あさ川進の、宗教と私

浄土真宗親鸞会に所属しながらアウトサイダーだった私(現在は会員でなくなりました)が、宗教(浄土真宗親鸞会)との付き合い方を考えつつ書いている更新頻度が低いブログ(この説明も暫定です)リンクフリーです。なお、投稿文を受け付けております。「【投稿文】」と書かれている記事は、頂いた投稿文です。

宗教というのは、少なくとも人を幸せにするために存在するものだ、と思っています。
ところが、親鸞会と関わった少なくない人が、苦しみながらフェードアウトする姿も見てきました。
親鸞会はともかく、弥陀の本願とのご縁まで遠ざけてしまうのは、個人的にもったいないことだと思います。

私自身は追い出されるまでやめないということにしていましたが、そんな私自身の経験も含めて書くことで、宗教によって苦しんでしまった人に対して、なにかしらのご縁にでもなればと思います。

あさ川に対して、公開コメントを書くのは気が引けるが何か言いたい、と言われる方は⇒のメッセージ機能をご利用ください。あさ川に直接届きます。(公開はされません)

なお、読者の皆様の声や文章を募集しております。このブログを通して伝えたいことや言いたいこと、宗教に対する思いなどがおありでしたら、下記アドレスに文章をお寄せ頂ければ、「投稿文」として掲載したく思います。

skai_asa(アットマーク)yahoo.co.jp
※(アットマーク)の部分は半角の「@」に替えて下さい。

次回の埼玉慧日会は二週間後ですが、無事にご縁があるとすればまた一つ年を取るのだなあと思っている今日この頃です。


先日、バスに乗っておりますと一人のご婦人がありました。私はバスに乗る際、大概最後部の座席に座るのですが、そのご婦人は私から見て二つほど前の、詰めれば二人座れる座席の窓側に座っていたのでした。

最近のバスは、座席の通路側にも捕まり棒があります。ご婦人は、降りるバス停が近づいたのか、座席の通路側に移動して捕まり棒に捕まり、そしてもう一方の手を窓側に伸ばして、窓にある押しボタンを押したのでした。


このとき、私は一瞬「おや?」と思いました。実にご婦人が掴んでいた捕まり棒にも押しボタンがあったからです。しかも、ご婦人の手の僅かに15cmほど上にあったのでした。

しかしながらご婦人がわざわざ窓側に手を伸ばしたのは、おそらく近くのボタンに気がつかなかったからなのだろう、と思ったのでした。


もっとも気がつかないのも無理は無く、ボタンはご婦人の目線から考えれば上にあり、斜め上を見なければ視界に入らないと思われる位置にありました。


押しボタンが見つからずに探して遠くのボタンを押したら、実は案外近くにボタンがあったというのは路線バスのあるあるのような気がしますが、これがいわゆる盲点というのでしょう。


・近いものが案外見えていない
・見えているようで見えていない


視点を変えてみれば、あるいは少し離れた立場から見れば、案外造作も無く見えることなのかも知れません。
こんなことを考えて私はなぜか、観無量寿経を思い出したのでした。


汝いま知れりやいなや、阿弥陀仏、此を去りたまうこと遠からず。


阿弥陀仏は南無阿弥陀仏として目にもし、耳にもしているのでしょうが、見えているようで見えていなかった、聞こえているようで聞いていなかった、ただ超絶不思議な「何か」が阿弥陀仏なのだろうと勝手に思っていた、

そんな学生時代を思い出したのでした。


南無阿弥陀仏

この5連休で、二人の実家に帰省しておりました。思えば学生時代は毎年、新勧合宿だったなあと思い出します。

さて、RCさんから埼玉慧日会のご案内を頂いておりますので掲載します。

仏法とのご縁はそれぞれの場所でございますので、それぞれご縁のあるところでご縁にあわれればありがたいなあと思いますけれども、ご縁のある方はぜひ熊谷にもおいでください。


