2019年11月9日 シンポジウム「デジタル時代のシティズンシップ教育」
小玉重夫
政治に参加するということが市民の基本要素そこから転じてアマチュアであること。官僚と学者とかに任せるというやり方もあるが、民主主義はそういう前提を取らない。自分たちが決定する。つまり専門家ではないアマチュアという意味を含む。高等学校までの数学は数学の専門家になるためだけにやるわけではない。ほぼすべてが専門家になることを前提にしない。本来はシティズンシップの育成に関わっているはず。しかし日本はそうなっていない。
戦後の高度成長期までの日本は、点数で学力が決まる。学力選抜のシグナルである。実体的なスキルを求めてこなかった。卒業してからやればよかった。学校では何者かになることを期待されていなかった。色に染まっていない状態で社会に出る。どれだけの可能性があるかというシグナルを提供すればよかった。偏差値や学歴が大きな意味を持っていた。年功序列ともリンクした。実際に社会と結びつくことが高大接続改革。今揺れ動いているのが新学習指導要領に対応したテストの実施。本質的には学力の戦後体制の改革。幅広い判断思考能力が求められている。
なぜシティズンシップ教育が必要なのかということも大きな枠組みの展開の中で考える必要がある。カリキュラムイノベーションもその一環。アカデミズムの知の体系をおろすのではなく、社会的レリバンスを持ったものになっていかなくてはならない。
デジタル・シティズンシップを小中高校のどこでやるのかこれから問題になってくる。文科省は通達を出した。現実の具体的な政治的事象を取り扱うことが重要。1969年通達では留意する必要があるという内容だった。学生運動の影響があった。2015年通達では自らの判断で権利を行使することができるよう、具体的かつ実践的な指導を行うことが重要となった。長野県松本市の高校生の投票率は53.34%だった。参院選で27.71パーセットに下落した。しかし18歳の高校3年生だけに限定するとそんなに投票率が低いわけではない。高校の投票率が下がるのは大学に問題がある。
日本の高校生は政治意識が高い。秋田県で生徒会の役員を集めて研修会をやった。イージスアショアの県内配備をめぐって議論させた。配置する必要があるかないか、緊張緩和を中心に議論したらいいのではないかというグループもあった。日本の高校生も実際に議論するといろんなことを言うようになる。大人はすぐに憲法といえば9条の議論になってしまうが、24条の改正をめぐる議論を争点にすべきだと高校生は主張する。投票率も含めて高校生が考えていることをポジティブな方向で使って行く必要性がある。
大学の中では学問の知の生産を問い直す必要がある。中高校が地の生産の一翼を担う必要がある。今度の学習指導要領では総合的探究の時間に名称が変わる。そういう中で高大接続改革が進んでいる。上下関係を転換させていく。アカデミズムの研究につなげていく。既存の知を問い直していくことが重要ではないか。情報やデジタルもど真ん中のテーマ。大学の既存の学問の中に閉じ込められてしまっている。組み替えないとポテンシャルが解放されない。知を生産するものと受け取るものと固定化されてしまうと、人々を愚鈍化するだけ。主体性や自律性につながっていかない。探究する側の自立性を回復していく必要性。従来型の高大接続を転換させる必要がある。
立教大学と香蘭女学校の高大連携プログラムで一緒に議論している。宇野常寛の意見では、一見グローバル化しているようだが、実際には閉じた村社会が形成されているという。村社会にいない人をひたすら叩くために存在している。それを宇野さんは「速いね、インターネット」といい、ゆっくりした速度で交流することを提案している。高大連携ともつながる。
坂本先生の話を聞いて思ったのは、道徳教育の古い形を情報モラルに当てはめてしまうと、情報モラルを生徒に伝えるスタイルになってしまう。情報モラルが情報セキュリティの狭いものになってしまう。大学でも教員に研修がある。正解が分かっているテストと実際に使っていることとは違う。本音と建前になってしまう。だんだん愚かになっていく。毎年続けていくと市民性が奪われていく。デジタルメディアと市民との対等な関係の中で、アマチュア性を前提に専門性を批判的に問い直していく。情報モラルとデジタル・シティズンシップとの大きな違いだと思う。デジタル空間を批評の対象と見ていく。それは政治の問題ともつながっていく。
