3月11日のあの瞬間から一週間が過ぎた。忘れないうちに、あの日のことを書いておこうと思う。あの日は午前中に学習ステーション成立準備委員会の会議があり、3時から教授会の予定だった。午前の会議が長引いて、研究室に戻ったのは12時半頃だったと思う。コンビニで買った食事を済ませて、デスクワークをしながら、国会中継を見ていた。そろそろ教授会に出かけなきゃと思っていたときである。
いきなり縦揺れが来た。国会でも突然審議が中断した。立っている人が不安そうな表情だったのを覚えている。そのあと、いきなり大きな横揺れが来た。すぐに収まると思ったら、再び大きく揺れた。立っていられないほどだった。まず思ったことは、いつか来ると言われていた東京直下型地震かあるいは東海地震ではないかと言うことだった。
即座にしたことは、使っていたパソコンからTwitterで「わー!地震だ! かなり揺れてる!!!」という第一報を送信したことだった。時間を見ると14時48分だった。10分後の57分には「やっぱりタワーはすごく揺れる。まだ揺れてるし...。地震で酔ってしまった。」と書いている。つまり、10分以上も揺れ続けていたことになる。僕の研究室は26階建ての14階にあり、もともと小さな地震でもよく揺れるのだ。真ん中が大きく揺れることでビル全体への影響を押さえる作りになっている。だから、この揺れはタワーだからなのだと思った。
それでも10分は長い。第一報をTwitterで送信したあと、近くにあったビデオカメラを持って回した。まず地震情報を伝えているテレビ画面を写し、そして外を写した。外堀の向こうの道路では車と車がぶつかっているようで、人が集まっていたが、大きな事故ではなかった。ビルや高速道路には何の損傷も見られず、高速道路には車が走っていた。
揺れは大きかったが、研究室の書棚から10冊程度の本が落ちただけで、たくさんのものが落ちると言うことはなかった。おそらく、タワーのために、横揺れの周期が大きかったため、落ちないですんだのだろう。揺れが収まると、テレビを見た。津波警報が出ていた。テレビの画面はおそらく仙台港か気仙沼だったと思う。しかしこの時点ではまだ大津波は来ていなかった。あとでこのときに撮影したビデオを再生してみると、予想される津波の高さは60cmとなっていた。これを見て、僕はたいしたことはないと思ってしまった。
あとから調べてみると、朝日新聞のサイトに大津波警報が報じられたのは15:15である。「岩手・宮城・福島沿岸で大津波警報。高さ3メートル超える可能性。」このときは10メートルを超える津波を想像することはできなかった。朝日が津波を報じたのは15:36。釜石市で4.2メートルの津波だった。気象庁の津波到達時刻を報じたのは15:52であった。
ほどなくして、ビルから待避するように構内放送が何度も繰り返し流れたので、揺れが収まらないまま、資格課程準備室に行ってみた。助手たちがカメラを持って地震の様子を撮ったりしていた。隣の博物館展示室に行ってみると、免震機能のある展示台が揺れており、警報が鳴っていた。そして僕達は多少揺れが収まったころに、階段で一階まで下りた。揺れの中でビルの鉄筋がミシミシと鳴っていた。恐怖を感じた。
キャンパス中央の広間には三十人ほどの教職員が集まっていた。すでに第一陣は靖国神社に避難したらしい。その頃にはすでに地震も収まっていたので、僕達は避難せずにはすんだ。その後、タワーの地下一階にある学生食堂に集められた。荷物を取りに行く必要がある人は研究室に戻ってもいいというので、14階まで歩いて上がり、必要な荷物を持って再び下りることにした。
この頃はまだ東北地方に巨大津波が襲ったことなど誰も知らなかった。電車が止まっていてもいずれは動き出すだろうと思っていたのである。大学の校舎にも壊れたり、ひびが入っている様子はなかった。僕のビデオにはあまり緊張感のない教職員の姿が映っている。しかし、電車の運転再開にめどが立たないといった情報が入ってくると、それぞれがどうするかを決めなければならなかった。