========(以下、RCさんからの投稿文です)========

少し お久しぶりです。
RCです。

次回の 埼玉恵日会の勉強会のお知らせをさせていただきます。

●埼玉恵日会 の勉強会

日時: 6月4日(日曜日)
14:10~17:00

場所: JR熊谷駅 直結 ティアラ21 4階
ハートピア 会議室 2
(熊谷市男女共同参画推進センター)

講師: 阿部 信幾 先生(本願寺派補教 )

参加費:2000円(ご法礼と、会場費に遣わせて頂きます。)です。

勉強会は、今まで通り、質問形式で進めていきますので、先生に お聞きしたいことや、深く教えて頂きたいことが、ありましたら、私に メールで、送ってください。

アドレスは、
rokujinotsudoiアットマークyahoo.co.jp
アットマークは、@に変えた下さい。
です。

頂いた質問は、プリントアウトして、阿部先生に 郵送します。
質問の締め切りは、5月27日(土)までと、させていただきます。

皆さまからの ご質問、ご参加を 心から お待ちしております。
よろしくお願いいたします。


ところで、
「 前回の埼玉恵日会の勉強会のお知らせ」には いろいろなご意見を頂きました。
批判的なご意見に対しての私の対応が 良かったのかどうかはわかりませんが・・・。
結果的には 閲覧してくださった方も増えて、勉強会にも 前々回よりも、多くの方が参加してくださいました。
また、私が「夕食が作れない」などと 愚痴をこぼしたので、心配してくださった方もあったようで、申し訳なく、また 有り難く そして 嬉しく 思っています。

でも、いろいろあっても
南無阿弥陀仏の教えを聞かれる方が 増えたのは
うれしいです。

本当に「南無阿弥陀仏だけで救われる」って
驚きですけど、そうなのですね。

南無阿弥陀仏って すごいですね。

「私たちは南無阿弥陀仏に髪の毛1本ほどが、触れ合っているだけのだ。でも 髪の毛1本ほどが触れ合っていることが 大切なのだ」と ある先生がおっしゃっていました。
南無阿弥陀仏にほんの僅かでも触れるご縁があったことが うれしいです。


先日 都内で ある先生(阿部先生ではない先生です。)のお話しが 印象に残ったので、一部 紹介いたします。
(このお話しに 疑問や 質問などが ありましたら、この先生に直接メールでお尋ねください。私のアドレスに ご連絡を頂ければ、この先生のお寺のホームページのアドレスをお教えいたします。私のアドレスは、rokujinotsudoiアットマークyahoo.co.jp です。アットマークは、@に変えてください。)

以下 ある先生のお話しです。

*親鸞は、家族を捨てる出家仏教 に対して
「家族を捨てるのではなく 、むしろ 家族と共に、そこに在りながら、その中で、『いつでも、どこでも、誰でも』」の在家仏教を 真実としました。
『いつでも、どこでも、誰でも』
これが、真実か、真実でないかを見極める親鸞のルールです。

「『いつでも、どこでも、誰でも』の 仏教は 特別 なことではない。」
これが 聖道門から 批判され、 弾圧 されました。
出家聖道門の仏教は、『いつでも、どこでも、誰でも』という思想は受け入れない。特別な修行をした人でなければダメだとする。

これは、『誰でも』には、なりません。

『する』という仏教では 『いつでも、どこでも、誰でも』の定義には 当てはまらなくなります。

そこから、
『 する 』ではなく
『 being 在る 存在する 』
という世界が広がります。

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お話しの一部分なので、わかり難いかもしれませし、また、誤解を生むかもしれませんが、

『いつでも、どこでも、誰でも』
これが、真実か、真実でないかを見極める親鸞のルールです。

というお話しが、とても印象に残りました。

『いつでも、どこでも、誰でも』が 真実のルール 。本当の救い、本当の宗教ということは、当たり前と言えば 当たり前だと思います。

でも、
誰かさんに「皆さんは、選びに、選びに、選びに、選ばれた方です」なんて 持ち上げられると、「遠く富山まで聴聞に行っている私こそ、いつか必ず救われる」と、親鸞聖人の真実のルール『いつでも、どこでも、誰でも』から 全く外れたことを真実だと思ってしまうのですね。

