あさ川進の、宗教と私

浄土真宗親鸞会に所属しながらアウトサイダーだった私(現在は会員でなくなりました)が、宗教(浄土真宗親鸞会)との付き合い方を考えつつ書いている更新頻度が低いブログ(この説明も暫定です)リンクフリーです。なお、投稿文を受け付けております。「【投稿文】」と書かれている記事は、頂いた投稿文です。

宗教というのは、少なくとも人を幸せにするために存在するものだ、と思っています。
ところが、親鸞会と関わった少なくない人が、苦しみながらフェードアウトする姿も見てきました。
親鸞会はともかく、弥陀の本願とのご縁まで遠ざけてしまうのは、個人的にもったいないことだと思います。

私自身は追い出されるまでやめないということにしていましたが、そんな私自身の経験も含めて書くことで、宗教によって苦しんでしまった人に対して、なにかしらのご縁にでもなればと思います。

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なお、読者の皆様の声や文章を募集しております。このブログを通して伝えたいことや言いたいこと、宗教に対する思いなどがおありでしたら、下記アドレスに文章をお寄せ頂ければ、「投稿文」として掲載したく思います。

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ここ三回ほど、この時期の日曜には大阪の八尾のご縁に行っておりました。もともとは、こういう経緯でこのご縁を知ったわけですけれども、行ってみて初めてそのお寺が稲城和上のお寺だということを知りました。

稲城和上といえば、私が好き?な『他力信心の特色』の本を書かれた方でした。


一昨年までは五日間のご縁だったのですが、昨年は三日間のご縁になって、ぎりぎり日曜日がかぶっていたのでご縁がありました。今年はどうかなと思ってしばらく前からたまに4月の土曜日曜のご縁を探していたのですが見つかりませんでした。それもそのはずで、今年は三日間のご縁いずれも平日でした。


今年は残念ながらご縁が無い予定ですので、代わりにこのブログでご紹介だけします。
「法話案内」からの転載、一部あさ川が手入れ)


【第64回 仏教文化講座】

3日(月)午後2時
     『西本願寺のたからもの』
      龍谷ミュージアム副館長  石川 知彦 先生
4日(火)午前10時・午後2時
     『浄土真実の法』
            平和寺住職  成 照星 先生
5日(水)午前10時・午後2時
     『南无阿弥陀佛の救い -平生業成-』
      本山布教使課程専任講師  阿部 信幾 先生
    ※3日~4日の午後7時~8時30分に懇話会があります。
ところ:若江山光蓮寺
    八尾市南木の本七丁目135
    ※大阪市営地下鉄・谷町線終点「八尾南」駅下車、
     ②番出口より徒歩約10分。
    ※近鉄大阪線「八尾」駅またはJR関西本線(大和路線)「八尾」駅より、
     近鉄バス「藤井寺行き」にて「南木の本」下車、徒歩約5分。


ちなみに、私が初めての時のご縁が、阿部先生でした。

平日ですが、ご縁のある方はお参り下さい。

熊谷に引っ越してきて7年半くらい経ちました。妻が引っ越してきてから数えても三年あまり経ちました。結婚前からずっと同じ家に住んでいますので、主立った家電は、妻が来た時に妻が持ってきた冷蔵庫に変わった以外はほとんど変わっていません。


以前に2回くらい書いたような気がしますが、熊谷にはビデオ法話をやるために引っ越してきたようなもので、ほとんど自分で使っていなかった42インチのモニタやエアコンなども、いわば「客人用」にと引っ越し時に設置したものでした。もっともエアコンについては、結婚してからは冬と夏はほぼ毎日使用するようになりましたが。


そんなわけで、結婚前はほとんどエアコンを使用していませんでした。どれくらいの使用頻度だったかと言いますと、1シーズン全く使用しなかったこともあるくらいで、多くても1シーズンで5日程度でした。だからなのか分かりませんが、取説もどこにやってしまったのか分からなくなっていました。


