法政大学教職課程センター・キャリアデザイン学部共済シンポジウム
いじめ問題を考える3 ーいじめ防止実践の未来像ー
(以下の内容は個人的なメモです。)
佐貫浩
300人ぐらいの学生が子供の頃のいじめ経験を書いた。子どもたちが生きている学校空間に蟻地獄が渦を巻いている状況。まず、本当に地獄です。14番目のA君の経験。コンビニに買いに行かされ、親からお金を取ってこいと言われたり、万引きを強要された。裸の写真を撮って笑われた。または不登校になったとか、そういう状況はいっぱいある。ちょっと変わった子どもをいじめるという事例。Aさんをばい菌扱いする。Aさんに近づかず、廊下にまでAさんを避けるようになった。大げさに避けるようになっていった。それは学校全体に広がった。それは決して特殊な例ではない。こんな学校では生きられない。そんな空間が100にあるうちの1起こっているのではなく1つの学校に必ず起こっている。
その中でみんなはどういう立ち位置を取るか。3つの戦略がある。地獄の支配者になり、憂さ晴らしをし、権力をもてあそぶ。子どもは敏感に感じ取る。徹底的に相手を孤立させる。その中で親にチクったら徹底的にいじめる。親に助けを求めることもできない。その支配者の考えを先読みして絶邸に逆らわない。完全に自分の存在がなくなる。自分には価値がない。そういう思いを刻み込む。友達もいじめに加わらなければ、いじめにあう。もう一つの立ち位置は安全な立ち位置。傍観者。戦略的に選び取られる。学生たちはそういう位置どりをして来たことをいっぱい書いている。
いじめはいかに恐ろしいかを実感したと買いた学生。誰もが皆いじめの標的になることを恐れている。こういう空間の中で一挙にリーダーシップが潰される。学習委員長になった。先生に媚びを売るな、いい子ぶるなと言われる。一斉にみんなが拒否する。そういう中で、どうなっていくのか。いじめで多いことは異質性を持ったものの態度。リーダーシップを発揮するものを異質として、成長の機会を奪い取ってしまう。いじめのターゲットを次々に変えていく。権力に同調しない人間をいじめの犠牲者にする。全体の調子に合わせる。自分を安全な位置に置くことに汲々とする。
第三の位置取りは対象者。いじめの空間は波のように全体を支配して、人間の尊厳や人権が剥奪される。学校教育の中で人間の尊厳や人権、平等を教えるはずの学校のカリキュラムはほとんど効果がない。教師が本当の力になっていない。教師の姿が700箇所ぐらい出てくるが、教師にみんな絶望する。教師は子どもの気持ちを本格的に受け止められない。根本的に転換しないといけない。
いじめ対策の方法論。いじめは決していじめる子供といじめられる子どもだけで成り立たない。空間の論理、関係性の論理として考える。いじめ対策は関係性を組み替える教育、戦いとして進められる。民主主義、人権、平等、表現の自由などが原理となる。いじめられている子どもたちの状態を子どもたちは理解できないのだろうか。規範を守れで終わっている。自分の置かれている状況はこんなに悲劇的だったかと学生は書く。しかし、根本的な課題として、子どもたちは人間的な安心や自由、非暴力、他者が支えてくれるという考えが奪われている。そういう状態を克服することが日本の教育の根本課題。非人間的な状況の中で生きられないという思い、共感するということ、理解すること。大河内君と同じ状況が起こっている。共感しあう理解を本格的に子どもたちの中に作り上げていないといけない。教師自身が本当に理解しないといけない。学生が味わって来た、正義を追求できなかった後悔。子どもたちとともに違った形で生きられるといういじめ体験の総括をする。そうして教師として現場に立つ。
ほとんどの子どもたちがこのような空間に生きていること。かつてなかったこと。子どもたちは大人がどうするかを見ている。行政的な方法で対処することも必要だが、この中に置かれている子どもたちの困難を相互に理解する。違った生き方を求める。その思いをたちあげ、話し合える。安心して人間の尊厳を中心的な価値として、隣に生きている友達が信頼できる、そういう価値が必要。今道徳教育が教科化されようとしているが、教科書を使って勉強してもこの問題には対処できない。互いに友達を信頼できる空気を作るために日本中の学校が集中的な取り組みをする。新しい教育実践が必要。明確に掲げなければならない。しかしそういう方向で議論は進んでいない。
いじめのトラウマは大学生に残っている。その中心は本当の表現ができない。優しさの技法という人もいる。優しい人間だと演じ続ける。しかし大学という空間は何が正しいか、科学的な社会的な正義の規範の上で論争する空間。議論ができなければ真理は追求できない。大学はスキルの獲得の空間になってしまっている。人間の尊厳のために何ができるか、公共的空間を作らなければならない。つまり子どもだけの問題ではない。社会そのものの問題である。