阿弥陀さまは、
「もう あなたの救いは、完成している。南無阿弥陀仏がその証拠だ。大丈夫 。安心しなさい」っておっしゃっておらるのに。

「 富山の親鸞会の本部会館で、私の話しを聴聞しなさい。そこが 大悲の願船へ乗り換え場所です」なんて 親鸞聖人の教えではない話しです。
私も、親鸞会会員の時は、うっすらと違和感を持ちながらも、そうなのだと思って せっせと 富山まで通いましたが。
「阿弥陀さまの本願には そんな条件は なかった」と、当たり前のことを 当たり前だと 思えたのは、親鸞会を辞めてからでした。

さて、南無阿弥陀仏の教えを聴聞させて頂くことは、人生の土台、私の命を支えているもの を確認するとことのように思います。

阿弥陀さまの願いがあって
私の命が今 ここにあって、
阿弥陀さまの願いが私の命を生かしていてくださり、
阿弥陀さまが私の命を生きていてくださるから
私が南無阿弥陀仏を聞けたのだと思います。

南無阿弥陀仏の教えは、どんなにお聞きしても 「聞き終わった」ってことはない教えだと思います。

なので 「 埼玉恵日会 」是非 ご参加ください。
お待ちしております。

(ご都合がつきましたら、えす様にも 来て頂きたいです。元親鸞会会員の方でしたら、多少遠方でも 仏法聴聞とあらば 、日本全国 外国でも 聴聞されていたかと思います(^-^)v)

南無阿弥陀仏

気がついたら一ヶ月ほど更新していませんでした。最近は終バス率が高くなっていたからという言い訳もできるのですが、何か書こうとすると以前に書いた話と同じような話になってしまいそうで、いわゆる「筆が進まない」状態だったというのが適切かも知れません。と言いながら書かないでいると本当に書かなくなってしまいそうですので、どこかで書いたような話になるかもしれないと思いながら書くことにします。


先月、とある中華の7インチタブレット(Android)を9千円くらいで購入しました。自称ガラケー派の私はスマホを持たないことにしていたのでスマホは持ってません。ガラケー派のくせにLTE対応のタブレットを買ったという点について突っ込みどころがあるような気がしますが、今日はそのタブレットに(少しだけ)関係する話です。


最初にお断りしておきますと、今回の話は「話題が分からない人にはまったく分からない」度合いがいつも以上に高いかと思います。


私は学生時代と比べて、PC等でのゲームをほとんどやらなくなったのですが、たまたまタブレットに必要なアプリを入れている最中に見つけた「ファイヤーエムブレム(FE)」をとりあえず入れてみたのでした。アプリ自体は無料だったので。


FEと言えば、古くは小学生時代の友人が、わざわざ私の家に遊びに来て、(友人が)自分で持ってきた
FEを何時間も遊んで帰って行ったというシュールな思い出がありました。その後SFCでようやく、自分が「紋章の謎」「聖戦の系譜」を遊んで、こういうものかということが分かったのでした。


それから20年近くは経っておりまして、久方ぶりに出逢ったFEは大きく変化していました。この内容についても語ることもできますが、今回の本筋とは異なりますのでやめておきます。
もっとも、据え置き型ゲーム機でやるSRPGと、携帯端末でやるSRPGが同じゲームシステムで成立するわけがありません(ゲームとして作ることは出来ても、プレイスタイルに合わない)ので、当然の成り行きだろうと思いました。


