文明の同盟『世界のメディア教育政策』序論
国連「文明の同盟」『世界のメディア教育政策-ビジョン、プログラム、挑戦』(2009)の序論訳です。
国連「文明の同盟」『世界のメディア教育政策-ビジョン、プログラム、挑戦』(2009)の序論訳です。
序論 メディア教育政策 ~グローバルな理論に向けて
Divina Frau-Meigs教授(メディア社会学)
ディレクター、「eラーニングとメディア教育・エンジニア」
新ソルボンヌ大学(パリ)
divina.frau-meigs@univ Paris3.fr
www.medias-matrices.net
ジョーディ・トレント
プロジェクト・マネージャー(メディア・リテラシー・プログラム)
国連「文明の同盟」ニューヨーク(USA)
torrent@un.org
www.aocmedialiteracy.org
メディア教育の重要性は、世界的に徐々に認められつつある。革新的な教職
員が教室の中で孤立した時代があり、研究者が実践活動の輪を広げ、専門家が
草の根の活動の場を拡大してきた時代があった。そしてようやく政治家や教育
行政担当者の時代が来たのである。潮は満ちた。メディア・リテラシーの知の
実は熟し、教育やメディア、そして市民社会の中の多様なステークホルダーた
ちが、いわゆる「情報社会」によってはぐくまれてきた新しい挑戦、市民がそ
の社会で幸福になるために必要となる新しい学習の文化、市民社会の平和的発
展、先住民文化の保護、持続可能な経済の発展、現代の社会的多様性の尊重と
いったことがらを意識する時が来たのである。
また、グローバリゼーションは、政府や国際組織(ユネスコ、欧州委員会、
欧州議会、文明の同盟、イスラム教育科学文化機構、イベロ・アメリ
カ事務局、アラブ連盟、ノルディコム子ども・若者・メディア国際情
報センターなど)の間に橋を架けることによって、世界的規模の一貫した持続
可能な発展という緊急の必要性に応えるために、変革と相互連携へ向けた新し
い機会をもたらしてきた。草分けであったグルンバルト宣言(1982年)は、そ
の後、情報リテラシーと生涯学習についてのアレクサンドリア宣言(2005年)
によって引き継がれた。また、メディア教育パリ・アジェンダ(2007年)も同
様の目標に向けて、共同で数多くの原理と目的をまとめている。
ユネスコのメディア教育キット(2007年)やユネスコの現在の「メディア情
報リテラシー・カリキュラム訓練者研修」イニシアティブ、文明の同盟による
メディア・リテラシーの実現の可能性や希望の可能性についてのあらゆる過程
に対する多面的支援など、数多くの協定の道具がある。これらは「知識社会」
構築に向けた新しい国際的な枠組みに向かっているのである。
この枠組みは、情報社会ワールドサミット(2003~2005年)と文化表現の多
様性の保護と促進会議(2005年)の期間中とその後にかけて構築されていっ
た。このような国際会議は、十分とは言えないものの、新旧メディアの役割を
意識化することに役立ってきた。また、情報やコミュニケーションの過程の解
明を可能にしてきた。
そして、高度な原理を実際に使える形態に変えていくという重要な任務が残
っている。こうして、政策の時が来たのであり、実施化の経験の共有が求めら
れているのである。
定義、カリキュラム開発、評価といった問題ははもはや研究者と教育者だけ
の関心事ではない。彼らは未来に対するオプションを定義し、そして社会改革
を超えた社会変革の精神を共有し、確かめ、適用しうる戦略を求めているので
ある。地域的な先取事例はすでに存在している。例えば、欧州委員会コミュニ
ケーションでは、すべての加盟国が市民にメディア・リテラシーの水準に対す
る国レベルの評価を行うことを推奨した(2007年)。また、サウジアラビアで
は最初の中東におけるメディア教育会議が開催された(2007年)。一方、ロン
ドンと香港では、国際メディア・リテラシー研究フォーラム(2008年)、ナイ
ジェリアでは最初のアフリカ・メディア・リテラシー会議(2008年)が開かれ
ている。
このように、担当部門を構想し、その内容や社会的インパクトに影響をもた
らす政策的枠組みを考えることは時機を得たものであり、必要なことである。
本書に集められた経験は、次のような目的に用いる。すなわち、各地域に存在
する評価の高い実践をいくつか紹介するとともに、それらの土台となっている
教育的、メディア的な文化を明示することである。それぞれの国で自らの枠組
みを構築するための政策を実施し、評価するための診断道具や精神的なガイド
として、このような過程が取り得るのは望ましいことである。
それは、メディア教育が社会に求められているという現実に応えて改革を進
めようとする政策担当者や教育者、メディア専門家、研究者、活動家たちを支
援することになる。
このグローバル化の時代に、マッピング・プロジェクトは現代知識社会の発
展の中で、メディア教育に関わるさまざまな人々が社会の多様な領域で積み重
ね、交流してきた成果を明らかにすることをめざしてきた。彼らは、単なるプ
ログラムを作るだけではなく、問題、挑戦、結果を考察し、解決に向けて、向
かうべき方向や開かれたイニシアティブを指し示してきた。彼らの貢献は、3
つの横断的なテーマを理解するための見通しを得るために、ケース・スタディ
や一般的な実践例を超えてもたらされた。
すなわち、第一に、メディア教育の戦略と政策におけるローカルとグローバ
ルの連携、第二に、メディア教育の公共的価値、第三に、複合的なパートナー
シップによる参加と実施である。この報告書は確かにグローバルな視野に立っ