携帯電話もほとんど使えない状態だった。通話はできなかったが、メールは使えた。しかし一部は届かなかったようだ。しかし、スカイプによる通話は使えた。大災害の時はケータイよりもネット電話の方がつながる可能性が高いとわかった。研究室から自宅のサーバーに接続を試みたが、まったく接続できなかった。停電になっているか、物理的に壊れていると思われた。
研究室に戻ったときに、近隣のホテルの宿泊情報を調べたらすでに満員だった。そこで水道橋にあるカプセルホテルに電話をかけてみた。カプセルホテルはすでに人が並んでいる状態で泊まれるかどうかわからないが、サウナなら大丈夫だとのこと。そこで僕はその場を離れて水道橋まで歩き、サウナに入ることにした。
東北の大災害の様子を知ったのはサウナのテレビであった。気仙沼の火事の様子に恐怖を感じた。その日の夜は都心に帰宅困難者があふれることになった。サウナは帰宅できないサラリーマンでごった返した。みんなテレビにかじりついてみていた。朝日が福島第一原発の炉内水位低下を報じたのは21:22である。この日は原発の事故のことはほとんど知らなかった。
僕は翌日、電車が動いていることを確認し、お昼すぎにサウナを出て、上野駅に向かったが、そこでも人があふれ、いつ電車に乗れるかわからない状態だった。すぐに漫画喫茶に行き、7時頃まで時間をつぶし、ようやく帰宅したのは夜9時頃だった。ちなみに原子力安全・保安院が福島第一原発1号機で炉心溶融が進んでいる可能性が高いと朝日が報じたのは14:17。地震翌日から原発事故は深刻化しつつあった。15:30頃には1号機で爆発が起こっている。枝野幸男官房長官が爆発について記者会見を行ったのは18:00頃だ。
帰宅すると書斎はめちゃくちゃだった。部屋の片付けは後回しにして、まずネット環境を取り戻することに専念した。それができたら即座に決めなければならないことは、21日に開催する予定だった国際シンポジウムをどうするかということだった。翌朝にメルプラッツの中止が決まった。シンポの中止は必至だった。結局、トレントさんに連絡を取り、月曜の朝に中止を決定した。正直に言うと、最初は何とかできるのではないかと思っていた。しかし、事態は想像をはるかにこえて進んでいたのだった。
いきなり縦揺れが来た。国会でも突然審議が中断した。立っている人が不安そうな表情だったのを覚えている。そのあと、いきなり大きな横揺れが来た。すぐに収まると思ったら、再び大きく揺れた。立っていられないほどだった。まず思ったことは、いつか来ると言われていた東京直下型地震かあるいは東海地震ではないかと言うことだった。
即座にしたことは、使っていたパソコンからTwitterで「わー!地震だ! かなり揺れてる!!!」という第一報を送信したことだった。時間を見ると14時48分だった。10分後の57分には「やっぱりタワーはすごく揺れる。まだ揺れてるし...。地震で酔ってしまった。」と書いている。つまり、10分以上も揺れ続けていたことになる。僕の研究室は26階建ての14階にあり、もともと小さな地震でもよく揺れるのだ。真ん中が大きく揺れることでビル全体への影響を押さえる作りになっている。だから、この揺れはタワーだからなのだと思った。
それでも10分は長い。第一報をTwitterで送信したあと、近くにあったビデオカメラを持って回した。まず地震情報を伝えているテレビ画面を写し、そして外を写した。外堀の向こうの道路では車と車がぶつかっているようで、人が集まっていたが、大きな事故ではなかった。ビルや高速道路には何の損傷も見られず、高速道路には車が走っていた。
揺れは大きかったが、研究室の書棚から10冊程度の本が落ちただけで、たくさんのものが落ちると言うことはなかった。おそらく、タワーのために、横揺れの周期が大きかったため、落ちないですんだのだろう。揺れが収まると、テレビを見た。津波警報が出ていた。テレビの画面はおそらく仙台港か気仙沼だったと思う。しかしこの時点ではまだ大津波は来ていなかった。あとでこのときに撮影したビデオを再生してみると、予想される津波の高さは60cmとなっていた。これを見て、僕はたいしたことはないと思ってしまった。