香港の学生運動のリーダーのアグネスさんは日本のオタク文化から大きな影響を受けている。日本のアイドルをデジタル環境の中で享受しているが、愚鈍化サザているのではなく批判的に享受している。政治的な環境になれば政治的なリーダーになる。愚鈍化されない知性の例だと言える。日本の高校生でも十分可能。情報モラルからデジタル・シティズンシップへというカテゴリーの転換はとても重要。
芳賀高洋
いわゆる「情報モラル」。日常モラルと区別はない。デジタルなシティズンシップとアナログなシティズンシップを区別すべきではない。二項対立は不毛な議論になりかねない。デジタルな特別なシティズンシップがあるわけではない。コンピュータに詳しい人の専門教育と受け取られるのは残念。もったいない。普遍教育だと思う。情報やデジタルはそれこそ市民権を得ていないのが実態。関心はデジタルネットワーク。ネットワークがあることが重要。デジタルじゃなくて「ディジタル」の方がいい。
80年代に情報モラルという言葉が登場した。当時は先見の明があった。アメリカは計算機倫理だった。日本は初等中等限定用語だった。今となっては時代に合わないのでは。道徳教育的な情報モラルの問題点。心情主義、形式主義。読み物を読んで心情を確認する。共感を求める。最終的に勇気のなかったAさんの努力が必要という話になる。学校から見ていい子が求められる。ネットの感情的不寛容の原因ではないか。情報モラルのケーススタディ。感情移入できるかどうか芳賀重要。子どもが失敗するのが一般的。大変なことになる。恐怖が山場。触らぬ神に祟りなしになる。抑止力になる可能性がないわけではないが、実際の場面ではフリーズしてしまう。
個人情報と著作権教育は典型的な情報モラル教育。特徴がある。作文の宿題が出ました。こっそり他の生徒の作品を読んでそっくりの作文を書きました。著作権を教える教材だが、これは著作権の問題ではない。問われているのはこっそり読んで提出してしまったというモラルの話になっている。また著作者人格権の問題でもある。小学校低学年には教えることが難しい。結局著作権を学んでいない。
イラストの作者からホームページのイラストの使用料を取ろうとする事例。他人の著作物を使ってはいけないという結論になる。これは情報モラルの最大の欠点。するべからずの教育。警察への丸投げ。いわゆる情報モラルからいわゆるデジタル・シティズンシップを提案したい。そして、シティズンシップ教育としてクリエイティビティな教育への転換をいいたい。
今度珠美
現行の情報モラル教育にはさまざまな課題がある。倫理学や心理学、メディア・リテラシーなどの学術的視点から捉えて検討してきた。日本の現場での実現の可能性を考えたい。国際工学教育学会でのデジタル・シティズンシップの概念。リブルのハンドブックの9要素。デジタルフルーエンシーの中にメディア・リテラシーや情報評価能力が含まれている。主体的で積極的で安全に責任を持った能力を育成する。教師は学習者中心、グローバルであることを示す。
コモンセンスエデュケーション財団の教材。アメリカの最初のカリキュラム教材だと思う。とても良くできている。デジタルジレンマの視点から作成。日本の情報モラルにはない視点がわかる。中核的な5つの資質がある。落ち着いて内省する、事実と根拠を探す、可能な行動方針を想定する、行動を起こす。シンプルだけどわかりやすい。行動中の思考ルーチンは、感じる、特定する、反映する、制定する。スローダウンして一時停止して考えることを奨励している。思考ルーチンを利用して慎重に選択して検討すること。ネットニュースの見方も含まれている。ヘイトスピーチも含まれている。市民のコミュニケーターはネット上の社会的な活動が取り上げられる。良き市民になること。日本ではこうしたテーマの教材を作ると間違いなく止められてしまう。
