カテゴリ: 百人一首

奥山に

紅葉踏み分け

鳴く鹿の

声聞く時ぞ

秋は悲しき

 

(よみ)

おくやまに もみちふみわけ なくしかの こゑきくときそ あきはかなしき

 

(現代語訳)

奥山で紅葉を踏み分け、鳴いている鹿の声を聞くと、秋は一層悲しく感じられる。

 

現代語訳だけ読むと、ふーん、だから何?って言いたくなります。

 

ねずさん本の解説はさらに踏み込んで解釈します。

 

まずは作者の猿丸大夫の背景についての説明を引用します。

 

作者は、猿丸大夫とありますが、「大夫」は身分を表す言葉で、五位より上の高位の官人です。つまり文字どおりに解釈すれば、猿丸大夫は殿上人の貴族ということになります。

 

「大夫」にはもうひとつ意味があって、田楽師や猿楽師などが宮中で芸能を披露するとき、本来は身分が低くて宮中に上がる資格がないので、仮の位として「大夫」を与えられるケースもあるのです。

 

しかしそうであれば、「これこれの芸事をする芸人で、どこそこの生まれの人」といった出自が、なんらかの形で残っているはずです。

 

すると猿丸大夫というのは、今でいうペンネームと考えたほうが、すっきりとします。本名と身分を隠して歌を詠んだわけです。

 

もしかすると猿丸大夫は、皇子か親王殿下か、あるいは太政大臣のご子息か、相当位の高い高貴な方であった可能性があります。

 

いずれにしても、高位の人物が名前を隠し、あえて「猿丸」とおどけた名前で詠んだところに、この歌を読み解く鍵があります。

 

このような背景を知っておくだけで、だいぶ解釈が異なり、和歌が楽しくなります。

 

そして歌の解説から引用します。

 

まず「奥山」ですが、これは人里離れた奥深い山です。人のいない山奥で、紅葉を踏みわけて鹿が鳴いています。

 

秋の紅葉を「踏み分け」ているくらいですから、真っ赤に色づいた樹々の葉が地面を覆い隠すほどに降り積もっています。

 

つまり山奥で、上から下まで視界の全部が紅葉で真っ赤に染め上げられている情景です。その真っ赤な空間に、鹿の鳴き声が響き渡っています。

 

この時代、秋になると牡鹿が牝鹿を求めて求愛のために鳴くのだとされていました。そのように詠っている歌は、ほかにもたくさんありますから、求愛、つまり「鳴く鹿の声」には、愛する人を恋い慕う感情が重ねられています。

 

二頭の鹿が紅葉の絨毯を踏みしめて、愛し合う。

 

絢爛豪華なイメージ。

 

上の句ではそのような世界を想起させられますが、下の句では、鹿の鳴き声を聞くときこそ悲しいと続きます。

なぜ、悲しいのでしょうか?

そこに重要なメッセージが隠されています。

 

引用を続けます。

 

ここまでくると、殿上人の「猿丸」が、秋や恋が悲しいと詠んでいるのではないことがお分かりになると思います。

 

彼は高位高官の者たちが、絢爛豪華な贅を求めることの愚かしさを詠っているのです。そういう贅沢は所詮儚いもので、つまらないものだと、それとなく諭そうとしています。

 

この歌を、身分の低い貧しい人が詠んだのであれば、このような解釈にはなりません。しかし作者名にわざわざ「大夫」とつけていることを考えれば、このように解釈するほうがむしろ自然です。

 

当時の貴族や地方豪族の中には、富を独占し絢爛豪華な生活を営む人もいたことでしょう。そのような人たちというのは、いつの時代にあっても、財力だけでなく政治力も持っているものです。ですからこれを公然と批判するわけにはいきません。

 

この歌を詠んだ人は、おそらくはそうした華美な生活を送る貴族や地方豪族に対して、相当の影響力を持った人であったと推測します。だからこそ、あえて自分の名前を伏せ、「私は猿ですよ」とばかり「猿丸大夫」という名を付して、この歌を詠んだのでしょう。

 

この歌は、表面的には「秋は物悲しい」という意味ですが、真意は「華美な贅沢や虚飾こそ悲しい」という明確なメッセージを織り込んでいるのです。

 

このような深い意味があったんですね。

 

作者がどのような人物か、どのような時代背景か、歌の順番の意味は何か。

 

これらの要素を加えてこそ、百人一首は面白くなります。

田子の浦に

うち出でて見れば

白妙の

富士の高嶺に

雪は降りつつ

 

(よみ)

