバラバラ死美人  新東宝  ... 君塚八太郎
    30. 1958.02.11 世界の母  新東宝  ... その良人竹田
    31. 1958.03.14 天皇・皇后と日清戦争  新東宝  ... 李鴻章の随員
    32. 1958.05.03 スター毒殺事件  新東宝
    33. 1958.06.29 群衆の中の殺人  日米映画=NTV
    34. 1959.01.09 殺人犯 七つの顔  新東宝
    35. 1959.02.03 女間諜暁の挑戦  新東宝
    36. 1959.02.11 続・殺人犯七つの顔 解決篇  新東宝
    37. 1959.03.14 決闘不動坂の大仇討  新東宝
    38. 1959.07.01 東海道四谷怪談  新東宝  ... 直助
    39. 1959.07.17 殺人魔の接吻  日米映画
    40. 1959.11.23 雷電  新東宝  ... 本多中務大輔
    41. 1959.11.28 続 雷電  新東宝  ... 本多中務大輔
    42. 1960.01.23 危険な誘惑  富士映画
    43. 1960.02.14 地下帝国の死刑室  新東宝
    44. 1960.06.22 スパイと貞操  新東宝
    45. 1960.10.01 女巌窟王  新東宝
    46. 1967.04.08 命しらずのあいつ  日活  ... 長谷部
    47. 2000.08.25 籠女 KAGOME (V)  徳間ジャパンコミュニケーションズ

DbEN9ttU8AAYE1Y
悪役俳優というよりも民話の語り部としての彼の姿の方を知っている人の方が多いかもしれない。しかし、新東宝時代の彼は悪魔の申し子のような存在で、悪役以外の役柄は絶対にイメージできない存在だった。

1924年、岡山県湯原村に生まれる。

1941年、東京府立第六中学校を卒業。

日本大学専門部演劇科中退。

NHK大阪放送劇団研究生を経て、1947年に東横映画に入社。
当初は。1950年に大ヒットした『日本戦没学生の手記 きけ、わだつみの声』で演じた学徒士官役のような清廉で正確温厚な役柄で注目を浴びたのだった。

1953年に新東宝に移籍。丹波哲郎、天知茂、宇津井健、高島忠夫、三ツ矢歌子、池内淳子、菅原文太らとともに新東宝を支えたスターの一人となった。
新東宝が倒産したあと、彼らの多くが他社やテレビに進出し成功したのに比べ、沼田は彼らほど成功しなかった。丹波はその理由を「沼田はいい俳優だったが、酒癖が悪くキャリアをふいにした」と述べている。
img_1_m
10091119700
新東宝倒産後はフリーとなり東映任侠映画などに出演し、流れ者の殺し屋などの役柄を演じていたが、東映が実録路線へと変わっていったのに伴い、次第にスクリーンから遠ざかっていった。
その傍らで民話の語り部として活躍し、この業績によって文化庁芸術祭優秀賞に輝いた。
晩年には『リング』『リング2』に貞子の母の従兄役で出演し、印象を残した。

2006年4月29日、心不全のため埼玉県所沢市の自宅で死去した。享年81歳。

<沼田曜一フィルモグラフィー>




48a07f8e
伊藤久哉

1924年8月7日、兵庫県神戸市に生まれる

1947年、法政大学法学部政経学科を卒業。電気店を経営したのち、青山杉作に師事し、俳優座養成所を1953年に卒業。

1954年に東映と専属契約するが、1957年に東宝に移籍する。その理知的な風貌から特撮作品では科学者役を多くするが、一般的な作品では冷徹な悪役として活躍した。サングラスをかけた風貌で義ギャング映画では存在感を発揮した。