あとから調べてみると、朝日新聞のサイトに大津波警報が報じられたのは15:15である。「岩手・宮城・福島沿岸で大津波警報。高さ3メートル超える可能性。」このときは10メートルを超える津波を想像することはできなかった。朝日が津波を報じたのは15:36。釜石市で4.2メートルの津波だった。気象庁の津波到達時刻を報じたのは15:52であった。
ほどなくして、ビルから待避するように構内放送が何度も繰り返し流れたので、揺れが収まらないまま、資格課程準備室に行ってみた。助手たちがカメラを持って地震の様子を撮ったりしていた。隣の博物館展示室に行ってみると、免震機能のある展示台が揺れており、警報が鳴っていた。そして僕達は多少揺れが収まったころに、階段で一階まで下りた。揺れの中でビルの鉄筋がミシミシと鳴っていた。恐怖を感じた。
キャンパス中央の広間には三十人ほどの教職員が集まっていた。すでに第一陣は靖国神社に避難したらしい。その頃にはすでに地震も収まっていたので、僕達は避難せずにはすんだ。その後、タワーの地下一階にある学生食堂に集められた。荷物を取りに行く必要がある人は研究室に戻ってもいいというので、14階まで歩いて上がり、必要な荷物を持って再び下りることにした。
この頃はまだ東北地方に巨大津波が襲ったことなど誰も知らなかった。電車が止まっていてもいずれは動き出すだろうと思っていたのである。大学の校舎にも壊れたり、ひびが入っている様子はなかった。僕のビデオにはあまり緊張感のない教職員の姿が映っている。しかし、電車の運転再開にめどが立たないといった情報が入ってくると、それぞれがどうするかを決めなければならなかった。
携帯電話もほとんど使えない状態だった。通話はできなかったが、メールは使えた。しかし一部は届かなかったようだ。しかし、スカイプによる通話は使えた。大災害の時はケータイよりもネット電話の方がつながる可能性が高いとわかった。研究室から自宅のサーバーに接続を試みたが、まったく接続できなかった。停電になっているか、物理的に壊れていると思われた。
研究室に戻ったときに、近隣のホテルの宿泊情報を調べたらすでに満員だった。そこで水道橋にあるカプセルホテルに電話をかけてみた。カプセルホテルはすでに人が並んでいる状態で泊まれるかどうかわからないが、サウナなら大丈夫だとのこと。そこで僕はその場を離れて水道橋まで歩き、サウナに入ることにした。
東北の大災害の様子を知ったのはサウナのテレビであった。気仙沼の火事の様子に恐怖を感じた。その日の夜は都心に帰宅困難者があふれることになった。サウナは帰宅できないサラリーマンでごった返した。みんなテレビにかじりついてみていた。朝日が福島第一原発の炉内水位低下を報じたのは21:22である。この日は原発の事故のことはほとんど知らなかった。
僕は翌日、電車が動いていることを確認し、お昼すぎにサウナを出て、上野駅に向かったが、そこでも人があふれ、いつ電車に乗れるかわからない状態だった。すぐに漫画喫茶に行き、7時頃まで時間をつぶし、ようやく帰宅したのは夜9時頃だった。ちなみに原子力安全・保安院が福島第一原発1号機で炉心溶融が進んでいる可能性が高いと朝日が報じたのは14:17。地震翌日から原発事故は深刻化しつつあった。15:30頃には1号機で爆発が起こっている。枝野幸男官房長官が爆発について記者会見を行ったのは18:00頃だ。
帰宅すると書斎はめちゃくちゃだった。部屋の片付けは後回しにして、まずネット環境を取り戻することに専念した。それができたら即座に決めなければならないことは、21日に開催する予定だった国際シンポジウムをどうするかということだった。翌朝にメルプラッツの中止が決まった。シンポの中止は必至だった。結局、トレントさんに連絡を取り、月曜の朝に中止を決定した。正直に言うと、最初は何とかできるのではないかと思っていた。しかし、事態は想像をはるかにこえて進んでいたのだった。