て書かれているが、すべての国や地域のメディア教育プログラムを紹介するこ
とはできなかった。
例えば、オーストリアやニュージーランド、オーストラリアのような、しっ
かりしたメディア教育プログラムがそれぞれの政府によって発展している国が
この本には取り上げらはれていない。「みんなに合う服」という解決策は存在
しないし、文脈が重要だと言うことを十分意識し、第一部から第三部にわけて
上記のテーマを論じている。
第一部は、メディア教育そのものに内在する重要な問題を検討している。
すなわち、もっとも大きな関心事である発達や人権問題を前提にしたメディア
教育の定義や核となるコンピテンス、そしてその異文化の観点によるメディア
教育を実現することである。
第二部は、学校の中での能力形成やその支援を可能にする環境に焦点を当て
ている。
第三部は、教育環境の外側にあるメディア教育の要素を扱っており、大人や
若者たちなどの間の意識を活性化させ、南北、南南、東西交流のような市民に
よる媒介や参加を作り出すという力の視点から、政治制度や民間分野、市民社
会等の役割を分析している。
第一部では、メディア教育の中核となる定義にせまり、その「中心的位置」
の論拠を補強し、それによって、メディア教育に関わるすべての人がグローバ
ルな知識社会におけるその定義の重要性を確信し、公共施策としての最優先課
題に置くことをめざすものである。もしメディア教育が生涯にわたるプロセス
であるならば、メディア情報リテラシーはそれを実現させるために必要な操作
的スキルと認知コンピテンスから構成される。
リテラシーはメディア・メッセージを解釈するための情報コンピテンスと他
の文字や映像を土台としたスキルを含むものと見ることができる。他の教科と
比較すると、メディア教育はインプットについてではなく、アウトプットにつ
いての教育であり、ラウとコルテスが示しているように、知識を獲得し、作り
出すことができるような学習者の能力を涵養している。
彼らは、「情報リテラシー指標」の枠組みを用いて、図書館と学校の協同と
同様に、情報科学とコミュニケーション科学を結合する必要性があると主張す
る。それは(自分の)発達のための重要な情報源としてメディアを活用するた
めである。
このような枠組みを用いるためには、カリキュラムの開発が鍵となる。さら
に、オパーティがはっきりと示しているように、教育科学が必要なのである。
彼はそのような「教育可能性」のプロセスの政治的・技術的構成要素の重要性
を強調している。
メディア教育は、貧困や周辺化、差別との闘いを支援し、統合を作り出すも
のとして、緩やかな変革のエージェントである。
また、メディア教育を支援するための一つの鍵は、ナジによって指摘されてい
る「雇用される力(エンプロイアビリティ)」であり、彼は「訓練と雇用の間
の現代的ギャップ」に焦点を当てている。彼はジャーナリストのような情報生
産者をケースとして取り上げているが、彼の分析はよりメディアやICTを基礎
とした労働条件に関わるスキルやコンピテンスを持っていない労働者の分野に
拡張することが可能であろう。
ダスは、センの「能力」モデルを土台とし、「機能」を基礎にしながら、発
展のための道筋を補強した。すなわち、彼/彼女が地域の生活環境の中の目標
に到達するために必要な個人の能力である。
この場合、メディア教育によって得ることができた機会はエンプロイアビリテ
ィだけではなく、市民力も含む。
彼はそのようなリテラシーがメディアのような日用品を機能するものに変え
ることのできるのだと主張する。そしてそれは自由と社会正義を涵養するた同
様、貧困と搾取との闘いにとってもっとも基本的なものである。
表現の自由はモーラが試論的に「グローバル・メディア・リテラシー」と呼
ぶ概念の中心である。それはメディア教育を表現の自由に接続するものであ
り、また、きわめて抽象的で現実離れした方法ではなく、手渡しによる草の根
の市民倫理を用いながら育てていったのである。
彼女のカリキュラムはプライバシーや知的所有権、教育権などの他の人権に
も応用することができるだろう。彼女のモデルは、誰もがみんなここで提起す
るように、「良き統治、経済的成長、情報を持った市民」を主張するものであ
り、あらゆる文脈に適用可能なダイナミックなプロセスを示唆するものであ
る。
第二部は過去20年の間に、メディア・情報・リテラシーの「必然性」を確証
する数多くの変化がいかに世界的に見られてきたのか示している。これらの変
化は次のような発展と結びついている。つまり、メディアを身体に進入し、拡
張する器官へと変えてしまう技術発展、どの国もメディアの影響をまぬがれえ
ないような経済発展、若者、市民、消費者の新しい意識をあらわにする社会的
発展、そして市民参加によってより大きな社会的正義を実現するために、政府
に圧力を加え続ける一方で、イデオロギー的な目的のためにメディア操作を志
向する政治的発展である。
メディア教育もまた変化すると同時に、調査報告や実践を経て進歩してき
た。そしてそれはしばしばタイミングよく国家的な改革の端緒のきっかけをも
たらす報告書となった。チュン(Cheung)が香港の事例で説明しているように、
それは「変革のエージェント」になりうる。
彼によると学校改革の成功の鍵はメディア教育である。3つの要素がメディ
ア教育に接合されなければならない。すなわち、否定的な政治的批判としてだ
けではなく、ポジティブな創造的相互作用としての「新しいリテラシー」とい
う観点から、市民力、情報技術、そしてカリキュラムの検討である。