ところで最近ふと、家のエアコンにフィルタ清掃と内部洗浄機能があることに気がつきました。そういえばリモコンには「フィルタ清掃」と「内部洗浄」のボタンがあったのですが、全く気にしていませんでした。遠い過去にそんなボタンを押したことがあったかもしれませんが、7年半も経ってようやく気付いたのでした。


きっかけは些細なものでした。

1~2週間に一度、掃除機でエアコンのフィルタの埃を吸っていて、たまたまフィルタの取り付けが甘かったのか、普段点灯しない表示が点滅していたのでした。それで何とはなしにリモコンを見て、見つけたという次第です。


もともとこのエアコンは、とりあえず自分で頻繁に使うことも想定していなかったため、池袋のヤマダ電機で「安い機種」として選んだに過ぎないものでした。そういうものに、フィルタ清掃機能が付いているという発想はありませんでした。


「盲点」という言い方をする場合がありますが、まさに見ているけど見えていない、思い込みなどによって気付いていない、といったことがあるものです。


・・・

大聖易往とときたまう  浄土をうたがう衆生をば 無眼人とぞなづけたる  無耳人とぞのべたまう
(弥陀和讃)



南無阿弥陀仏のお話を、発想とか気付きとかで語るのもおかしなように思いますけれども、もし南無阿弥陀仏のお話を聞いて南無阿弥陀仏のお助けを求めていられて、なお南無阿弥陀仏にあえないと思われる方があるとすれば、何かの思い込みによって「聞いているけど聞こえていない」といったことがあるのかもしれません。


蓮如上人は、

「雑行をすてて、後生たすけたまえと、一心に弥陀をたのめ」

といわれていますが、


・雑行を捨てなければ・・・
・雑念を振り捨てて真剣に求めなければ・・・
・法話に欠かさず参詣しなければ・・・
・自分のようなものは救われないのではないか・・・
・因果の道理が徹底されなければ・・・
・必堕無間と知らされなければ・・・


などといった思い込みを挟むと、


阿弥陀仏の、むかし法蔵比丘たりしとき、衆生仏にならずはわれも正覚ならじとちかいましますとき、その正覚すでに成じたまいしすがたこそ、いまの南無阿弥陀仏なりと、こころうべし。これすなわちわれらが往生のさだまりたる証拠なり。されば他力の信心獲得すというも、ただこの六字のこころなりと落居すべきものなり。
(御文4-8)



このように往生の証拠と言われている南無阿弥陀仏を聞いても、「それはただの必要条件であって、南無阿弥陀仏を聞くために何かが必要」と勝手にハードルを付けてしまうことにもなりかねません。


淳心房さんが紹介されている「お天道様を見たら傘は要らない」という表現を借りますならば、傘を持っているから雨が降るわけでもなければ、傘をしまったからお天道様が出てくるわけでもありません。言うなれば、自分の行為によって「お助け」が決まるわけではないといえましょう。


私の場合、「安い機種だからフィルタ清掃機能など付いていないだろう」と勝手に決めつけてしまっていましたが、自分の思い込みなど関係無く付いているものは付いていたのでした。


「心得たと思うは、心得ぬなり。心得ぬと思うは、こころえたるなり。弥陀の御たすけあるべきことのとうとさよと思うが、心得たるなり。少しも、心得たると思うことは、あるまじきことなり」
(蓮如上人御一代記聞書)



が今回もまた味わわれたのでした。

先日(2/26)の記事は、毎年恒例のシリーズだったのですが、今年は趣を変えてというか必然的にというか、自分の言葉を載せるのをやめました。途中まで文章を作っていたのですが、結局それを出すのはやめました。別の日にこっそり出すかも知れません。

あと、今年の文字が「離」となった上にその件に関して何も説明をしていないので、あさ川の味わいが変わったかと思われる方があるかも知れないなあと思ったのですが、特に何も無さそうでしたので、取り急ぎ「例年と特に変わっていません」とだけ申しておきます。


ところで明日は埼玉慧日会の予定です。だいたい私が法座のご縁とか仏法絡みのご縁に行くとなると、近くても約40km離れた大宮ですので、東京のご縁となると高崎線で一時間以上掛けて行くことになります。