情報モラルの定義は「情報社会で適正な活動を行うための基になる考え方と態度」。今まで引き継がれている。日常のモラルと仕組みの理解に分けることができる。情報モラルでは、日常モラルを育てる、仕組みを理解する、日常モラルと仕組みの組み合わせを扱う。デジタル・シティズンシップは知的創造を阻害することなく、責任を持った行動ができるように柔軟に構成されている。悪い特性や悪い結果を強調していない。個人の安全な利用のためだけではなく、人権き民主主義のための市民となることが強調されている。実現するための5つの要件。デジタル・シティズンシップをモデルにした新たな情報モラル教育を提示したい。利用制限を課す方法では問題の解決には繋がらない。
コモンセンスエデュケーション教材の特徴。7年生用の「私のソーシャル・メディア生活」では子どもたちがさまざまジレンマを踏まえてディスカッションを行う。思考のルーチンを踏まえる。情報モラルをメディアリテラシーの一部と位置づけてデジタル・シティズンシップをモデルにしたカリキュラムを検討する。ICTの利活用から恩恵を受けられるよういくつかの視点を踏まえて提案する。ヘイトスピーチやインターネット上の社会活動など新しい情報社会に即したテーマも扱う。
豊福晋平
日本の情報教育が扱えていないこと。日本ではパブリックな空間での利用がない。子どもが一人一台を持つようになると、知的な生産活動や日常利用が重要。毎日使うようになると子どもに知恵をつけないといけない。最底辺のレベルなのに危機感がない。学習者のスキルの格差が大きい。学校からの排除から日常へ。活用を前提としたカリキュラムがない。コモンセンス・エデュケーションの紹介。幼稚園から高校3年まで32本ある。
教材の特徴は一つはデジタルコミュニケーションの積極的道具的社会的意義を認めている。小学生のうちから意識されている。学習者の自律と課題解決を促すこと。子どもたちが直面するデジタルジレンマの共感と真正の問いがあること。実態に即した幅広い年齢層に対応していること。情報モラル教材と比較して何が足りないのか、どうすればいいのか考えてほしい。日本の教育情報化は世界最底辺レベルなのに危機感がない。ICTの日常活用を前提としたカリキュラムや運用が必要。
木村真冬
スマホは持ってきていいことになっている。しかし校内では電源を切って預けることになっている。SNSがらみの友達トラブルが多くなっている。絶対やってはダメという指導になってしまう。保護者の意識もいろいろ。野放しの家庭も多い。一方で学校現場では個人情報保護の観点が強い。何をやったらいいのかわからないのでプレッシャーがかかる。ICT活用の圧力もかかる。メンテナンスは誰がやるのか民主主義の基礎という視点は不十分。中学校の間では練習をしようという発想。
一人一台を将来的に実現しようとしている。調べる、表現する、思考を深める、記録して振り返るなどで活用。足りないところがたくさんある。附属小学校では,シティズンシップや哲学の授業をやっている。デジタル・シティズンシップも小中からやらないといけない。シティズンシップやてつがくをやってきた子どもたちは自分の意見を言うことが大好き。根拠なき自信と私たちは呼んでいる。話し合ったり自分で考えたりする主体的な姿勢。小学校からやるのは大事だと思う。自主研究の追究、協働的に課題を解決するものとしてコミュニケーションデザイン科を総合的な学習としてやっている。このやり方がデジタル・シティズンシップを取り入れることが可能ではないか。
総合的な学習のように教科をまとめたもの。効果的なコミュニケーションを創出する能力と態度を育てる。論理・発想領域では思考の基礎操作、トゥールミンの論理モデルを使ったりする。ESDやSDGsの内容も取り入れる。グラフにご注意という授業やKJ法、ガンチャートなど。クリティカルシンキングの指導もある。道徳の時間をもらってやることも。
対話・協働ではアサーションやホワイトボードの活用、ワールドカフェなど。3年生になると揉めてしまった時に第三者が入って調停する学習。伝達・発信では掲示板の作成、ポスター作りなどを学ぶ。修学旅行に行きたくなるポスター。この中で情報モラルや検索の仕方、新聞記事の読み解き方などをやっている。図書室との連携がとても大事。司書の先生が本で探したり、ネットで探す良さを教える。参考文献を書く意味の学習。