1967年にフリーとなり、テレビドラマに活躍の場を移したが、1970年代に引退。その後は季節割烹料理屋のオーナーを務めていた。
2005年頃に亡くなっている。

<伊藤俊哉フィルモグラフィー>

smile
伊吹徹

1948年1月28日、福岡県に生まれる。

関西外語大学を中退。オール東宝ニュータレント第2期生としてデビュー。
主に特撮映画の脇役・悪役として多数出演。

1971年の専属制度廃止後も活動を続け、1980年代末まで活躍した。

<伊吹徹フィルモグラフィー>

CJtSk4pUEAAE8mO
草川直也

1929年6月11日、満州生まれ。満州公立新京第一中学校卒業。

1951年、新演劇研究所の研究生から演劇活動を経て、1957年に笠智衆に師事し、付き人となる。

1959年、東宝と契約し、バイプレイヤーとして活躍した。さまざまなジャンルの作品で幅広い役柄を演じたが、主にアクション映画やクレージーキャッツの映画における悪役で存在感を発揮した。
『独立愚連隊西へ』『やま猫作戦』『クレージーの怪盗ジバゴ』などで中国人役を演じ、流暢な中国語を披露している。

東宝が専属規約制度を廃止した後も、1970年代半ばまで俳優として活動したが、その後、俳優を引退し、出家して僧侶となったらしい。

<草川直也フィルモグラフィー>

20120727ff
草野大悟

1939年9月7日、台湾・台中市に生まれる。鹿児島県で幼少期を過ごす。

1958年に明治大学に入学するが、すぐに中退した。

1961年、文学座附属演劇研究所に入所。同期に、岸田森、樹木希林、小川真由美、寺田農、橋爪功、北村総一朗ら錚々たる面々がいた。翌年に準座員として文学座に入団。1966年に座員へと昇格する。

1969年、文学座を退団。その前年に文学座を離れていた岸田森らが結成した「六月劇場」に参加。以降は、映画・テレビへの出演が多くなる。
舞台を中心に活躍する傍ら、岡本喜八、進藤兼人両監督の映画に常連として多数の作品に出演。
勝新太郎と親交が深かったことから、勝プロ製作のテレビ・映画に頻繁に出演した。

1991年2月24日、TBSラジオ『ラジオ図書館』の収録中に意識を失い緊急入院。
2月27日、脳内出血のため急逝した。享年、51歳。

<草野大悟フィルモグラフィー>

58877cda393e0_.jpg.761149bc33353d718ced42e6d2c9aa3c
堺佐千夫

1925年9月8日、東京市の電気商の息子に生まれる。東京市立浅草工業専修学校を卒業。

第1期東宝ニューフェースの試験に合格し、東宝に入社。三船敏郎、伊豆肇とは同期である。

1947年、黒澤明監督『素晴らしき日曜日』で映画デビュー。以降、黒澤明、岡本喜八、稲垣浩ら東宝の監督の常連として多数の映画に出演。若大将シリーズでは、悪役「赤まむし」として若大将・青大将の敵役を演じた。

<堺佐千夫フィルモグラフィー>
e0162444_123456
田島義文

1918年8月4日、兵庫県神戸市に生まれる。

1937年、芸術小劇場の創立に参加。1941年、日本大学芸術学部演劇科を中退する。
1946年、劇団俳優座に入団し、翌年、溝口健二監督『女優須磨子の恋』で映画デビュー。

1957年に東宝と専属契約を結び、いぶし銀の名バイプレイヤーとして活躍した。
特撮作品への出演も多く、本多猪四郎監督作品の常連であった。

東宝を退社後は、金子信雄が主宰する演劇グループ「演劇人クラブ・マールイ」に参加、舞台に出演するほか、後進の育成・指導にもあたった。東映など他社作品にも出演、活躍の場を広げるとともに、テレビ時代劇の悪家老・悪徳商人役でもお馴染みとなった。

