あさ川進の、宗教と私

浄土真宗親鸞会に所属しながらアウトサイダーだった私(現在は会員でなくなりました)が、宗教(浄土真宗親鸞会)との付き合い方を考えつつ書いている更新頻度が低いブログ(この説明も暫定です)リンクフリーです。なお、投稿文を受け付けております。「【投稿文】」と書かれている記事は、頂いた投稿文です。

宗教というのは、少なくとも人を幸せにするために存在するものだ、と思っています。
ところが、親鸞会と関わった少なくない人が、苦しみながらフェードアウトする姿も見てきました。
親鸞会はともかく、弥陀の本願とのご縁まで遠ざけてしまうのは、個人的にもったいないことだと思います。

私自身は追い出されるまでやめないということにしていましたが、そんな私自身の経験も含めて書くことで、宗教によって苦しんでしまった人に対して、なにかしらのご縁にでもなればと思います。

あさ川に対して、公開コメントを書くのは気が引けるが何か言いたい、と言われる方は⇒のメッセージ機能をご利用ください。あさ川に直接届きます。(公開はされません)

なお、読者の皆様の声や文章を募集しております。このブログを通して伝えたいことや言いたいこと、宗教に対する思いなどがおありでしたら、下記アドレスに文章をお寄せ頂ければ、「投稿文」として掲載したく思います。

skai_asa(アットマーク)yahoo.co.jp
※(アットマーク)の部分は半角の「@」に替えて下さい。

四十九日どころか二ヶ月以上経ったので今更ではありますが、先日娘を見送りました。先月、先々月もブログの更新自体はありましたが、考えてみますと私が書いた記事は三ヶ月前までさかのぼることに気がつきました。そろそろ次の記事を書こうと思っていたところで、娘が亡くなったということもあってブログを書く気も失せていたのですが、なんとか頂いた投稿文でブログが続いたということで、ありがたいことです。


さて、正確に言うと娘は生まれてくる前になくなった、いわゆる死産ですので戸籍上は特に何も残りません。残っていませんけれども、私(と妻)の娘には違いないですので、娘と書きます。もう1~2ヶ月で生まれるであろうというところまで育ってくれましたので、出てきた時には小さい赤ん坊の姿で出てきました。


死産の場合、親の立場からしてみれば多くの場合子供が亡くなったことに違いないのですけれども、外から見たらまだ生まれてきていない状態ですので、いわゆる戸籍がある方が亡くなった場合と比べても、感じ方の隔たりは大きいのだろうと思います。先ほど、ブログを書く気が失せたと書きましたけれども、実際には娘が腹の中に来る前のところからダラダラと思い出話を書いていました。書いていましたが、書いてそれを公開するのもいかがなものかと思いましたので、今回は別のことを書くことにしました。


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事情により、妊娠中の妻は二回転院をして、最終的には救急車で(家から二時間ほど離れた病院へ)運ばれていきました。入院病棟は様々な患者さんがありまして、病院というのは苦しいところの代名詞かも知れないと思ったものでしたが、産婦人科の場合は赤ちゃんの泣き声が聞こえる、面会者の顔もどこか明るい、そんな感じもしておりました。無事に生まれてきてくれたら良いなと思ったものでした。


入院期間がそれなりに長かったので、妻は大部屋に入院していました。個室も多い病院だったのですが、ある日、名札の無い個室に入院患者さんが入っているのが見えました。半日から一日ほど経っても名札がありませんでした。勝手に入っているわけではないのでしょうが、名札が間に合わないのかしらと思ったものでした。一ヶ月ほど後、その部屋に泣き腫らした妻が移動していました。このとき私は、その個室の意味を知りました。


喜びの裏には、見えない悲しみ苦しみがあるものだ、とつくづく思いました。

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娘が「生まれて」きた後、身長と体重を量るからといって引き取られていき、しばらくして娘の体を妻と一緒に洗いました。その後、用意していた短肌着に着替えさせました。娘が生まれたのだなあという感慨がありました。ただ、室内は静かでした。娘の体はすでに冷たかったです。