ジョン(Jeong)と彼女の同僚たちはもう一つの要素を付け加えた。それは実
在する実践コミュニティへの接合である。韓国の事例は教師や教育者たちがい
かにして政府よりもさきに草の根活動としてメディアを手にしたか示してい
る。実際、多くの国では、メディア教育を取り入れようとする学校改革は10年
間にわたる長き制度化の道のりである。
車輪を再度発明する必要はない。なぜならカナダのオンタリオ州の事例のと
おり、人的物的資源はあるからである。ウィルソンとダンカンは改革を成功さ
せるために必要な事柄を9つの鍵概念にまとめている。
すなわち、草の根の実践コミュニティ、カリキュラム開発、調査支援、職場
研修、コミュニケーション・ネットワーク、適切なメディア資料、メディア教
育担当教師による専門組織、評価、そして保護者とメディア専門家との協働で
ある。これらの概念はますますはっきりしたため、変化への抵抗もまた明白に
なった。それが沈黙と秘密のマントを着ていたときは、それゆえに行動に移す
のは困難だったのである。
これまでいくつかの有益な教訓が過去の成功と失敗から得ることができた。
アキアムポング(Akyeampong)は知識についての構成主義的と認知的な考え方に
ついての教師教育カリキュラム実施の再理論化の必要性の中に抵抗を見いだし
ている。
メディアを教える教育者たちによって大きく唱道されている批判的(クリテ
ィカル)アプローチは、政治への批判を行うものではなく、自分自身の学習方
法への批判を行うものである。
カリキュラムに高価なICTを持ち込むことは、もし長きにわたる伝統的な教
育によって認知的な能力を生徒だけでなく、教師同士の間であっても十分豊か
なものになっていなければ、たいした効果は得られないだろう。
サレ(Saleh)は、健全で自由なメディア世界こそが豊かで教養のある市民を
可能にしうることを思い起こさせながら、メディア制作をメディア教育に接合
するための能力形成を再理論化する必要があると述べ、そこに抵抗を見いだし
ている。
彼女が中東北アフリカ(MENA)地域で「形容矛盾の悪循環」と呼んでいるもの
は、実際多くの場所で妥当する。メディアの専門家がやっていることと市民が
期待していることのギャップはきわめて大きい。
彼が警告するのは、メディア・リテラシーの「間違った」利用の可能性であ
り、それによって事実の歪曲や検閲も可能になるのである。サレによると、も
し、5つの問題を正しく対処できるのなら、メディア教育は寛容と異文化理解
のための道具になりえる。
すなわち、社会の広範囲の領域にわたる改革の支援、指導者と民衆の間の社
会契約を再活性化させるための人権の支持、政府と市民の間の信頼にもとづい
たコミュニケーションを改善するためのメディアの流れの変革、市民参加が実
現されるような法律の施行、社会全体の福祉のために、自分たちの権利への意
識を高めることである。
第三部では、伝統的な教育分野の外部で、若者あるいはメディアとの関わり
を持つ人々によるメディア教育の「社会的地位」の高まりを強調している。
このような視点からみると、国家の役割が鍵となる。すなわち、複数の関係者
によるイニシアティブの調整役である。
モルダショビッツ(Morduchowicz)は、教育省に特別な部局を作り、国の公共
政策の課題の中にメディア教育を置くことによって、招くことができる社会的
責務をもったさまざまな人(メディア制作者、ジャーナリスト、アーティスト
…)へと範囲を拡張することができることを示している。基金を出しているの
は次の二つ、すなわちメディアに関わるさまざまな協会や民間企業であある。
彼らをパートナーとして招くことができる。しかし、決して「目的の明確化や
内容、新たな取り組みの計画に」介入させるべきではない。そして、商業的利
害が教育過程を奪ってしまうのではなく、逆に役立つものにすることを確かな
ものにしなければならない。民間分野を巻き込むことは、文化的社会的分断に
橋を架ける効果的な手段となりうる。
学校とビジネスのはっきりと異なる二つの使命の間で、一方が他者を奪って
しまったり、衝突が起こる危険性を避けるということは、カンプス(Camps)が
紹介したスペインのカタルーニャ自治政府の事例のように、クリエイティブな
分野に拡張した「都市外交」を上手にやりこなしていることであるように思え
る。
彼女は調整や複数の利害関係を考える上で重要な鍵となりうるものについて
も述べている。すなわち、メディア規制機関である。そのような機関は国家の
公共政策課題に刺激を与え、効果的な規模拡大を管理するメディア教育の研究
室として動くことができる。
そしてそれは検閲の疑いをかけられることなく、教育にとって重要なコンテ
ンツの問題に取り組むことができる。「それは法的規範の解釈とその適用を提
供するのに良い状況の中にいる。同様にメディアのプロたちに法の解釈や適用
における彼らの倫理的責任を説得できる」のである。
教育はラジオやテレビの公共サービスの義務の一部であり、当然のごとくメ
ディア・リテラシーは常に思い起こされるべき必要性をもった使命の中にあ
る。しかし、そのようなリテラシーの公共価値はまた、サロモン(Salomon)が
イギリスのメディア規制機関のOFCOMをあげて例示したように、私的なメディ
アによっても認識されうる。
彼女は、世界中のさまざまなタイプの規制を示し、独立した規制機関の必要
性を主張するとともに、文化的価値から消費者保護や若者のエンパワーメント
にいたるまで、規制されるべきものは何かについての広いコンセンサスの土台
を確証している。、