2009年9月10日、食道がんにより死去。享年91歳。

<田島義文フィルモグラフィー>








ブログを始めて丸1年が過ぎた。一映画ファンとして観た映画の感想を記憶にとどめるため
に始めたブログだった。映画鑑賞だけでなく映画に関わる雑記も書いた。映画鑑賞と言ってもケーブルテレビの録画の鑑賞が圧倒的に多い。映画をスクリーンで観るのとテレビで観るのとでは、同じものを観ても観方が違ってくるのは当たり前だ。しかし、東京に住んでいない身としては、おいそれと劇場に足を運ぶことを物理的に無理であるから、テレビでの鑑賞も仕方ないとあきらめる。
テレビでの鑑賞のいいところは、自分の好みに関わらず、観てしまえることだ。とにかく気になった作品は片っ端から録画する。録画したものを順番に観て行けばいいのである。テレビで放映するくらいの作品であるから、まずよほどのことがないかぎり極端な外れには当たらない、というところがいい。
この1年で観た映画が、劇場鑑賞、テレビ鑑賞合わせて昨日までで672本。書いた雑記と合わせると、730の記事を書いた。我ながらよく1年間続いたと思う。
今日からブログも2年目に入ったわけであるが、気張らず、マイペースで書き続けたいと思う。


9ca3f03f495f10360dd00fbfbae5af7b
この人は、初代『ウルトラマン』のハヤタ隊員役で有名だ。近年は「ウルトラマン」の声の出演や『ウルトシリーズ』へのゲスト出演など多くなってきたのだが、この人の俳優人生をみると、悪役・敵役が多い。”正義のヒーロー”の素顔は、実は悪役俳優だったのである。

1939年10月22日、富山県黒部市に生まれる。芸名は、この生まれた黒部市に由来する。本名は、吉本隆志。

富山県立桜井高等学校、中央大学経済学部を卒業し、1962年に東宝へ入社する。

1963年、石坂洋次郎原作の青春文芸作『暁の合唱』で、主演の星由里子の相手役としてデビューする。東宝では、二枚目スターとして売り出したかったらしいのだが、どういう事情かわからないが、その後は『国際秘密警察シリーズ』や特撮ものの悪役としての出演が多くなった。
私の記憶では『三大怪獣 地球最大の決戦』で、若林映子演じる王女の命を狙う某国の殺し屋役を演じたのをよく覚えている。
CmgtxF0UkAEz1FS

1966年に、特撮テレビドラマ『ウルトラマン』の主人公・科学特捜隊ハヤタ隊員役として起用された。平均視聴率36.8%を誇る大ヒットとなった『ウルトラマン』で、彼は一躍お茶の間の人気者となるはずだったが、人気者となったのは着ぐるみの「ウルトラマン」の方で、彼の人気はいま一つぱっとしなかった。
82fc1b79309bc277d00ab160dae2ef6db0791433.30.2.9.2
『ウルトラマン』終了後は、再び東宝映画に出演。特撮ものなどに出演したが、いっこうに日の目を見ず、1970年び退社し、それからはテレビドラマへ本格的に転身した。
同年、NET(現テレビ朝日)の『燃えよ剣』に永倉新八役でレギュラー出演、これが『ウルトラマン』に次ぐ当たり役となった。

以後、時代劇や現代劇、特撮もののゲストで悪役を多く演じるようになった。

1990年代以降は特撮ブームの再燃により、特撮作品や関連番組、イベント等への出演が多くなり、一般ドラマでの役柄も広がった。
img_10

『ウルトラマンティガ』のレナ隊員役の女優・吉本多香美は実の娘である。

<黒部進フィルモグラフィー>


6c6d8011cae2e6b047613f6476f7f57a
この人を悪役と言う枠でくくるのは正しくないと思う。まして、東宝という会社の作品ではなおさらだ。東宝映画の中で、この人の存在感は、戦争映画や怪獣・特撮映画の軍人役で発揮された。しかし、一たび悪役に転じると、ドスの利いた声やにらみつけるような鋭い眼光、逞しい風貌で主役を食ってしまうような強烈な個性が光った。とくに、無責任シリーズでの適役は、喜劇というジャンルを忘れさせてしまうほどの存在感だった。

1913年8月28日、青森県青森市に生まれる。本名は田中実。父は公務員、地元の小学校から県立青森商業に進学し、1932年に卒業。
1933年、地方巡業の役者となり各地を回る。