たこのうらに うちいててみれは しろたへの ふしのたかねに ゆきはふりつつ

 

(現代語訳)

田子の浦に出てみたら、真っ白な富士山の高嶺に、しきりに雪が降り続いているよ。

 

この歌がなぜ四番歌に選ばれたのか。

 

それは、歌が持つ視覚性とねずさんは言います。

 

歌は、たった三十一文字で、ここまでビジュアル的な表現が可能だということです。

 

ねずさん本から、引用します。

 

「田子の浦にうち出でて見れば」は、分かりやすいと思います。東国へ赴く途中、山部赤人は富士山が美しく見える名所、田子の浦にやって来ました。「うち出でて」の「うち」というのは強調語ですから、山部赤人は期待に胸を膨らませ、「せっかく有名な景勝地の田子の浦にきたのだから、よしっ、浜に出ていってみよう!」とばかりに元気よく田子の浦の浜辺に出たわけです。眼前に広がる青い海、その向こうには美しい富士山が、まさに天に向かってそびえ立っています。

 

(中略)

 

では「雪は降りつつ」の本当の意味は何かというと、実は、季節を示しているのです。そうとしか解釈のしようがありません。つまり、ここで伝えたいのは、「雪は降りつつ」ある情景ではなくて(それでは富士山は見えませんから)、富士山頂付近に、いままさに雪が積もりつつある季節のほうなのです。

 

夏富士は、山頂に雪はありません。初秋になると、山頂付近にうっすらと白い雪が積もりはじめます。そして冬には裾野まで真っ白に雪化粧します。ですから、この歌の富士は、真っ白に雪化粧した冬の富士ではなく、ちょうど雪をかぶりつつある富士、つまり「初秋の富士」ということが分かります。季節を特定することで、冠雪の始まった富士山が明確にイメージできるようになるのです。

 

つまりこの歌は、作者の期待感や胸の高まりといった心情と、実際には見ることのできない情景をそっと読み込むことで、田子の浦から望む美しい富士山をビジュアル的に見せることに成功しているのです。

 

これは、写真や映画がない時代にとっては、なかなか凄いことです。

 

さらにねずさんは、もう一つ大切な意味がこの歌にはあると言います。

 

この時代の富士山は、噴煙を上げる活火山。

 

しかしこの歌には、噴煙のことは書かれていません。

 

これは、二つの意味があります。

 

一つは、噴煙は、戦乱や争いを連想させるため、あえて書かなかった。

 

そしてもう一つ。

 

古来日本は、「言霊(ことだま)の国」と呼ばれ、言葉には魂が宿ると考えられてきました。

 

そのため、恐ろしいことや困ることは、あえて口にしない。

 

自然災害が多かった日本では、古い昔から災害については、あえて口にせず、また口にしなくてもいいように、日頃からみんなで力を合わせて災害に備えることを重視してきたとの解釈です。

 

大変示唆に富みます。

あしびきの

山鳥の尾の

しだり尾の

ながながし夜を

ひとりかも寝む

 

(よみ)

あしひきの やまとりのをの したりをの なかなかしよを ひとりかもねむ

 

(現代語訳)

足を引きずって歩くほどの山奥に棲む山鳥の尾のように、長い夜を、ひとり寝ることになるのだろうか。

 

三番歌は、柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)です。

 

人から天才と称される歌人であっても、歌を詠む時は全身全霊を打ち込んでいることを示す歌です。

 

カッコいいッス。

 

一番歌、二番歌が天皇の御製であれば、三番歌は皇太子や太政大臣クラスの身分の高い人がきそうなもの。

 

しかし身分の低い下級官吏の柿本人麻呂が三番歌に選ばれていること自体が凄いことだと、ねずさんは書いています。

 

ねずさん本より引用させて頂きます。

 

三番歌が人麻呂だという事実は、身分や出自よりも「才能や能力を重んじる」という、我が国の古代からの伝統に基づいて、「百人一首」が編纂されていることを示しています。

 

もちろん中世ですから、身分制は大切にしています。ですから、それぞれの歌詠みの名前には、必要に応じてちゃんと位が付されたりもしています。しかしそれは、あくまで秩序維持のための役割分担であり、人としては対等に扱われていたことが明確に分かるのです。

 

それは同時に、勤勉に努力し、才能を磨き、世の中に貢献することは、身分や出自以上に大切であるという教えでもあります。

 

人麻呂の歌が抜群に優れていたからこそ、身分が低くても藤原定家によって三番歌に選ばれたのでしょう。

 

どのような歌だったのでしょうか?