通勤で毎日片道二時間程度のバスの旅をしている私にとって、一、二時間の鉄道の旅が格別苦痛だとか遠いだとかいうわけでもありませんが、それでも半日のご縁が一日がかりになったりしますので、近場で行われるご縁というのはありがたいものです。探せば他にも近場のご縁もあるのでしょうが、それも含めてご縁なのだろうと思う次第です。



さて、先日の淳心房さんのブログの記事に、


さて、話の中で『帖外御文』にあるという、

「信心という二字をば、まことの心と読めるなり、まことの心と読む上は、凡夫自力の迷心に非ず。全く仏心なり」

という文章を出して話があったそうです。ただ、この文章は調べても親鸞会関係のサイトでしかヒットしませんでした。

ただ、『御文章』1帖目15通には、

信心といへる二字をば、まことのこころとよめるなり。まことのこころといふは、行者のわろき自力のこころにてはたすからず、如来の他力のよきこころにてたすかるがゆゑに、まことのこころとは申すなり。

とあり、覚如上人の書かれた最要鈔には、

この信心をば、まことのこゝろとよむうえは、凡夫の迷心にあらず、またくの仏心なり。

という御文がありますので、蓮如上人がそのような文章を書かれていたとしても不思議ではありません。が、ちょっとモヤモヤしますので、もしご存じの方は前後の文章を含めて教えて頂きたく思います。



ということがありました。すでに林遊さんがお調べになったようでしたが、私もせっかく学生時代に買った『御文全篇』が手元にありましたので、流し読みして探してみることにしました。


『御文全篇』は、「蓮如真筆ならびに真偽未決を収録し、年記を尊重して配列し、その後に無年記、真偽未決分の順に配列した」ということで、真偽が未決のものも含めて掲載してあるそうです。500ページ近くあるので、それなりの分量でした。同じような御文も分けて掲載されています。


結論を言いますと、私も見つけることは出来ませんでした。


似てるとは言いがたいかしれませんが、せっかく流し読みしましたので、私がしおりを挟んだ二カ所を紹介します。いずれも「真偽未決」のところにありました。


そもそも当流に沙汰するところの信心といふ二字をば、まことのこころとよむなり、また安心とかきては、やすきこころとよむなり。これによりて不審あり。信心の二字をばまことのこころとよむは、弥陀如来の他力のまことの御こころときこえたり。(後略) p427


(前略)されば当流の安心とまふすは、一念にも多念にもあらず、唯念佛往生と深く信ずるをもて、宗の正義とす。すなはち、真の知識にあひたてまつり、念佛往生の本願をきき開て、佛願にまかせ、一念発起するところをさして、信心決定とはいふなり。この信心と申すは、凡夫自力の迷心にあらず如来清浄の願心なり。願心はまことのねがひとよめり。(後略) p443


こうやって見ますと、淳心房さんが紹介された最要鈔のお言葉が一番近いように思いました。


ちなみに、学生時代に私が『御文全篇』を買ったのは、

後生という事は、ながき世まで地獄におつることなれば、いかにもいそぎ後生の一大事を思いとりて、弥陀の本願をたのみ、他力の信心を決定すべし。


が、本当に帖外御文にあるのか、ということを調べるためでした。
これについては探すのに時間が掛かりましたが、p406にありました。


後生といふ事は、ながき世まで地獄にをつることなれば、いかにもいそぎ後生の一大事を思ひとりて、弥陀の本願をたのみ、他力の信心を決定すべし。


よく見たら「おつ」ではなくて「をつ」でした。

親鸞聖人の、

もしまたこのたび疑網に覆蔽せられなば、かえってまた曠劫を径歴せん。
(教行信証)


のお言葉と同じようなことを言われているのかなあと思いました。


特にオチもありませんが、今日はこのくらいにします。

ここをもって、愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化に依りて、久しく万行・諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る、善本・徳本の真門に回入して、ひとえに難思往生の心を発しき。しかるにいま特に方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり、速やかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲う。果遂の誓い、良に由あるかな。ここに久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり。
(教行信証化土巻)