彼女はメディア教育の未来を「自己規制のプロセスの一部」として見なして
おり、すべての国が欠乏の原理から豊かさの原理へと動いていくように、デジ
タル・コンパージェンスに関する主要な公共政策選択の必要性を主張してい
る。メディア教育は視聴者が雑音から情報を選び出し、不適切な伝達情報から
価値ある情報源を区別するための意志決定を行うときに必要な道具だと思われ
る。
また、オルホン(Orhon)は豊かさとともに先を見越して対処する必要性を主
張する。それはトルコのような新興国がグローバルであり、さらに「グローバ
ルなメディア・リテラシーの討議」の中に関わるということである。
彼はこの分野における実践のコミュニティとともに大学や基金、NGOのような
複数の利害関係者によって、討論がどのように地域で構築されていくのか示し
た。規制機関は、学校に教材や人的資源を提供するという視点から、このよう
な関係者を集める手助けをすることができる。
バンダ(Banda)はさらに一歩前に進み、持続可能な発展という観点から、
「メディアについての思想と実践についてのリベラルな様式における植民地独
立後修正主義」を全住民の市民的無関心との闘いの道として押し出している。
彼は活動的な市民権を涵養し、教養を身につけて人権を強めることを促進する
モデルを提案した。そしてこれらはまた民衆とメディアの間の信頼を回復する
ための解放の展望をもったジャーナリズムに接合される。
こうして市民の無関心はまた、コチライネン(Kotilainen)が関心を持ってい
る市民としての権利に変わるのである。
フィンランドの事例は、メディア制作者や未来のネットワーク文化の創造者と
しての若者に焦点を当てたメディア教育のワールド・ツアーの最終目的地とし
てふさわしい。
市民の関わりはメディア・リテラシーと積極的に相互関係し、「社会に影響
を与える経験」を作り出す。それは与えられた社会の中で多様な領域と異なっ
た年齢層を超えた対話を構築するための異年齢ストラテジーを示唆するもので
ある。最終的に、この分析は、メディア情報リテラシーの中心性や必然性、社
会的地位に対する強調とともに、メディア教育へ向かって進む政治的意思を確
かめながら、政策決定者のドアの前の実現化のギャップを減らしていこうとす
る挑戦を主導しているのである。政策担当者は、メディア教育は政府の力や国
家主権、さらには国の文化的アイデンティティに脅威を与えるかもしれないと
いう認知的なリスクを克服する必要がある。
実際、単に機械に誘導されるのではなく、人間が中心となるような、新しい
認識的な学習方法のメリットが共有される望ましいメディア統治の枠組みがあ
れば、すべての人のエンパワーメントが可能になる。
この動きに抵抗すれば対立や暴力がもたらされる。一方、これを採用すれ
ば、単なるソフトな変革であるだけでなく「賢い」変革をもたらすことができ
る。同時に郷土文化を守り、発展させることができる。
結合と統合によってメディアとICTを用いれば、社会のすべての人々の信頼
と尊敬を育てることができ、すべての関係者に利益をもたらす。
一貫した理論を発展させていくことが鍵となる。とりわけ政府が自らの権利と
責任を遂行しつつ、何らかの準備を示しているならば、まさにそうである。そ
れは堅実な公共政策の3Pにまとめることができる。
すなわち、すべての市民のためのメディア教育の準備(Provision)、社会
的、文化的経済的活動におけるすべての市民の参加(Participation)、そして
必要に応じて(年齢または障害、収入による)必要に応じてすべての市民の保
護(Protection)である。孤立した教室の実践を国のカリキュラム開発へと一般
化するためは、メディア教育の公共価値についての世界規模のコンセンサスを
広げるスケールを変える必要がある。
またグローバルで共有された理論が必要である。それは簡単に言えば、メデ
ィア教育のための6つのCのコンピテンスを回るものとして言い表すことがで
きる。すなわち、理解(Comprehension)、批判的能力(Critical Capacity)、創
造性(Creativity)、消費(Consumption)、シチズンシップ(Citizenship)、異文
化コミュニケーション(Cross-Cultural Communication)である。
このような理論の構造から人権の枠組みに橋を架けるには、尊厳やアイデンテ
ィティの構築、根底における連帯によって補強される必要がある。
したがって、政策担当者はメディア教育のための相互作用の正しいスケール
を見いだすための既得権益を持っている。なぜならそれは分断よりもむしろデ
ジタル・ダイナミックのための手段になりうるからである。
彼らは統治の異なった段階(地域、地方、国、連邦…)を用いるだけではな
く、と同様に一般的には対等に対話するために一緒に話さすことがないような
人々(教育や通信、文化省、民間企業、市民社会組織、研究者や専門家など)
を呼ぶことのできる正統性をもった地位や組織に自分を同一化することによっ
て、そのようにすることができるのである。
メディア教育は新旧メディア、高級低級文化、所有されたあるいは非所有の
コンテンツ、文化と商業的対立の間の分離を縮小する力を持っている。
それはとりわけ資源の共有やオープン・ソース運動によって、持続可能性のシ
ナリオを提供するものである。最終的には、とりわけ知識社会における貧困や
非識字の根絶を含むミレニアム宣言の目標への到達を手助けすることができ
る。
注1 読者にはぜひ「文明の同盟」のメディア・リテラシー・データベース
