2007年03月

2007年03月12日

Turkish Cafe  プロットのうちの一つ。

 2限目の社会学は退屈なりに面白い授業だった。教授はジェンダーと性について熱心に語っていた。当時それほど一般に認知されてなかった性の自己統一障害のことを、無知な学生たちにも理解して欲しいという意思が伝わってきていた。
 単位目当てで座っているだけの無気力な学生を相手に人生を浪費したい人間なんているはずはないから、きっとその教授は使命感を帯びていたのだろう。100人には少し足らないくらいの学生がすり鉢状の大教室で講義を受けていた。
 情報の受け手の数が多ければ多いほど受け取る側の責任感は欠落していくものだが、ここでもそれは例外ではなかった。女の子同士はくすくす何か話し合っていたし、ある学生は机に突っ伏して寝ていた。ひどい者になると雑誌を広げて堂々と読んでいた。
 教授は授業終了時刻のきっちり10分前に授業を切り上げて出ていった。学生もみんな立ち上がって、あるいは親密に雑談し、あるいは足早に教室を出ていった。水曜の午後はどの学生も講義がないのでみんなそれぞれの午後を楽しみに出かけるのだ。
 その日はよく晴れていて10月の末にしては暖かく、そして窓から見える空はとても高く澄んでいて、緑の山の連なりが遠くに見えた。

「ちょっと話あるんだけど、いいかな。」
 僕は前々から気にしていたことを質問するために彼女を呼び止めた。彼女は同じ学科のメガネをかけた女の子と一緒にいたが、僕と女の子を交互に見たあと、話あるみたいなの、午後の部活で会いましょう。と女の子に言った。女の子は、頑張りなさいよね、という一瞥を僕にくれて、そして出ていった。
 みんなが出ていった大教室はがらんとしていた。右手の前方に出入り口があったが、僕と彼女は右手の2番目の席まで戻って腰かけた。僕は立ち話でもいいやと思っていたが、彼女は奥に座り、席をひとつ挟んで僕に座るように勧めてくれた。
「あらためてどうしたの。顔がいつになく真剣だから、気になっちゃう。」
 そういって、彼女はにっこり笑った。笑うと口元に小さいシワが出来てそれがひどく魅力的に見えた。僕は今でもその顔を思い出すことが出来る。その笑顔を見せてくれるならなんでもしてあげる。そう言いたくなるような笑顔だった。
 だが、最近の彼女は明らかに疲れていて、そして淋しそうだった。秋の深まりとともに彼女の気持ちが次第に沈んでいくのが僕には分かった。彼女には恋人がいたけれど、何かしらのすれ違いを抱えたままつきあっていることを彼女の友人から聞いていた。
 もちろん恋人同士の間のことは、本当のところ恋人同士にしか分からない。ささいな痴話ゲンカがこじれただけなのかも知れないし、好みや性格とか、性の相性がうまくかみ合っていないのかも知れない。そもそも他人がお為ごかしに口を出すべき問題ではない。
「もし僕がブラジャーになったとしても、毎日君はつけてくれるかい?」
「そんなの困るわ。毎日って訳にはいかないし、色々なのをつけて楽しみたいわ。」
 そんなあまりにも下らない冗談から、深刻な別れ話になることだってある。
 心配してかける言葉には、往々にして幾分かの下心が混ざっているものだ。今回の僕の言葉にもその下心は多分に含まれていただろう。僕は彼女が恋人を作る前から彼女に対して想いを寄せていたし、彼女が僕に対して友人として好意を持ってくれていることも感じていた。
「最近、様子が変だよ。良かったら相談に乗らせてくれないか。心配なんだ。」
 何か言われたとき、何か答えようとするとき、彼女は必ずといっていいほどにっこりと微笑んだ。彼女は実にいろいろな種類の笑顔の持ち合わせを持っていて、頬杖をついたままで僕の顔をのぞき込むようにして、首を少し傾げて困ったように笑った。
「ありがとう。知らないうちにあなたに心配かけてしまったみたいね。」
 彼女は僕の心配と好意を全て受入れ、そしてきっぱりと拒絶した。
「そう言ってくれてすごくうれしい。でもそうするわけにはいかないの。これは私と彼との間の問題だし、あなたに入ってきて欲しくないのよ。」
 僕はしたたかに打ちつけられ、ひどく自分を恥じた。僕の下心はすべて見透かされていたにもかかわらず、彼女は僕を軽蔑しなかったし責めなかった。僕を巻き込もうとはせず友人として扱ってくれたのだ。
「申し訳ない。気になっていたから、つい差しでがましいことを言った。許して欲しい。」
「いいの。こっちこそごめんなさい。すべてうまく行ってるから心配しないで。」
 僕と彼女は一緒に教室を出て、講義棟を出たところで別れた。心配をかけた埋め合わせに食事でもおごると言ってくれたが、僕は適当な用事を作って、また今度楽しみにしてると断った。