善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり。そのゆえは、如来の御こころによしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、よきをしりたるにてもあらめ、如来のあしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、あしさをしりたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします。
(歎異抄後序)



南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏



~~~~~~補足~~~~~~

改めてご説明しますと、毎年2/26には●「親鸞会」と題した記事を書いてきました。

卒「親鸞会」
超「親鸞会」
忘「親鸞会」
転「親鸞会」
今回は、 離「親鸞会」 と題しました。

いろいろ考えた結果、やはり南無阿弥陀仏だなあということで、今回はこのような形式にしました。

他のブログでは、いわゆる「聖典」の言葉に対しては現代語訳や解説などを載せる場合が多いのですが、当ブログは私の味わいを載せるだけにしております。現代語訳をご所望の方は、他の方の書かれたブログや書物等でお調べ下さい。

ようやくといいますか、しばらく続いた関西出張が一区切りつきまして、関西と関東を往復する日々からは落ち着いたあさ川です。思えば、今住んでいるところを何週間も(実質的に)離れて暮らすというのは、学生時代に免許合宿で東北地方に滞在していたとき以来かも知れません。

そういえば当ブログ恒例のシリーズもあと一週間でした。昨年はかなり前から考えていたタイトルを土壇場でひっくり返して別のタイトルを付けていたわけですが、今年はまだ何も決まっていません。


さて、以前にも話題に出したことを(久しぶりなので)しつこく話題にするのが今日の記事であるわけですが、私が社会人になって一年ほど経った時、当時の学生の後輩たちにあてた文章を(改めて)紹介します。


当時を振り返りますと、

大学院二年の夏に、未来の見通しも暗く悶々としていた頃にふと縁あって、
親鸞会に対して本尊論ブログをぶつけて、しばらくやりあって、閉鎖して、
悶々とした状態で社会人になって、でも学友部からは出してもらえず、
社会人になってほどなく弥陀の本願を喜ぶようになった、

というような経緯の中で、社会人生活も一年を過ぎようとしていた頃、当時の学友部の担当講師から「支部に移籍して引き続き元気な姿を見せてほしい」と言われて移籍することになりました。


もう十年前の話です。


弥陀の本願を喜びながら親鸞会にいた私は、後輩たちに親鸞会の活動で疲弊して南無阿弥陀仏とのご縁が離れてしまっては勿体ないという話を常々していたのですが、あまり会うことも無くなるのだろうという思いもあって、送別会に際して後輩たちにあてたのでした。


その後輩たちも、数年は元気な姿を見せてくれてはいたのですが、私が親鸞会にいる間に、ほとんどの後輩は姿を見せなくなりました。私の至らなさもあったかもしれません。
親鸞会の外ででも、南無阿弥陀仏のご縁にあってくれていれば良いが、とも思いながら居るところです。

あれから十年、早いのか長いのか分かりませんが、十年経ってしまったのだなあと思いました。
昔話というほど昔でもなかったですね。


ちなみにブログ開設して間もなく紹介した時の記事はこれです。



========(以下、当時のメール)========

2007年2月10日 午前2時42分*****************
S(講師部員) 様

あさ川です。
今日の送別会は仕事でご縁ありませんので、
とりあえず一言お送りします。

だいぶ長くなりました。
あと、若干誤解を生むかもしれないところもあるかしれません。

急ぎだったので、文章が乱雑なのはご容赦下さい。

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今日は送別会を開いてもらいましたが、仕事で参加できず申し訳ない。
いないついでに話をしておきたいことを全部書こうと思いましたがやめておきます。

学生の皆さんは、もうすぐ新入生を迎える季節ですね。
そこで、人生の目的は大切だと話をする。数年前は、目的をはっきりさせて