次に生かしていくのにはどうしたらいいのか。ワークショップ型の授業をしている。全教科体制でカリキュラムを作っている。いろんなところでちょこちょこやっている。多様性と出会おうならば障害者へのインタビュー、そのあとディベート、発表会を開く。東北の修学旅行も活用。1年生は基礎を多くして、2年生からテーマ学習やプロジェクト学習。全員の教員が関わってカリキュラムを作っている。今日の話を伺って、本当に社会参画に至っているのか。カリキュラム全体で取り組みたい。
河合知成
これをやったら危ないですと言ったことに注意が向けられている。情報の教科書を見てもこれをすれば痛い目にあいますよというものが多い。シティズンシップが日本ではどう扱われているのか。現場でどう感じるのか。海外に行った時にどうシティズンシップが存在し、日本に帰ってきたときにどう感じるか。生意気な生徒がいっぱいいる学校として有名だが、生意気な生徒を育てることを目的としている学校。生意気な態度をとることを涵養してきた。あなたが何者かを問うこと。子どもに言わない、考えさせない。できるだけ生徒に提示する。シティズンシップだが、私立の中高一貫ではない高校だけの学校。公立からくるので、どう「調教」されているのかがわかる。学校という場が支配と服従の場になっている。体育の中で教練をやっている。思考を停止されてしまった子どもたちがやってくる。もともと力がある子どもは自分で気づく。シティズンシップを体得していく。でもそれは一部。中間的これから伸びようとしている子どもにとっては考えさせないことが大きな問題。
iPadを買ってくださいと入学時に行っている。情報伝達ツールを抜きにして世界の知に繋がらないことはあり得ない。本だけでは無理。ありえない。持ってきてくださいと言ってもWiFiにつながればいいというとびっくりさせる。やってはいけませんなんて言ってもしょうがない。1993年に学校に勤め始めた。ポケベルが流行っていた。このころに携帯電話が出た時、担任した時、急いで買いなさいと言った。大勢の人に嫌われたが,それを言えた。そこに存在するリスクとの乖離があり、ある程度言える風土がある。プロジェクターにはAppleTVがあり、どの時間でも生徒がのっとることができる。
生徒が乗っ取ってグラフを出してくれたり、写真を表示できる。そこに規制を設けていない。それでもいまなお綺麗なところだけを切り取って話している。
監視できないとかいう精神状態になることもある。ほっておくとなんとかマネージャーを入れて一斉に動くほうがいいという人もいる。到達させないといけないという義務感があるからそういうことになる。シティズンシップの土台がなければいけない。対等な人間としてあなたならどうするのかと問う。高校生の遠い話題をする必要はない。日常に起こるリアルな現象に対してシティズンとして考えることが大事。道徳に隠されている考えないことを刷り込むことをやめなければシティズンはない。日本の人たちの精神構造にある支配と服従の構造があるかぎり実現はしない。この意見があとのディスカッションに役立つといいと思う。
小栗秀樹
昨年度から文科省に勤めているが、それまでは教員をやっていた。行政の役割を果たさなければならない。学習指導要領から。情報活用能力をどう育成するのか。公共の学習指導要領の解説。こんな学習をしてはどうかという事例の一つ。「公共」の中に情報の出典や発信者の立場や真偽の判断が書かれている。
主体的で対話的で深い学びの視点から何を学ぶか。必要な情報を取っていく。だんだんと体験を落として情報リテラシーが形成できるのてはないか。カリキュラムマネジメント。PDCAサイクルを確立する。複数の教科の連携を図っていくこと。ビジョンの共有が大事。情報科の先生と解説を書く時に何度もやりとりした。パーシャルな連携も効果的。教科がないのでそういう取り組みが必要。できれば校種を超える。バトンを受け渡す。問題意識を共有したい。
人の役に立つ人間になりたいかという質問に対して、95%の子どもがイエスと答えている。私の参加により変えて欲しい社会現象が少し変えられるかもしれないという質問に対しては少し他の国よりも少ない。このギャップはとても悲しい。送り手と受け手の両方に関わること。情報教育によって、このギャップを埋めることができるのではないか。