(aocmedialiteracy.org)を訪れていだだきたい。そしてここに参加して、この
マッピングの活動に対して適切な情報をアップデートまたはアップロードする
ことをお願いする。
Divina Frau-Meigs教授(メディア社会学)
ディレクター、「eラーニングとメディア教育・エンジニア」
新ソルボンヌ大学(パリ)
divina.frau-meigs@univ Paris3.fr
www.medias-matrices.net
ジョーディ・トレント
プロジェクト・マネージャー(メディア・リテラシー・プログラム)
国連「文明の同盟」ニューヨーク(USA)
torrent@un.org
www.aocmedialiteracy.org
メディア教育の重要性は、世界的に徐々に認められつつある。革新的な教職
員が教室の中で孤立した時代があり、研究者が実践活動の輪を広げ、専門家が
草の根の活動の場を拡大してきた時代があった。そしてようやく政治家や教育
行政担当者の時代が来たのである。潮は満ちた。メディア・リテラシーの知の
実は熟し、教育やメディア、そして市民社会の中の多様なステークホルダーた
ちが、いわゆる「情報社会」によってはぐくまれてきた新しい挑戦、市民がそ
の社会で幸福になるために必要となる新しい学習の文化、市民社会の平和的発
展、先住民文化の保護、持続可能な経済の発展、現代の社会的多様性の尊重と
いったことがらを意識する時が来たのである。
また、グローバリゼーションは、政府や国際組織(ユネスコ、欧州委員会、
欧州議会、文明の同盟、イスラム教育科学文化機構
カ事務局
報センターなど)の間に橋を架けることによって、世界的規模の一貫した持続
可能な発展という緊急の必要性に応えるために、変革と相互連携へ向けた新し
い機会をもたらしてきた。草分けであったグルンバルト宣言(1982年)は、そ
の後、情報リテラシーと生涯学習についてのアレクサンドリア宣言(2005年)
によって引き継がれた。また、メディア教育パリ・アジェンダ(2007年)も同
様の目標に向けて、共同で数多くの原理と目的をまとめている。
ユネスコのメディア教育キット(2007年)やユネスコの現在の「メディア情
報リテラシー・カリキュラム訓練者研修」イニシアティブ、文明の同盟による
メディア・リテラシーの実現の可能性や希望の可能性についてのあらゆる過程
に対する多面的支援など、数多くの協定の道具がある。これらは「知識社会」
構築に向けた新しい国際的な枠組みに向かっているのである。
この枠組みは、情報社会ワールドサミット(2003~2005年)と文化表現の多
様性の保護と促進会議(2005年)の期間中とその後にかけて構築されていっ
た。このような国際会議は、十分とは言えないものの、新旧メディアの役割を
意識化することに役立ってきた。また、情報やコミュニケーションの過程の解
明を可能にしてきた。
そして、高度な原理を実際に使える形態に変えていくという重要な任務が残
っている。こうして、政策の時が来たのであり、実施化の経験の共有が求めら
れているのである。
定義、カリキュラム開発、評価といった問題ははもはや研究者と教育者だけ
の関心事ではない。彼らは未来に対するオプションを定義し、そして社会改革
を超えた社会変革の精神を共有し、確かめ、適用しうる戦略を求めているので
ある。地域的な先取事例はすでに存在している。例えば、欧州委員会コミュニ
ケーションでは、すべての加盟国が市民にメディア・リテラシーの水準に対す
る国レベルの評価を行うことを推奨した(2007年)。また、サウジアラビアで
は最初の中東におけるメディア教育会議が開催された(2007年)。一方、ロン
ドンと香港では、国際メディア・リテラシー研究フォーラム(2008年)、ナイ
ジェリアでは最初のアフリカ・メディア・リテラシー会議(2008年)が開かれ
ている。
このように、担当部門を構想し、その内容や社会的インパクトに影響をもた
らす政策的枠組みを考えることは時機を得たものであり、必要なことである。
本書に集められた経験は、次のような目的に用いる。すなわち、各地域に存在
する評価の高い実践をいくつか紹介するとともに、それらの土台となっている
教育的、メディア的な文化を明示することである。それぞれの国で自らの枠組
みを構築するための政策を実施し、評価するための診断道具や精神的なガイド
として、このような過程が取り得るのは望ましいことである。
それは、メディア教育が社会に求められているという現実に応えて改革を進
めようとする政策担当者や教育者、メディア専門家、研究者、活動家たちを支
援することになる。
このグローバル化の時代に、マッピング・プロジェクトは現代知識社会の発
展の中で、メディア教育に関わるさまざまな人々が社会の多様な領域で積み重
ね、交流してきた成果を明らかにすることをめざしてきた。彼らは、単なるプ
ログラムを作るだけではなく、問題、挑戦、結果を考察し、解決に向けて、向
かうべき方向や開かれたイニシアティブを指し示してきた。彼らの貢献は、3
つの横断的なテーマを理解するための見通しを得るために、ケース・スタディ
や一般的な実践例を超えてもたらされた。
すなわち、第一に、メディア教育の戦略と政策におけるローカルとグローバ
ルの連携、第二に、メディア教育の公共的価値、第三に、複合的なパートナー
シップによる参加と実施である。この報告書は確かにグローバルな視野に立っ
て書かれているが、すべての国や地域のメディア教育プログラムを紹介するこ
とはできなかった。
例えば、オーストリアやニュージーランド、オーストラリアのような、しっ