学生生活を充実させようなどという話をしていたこともありました。
皆さんは、目的がはっきりしていて充実した学生生活を送っているでしょうか。
いろんな人があるかしれません。

今まで見てみると、親鸞会の学生さんは、いざ就職となったときに、
もうバリバリに進路が決まっている人もあるのですが、
結局どういう仕事に就けばいいのかわからないで途方に暮れてしまう人も少なくないよう
な気がしました。
「人生の目的がハッキリする」と言う話を人にしているような人でも、
自分の「どう生きる」は、なかなか難しいのだろうとも思います。

弥陀の本願は、すべての人を相手にされています。
すべての人ということは、どんな人生を送っている人でも
弥陀の本願の目当てになるということです。

自分の命は仏法のために捧げると言って学院に入る人も、
そこまでの覚悟はないけど聴聞のために公務員になるという人も、
自分のやりたい職業で夢を追いかける人も、
なんとなくサラリーマンな人も、
弥陀の本願の対象です。

十方衆生相手の弥陀の本願ということはしつこいくらい聞いていても、
なかなか自分相手とはピンと来ないものです。

親鸞聖人は、「邪見きょう慢の悪衆生、信楽を受持すること甚だ以て難し」と言われます。
一方、蓮如上人は「こころえやすの安心」とも言われています。

私は一年生の時、

「人生の目的達成は『難中の難』とも言われるけど『易中の易』とも言われるのだ」、

という話を先輩から聞いていたのですが、しばらくその意味はさっぱり分かりませんでした。


愚禿抄には

「一難疑情 二易信心」

といわれ

「難者三業修善不真実之心なり 易者如来願力廻向之心なり」

と親鸞聖人は言われています。

弥陀の本願の側からすれば、助かるために私が何をすることもないわけですから易と言われているようです。
にも関わらず、弥陀の本願を疑って掛かって、自分で計らってしまうので難と言われているわけです。

弥陀の本願はすべての人が相手だということは、弥陀の本願に制限はないのですが、
私たちは勝手に「こうしなければ弥陀は助けてくれないだろう」「こうすれば助けてくれるかも」
と、はねつけてしまうのです。

真剣に聞けば聞くほどそうなってしまいます。
ただ、それが行き過ぎると
「自分は弥陀の本願を聞く資格がない」といって、自分で弥陀の本願の対象外と決めつけて
弥陀とのご縁を無くしてしまうとすれば、残念なことです。

自分の問題になってくると、
毎回聴聞に行かないようでは助からんとか、
御報謝は何十万としなければダメで無かろうかとか、
すべての時間を仏法に費やしてこそ求道者だとか、
友人を百人くらい二千畳に連れて行くくらいでちょうど良いとか、
うまいもんに金を使うくらいなら御報謝だとか言ったモードになったりします。

ちなみに私が学生時代というのは、まさにこういう傾向がありました。

ただ、その場合、
そういうことができる人とできない人がいます。

学生時代はともかく、仕事なんか始めた日には必ずしも日曜が空くわけではありませんので
「仕事なんか世間のヒマだ」と投げられる人はともかく、
そうでもない人は、御法座にご縁のないこともあり得るわけです。

できる人しかダメとなると、できない人は弥陀の本願の対象外になってしまいます。
こんなのを弥陀は十方衆生とは言われませんし、親鸞聖人や蓮如上人が「易」と言われるはずもありません。

誤解する人は無いと思いますが、
聴聞がどうでもいいとか、御報謝なんかせんでいいとか、
そんなことを言いたいのではありません。

弥陀はすべての人を対象にされているのに、
自分で勝手に、自分は弥陀に助けてもらえないと思ってしまうのは勿体ないということです。

できないときに、できないと言ってそこでやめてしまうのか、
開き直ってしまうのか、
次の機会に向けて前向きになるか、
それは自分で選択することです。


思い悩むことも今後あるかしれません。
一人で抱えて一人でやめるのもその人の勝手といえば勝手ですが、
愚痴でも言える人がいて、言ってすっきりするなら話をするのも一つの方法です。
その相手が私でもいいです。
・・・

まだ足りないのですが、土曜も仕事なのでこの辺にしておきます。
長くなってしまいましたが、皆さんの仏縁をお念じ申し上げます。

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