 それから3年が経った。
 大学を卒業してからはわざわざお互いに連絡を取り合うことはなくなった。結局僕と彼女は友人の域を超えることはなく、僕の片想いは一応の結末を迎えた。
 当時の僕は市街地の中心部に近い小さな会社に勤めていたのだが、小回りが利くということでちょっとした用事にはいつも自転車を使っていた。近所にある取引先の事務所で用事を済ませて会社に戻る途中だった。女の子二人連れが雑談をしながら信号を待っていて、僕は追いついて止まる格好になった。
 左の子に比べて右の子は背が高かった。低い方はストレートのロングヘア、高い方は肩にかからないソバージュだった。上半身を互いに向けあって話をしていたけれど高い方は実際は165cmくらいと言ったところだった。
 ただ、姿勢が良くて周りの注目を引くのだ。背筋を反らせて半身に立っているので、後ろからでも形の良い乳房のかたちがはっきり分かった。顔は分からないが全体を見る限りは相当な美人といって差し支えなかった。
 僕は髪型が逆の方がそれぞれに似合いそうなのにな、とぼんやり思った。そして見ているうちにひどく気持ちが揺れてくるのを感じた。何かが僕を揺さぶって僕は文字通り体が震えた。思い出せ。とにかく思い出せ。何かが僕の頭の中で叫んでいた。
 果たして背の高い方の女は彼女だった。僕は3回本人であることを確認し意を決して話しかけた。

 僕は大学の研究室名簿を引っぱり出してその週の金曜に連絡を取って酒を飲みに誘った。当時よく通っていたジャズを聴かせるバーに誘ったところ、彼女はぜひ行きたい、とても楽しみにしてる。と快諾してくれた。
 社会人になった彼女はすっかり明るさを取り戻していた。新しい職場は忙しいけどやりがいがあるし、あなたも元気そうでとてもうれしい。快活にしゃべり、生きる力にあふれている彼女を見るのはとてもいい気持ちだった。
 彼女は僕の力など必要とせずに立ち直ったのだろうし、つらいことや苦しいことをじっとやり過ごして彼女はここまで来たのだろう。僕はそう考え、彼女を改めて素敵な女性だと思った。
「あの時はありがとう。」
 とりとめのない思い出話の最中に彼女は僕に礼を言った。
「あの時って、いつのことかな。」
「あなたが相談に乗らせてくれないか、って言った時のことよ。あれね、本当にうれしかった。もうちょっと弱っていたら絶対にすがっていたわね。そしてあなたに抱かれていたと思う。どう、嬉しい?」
 やれやれ。女ってのはいつも後から思わせぶりなことを言ってくる。なんで僕をそっとしておいてくれないんだ?
「いや、君は絶対にすがってこなかったろうね。俺をからかうのはやめてくれ。」
「相変わらず見抜いてるのね。残念。」
 僕は呆れ、そして次第に腹が立ってきた。彼女に対する怒りではなくて世の中の理不尽さに対してだ。彼女が好意を寄せてきているのがはっきり分かったものの僕は半月後には日本を発つ予定を組んでいた。少なくとも一年は帰るつもりはなかった。
 僕と彼女は一体どこまですれ違い続けるんだろうか?すれ違っているかどうかも知らないというのに僕はそんなことを考え続けていた。




sisi4400 at 21:35|PermalinkComments(0)