かりしたメディア教育プログラムがそれぞれの政府によって発展している国が
この本には取り上げらはれていない。「みんなに合う服」という解決策は存在
しないし、文脈が重要だと言うことを十分意識し、第一部から第三部にわけて
上記のテーマを論じている。
第一部は、メディア教育そのものに内在する重要な問題を検討している。
すなわち、もっとも大きな関心事である発達や人権問題を前提にしたメディア
教育の定義や核となるコンピテンス、そしてその異文化の観点によるメディア
教育を実現することである。
第二部は、学校の中での能力形成やその支援を可能にする環境に焦点を当て
ている。
第三部は、教育環境の外側にあるメディア教育の要素を扱っており、大人や
若者たちなどの間の意識を活性化させ、南北、南南、東西交流のような市民に
よる媒介や参加を作り出すという力の視点から、政治制度や民間分野、市民社
会等の役割を分析している。
第一部では、メディア教育の中核となる定義にせまり、その「中心的位置」
の論拠を補強し、それによって、メディア教育に関わるすべての人がグローバ
ルな知識社会におけるその定義の重要性を確信し、公共施策としての最優先課
題に置くことをめざすものである。もしメディア教育が生涯にわたるプロセス
であるならば、メディア情報リテラシーはそれを実現させるために必要な操作
的スキルと認知コンピテンスから構成される。
リテラシーはメディア・メッセージを解釈するための情報コンピテンスと他
の文字や映像を土台としたスキルを含むものと見ることができる。他の教科と
比較すると、メディア教育はインプットについてではなく、アウトプットにつ
いての教育であり、ラウとコルテスが示しているように、知識を獲得し、作り
出すことができるような学習者の能力を涵養している。
彼らは、「情報リテラシー指標」の枠組みを用いて、図書館と学校の協同と
同様に、情報科学とコミュニケーション科学を結合する必要性があると主張す
る。それは(自分の)発達のための重要な情報源としてメディアを活用するた
めである。
このような枠組みを用いるためには、カリキュラムの開発が鍵となる。さら
に、オパーティがはっきりと示しているように、教育科学が必要なのである。
彼はそのような「教育可能性」のプロセスの政治的・技術的構成要素の重要性
を強調している。
メディア教育は、貧困や周辺化、差別との闘いを支援し、統合を作り出すも
のとして、緩やかな変革のエージェントである。
また、メディア教育を支援するための一つの鍵は、ナジによって指摘されてい
る「雇用される力(エンプロイアビリティ)」であり、彼は「訓練と雇用の間
の現代的ギャップ」に焦点を当てている。彼はジャーナリストのような情報生
産者をケースとして取り上げているが、彼の分析はよりメディアやICTを基礎
とした労働条件に関わるスキルやコンピテンスを持っていない労働者の分野に
拡張することが可能であろう。
ダスは、センの「能力」モデルを土台とし、「機能」を基礎にしながら、発
展のための道筋を補強した。すなわち、彼/彼女が地域の生活環境の中の目標
に到達するために必要な個人の能力である。
この場合、メディア教育によって得ることができた機会はエンプロイアビリテ
ィだけではなく、市民力も含む。
彼はそのようなリテラシーがメディアのような日用品を機能するものに変え
ることのできるのだと主張する。そしてそれは自由と社会正義を涵養するた同
様、貧困と搾取との闘いにとってもっとも基本的なものである。
表現の自由はモーラが試論的に「グローバル・メディア・リテラシー」と呼
ぶ概念の中心である。それはメディア教育を表現の自由に接続するものであ
り、また、きわめて抽象的で現実離れした方法ではなく、手渡しによる草の根
の市民倫理を用いながら育てていったのである。
彼女のカリキュラムはプライバシーや知的所有権、教育権などの他の人権に
も応用することができるだろう。彼女のモデルは、誰もがみんなここで提起す
るように、「良き統治、経済的成長、情報を持った市民」を主張するものであ
り、あらゆる文脈に適用可能なダイナミックなプロセスを示唆するものであ
る。
第二部は過去20年の間に、メディア・情報・リテラシーの「必然性」を確証
する数多くの変化がいかに世界的に見られてきたのか示している。これらの変
化は次のような発展と結びついている。つまり、メディアを身体に進入し、拡
張する器官へと変えてしまう技術発展、どの国もメディアの影響をまぬがれえ
ないような経済発展、若者、市民、消費者の新しい意識をあらわにする社会的
発展、そして市民参加によってより大きな社会的正義を実現するために、政府
に圧力を加え続ける一方で、イデオロギー的な目的のためにメディア操作を志
向する政治的発展である。
メディア教育もまた変化すると同時に、調査報告や実践を経て進歩してき
た。そしてそれはしばしばタイミングよく国家的な改革の端緒のきっかけをも
たらす報告書となった。チュン(Cheung)が香港の事例で説明しているように、
それは「変革のエージェント」になりうる。
彼によると学校改革の成功の鍵はメディア教育である。3つの要素がメディ
ア教育に接合されなければならない。すなわち、否定的な政治的批判としてだ
けではなく、ポジティブな創造的相互作用としての「新しいリテラシー」とい
う観点から、市民力、情報技術、そしてカリキュラムの検討である。
ジョン(Jeong)と彼女の同僚たちはもう一つの要素を付け加えた。それは実
在する実践コミュニティへの接合である。韓国の事例は教師や教育者たちがい