小玉重夫
政治に参加するということが市民の基本要素そこから転じてアマチュアであること。官僚と学者とかに任せるというやり方もあるが、民主主義はそういう前提を取らない。自分たちが決定する。つまり専門家ではないアマチュアという意味を含む。高等学校までの数学は数学の専門家になるためだけにやるわけではない。ほぼすべてが専門家になることを前提にしない。本来はシティズンシップの育成に関わっているはず。しかし日本はそうなっていない。
戦後の高度成長期までの日本は、点数で学力が決まる。学力選抜のシグナルである。実体的なスキルを求めてこなかった。卒業してからやればよかった。学校では何者かになることを期待されていなかった。色に染まっていない状態で社会に出る。どれだけの可能性があるかというシグナルを提供すればよかった。偏差値や学歴が大きな意味を持っていた。年功序列ともリンクした。実際に社会と結びつくことが高大接続改革。今揺れ動いているのが新学習指導要領に対応したテストの実施。本質的には学力の戦後体制の改革。幅広い判断思考能力が求められている。
なぜシティズンシップ教育が必要なのかということも大きな枠組みの展開の中で考える必要がある。カリキュラムイノベーションもその一環。アカデミズムの知の体系をおろすのではなく、社会的レリバンスを持ったものになっていかなくてはならない。
デジタル・シティズンシップを小中高校のどこでやるのかこれから問題になってくる。文科省は通達を出した。現実の具体的な政治的事象を取り扱うことが重要。1969年通達では留意する必要があるという内容だった。学生運動の影響があった。2015年通達では自らの判断で権利を行使することができるよう、具体的かつ実践的な指導を行うことが重要となった。長野県松本市の高校生の投票率は53.34%だった。参院選で27.71パーセットに下落した。しかし18歳の高校3年生だけに限定するとそんなに投票率が低いわけではない。高校の投票率が下がるのは大学に問題がある。
日本の高校生は政治意識が高い。秋田県で生徒会の役員を集めて研修会をやった。イージスアショアの県内配備をめぐって議論させた。配置する必要があるかないか、緊張緩和を中心に議論したらいいのではないかというグループもあった。日本の高校生も実際に議論するといろんなことを言うようになる。大人はすぐに憲法といえば9条の議論になってしまうが、24条の改正をめぐる議論を争点にすべきだと高校生は主張する。投票率も含めて高校生が考えていることをポジティブな方向で使って行く必要性がある。
大学の中では学問の知の生産を問い直す必要がある。中高校が地の生産の一翼を担う必要がある。今度の学習指導要領では総合的探究の時間に名称が変わる。そういう中で高大接続改革が進んでいる。上下関係を転換させていく。アカデミズムの研究につなげていく。既存の知を問い直していくことが重要ではないか。情報やデジタルもど真ん中のテーマ。大学の既存の学問の中に閉じ込められてしまっている。組み替えないとポテンシャルが解放されない。知を生産するものと受け取るものと固定化されてしまうと、人々を愚鈍化するだけ。主体性や自律性につながっていかない。探究する側の自立性を回復していく必要性。従来型の高大接続を転換させる必要がある。
立教大学と香蘭女学校の高大連携プログラムで一緒に議論している。宇野常寛の意見では、一見グローバル化しているようだが、実際には閉じた村社会が形成されているという。村社会にいない人をひたすら叩くために存在している。それを宇野さんは「速いね、インターネット」といい、ゆっくりした速度で交流することを提案している。高大連携ともつながる。
坂本先生の話を聞いて思ったのは、道徳教育の古い形を情報モラルに当てはめてしまうと、情報モラルを生徒に伝えるスタイルになってしまう。情報モラルが情報セキュリティの狭いものになってしまう。大学でも教員に研修がある。正解が分かっているテストと実際に使っていることとは違う。本音と建前になってしまう。だんだん愚かになっていく。毎年続けていくと市民性が奪われていく。デジタルメディアと市民との対等な関係の中で、アマチュア性を前提に専門性を批判的に問い直していく。情報モラルとデジタル・シティズンシップとの大きな違いだと思う。デジタル空間を批評の対象と見ていく。それは政治の問題ともつながっていく。