 

引き続き、ねずさん本より引用させて頂きます。

 

「あしびき」を漢字で書いたら「足引き」です。険しい山道を進んでいけば、しまいには疲れて足を引きずるようになります。ですから深い山道のことを、あしびきの道といいます。

 

そして、あしびきの道が続く深い山奥に、長い尾をもつ山鳥がいます。その尾は「しだり尾」というくらいですから、まるで柳の枝が枝垂っているように、長く垂れ下がっています。

 

つまり「なかなかたどり着けないような深い山奥にいる、山鳥のしだり尾」のことを詠んでいるわけです。ここまでが上の句です。

 

ところが下の句は一転して、「ながながし夜をひとりかも寝む」と、夜の寂しさ、あるいは孤独を詠っています。「ながながし夜」は、「長い長い夜」ですから分かりやすいです。続く「ひとりかも寝む」の「か」は疑問、「も」は強調の係助詞です。要するに「かも」は反語ですから、「なんだ、今夜も一人で寝るのかい!」と、まるで人麻呂爺さんが若い娘さんと一緒に寝たがっているかのように解説している本も多く見かけます。

 

しかし下の句は「ひとりかも寝む」なのです。つまり反語の「かも」は「ひとり」だけに掛かっているのではなく、「寝む」にも掛かっています。そうであればここは「一人眠れない夜を過ごしています」という意味にとるべきものと思います。

 

「あしびきの」山奥は、うっそうとした薄暗い山中です。夜の闇を暗示しているようにも見えます。そして人麻呂は、一人眠れない夜を過ごしているのです。

 

何のためでしょうか。

 

そもそも人麻呂は天才歌人、歌聖と呼ばれたほどの人です。その人麻呂が、夜中に眠らずにいるのは、歌の創作以外に考えられません。

 

ここまでくれば、上の句の意味も明確です。「足を踏み入れることさえも困難な山奥にいる、世にも珍しい山鳥」というのは、良い歌を詠もうと悩みに悩んだ末に見つけることができるであろう、素晴らしい歌の表現なのです。

 

(中略)

 

つまり、「あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む」というのは、美しい鳥(思考による成果)を得るために、夜遅くまで時のたつのも忘れて、一人真剣にひたすら創作に没頭している様子を詠んだ歌であることが見えてきます。

 

歌聖、天才歌人といわれる人麻呂でさえ、ひとつの歌を詠むときには、必死になって考え、もだえ苦しみ、葛藤しているのだと、この歌は述べています。

 

なるほど、歌人達の努力が身に染みる歌ですね。

春過ぎて

夏来にけらし

白妙の

衣干すてふ

天の香具山

 

(よみ)

はるすぎて なつきにけらし しろたへの ころもほすてふ あまのかくやま

 

(現代語訳)

春が過ぎて夏が来た。 純白の衣を干そう、天の香具山に。

 

二番歌は、女性の天皇である持統天皇です。

 

現代語の直訳を読むだけでは、だから何?っていう歌ですね。

 

和歌は、文字にされていないことを察するのが醍醐味。

 

ねずさんは、この歌は究極の夫婦愛と日本人の死生観を表現した歌であると解釈しています。

 

ねずさん本より、引用させて頂きます。

 

まず、「春過ぎて夏来にけらし」は分かりやすいです。春が過ぎて夏が来たのです。洗濯は女性たちの仕事で、川の水を使って全部手洗いしていました。

 

当時はとても寒かった時代です。冬には水面に氷が張ります。氷のように冷たい川の水で洗濯をするのは、さぞかし辛かったことと思います。それが春になって氷が溶け、初夏にかけて日差しが暑くなり、今度は冷たい川の水がとっても心地好くなります。

 

この歌は、女性である持統天皇の御製ですから、洗濯をしているのは、持統天皇ご自身です。一番歌の天智天皇が、粗末な苫屋でご自身の手を露に濡らしながらござを編んだのと同様、我が国最高位の天皇が自ら、こうして家事や洗濯をしていたのです。

 

(中略)

 

持統天皇も自ら洗濯をしますから、冬の川の冷たい水も、春のうららかな水も、夏の気持ちいい水も体感として分かっています。夏の水が気持ちよかったからこそ、「白妙の」ようになるまで、つまり洗濯物が真っ白になるまで、一生懸命洗濯をしてしまったのです。

 

(中略)

 

額からは気持ちいい汗が流れます。ふとみれば、干している洗濯物の向こうに、大和三山で一番立派な香具山が凛々しい山容を見せています。その山の姿は、若くして亡くなった夫の天武天皇の雄姿にも似ています。