かにして政府よりもさきに草の根活動としてメディアを手にしたか示してい
る。実際、多くの国では、メディア教育を取り入れようとする学校改革は10年
間にわたる長き制度化の道のりである。
車輪を再度発明する必要はない。なぜならカナダのオンタリオ州の事例のと
おり、人的物的資源はあるからである。ウィルソンとダンカンは改革を成功さ
せるために必要な事柄を9つの鍵概念にまとめている。
すなわち、草の根の実践コミュニティ、カリキュラム開発、調査支援、職場
研修、コミュニケーション・ネットワーク、適切なメディア資料、メディア教
育担当教師による専門組織、評価、そして保護者とメディア専門家との協働で
ある。これらの概念はますますはっきりしたため、変化への抵抗もまた明白に
なった。それが沈黙と秘密のマントを着ていたときは、それゆえに行動に移す
のは困難だったのである。
これまでいくつかの有益な教訓が過去の成功と失敗から得ることができた。
アキアムポング(Akyeampong)は知識についての構成主義的と認知的な考え方に
ついての教師教育カリキュラム実施の再理論化の必要性の中に抵抗を見いだし
ている。
メディアを教える教育者たちによって大きく唱道されている批判的(クリテ
ィカル)アプローチは、政治への批判を行うものではなく、自分自身の学習方
法への批判を行うものである。
カリキュラムに高価なICTを持ち込むことは、もし長きにわたる伝統的な教
育によって認知的な能力を生徒だけでなく、教師同士の間であっても十分豊か
なものになっていなければ、たいした効果は得られないだろう。
サレ(Saleh)は、健全で自由なメディア世界こそが豊かで教養のある市民を
可能にしうることを思い起こさせながら、メディア制作をメディア教育に接合
するための能力形成を再理論化する必要があると述べ、そこに抵抗を見いだし
ている。
彼女が中東北アフリカ(MENA)地域で「形容矛盾の悪循環」と呼んでいるもの
は、実際多くの場所で妥当する。メディアの専門家がやっていることと市民が
期待していることのギャップはきわめて大きい。
彼が警告するのは、メディア・リテラシーの「間違った」利用の可能性であ
り、それによって事実の歪曲や検閲も可能になるのである。サレによると、も
し、5つの問題を正しく対処できるのなら、メディア教育は寛容と異文化理解
のための道具になりえる。
すなわち、社会の広範囲の領域にわたる改革の支援、指導者と民衆の間の社
会契約を再活性化させるための人権の支持、政府と市民の間の信頼にもとづい
たコミュニケーションを改善するためのメディアの流れの変革、市民参加が実
現されるような法律の施行、社会全体の福祉のために、自分たちの権利への意
識を高めることである。
第三部では、伝統的な教育分野の外部で、若者あるいはメディアとの関わり
を持つ人々によるメディア教育の「社会的地位」の高まりを強調している。
このような視点からみると、国家の役割が鍵となる。すなわち、複数の関係者
によるイニシアティブの調整役である。
モルダショビッツ(Morduchowicz)は、教育省に特別な部局を作り、国の公共
政策の課題の中にメディア教育を置くことによって、招くことができる社会的
責務をもったさまざまな人(メディア制作者、ジャーナリスト、アーティスト
…)へと範囲を拡張することができることを示している。基金を出しているの
は次の二つ、すなわちメディアに関わるさまざまな協会や民間企業であある。
彼らをパートナーとして招くことができる。しかし、決して「目的の明確化や
内容、新たな取り組みの計画に」介入させるべきではない。そして、商業的利
害が教育過程を奪ってしまうのではなく、逆に役立つものにすることを確かな
ものにしなければならない。民間分野を巻き込むことは、文化的社会的分断に
橋を架ける効果的な手段となりうる。
学校とビジネスのはっきりと異なる二つの使命の間で、一方が他者を奪って
しまったり、衝突が起こる危険性を避けるということは、カンプス(Camps)が
紹介したスペインのカタルーニャ自治政府の事例のように、クリエイティブな
分野に拡張した「都市外交」を上手にやりこなしていることであるように思え
る。
彼女は調整や複数の利害関係を考える上で重要な鍵となりうるものについて
も述べている。すなわち、メディア規制機関である。そのような機関は国家の
公共政策課題に刺激を与え、効果的な規模拡大を管理するメディア教育の研究
室として動くことができる。
そしてそれは検閲の疑いをかけられることなく、教育にとって重要なコンテ
ンツの問題に取り組むことができる。「それは法的規範の解釈とその適用を提
供するのに良い状況の中にいる。同様にメディアのプロたちに法の解釈や適用
における彼らの倫理的責任を説得できる」のである。
教育はラジオやテレビの公共サービスの義務の一部であり、当然のごとくメ
ディア・リテラシーは常に思い起こされるべき必要性をもった使命の中にあ
る。しかし、そのようなリテラシーの公共価値はまた、サロモン(Salomon)が
イギリスのメディア規制機関のOFCOMをあげて例示したように、私的なメディ
アによっても認識されうる。
彼女は、世界中のさまざまなタイプの規制を示し、独立した規制機関の必要
性を主張するとともに、文化的価値から消費者保護や若者のエンパワーメント
にいたるまで、規制されるべきものは何かについての広いコンセンサスの土台
を確証している。、
彼女はメディア教育の未来を「自己規制のプロセスの一部」として見なして
おり、すべての国が欠乏の原理から豊かさの原理へと動いていくように、デジ
タル・コンパージェンスに関する主要な公共政策選択の必要性を主張してい