しばらくして葬儀業者が来て、「ご遺体を霊安室に運びます」と言われました。ご遺体、という言葉を聞いて、そして白い布が掛けられた娘の体を見て、ああ娘は亡くなったのだと現実に戻りました。

一緒に霊安室の前に来て、「最後にだっこしますか?」と聞かれました。いや、最後なんていきなり言わないでくれと思いながらだっこしましたが、初めての経験でしたのでよく分からないまま霊安室に運ばれる娘を見送りました。妻の所に戻ったら、だっこが出来なかったと言われました。(数日後にだっこできました)

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まず娘について思ったことは、娘は妻の腹の中で南無阿弥陀仏を聞いてくれただろうと。

娘が亡くなったということについての意味付けは、私にとっては味わいとなりますけれども、それこそ亡くなった端は、

 「人身受け難し」を教えてくれたのだろうか

と思ってみたり、

 諸行無常、老少不定ということを教えてくれたのだろうか

と味わってみたりしたものでした。
それはそれでもっともらしいとも言えるかしれませんが、どうも落ち着かない日々が続きました。


なんとなく他の味わいも出てきたのですが、なかなかそれがうまく言葉になりませんでした。なんとなく言葉になりかけたときに、こんな言葉を教えてくれた方がありました。


見諦所断の法を断ずがゆえに、心大きに歓喜す。たとい睡眠し懶堕なれども二十九有に至らず。一毛をもって百分となして、一分の毛をもって大海の水を分かち取るがごときは、二三渧の苦すでに滅せんがごとし。大海の水は余の未だ滅せざる者のごとし。二三渧のごとき心、大きに歓喜せん。菩薩もかくのごとし。初地を得已るを「如来の家に生まる」と名づく。一切天・龍・夜叉・乾達婆 乃至 声聞・辟支仏等、共に供養し恭敬するところなり。何をもってのゆえに。この家、過咎あることなし。かるがゆえに世間道を転じて出世間道に入る。ただ仏を楽敬すれば四功徳処を得、六波羅蜜の果報を得ん。滋味、もろもろの仏種を断たざるがゆえに、心大きに歓喜す。この菩薩所有の余の苦は、二三の水渧のごとし。百千億劫に阿耨多羅三藐三菩提を得といえども、無始生死の苦においては、二三の水渧のごとし。滅すべきところの苦は大海の水のごとし。このゆえにこの地を名づけて「歓喜」とす。
(教行信証行巻)



行巻と書きましたが、正確には『十住毘婆沙論』の入初地品からの引用です。初地の菩薩について書かれたところですが、ここを引かれて無明が破られるということについて聞かせてもらいました。

大まかに言いますと、根本の無明が断ぜられたということは、私の側から見れば大海のうちのわずか二三滴の水が滅せられた程度にしか思われずに煩悩の苦しみはほとんど残っているが、弥陀の側から見れば根本の無明を断ずることでほとんどの苦しみが取り除かれ、後に残る苦しみは大海のうちのわずか二三滴程度なのだ、というように受け取りました。私の自覚がどうか、ということと弥陀の側から見たところでは、大きな隔たりがあるようです。



「娘は妻の腹の中で南無阿弥陀仏を聞いたのであろうか」

そのことは、私にとっては「弥陀と娘の話」なのであって弥陀次第なのですが、そんなことを言うと何か冷たい感じがしなくもないと感じられる方があるか知れません。


私の味わいとしては、自分が救われるかどうかあるいは救われたかどうかが気になるほどに、その「救い」にしがみつく傾向があるように思われます。仮に「救われた」のであれば、「救われた」という思いにしがみつく、と言って良いのかもしれません。