香港の学生運動のリーダーのアグネスさんは日本のオタク文化から大きな影響を受けている。日本のアイドルをデジタル環境の中で享受しているが、愚鈍化サザているのではなく批判的に享受している。政治的な環境になれば政治的なリーダーになる。愚鈍化されない知性の例だと言える。日本の高校生でも十分可能。情報モラルからデジタル・シティズンシップへというカテゴリーの転換はとても重要。
芳賀高洋
いわゆる「情報モラル」。日常モラルと区別はない。デジタルなシティズンシップとアナログなシティズンシップを区別すべきではない。二項対立は不毛な議論になりかねない。デジタルな特別なシティズンシップがあるわけではない。コンピュータに詳しい人の専門教育と受け取られるのは残念。もったいない。普遍教育だと思う。情報やデジタルはそれこそ市民権を得ていないのが実態。関心はデジタルネットワーク。ネットワークがあることが重要。デジタルじゃなくて「ディジタル」の方がいい。
80年代に情報モラルという言葉が登場した。当時は先見の明があった。アメリカは計算機倫理だった。日本は初等中等限定用語だった。今となっては時代に合わないのでは。道徳教育的な情報モラルの問題点。心情主義、形式主義。読み物を読んで心情を確認する。共感を求める。最終的に勇気のなかったAさんの努力が必要という話になる。学校から見ていい子が求められる。ネットの感情的不寛容の原因ではないか。情報モラルのケーススタディ。感情移入できるかどうか芳賀重要。子どもが失敗するのが一般的。大変なことになる。恐怖が山場。触らぬ神に祟りなしになる。抑止力になる可能性がないわけではないが、実際の場面ではフリーズしてしまう。
個人情報と著作権教育は典型的な情報モラル教育。特徴がある。作文の宿題が出ました。こっそり他の生徒の作品を読んでそっくりの作文を書きました。著作権を教える教材だが、これは著作権の問題ではない。問われているのはこっそり読んで提出してしまったというモラルの話になっている。また著作者人格権の問題でもある。小学校低学年には教えることが難しい。結局著作権を学んでいない。
イラストの作者からホームページのイラストの使用料を取ろうとする事例。他人の著作物を使ってはいけないという結論になる。これは情報モラルの最大の欠点。するべからずの教育。警察への丸投げ。いわゆる情報モラルからいわゆるデジタル・シティズンシップを提案したい。そして、シティズンシップ教育としてクリエイティビティな教育への転換をいいたい。
今度珠美
現行の情報モラル教育にはさまざまな課題がある。倫理学や心理学、メディア・リテラシーなどの学術的視点から捉えて検討してきた。日本の現場での実現の可能性を考えたい。国際工学教育学会でのデジタル・シティズンシップの概念。リブルのハンドブックの9要素。デジタルフルーエンシーの中にメディア・リテラシーや情報評価能力が含まれている。主体的で積極的で安全に責任を持った能力を育成する。教師は学習者中心、グローバルであることを示す。
コモンセンスエデュケーション財団の教材。アメリカの最初のカリキュラム教材だと思う。とても良くできている。デジタルジレンマの視点から作成。日本の情報モラルにはない視点がわかる。中核的な5つの資質がある。落ち着いて内省する、事実と根拠を探す、可能な行動方針を想定する、行動を起こす。シンプルだけどわかりやすい。行動中の思考ルーチンは、感じる、特定する、反映する、制定する。スローダウンして一時停止して考えることを奨励している。思考ルーチンを利用して慎重に選択して検討すること。ネットニュースの見方も含まれている。ヘイトスピーチも含まれている。市民のコミュニケーターはネット上の社会的な活動が取り上げられる。良き市民になること。日本ではこうしたテーマの教材を作ると間違いなく止められてしまう。