さて、今回のFEには、最近の「スマホゲーム」同様に「アプリ内課金」がありました。課金対象は、キャラクタの召喚で使用する「オーブ」です。18歳以上で購入可能なオーブの値段を見ていましたら、個数によっては数千円という値段が付いておりました。ものすごく端折ってざっくりした言い方をすれば、オーブを大量に使いさえすればキャラクタを強くすることができます。よって、手っ取り早くキャラクタを強くしたければ、金さえ掛ければ強くなれる、ということが言えます。



このような「インストールは無料、アプリ内で課金」というゲームの場合、ユーザは「無課金で遊ぶユーザ」と「課金して遊ぶユーザ」とに分かれます。無課金でもそれなりに遊ぶことはできますが、課金で遊ぶユーザと比較すると、当然ながらゲーム進行においては随分不都合があります。例えば、大金を使ったユーザと同じレベルに上げようとしたら、お金を遣う代わりに多くの時間や労力を費やす必要がある、などです。(むしろ、それに極まるようにも思いますが)


そんなことを考えてふと、私の学生時代のことを思い出したのでした。(今回は久々に導入が長めでした)


端的に言えば、私が学生時代に親鸞会で話を聞いていた結果としての行動は、アプリ内課金でせっせと大金を使うゲーマーのようなものだった、という感慨です。


私は、入学手続きをした日に「人生の目的とは」という、宗教臭い香り漂う勧誘を受けて話を聞き始めました。他の大学の部室に行くための交通費は掛かりましたが、この時点で会費のようなものは取られませんでした。つまり、「最初は無料」でした。


その後、「人生の目的を達成するために」様々なあれこれが出てきました。まずは新歓合宿(親鸞会的には新勧合宿)。そして夏合宿、そして親鸞会への入会勧誘。


以前に何度か書きましたが、夏の時点での入会勧誘は断りました。その年の夏合宿で勧誘を断ったのは、関東近辺では私以外にもう一人居ただけだったようです。その時には、「入会しなくても(=金を遣わなくても)続けていけるだろう」とのもくろみがありました。


しかし数ヶ月経って、まったく「人生の目的が達成できる」気もせず、金銭的に若干の余裕が出てきた頃にまた「新しい人に対しての入会勧誘」があり、そこでも最後まで粘ったものの入会しました。つまり、金を出しました。入会しさえすれば「人生の目的」とやらが達成できるのだろうという、今振り返れば壮大な勘違いがありました。


会員になったら、いよいよお金を遣う場面は増えました。ここの読者の方でしたらご存じの方も多いかと思いますが、一応例を挙げてます。


・募財(当時は「御報謝」)。色々な建物を建てたり、出版物の広告を出したり、といった費用。
・会費。学生の場合、最初は毎月2000円からでした。実は色々な種別がありました。
・法話の参詣費用。私が大学二年の夏までは地方で法話がありました。夏以降は富山だけになりました。


まだまだいろいろあるかと思いますが、これくらいにしておきます。

私はしばらく会費二千円でしたが、会費を増やすと法話の時に前へ行けるということがあって、毎月一万円にしたり、三万円にしたり、大学院二年のときには十万円にしたりしたこともありました。

そのほか、正本堂等の募財がありました。私が出したのはそれなりでしたが、人によっては百万円単位のお金を出したりした人もあったようです。

なんだかんだ金を遣ったのも、使わないよりは使った方が「人生の目的達成に近づける」という漠然とした思いがあってのことだったのかな、と思いました。



アプリ内課金のスマホゲームも、ゲームによっては際限なく金を掛けられるため、たまに課金の請求がすごいことになったというニュースが流れていたりすることもあります。ゲームの場合は、キャラクタが成長したり、レアアイテムが入手できたり、一応はゲーム内での「成果」が分かります。
ただし、その成果はあくまでゲーム内の話であって、実世界においてハッキリした「成果」の果実を得ることは難しいかも知れません。リアルまたはネットの世界で自慢の種にすることはできるかもしれませんが、例えばお金や財物あるいは国家資格といったようなものが手に入るわけではありません。もっとも、少なくともゲームの目的に対しては近づきこそすれ遠ざかるといったことはないでしょうが。