「あなた。私、今もこうして頑張っているわよ!」

真っ白な洗い立ての洗濯物を大空のもとで干している持統天皇の姿と、亡くなった夫である天武天皇を今なお愛し続けている持統天皇の姿が、この歌の中で重なります。香具山のことを歌のなかであえて「天の」と書いているのは、香具山を亡夫、天武天皇に見立てているからです。

 

愛する人を失うことは、とても辛く悲しいことです。けれど残された者は、その悲しみや辛さを乗り越えて生きていかなければなりません。笑顔で元気に生きている姿を、先立った愛する人に見てもらいたい、いやきっと見てくれているに違いない―――。そういう気持ちの込められた歌が、この二番歌なのです。

 

そこには、夫婦の対立や男女の闘争などという思考はまったくありません。夫婦が一対のものとして、男は男として、女は女として、互いに助け合い、いたわり合い、愛し合ってそれぞれの役割(仕事)をきちんと果たす。そういうことの大切さ、そして死者とともに生きる日本人の死生観の原点が、この歌に明瞭に描かれているのです。

 

 

うーん、ねずさんの解釈、メチャクチャしびれます。

 

亡くなった方が、空からきっと見守ってくれている。

 

涙が出そうですね。

 

ただ洗濯物を干しただけの歌を、藤原定家が選ぶ訳はありません。

 

一番歌と同様、目上の人が率先して働くという文化。

 

そして亡くなった後も、きっと見守っていてくれるという日本人の死生観。

 

色々な想いがつまった、素晴らしい歌だと思います。

天智天皇の歌が一番歌として選ばれたことには、非常に大きな意味があります。

 

シラス統治という日本の国の統治形態を皇太子時代に大化の改新で成文化・制度化し、その後即位した偉大な天皇が、天智天皇です。

 

以下、ねずさん本より引用させて頂きます。

 

十九世紀までは世界中どこの国でも皇帝や国王などの権力者が、民衆を支配していました。領地・領民は権力者の私有地・私有民であり、「支配と隷属」の上下関係により、国が成り立っていました。

 

この統治形態をウシハクと呼びます。

 

しかし日本においては、天皇は直接統治を行わず、施政者に政治権力を授ける「権威」として存在し続けてきました。つまり、天皇は権力者ではなく、権威という位置づけです。そして、民衆を天皇の民「おおみたから」とし、施政者というのは大切な天皇の民をお預かりする責任ある身分という制度を構築したのです。これが「大化の改新」の翌年に出された「公地公民制」です。

 

この制度は一見すると天皇の独裁支配の体制のように見えますが、まったく違うものです。なぜなら天皇は、民衆に対する政治権力を持たないからです。政治権力は天皇の下の太政官や、地方の豪族たちが持ちました。

 

万民が天皇の民となるということは、誰一人として権力者の私有民にならないということです。私有民でないということは、一人ひとりが人間として扱われ、人としての尊厳が守られ、自立しているということです。もちろん、貴族と平民という身分の違いや上下関係は存在します。しかしそれは、「役割と秩序のための上下関係」であって、「支配と隷属による上下関係」ではありません。

 

この日本の統治形態をシラスと呼びます。

 

(中略)

 

ある意味これは究極の民主主義といえるものです。この「シラス統治」は、日本に古くからあった概念で、『古事記』の出雲神話には「汝之宇志波祁流 此葦原中國者 我御子之所知國(汝がうしはける、この葦原中国は、我が御子のしらす国ぞ)」という天照大神からの神勅が伝えられています。

 

つまり天智天皇は、皇太子であった中大兄皇子のときに、この「シラス国」づくりのための大改革を成文化・制度化して律令制の基礎を築き、その上で後年になって即位した偉大な天皇だったのです。

 

「大化の改新」によって国の基礎が出来上がると、我が国は奈良平安時代の約五百年間にわたり平和な社会を維持発展させてゆきました。「百人一首」はその誕生から崩壊(武家政権の台頭)までの、人々の思いや社会世情を描いた一大抒情詩なのです。だからこそ、一番歌に天智天皇の御製があるのです。

 

これまでシラス統治については、全く知りませんでした。

 

これを学んだうえで日本史や世界史を学び直すと、違った学びがあるでしょう。

ねずさんの動画でも学べます

 

ここまでの背景を知りつつ一番歌を詠むと、百人一首のスケールの大きさを感じることができます。

 

これを一番歌にした藤原定家、凄いッス。

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