人は時間を過去から未来へ向かう直線というアナロジーで捉えているが、必ずしもそれは至当ではないのではないか。
時間というのは一つの次元であると解するならば、直線が内包する量の概念はむしろ3次元に属しているということからして、ここにおける混同は次元としての独立性を奪うからである。
中世では時間を円環するものとして捉えていたという。
近代以降はそれを直線的に捉えることが一般的になったというが、ここでの両者の捉え方がそれぞれ可能であると一般に流布していたことから、やはり時間はこのどちらでも捉えきれないのではないだろうか。これに対する反論として、それは単に時代が流れることによる進歩だとか、啓蒙だとか、その他このような要因を持ち出すことが考えられるが、私にとってはこのどちらも一定の意味での妥当性を認めうると感じられる。
「その他の形においてもありえるもの」である以上、学的な定義とはなり得ないのであって、従って時間の概念は十分であるとはいえない。
かといって時間を十分に表す語彙は存在しない。ここにまず、少なくとも今の段階での言語の限界が露呈される。
では新しい語彙を生み出せば事足りるのか?
時間がどのように捉えうるのか考えてみると、まず、結局一般に言われる過去も未来も存在していないものであることが思い浮かぶ。
では現在は存在しているのか?少なくとも私達が捉える限りにおいての時間はある地点、ある現在だけであって、過去も未来もその類型にすぎない。
してみると現在は単に非連続的な点としてしか捉えられない。
しかしこれではまだ不十分に思える。時間は否応なく流れているとの感覚を私達は禁じえないからである。
しかし流れているものとしての捕捉は点というそれと矛盾する。
従って、時間はその両者を否定し続け、反復し続けるものとしてしか捉えられない。ここに知覚の限界が露呈する。
しかし客観的世界があくまで知覚による主観的世界の中で構築されているのだとしたら、つまり世界は各人の意識の中にしか存在せず、その中で完結しているのだとしたら、人の数だけ世界が存在することになり、時間の定義は各人の中で、外部によるその対象への概念的接触を含めて、完璧なものとして既に定式化されているとも考えられるかもしれない。それが流動的なものであっても。
時間の質についても広く一般的な捉え方とは異なる捉え方が可能かもしれない。
時間というのは一つの次元であると解するならば、直線が内包する量の概念はむしろ3次元に属しているということからして、ここにおける混同は次元としての独立性を奪うからである。
中世では時間を円環するものとして捉えていたという。
近代以降はそれを直線的に捉えることが一般的になったというが、ここでの両者の捉え方がそれぞれ可能であると一般に流布していたことから、やはり時間はこのどちらでも捉えきれないのではないだろうか。これに対する反論として、それは単に時代が流れることによる進歩だとか、啓蒙だとか、その他このような要因を持ち出すことが考えられるが、私にとってはこのどちらも一定の意味での妥当性を認めうると感じられる。
「その他の形においてもありえるもの」である以上、学的な定義とはなり得ないのであって、従って時間の概念は十分であるとはいえない。
かといって時間を十分に表す語彙は存在しない。ここにまず、少なくとも今の段階での言語の限界が露呈される。
では新しい語彙を生み出せば事足りるのか?
時間がどのように捉えうるのか考えてみると、まず、結局一般に言われる過去も未来も存在していないものであることが思い浮かぶ。
では現在は存在しているのか?少なくとも私達が捉える限りにおいての時間はある地点、ある現在だけであって、過去も未来もその類型にすぎない。
してみると現在は単に非連続的な点としてしか捉えられない。
しかしこれではまだ不十分に思える。時間は否応なく流れているとの感覚を私達は禁じえないからである。
しかし流れているものとしての捕捉は点というそれと矛盾する。
従って、時間はその両者を否定し続け、反復し続けるものとしてしか捉えられない。ここに知覚の限界が露呈する。
しかし客観的世界があくまで知覚による主観的世界の中で構築されているのだとしたら、つまり世界は各人の意識の中にしか存在せず、その中で完結しているのだとしたら、人の数だけ世界が存在することになり、時間の定義は各人の中で、外部によるその対象への概念的接触を含めて、完璧なものとして既に定式化されているとも考えられるかもしれない。それが流動的なものであっても。
時間の質についても広く一般的な捉え方とは異なる捉え方が可能かもしれない。
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