1935年、森川信らのレビュー劇団ピエル・ボーイズに入団。この時、月並洋三郎や月並貫一の芸名を名乗る。

1936年に退団後、中国の上海に渡り、劇場の踊りの振付師を務める。

1937年に帰国し、名古屋の劇団に身を寄せるが、まもなく応召。1938年に除隊。

1939年に毛利賢二の芸名で新興キネマ演芸部に所属。

1942年にかつてピエル・ボーイズで一緒だった清水金一や堺俊二らと新生喜劇座を結成。以後は本名の田中実の名で舞台に立つ。座長である清水の横暴振りに不満を抱き堺らとともに退団。水の江瀧子主催の劇団たんぽぽに堺や有島一郎と共に入団。

1944年にふたたび応召、終戦まで軍隊生活を続ける。

DCNv157UwAQDErF
1947年、劇団たんぽぽに戻るが、戦前のスター松山宗三郎こと小崎政房のいた空気座に移る。そこで、小崎演出の『肉体の門』に出演、センセーショナルな内容が話題を呼び大評判になった。
1948年にマキノ雅弘監督によって映画化される際、舞台と同じ役にキャスティングされ、映画デビューする。これがきっかけで新東宝に入社。

1950年、新東宝の大作『細雪』に出演する際、田崎潤と芸名を変える。その理由は、本作の共演者に田中春男がいて名字が被るので会社から名前を変えるように要求されたからである。本名の田中から「田」の字を1字とり、『細雪』の原作者である谷崎潤一郎から「崎潤」をもらって「田崎潤」とした。

1951年には『オール読物』に連載が始まったばかりの村上元三の小説『次郎長三国志』を読んで、作中人物・桶屋の鬼吉がすっかり気に入り、その役を演じたくてマキノ雅弘監督に映画化の企画を持ち込んだ。田崎も鬼吉役で出演したが、初めは低予算の時代劇だった。しかし、シリーズ化され次第に人気を呼び、東宝のドル箱になるとともに、マキノ雅弘監督の代表作ともなった。
img_2_m
1960年代からは東宝を中心に出演。黒澤作品からゴジラシリーズなどの怪獣・特撮映画、戦争映画などに多数出演。幅広い役柄を演じ、東宝では欠かせない脇役となった。
とくに『海底軍艦』では、日本の敗戦を知らず南海の孤島で、強力無比の戦艦を作り続ける狂気をもった軍人役を演じたのが印象深い。
img_12
『八甲田山』では、生まれ故郷の青森の地元民役で出演、完璧な津軽弁を披露している。

三船敏郎とは一番の飲み友達だった。土屋嘉男は夜銀座を歩いていて、田崎と三船の二人が広い車道の真ん中を大声でわめきながら歩いているのを見て、慌てて隠れたことがあったという。それほど二人が飲むと酒癖が悪く、「成城のピストル事件」という閑静な住宅街での発砲事件の噂もあるほどだった。

1985年10月18日、肺癌のため死去。享年72歳。

<田崎潤フィルモグラフィー>

o0420022513117319217
この人のことは1970年から73年にテレビドラマ『キイハンター』の潜入捜査官・小田切役でおなじみの人が多いだろう。しかし、イケメンな割にはどこか冷酷さが抜けきらず、どんなに善玉役をやっても決して信用しきれないものを持っていた。やはりこの人は悪役がよく似合う。

1933年3月31日、東京都足立区に電気工学士の息子として生まれる。

1953年、『青い山脈』の池部良にあこがれ、俳優を目指し、大学を中退する。

1955年、東宝のニューフェイスとして合格。『ゴシラの逆襲』を皮切りに、端役として出演を繰り返し、1957年本多猪四郎監督『別れの茶摘歌姉妹篇 お姉さんと呼んだ人』で本格デビューする。

1959年、岡本喜八監督『独立愚連隊』で注目を浴び、以後、岡本作品には多くキャスティングされた。低く響く低音の声と精悍な要望を活かし、敵役・軍人役で持ち味を発揮した。
20140528020129
1960年、福田純監督・鶴田浩二主演『電送人間』では、電送人間役を演じたが、中丸はこの役を「お化け役」のように感じたそうで、『ガス人間第一号』でもガス人間役を依頼されたが思わず断ってしまったため、しばらく干されたという。