情報モラルの定義は「情報社会で適正な活動を行うための基になる考え方と態度」。今まで引き継がれている。日常のモラルと仕組みの理解に分けることができる。情報モラルでは、日常モラルを育てる、仕組みを理解する、日常モラルと仕組みの組み合わせを扱う。デジタル・シティズンシップは知的創造を阻害することなく、責任を持った行動ができるように柔軟に構成されている。悪い特性や悪い結果を強調していない。個人の安全な利用のためだけではなく、人権き民主主義のための市民となることが強調されている。実現するための5つの要件。デジタル・シティズンシップをモデルにした新たな情報モラル教育を提示したい。利用制限を課す方法では問題の解決には繋がらない。
コモンセンスエデュケーション教材の特徴。7年生用の「私のソーシャル・メディア生活」では子どもたちがさまざまジレンマを踏まえてディスカッションを行う。思考のルーチンを踏まえる。情報モラルをメディアリテラシーの一部と位置づけてデジタル・シティズンシップをモデルにしたカリキュラムを検討する。ICTの利活用から恩恵を受けられるよういくつかの視点を踏まえて提案する。ヘイトスピーチやインターネット上の社会活動など新しい情報社会に即したテーマも扱う。
豊福晋平
日本の情報教育が扱えていないこと。日本ではパブリックな空間での利用がない。子どもが一人一台を持つようになると、知的な生産活動や日常利用が重要。毎日使うようになると子どもに知恵をつけないといけない。最底辺のレベルなのに危機感がない。学習者のスキルの格差が大きい。学校からの排除から日常へ。活用を前提としたカリキュラムがない。コモンセンス・エデュケーションの紹介。幼稚園から高校3年まで32本ある。
教材の特徴は一つはデジタルコミュニケーションの積極的道具的社会的意義を認めている。小学生のうちから意識されている。学習者の自律と課題解決を促すこと。子どもたちが直面するデジタルジレンマの共感と真正の問いがあること。実態に即した幅広い年齢層に対応していること。情報モラル教材と比較して何が足りないのか、どうすればいいのか考えてほしい。日本の教育情報化は世界最底辺レベルなのに危機感がない。ICTの日常活用を前提としたカリキュラムや運用が必要。
木村真冬
スマホは持ってきていいことになっている。しかし校内では電源を切って預けることになっている。SNSがらみの友達トラブルが多くなっている。絶対やってはダメという指導になってしまう。保護者の意識もいろいろ。野放しの家庭も多い。一方で学校現場では個人情報保護の観点が強い。何をやったらいいのかわからないのでプレッシャーがかかる。ICT活用の圧力もかかる。メンテナンスは誰がやるのか民主主義の基礎という視点は不十分。中学校の間では練習をしようという発想。
一人一台を将来的に実現しようとしている。調べる、表現する、思考を深める、記録して振り返るなどで活用。足りないところがたくさんある。附属小学校では,シティズンシップや哲学の授業をやっている。デジタル・シティズンシップも小中からやらないといけない。シティズンシップやてつがくをやってきた子どもたちは自分の意見を言うことが大好き。根拠なき自信と私たちは呼んでいる。話し合ったり自分で考えたりする主体的な姿勢。小学校からやるのは大事だと思う。自主研究の追究、協働的に課題を解決するものとしてコミュニケーションデザイン科を総合的な学習としてやっている。このやり方がデジタル・シティズンシップを取り入れることが可能ではないか。
総合的な学習のように教科をまとめたもの。効果的なコミュニケーションを創出する能力と態度を育てる。論理・発想領域では思考の基礎操作、トゥールミンの論理モデルを使ったりする。ESDやSDGsの内容も取り入れる。グラフにご注意という授業やKJ法、ガンチャートなど。クリティカルシンキングの指導もある。道徳の時間をもらってやることも。
対話・協働ではアサーションやホワイトボードの活用、ワールドカフェなど。3年生になると揉めてしまった時に第三者が入って調停する学習。伝達・発信では掲示板の作成、ポスター作りなどを学ぶ。修学旅行に行きたくなるポスター。この中で情報モラルや検索の仕方、新聞記事の読み解き方などをやっている。図書室との連携がとても大事。司書の先生が本で探したり、ネットで探す良さを教える。参考文献を書く意味の学習。