親鸞会の場合も一応お金を掛けないことはできますが、大概お金が掛かります。そして、たまにものすごい金額を遣う方があります。そうやって金を掛けた「成果」としては何があるでしょう。たとえば、会員種別が上がったり、法話で前の席に行けたり、銘板に自分の名前が刻まれたり、功労者として名前を呼ばれたり、といったことはあるでしょう。ただしこれもゲームと似たようなもので、いずれの「成果」も親鸞会に留まるものです。そして、そもそも親鸞会にいる理由、すなわち目的に役立つのかという点においてもおぼつかないです。

親鸞会で言うところの「人生の目的達成」とは、つまるところ「信心決定」ですが、信心決定はお金を掛けなければできない、などということは言われません。信心決定という言葉をよく御文で使われた蓮如上人は、たとえばこう言われています。


その信心というはいかようなることぞといえば、なにのわずらいもなく、弥陀如来を一心にたのみたてまつりて、その余の仏菩薩等にもこころをかけずして、一向にふたごころなく弥陀を信ずるばかりなり。これをもって信心決定とはもうすものなり。
(御文1-15)



親鸞会なり、何かの宗教なり、その他夢中になっていることが、夢中になる正当性を自分の中に持っていたとしても、ひょっとしたら課金ゲームにひたすら課金し続けてゲーム内の成果に満足しているようなことと似たような状態になっている、ということがあるかもしれません。後から振り返って、あるいは離れた立場から見れば、その入れ込み方に違和感を覚えるのでしょうが、夢中になっている当人は、当人なりの正当性を持っているために違和感を感じない。そこにギャップがあるのだろうと思ったのでした。


ここ三回ほど、この時期の日曜には大阪の八尾のご縁に行っておりました。もともとは、こういう経緯でこのご縁を知ったわけですけれども、行ってみて初めてそのお寺が稲城和上のお寺だということを知りました。

稲城和上といえば、私が好き?な『他力信心の特色』の本を書かれた方でした。


一昨年までは五日間のご縁だったのですが、昨年は三日間のご縁になって、ぎりぎり日曜日がかぶっていたのでご縁がありました。今年はどうかなと思ってしばらく前からたまに4月の土曜日曜のご縁を探していたのですが見つかりませんでした。それもそのはずで、今年は三日間のご縁いずれも平日でした。


今年は残念ながらご縁が無い予定ですので、代わりにこのブログでご紹介だけします。
「法話案内」からの転載、一部あさ川が手入れ)


【第64回 仏教文化講座】

3日(月)午後2時
     『西本願寺のたからもの』
      龍谷ミュージアム副館長  石川 知彦 先生
4日(火)午前10時・午後2時
     『浄土真実の法』
            平和寺住職  成 照星 先生
5日(水)午前10時・午後2時
     『南无阿弥陀佛の救い -平生業成-』
      本山布教使課程専任講師  阿部 信幾 先生
    ※3日~4日の午後7時~8時30分に懇話会があります。
ところ:若江山光蓮寺
    八尾市南木の本七丁目135
    ※大阪市営地下鉄・谷町線終点「八尾南」駅下車、
     ②番出口より徒歩約10分。
    ※近鉄大阪線「八尾」駅またはJR関西本線(大和路線)「八尾」駅より、
     近鉄バス「藤井寺行き」にて「南木の本」下車、徒歩約5分。


ちなみに、私が初めての時のご縁が、阿部先生でした。

平日ですが、ご縁のある方はお参り下さい。

熊谷に引っ越してきて7年半くらい経ちました。妻が引っ越してきてから数えても三年あまり経ちました。結婚前からずっと同じ家に住んでいますので、主立った家電は、妻が来た時に妻が持ってきた冷蔵庫に変わった以外はほとんど変わっていません。