1968年、テレビドラマ『37階の男』に主演。同年、東宝を退社。その後は、テレビドラマと舞台に主軸をおく。
女優・ひし美ゆり子さんのブログに中丸忠雄との共演の記事が載っていた。
https://blog.goo.ne.jp/anneinfi/e/7925eb473482cca0a93166280487e4a5

シェイクスピア演劇への貢献を認められ、英国政府からサー(sir)の称号を与えられた。

2006年、テレビ東京系『ザ・決断!あの一瞬』に出演以降、芸能活動から遠ざかる。

2009年4月23日、胸部動脈瘤破裂のため順天堂大学医学部附属順天堂病院で死去。享年76歳。

<中丸忠雄フィルもグラフィー>

telegian03

天本英世は、インテリジェンス溢れる個性的な脇役や人間離れした悪役を数多く演じた「怪優」である。テレビ『仮面ライダー』で「死神博士」を演じた俳優としてお茶の間に知れ渡った。
Db8Kcb7V0AAQ9Ab

1926年1月2日、福岡県若松市(現・北九州市若松区)に生まれる。

1943年に旧制若松中学校(現・福岡県立若松高等学校)を卒業し、翌1944年に旧制第七高等学校(現・鹿児島大学)に進学。同期には、『仁義なき戦い』の原作者である飯干晃一がいた。

1945年に学徒出陣で兵役に召集されたものの、営内では上官に反抗し、その都度鉄拳制裁を受けた。この経験が自身の反骨志向を育み、後に戦争を賛美するような映画には絶対に出演しないとまでなった。

1948年に東京大学法学部政治科に入学。大学では国際政治学を専攻し、当初は外交官を目指していたが、当時の政府の政治姿勢に失望し、文学や演劇に没頭するようになった。その後、東京大学を中退し、劇団俳優座に所属する。
東大法学部から外交官というエリートコースを捨てて俳優を目指したことについて、本人は次のように述べている。
「これに答えるには一晩かかるよ。ようするに、僕にとって俳優になるというのは乞食になるというのと同じ意味だったんだ。生きることを捨てるというかね。かといって、それを怖いとも寂しいとも思わなかった」

1954年、28歳でオペラ『オテロ』において初舞台を踏む。その直後に『女の園』と『二十四の瞳』で映画に初出演する。

1958年に東宝と専属契約を結ぶ。以後、アクション映画や特撮映画などで個性的な脇役や悪役として活躍する。特に、岡本喜八が手掛けた作品の大半に出演し、岡本監督は天本の出演場面を「自分の作品としてハンコを押しているようなもの」と語っている。
BsH1Me5CUAEISK8

cb247e5019f52e6f4262a47a0a096921

この時期から私生活ではファルーカ(スペイン音楽の一種)とフラメンコを端緒としてスペインに深く傾倒していく。
俳優としての活動と並行して、フラメンコ・ギターの伴奏や舞踏家によるフラメンコ舞踊を付けた編成で原詩と日本語訳の両方でフェデリコ・ガルーシア・ロルカの詩を朗誦する活動も行っていた。時には、旅行社と協力してスペイン方面へのツアーを企画してそれを引率することもあった。

1970年からはテレビドラマに活躍の比重を移し、主に不気味な存在感を放つ悪役として活躍する。

1991年からはフジテレビ『たけし・逸見の平成教育委員会』に東大出身の解答者としてレギュラー出演し、一般的な知名度を一気に高めた。「年収300万円だったのが、『平成教育委員会』に出てから月収300万円になった」などのエピソードも披露している。

2003年3月23日に急性肺炎により故郷の福岡県北九州市若松区にて逝去。77歳没。
2005年10月に遺灰がスペイン・アンダルシア州のグアダルキビール川源流近くに散骨された。

<天本英世フィルモグラフィー>

↑このページのトップヘ