次に生かしていくのにはどうしたらいいのか。ワークショップ型の授業をしている。全教科体制でカリキュラムを作っている。いろんなところでちょこちょこやっている。多様性と出会おうならば障害者へのインタビュー、そのあとディベート、発表会を開く。東北の修学旅行も活用。1年生は基礎を多くして、2年生からテーマ学習やプロジェクト学習。全員の教員が関わってカリキュラムを作っている。今日の話を伺って、本当に社会参画に至っているのか。カリキュラム全体で取り組みたい。
河合知成
これをやったら危ないですと言ったことに注意が向けられている。情報の教科書を見てもこれをすれば痛い目にあいますよというものが多い。シティズンシップが日本ではどう扱われているのか。現場でどう感じるのか。海外に行った時にどうシティズンシップが存在し、日本に帰ってきたときにどう感じるか。生意気な生徒がいっぱいいる学校として有名だが、生意気な生徒を育てることを目的としている学校。生意気な態度をとることを涵養してきた。あなたが何者かを問うこと。子どもに言わない、考えさせない。できるだけ生徒に提示する。シティズンシップだが、私立の中高一貫ではない高校だけの学校。公立からくるので、どう「調教」されているのかがわかる。学校という場が支配と服従の場になっている。体育の中で教練をやっている。思考を停止されてしまった子どもたちがやってくる。もともと力がある子どもは自分で気づく。シティズンシップを体得していく。でもそれは一部。中間的これから伸びようとしている子どもにとっては考えさせないことが大きな問題。
iPadを買ってくださいと入学時に行っている。情報伝達ツールを抜きにして世界の知に繋がらないことはあり得ない。本だけでは無理。ありえない。持ってきてくださいと言ってもWiFiにつながればいいというとびっくりさせる。やってはいけませんなんて言ってもしょうがない。1993年に学校に勤め始めた。ポケベルが流行っていた。このころに携帯電話が出た時、担任した時、急いで買いなさいと言った。大勢の人に嫌われたが,それを言えた。そこに存在するリスクとの乖離があり、ある程度言える風土がある。プロジェクターにはAppleTVがあり、どの時間でも生徒がのっとることができる。
生徒が乗っ取ってグラフを出してくれたり、写真を表示できる。そこに規制を設けていない。それでもいまなお綺麗なところだけを切り取って話している。
監視できないとかいう精神状態になることもある。ほっておくとなんとかマネージャーを入れて一斉に動くほうがいいという人もいる。到達させないといけないという義務感があるからそういうことになる。シティズンシップの土台がなければいけない。対等な人間としてあなたならどうするのかと問う。高校生の遠い話題をする必要はない。日常に起こるリアルな現象に対してシティズンとして考えることが大事。道徳に隠されている考えないことを刷り込むことをやめなければシティズンはない。日本の人たちの精神構造にある支配と服従の構造があるかぎり実現はしない。この意見があとのディスカッションに役立つといいと思う。
小栗秀樹
昨年度から文科省に勤めているが、それまでは教員をやっていた。行政の役割を果たさなければならない。学習指導要領から。情報活用能力をどう育成するのか。公共の学習指導要領の解説。こんな学習をしてはどうかという事例の一つ。「公共」の中に情報の出典や発信者の立場や真偽の判断が書かれている。
主体的で対話的で深い学びの視点から何を学ぶか。必要な情報を取っていく。だんだんと体験を落として情報リテラシーが形成できるのてはないか。カリキュラムマネジメント。PDCAサイクルを確立する。複数の教科の連携を図っていくこと。ビジョンの共有が大事。情報科の先生と解説を書く時に何度もやりとりした。パーシャルな連携も効果的。教科がないのでそういう取り組みが必要。できれば校種を超える。バトンを受け渡す。問題意識を共有したい。
人の役に立つ人間になりたいかという質問に対して、95%の子どもがイエスと答えている。私の参加により変えて欲しい社会現象が少し変えられるかもしれないという質問に対しては少し他の国よりも少ない。このギャップはとても悲しい。送り手と受け手の両方に関わること。情報教育によって、このギャップを埋めることができるのではないか。