以前に2回くらい書いたような気がしますが、熊谷にはビデオ法話をやるために引っ越してきたようなもので、ほとんど自分で使っていなかった42インチのモニタやエアコンなども、いわば「客人用」にと引っ越し時に設置したものでした。もっともエアコンについては、結婚してからは冬と夏はほぼ毎日使用するようになりましたが。


そんなわけで、結婚前はほとんどエアコンを使用していませんでした。どれくらいの使用頻度だったかと言いますと、1シーズン全く使用しなかったこともあるくらいで、多くても1シーズンで5日程度でした。だからなのか分かりませんが、取説もどこにやってしまったのか分からなくなっていました。


ところで最近ふと、家のエアコンにフィルタ清掃と内部洗浄機能があることに気がつきました。そういえばリモコンには「フィルタ清掃」と「内部洗浄」のボタンがあったのですが、全く気にしていませんでした。遠い過去にそんなボタンを押したことがあったかもしれませんが、7年半も経ってようやく気付いたのでした。


きっかけは些細なものでした。

1~2週間に一度、掃除機でエアコンのフィルタの埃を吸っていて、たまたまフィルタの取り付けが甘かったのか、普段点灯しない表示が点滅していたのでした。それで何とはなしにリモコンを見て、見つけたという次第です。


もともとこのエアコンは、とりあえず自分で頻繁に使うことも想定していなかったため、池袋のヤマダ電機で「安い機種」として選んだに過ぎないものでした。そういうものに、フィルタ清掃機能が付いているという発想はありませんでした。


「盲点」という言い方をする場合がありますが、まさに見ているけど見えていない、思い込みなどによって気付いていない、といったことがあるものです。


・・・

大聖易往とときたまう  浄土をうたがう衆生をば 無眼人とぞなづけたる  無耳人とぞのべたまう
(弥陀和讃)



南無阿弥陀仏のお話を、発想とか気付きとかで語るのもおかしなように思いますけれども、もし南無阿弥陀仏のお話を聞いて南無阿弥陀仏のお助けを求めていられて、なお南無阿弥陀仏にあえないと思われる方があるとすれば、何かの思い込みによって「聞いているけど聞こえていない」といったことがあるのかもしれません。


蓮如上人は、

「雑行をすてて、後生たすけたまえと、一心に弥陀をたのめ」

といわれていますが、


・雑行を捨てなければ・・・
・雑念を振り捨てて真剣に求めなければ・・・
・法話に欠かさず参詣しなければ・・・
・自分のようなものは救われないのではないか・・・
・因果の道理が徹底されなければ・・・
・必堕無間と知らされなければ・・・


などといった思い込みを挟むと、


阿弥陀仏の、むかし法蔵比丘たりしとき、衆生仏にならずはわれも正覚ならじとちかいましますとき、その正覚すでに成じたまいしすがたこそ、いまの南無阿弥陀仏なりと、こころうべし。これすなわちわれらが往生のさだまりたる証拠なり。されば他力の信心獲得すというも、ただこの六字のこころなりと落居すべきものなり。
(御文4-8)



このように往生の証拠と言われている南無阿弥陀仏を聞いても、「それはただの必要条件であって、南無阿弥陀仏を聞くために何かが必要」と勝手にハードルを付けてしまうことにもなりかねません。


淳心房さんが紹介されている「お天道様を見たら傘は要らない」という表現を借りますならば、傘を持っているから雨が降るわけでもなければ、傘をしまったからお天道様が出てくるわけでもありません。言うなれば、自分の行為によって「お助け」が決まるわけではないといえましょう。


私の場合、「安い機種だからフィルタ清掃機能など付いていないだろう」と勝手に決めつけてしまっていましたが、自分の思い込みなど関係無く付いているものは付いていたのでした。


「心得たと思うは、心得ぬなり。心得ぬと思うは、こころえたるなり。弥陀の御たすけあるべきことのとうとさよと思うが、心得たるなり。少しも、心得たると思うことは、あるまじきことなり」
(蓮如上人御一代記聞書)



が今回もまた味わわれたのでした。

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