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いじめ問題を考える3 ーいじめ防止実践の未来像ー
(以下の内容は個人的なメモです。)
佐貫浩
300人ぐらいの学生が子供の頃のいじめ経験を書いた。子どもたちが生きている学校空間に蟻地獄が渦を巻いている状況。まず、本当に地獄です。14番目のA君の経験。コンビニに買いに行かされ、親からお金を取ってこいと言われたり、万引きを強要された。裸の写真を撮って笑われた。または不登校になったとか、そういう状況はいっぱいある。ちょっと変わった子どもをいじめるという事例。Aさんをばい菌扱いする。Aさんに近づかず、廊下にまでAさんを避けるようになった。大げさに避けるようになっていった。それは学校全体に広がった。それは決して特殊な例ではない。こんな学校では生きられない。そんな空間が100にあるうちの1起こっているのではなく1つの学校に必ず起こっている。
その中でみんなはどういう立ち位置を取るか。3つの戦略がある。地獄の支配者になり、憂さ晴らしをし、権力をもてあそぶ。子どもは敏感に感じ取る。徹底的に相手を孤立させる。その中で親にチクったら徹底的にいじめる。親に助けを求めることもできない。その支配者の考えを先読みして絶邸に逆らわない。完全に自分の存在がなくなる。自分には価値がない。そういう思いを刻み込む。友達もいじめに加わらなければ、いじめにあう。もう一つの立ち位置は安全な立ち位置。傍観者。戦略的に選び取られる。学生たちはそういう位置どりをして来たことをいっぱい書いている。
いじめはいかに恐ろしいかを実感したと買いた学生。誰もが皆いじめの標的になることを恐れている。こういう空間の中で一挙にリーダーシップが潰される。学習委員長になった。先生に媚びを売るな、いい子ぶるなと言われる。一斉にみんなが拒否する。そういう中で、どうなっていくのか。いじめで多いことは異質性を持ったものの態度。リーダーシップを発揮するものを異質として、成長の機会を奪い取ってしまう。いじめのターゲットを次々に変えていく。権力に同調しない人間をいじめの犠牲者にする。全体の調子に合わせる。自分を安全な位置に置くことに汲々とする。
第三の位置取りは対象者。いじめの空間は波のように全体を支配して、人間の尊厳や人権が剥奪される。学校教育の中で人間の尊厳や人権、平等を教えるはずの学校のカリキュラムはほとんど効果がない。教師が本当の力になっていない。教師の姿が700箇所ぐらい出てくるが、教師にみんな絶望する。教師は子どもの気持ちを本格的に受け止められない。根本的に転換しないといけない。
いじめ対策の方法論。いじめは決していじめる子供といじめられる子どもだけで成り立たない。空間の論理、関係性の論理として考える。いじめ対策は関係性を組み替える教育、戦いとして進められる。民主主義、人権、平等、表現の自由などが原理となる。いじめられている子どもたちの状態を子どもたちは理解できないのだろうか。規範を守れで終わっている。自分の置かれている状況はこんなに悲劇的だったかと学生は書く。しかし、根本的な課題として、子どもたちは人間的な安心や自由、非暴力、他者が支えてくれるという考えが奪われている。そういう状態を克服することが日本の教育の根本課題。非人間的な状況の中で生きられないという思い、共感するということ、理解すること。大河内君と同じ状況が起こっている。共感しあう理解を本格的に子どもたちの中に作り上げていないといけない。教師自身が本当に理解しないといけない。学生が味わって来た、正義を追求できなかった後悔。子どもたちとともに違った形で生きられるといういじめ体験の総括をする。そうして教師として現場に立つ。
ほとんどの子どもたちがこのような空間に生きていること。かつてなかったこと。子どもたちは大人がどうするかを見ている。行政的な方法で対処することも必要だが、この中に置かれている子どもたちの困難を相互に理解する。違った生き方を求める。その思いをたちあげ、話し合える。安心して人間の尊厳を中心的な価値として、隣に生きている友達が信頼できる、そういう価値が必要。今道徳教育が教科化されようとしているが、教科書を使って勉強してもこの問題には対処できない。互いに友達を信頼できる空気を作るために日本中の学校が集中的な取り組みをする。新しい教育実践が必要。明確に掲げなければならない。しかしそういう方向で議論は進んでいない。
いじめのトラウマは大学生に残っている。その中心は本当の表現ができない。優しさの技法という人もいる。優しい人間だと演じ続ける。しかし大学という空間は何が正しいか、科学的な社会的な正義の規範の上で論争する空間。議論ができなければ真理は追求できない。大学はスキルの獲得の空間になってしまっている。人間の尊厳のために何ができるか、公共的空間を作らなければならない。つまり子どもだけの問題ではない。社会そのものの問題である。
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