uttari manussa dhamma

自分の雑多な思考を発信していきます。 お気軽にコメントくれたりくれなかったりしてください。

2008年10月

自明な存在への警鐘

透き通る明晰性はいかに生れ得るか?

人間は偏見から逃れ得ない、もはや偏見の産物である。
その偏見を醸成し得るところの幼少体験、即ち構造的暴力。それに対する我々の社会学的無意識。いわば、四肢の自由を奪われて二重に投げ出された存在。

ひとえに我々はそのような段階を超過する必要性がある。即ち価値の理論的、体験的相対化を目指すべきである。そのような地平に立つにあたり、我々は生物学的領域に踏み込む必要がある―限界にまみれた細胞。逃しがたい感情。現前の現実はあくまで我々がそうであると認識しているに過ぎないのであって、決してあるがままにそうなのではない。生物学的限界。脳に対する懐疑。それが求められている!無為な認識の危険性。

我々は外界からの刺激に対し直ちに、直線的に、自動的に、反応するのではない。2つの段階の存在。刺激に対する反応の自由性。ここにおける能うかぎりの認識の明晰性。フランクルによる例証。

従って、我々は偏見を、それが生み出す刺激の変容を強いる圧力を、生物学的に、社会学的に、経験的に相対化しなければならない。この並列が喚起するところの経験の重要性。これを妨げるもの、並びに偏見を生み出すものを、我々は、構造的暴力と呼ぶ。

これらを第一に理論的に、第二に経験的に相対化する地平への接近を果たしているとき、我々は自身を信じることができる―意外な福音。それに伴う歓喜。ここにおいて透き通る明晰性が了解される。

我々は、自明な存在ではなく、判断し、掴み取る存在でなければならない。



限界、本質、一般、それらの関連

 自身に一つの限界を設け始めてはいないだろうか。それはうつろいゆく自信であり、一般的話題であったり、感性であったりする。

それはすごくもったいないことだ。

それは、成長を達し得ない要因に生み出されたところの、「ある種の限界を生み出すもの」がその中身を失い、形だけ残って、成長を達し得ない要因が解消された後もそこに佇んでいる、ということだからだ。

上段のことは、「うつろいゆく自信」について言える。

また、「一般的話題」については、自身にとっての価値が逓減した。「感性」についても同様のことが言えなくもない。

本質的価値(と自分が考えているもの)に自分の視野を据え置こうと移動を試みるのはいいが、それでも眼前に一般的価値(と自分が考えているもの)は存在している。それに基づく評価も、それの枝葉としての一般的話題や、振る舞いも重要要素として在る。なぜか?

それは誰も他人が本質的価値を直視して価値を置いている、という確信が持てないが故に、表面的に表れる一般的価値に基づく振る舞いや態度といったもので本質的価値の存在を類推することでしか、その確信に至る道程を得ることはできないからである。

上記の現実がある以上、自身に設けられ始めている限界は不都合を生じさせうる、本質的価値の発揮においても。従って、本質と一般の位置づけを理解したうえで、一般の発揮に注力すること自体、自身の軸を外れているとは言えない。

但し、一般的価値の発揮と言っても、それはあらゆる地平に水平に並べ立てられているのであり、決してれんがを積むように垂直に、それぞれの価値に等しさが見当たらないというわけでは決してないのだ。

従って、本質的価値の醸成を自らが望むのならば、一般的価値の醸成が必要であり、そのためには、自身に設けられ始めている限界を何らかの方法で打破する必要がある。

克己

今日は同じ会社の内定者の友達と二人ですごいいろいろ話した

彼とはすごく話が合う。初対面の開始5分でもう絶対こいつ話せるって分かった

てか、話が合うな、って人と、合わないな、って人がいるけれども、自分の場合はそれは、論理が先か、感情が先か、という問題に還元される

自分は感情が先にあって、それを伝えるための手段として論理を用いるけれども、自分の伝えたいことをすべて言葉や論理にすることはできない、要は枠組みからはみ出している部分が多くある

それがある人にとっては論理の飛躍のように捉えられることもある

一方最初から枠組みにはめたきれいな考え方をする人もいて、そういう人と話しているとお互いにかみ合わないことが多い

同様の感性を持っている人と話すのは楽しい

そういうわけで、彼とはすごく話が合うって話をしていた

彼とは人生において一分一秒を無駄にできないという話、なぜなら死は思ったよりいつ訪れるか分からないから、をしたり、まわりをどうこう言うよりも自ら動いて変えていくのが大事という話をしたり、全てのことと正面から向き合うことの重要性について語ったりした

特に最後のやつは、結局のところ他人はごまかせても究極的に自分はごまかせないわけで、自分に自分を信じさせるような行動を、自分をごまかさない行動をし続けることが、自分自身に対する信頼残高を増やしていくという重要な行為に繋がるからであるという意味で、すごく盛り上がった

最終的には、手段の目的化こそが恐れるべきものだという話に落ち着いた

なんのためにこれをやるのか?という問いを終生問い続けなければならない

なんのために生きるのか?客観的な意味が存在しなくても、自分でそれを意義付けることが大事

最終的に自分が納得のいく死に方をできるように、全て自分の行動をそこに紐付けて考えることが肝要だと思われる

幾分具体的な話もして、お互い地域コミュニティの活性化にすごく興味があるのだけれども、そのために必要なのは各地域におけるアイデンティティの形成であり、そのために必要なのは地域住民が自らの地域を見つめなおし、魅力を再発見する環境であり、自分達に出来うることはその見つめなおす環境の整備であり、その手段のひとつがアートであり、ということだった

単に経済的発展というひとつのものさしで地域を捉えても、それは相当に浅い話になってしまう

感情の発露、それを促す環境設定をやりたいね、ってことをかなり熱っぽく喋っていた。エクセルシオールで

何より、変えるのは自分、自分次第で何でもできる。靴が作りたいってだけで単身イタリアに渡って、数年経って今ではイタリアにおける靴作る日本人の中で2番目くらいに有名になってコンバースとか色んな会社と共同作業している人もいる

それはその彼の友達の兄貴なんだけれども

足りないのは意志と勇気だけだ、と思った

ともかく、こんな深遠な話ができる仲間がいるという意味で、今の会社でよかったーって思った

浅ましい考えだけはしたくない、最近そんな会社ばっかりだけれども

これでまたモチベーションが上がった





それにつけても最近、自分に打ち克つという言葉の重みと意義を感じる
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