る。メディア教育は視聴者が雑音から情報を選び出し、不適切な伝達情報から
価値ある情報源を区別するための意志決定を行うときに必要な道具だと思われ
る。
また、オルホン(Orhon)は豊かさとともに先を見越して対処する必要性を主
張する。それはトルコのような新興国がグローバルであり、さらに「グローバ
ルなメディア・リテラシーの討議」の中に関わるということである。
彼はこの分野における実践のコミュニティとともに大学や基金、NGOのような
複数の利害関係者によって、討論がどのように地域で構築されていくのか示し
た。規制機関は、学校に教材や人的資源を提供するという視点から、このよう
な関係者を集める手助けをすることができる。
バンダ(Banda)はさらに一歩前に進み、持続可能な発展という観点から、
「メディアについての思想と実践についてのリベラルな様式における植民地独
立後修正主義」を全住民の市民的無関心との闘いの道として押し出している。
彼は活動的な市民権を涵養し、教養を身につけて人権を強めることを促進する
モデルを提案した。そしてこれらはまた民衆とメディアの間の信頼を回復する
ための解放の展望をもったジャーナリズムに接合される。
こうして市民の無関心はまた、コチライネン(Kotilainen)が関心を持ってい
る市民としての権利に変わるのである。
フィンランドの事例は、メディア制作者や未来のネットワーク文化の創造者と
しての若者に焦点を当てたメディア教育のワールド・ツアーの最終目的地とし
てふさわしい。
市民の関わりはメディア・リテラシーと積極的に相互関係し、「社会に影響
を与える経験」を作り出す。それは与えられた社会の中で多様な領域と異なっ
た年齢層を超えた対話を構築するための異年齢ストラテジーを示唆するもので
ある。最終的に、この分析は、メディア情報リテラシーの中心性や必然性、社
会的地位に対する強調とともに、メディア教育へ向かって進む政治的意思を確
かめながら、政策決定者のドアの前の実現化のギャップを減らしていこうとす
る挑戦を主導しているのである。政策担当者は、メディア教育は政府の力や国
家主権、さらには国の文化的アイデンティティに脅威を与えるかもしれないと
いう認知的なリスクを克服する必要がある。
実際、単に機械に誘導されるのではなく、人間が中心となるような、新しい
認識的な学習方法のメリットが共有される望ましいメディア統治の枠組みがあ
れば、すべての人のエンパワーメントが可能になる。
この動きに抵抗すれば対立や暴力がもたらされる。一方、これを採用すれ
ば、単なるソフトな変革であるだけでなく「賢い」変革をもたらすことができ
る。同時に郷土文化を守り、発展させることができる。
結合と統合によってメディアとICTを用いれば、社会のすべての人々の信頼
と尊敬を育てることができ、すべての関係者に利益をもたらす。
一貫した理論を発展させていくことが鍵となる。とりわけ政府が自らの権利と
責任を遂行しつつ、何らかの準備を示しているならば、まさにそうである。そ
れは堅実な公共政策の3Pにまとめることができる。
すなわち、すべての市民のためのメディア教育の準備(Provision)、社会
的、文化的経済的活動におけるすべての市民の参加(Participation)、そして
必要に応じて(年齢または障害、収入による)必要に応じてすべての市民の保
護(Protection)である。孤立した教室の実践を国のカリキュラム開発へと一般
化するためは、メディア教育の公共価値についての世界規模のコンセンサスを
広げるスケールを変える必要がある。
またグローバルで共有された理論が必要である。それは簡単に言えば、メデ
ィア教育のための6つのCのコンピテンスを回るものとして言い表すことがで
きる。すなわち、理解(Comprehension)、批判的能力(Critical Capacity)、創
造性(Creativity)、消費(Consumption)、シチズンシップ(Citizenship)、異文
化コミュニケーション(Cross-Cultural Communication)である。
このような理論の構造から人権の枠組みに橋を架けるには、尊厳やアイデンテ
ィティの構築、根底における連帯によって補強される必要がある。
したがって、政策担当者はメディア教育のための相互作用の正しいスケール
を見いだすための既得権益を持っている。なぜならそれは分断よりもむしろデ
ジタル・ダイナミックのための手段になりうるからである。
彼らは統治の異なった段階(地域、地方、国、連邦…)を用いるだけではな
く、と同様に一般的には対等に対話するために一緒に話さすことがないような
人々(教育や通信、文化省、民間企業、市民社会組織、研究者や専門家など)
を呼ぶことのできる正統性をもった地位や組織に自分を同一化することによっ
て、そのようにすることができるのである。
メディア教育は新旧メディア、高級低級文化、所有されたあるいは非所有の
コンテンツ、文化と商業的対立の間の分離を縮小する力を持っている。
それはとりわけ資源の共有やオープン・ソース運動によって、持続可能性のシ
ナリオを提供するものである。最終的には、とりわけ知識社会における貧困や
非識字の根絶を含むミレニアム宣言の目標への到達を手助けすることができ
る。
注1 読者にはぜひ「文明の同盟」のメディア・リテラシー・データベース
(aocmedialiteracy.org)を訪れていだだきたい。そしてここに参加して、この
マッピングの活動に対して適切な情報をアップデートまたはアップロードする
ことをお願いする。