その思いが他人に向けば、その当人が救われたのかどうかが気になる、その当人が「救われた」かどうかで浮きもし、沈みもするとも言えましょう。


南無阿弥陀仏との縁は私の計らうところではありませんし、救われたとか救われないとかいうことも私が決める話でもありませんので、それが私でない人のこととすれば、なおさら私がどうこう口を挟む問題ではないのだろうと思うのです。


「腹の中で南無阿弥陀仏」という話をした時、「数え年は、腹の中に宿った時から人生が始まっているからそのように数えるのだと聞きました」「人間界の時間の長さに関係無く、南無阿弥陀仏を聞けた人は本当の長寿だと聞きました」という話を教えて下さった方がありました。

娘が腹の中で南無阿弥陀仏を聞き、称えていたかどうかは弥陀と娘のみが知るところでしょうが、娘のことについて味わうならば、

 南無阿弥陀仏との縁は私の思いに関係無く、弥陀からの一方的なお慈悲の南無阿弥陀仏

ということを改めて味わわせてもらったこと、もっと言えば、

 自らの「救い」から手を離したら南無阿弥陀仏

なのだということ。


ちょっとはまとまったかと思って書いていたらやっぱりまとまってませんでしたが、娘も弥陀と共に南無阿弥陀仏というのが、今の味わいです。


もっといっぱい「だっこ」をしたかった、とか

高い高いをしてやりたかった、とか

せめて「おぎゃー」という名の南無阿弥陀仏の泣き声を聞きたかった、とか


毎日、そんなことを思わない日はありませんけれども。


あとは、娘が特に支障なく出てきてくれたので、妻が無事に退院できたことがありがたいことでした。

南無阿弥陀仏

あさ川です。
そういえば最近このブログではありがたいことに投稿文の掲載が続いておりますが、裏を返せば自分の文章を書いていないなということで、いろいろありましたがようやく書き始めていたところ、RCさんから投稿文を頂きましたので掲載します。私の文章はいつできあがるか分かりませんけれども、ご縁あれば後日載せたいと思います。


ここしばらく雨が続いていることもあり、現在は盆とは思えないほど涼しい熊谷ですが、次回の埼玉恵日会の頃には暑くなっているかも知れません。ご縁のある方は熊谷までおいでください。
なお、前回ご紹介のあった、とくよしみねさんの勉強会は今度の日曜の予定とのことです。こちらもご縁のある方はお越し下さい。


========(以下、RCさんからの投稿文です)========

こんにちは。
RCです。

9月の埼玉恵日会のお知らせをいたします。

日時: 9月 18日(月曜日 祝日)
14:10~17:00
場所: JR熊谷駅 直結 ティアラ21 4階
ハートピア 会議室 2
(熊谷市男女共同参画推進センター)

講師: 阿部 信幾 先生
(本願寺派補教 )

阿部先生にお聞きしたいことが、ありましたら、私に メールで、送ってください。

rokujinotsudoiアットマークyahoo.co.jp

アットマークは、@に変えてください。

質問の締め切りは、勉強会の一週間前の9月11日とさせていただきますます。
よろしくお願いいたします。


ところで、少し前に 阿部先生の ご法話で、お聞きしたことが、とても有り難かったので、ちょっと長文になりますが、書かせて頂きます。

仏教の知識が無い私が、ご説法のお話しを文字にしたので、読み直してみると、わかりにくい部分もあるなーて思いますが。
我慢して読んで頂けたらって思います。

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「正信偈大意を通して、正信偈を学ぶ 」ということで、善導大師の「光明名号顕因縁」のところを お聞きしました。


「光明名号顕因縁」といふは、弥陀如来の四十八願のなかに第十二の願は、「わがひかりきはなからん」と誓ひたまへり、これすなはち念仏の衆生を摂取のためなり。かの願すでに成就してあまねく無碍のひかりをもつて十方微塵世界を照らしたまひて、衆生の煩悩悪業を長時に照らしまします。さればこのひかりの縁にあふ衆生、やうやく無明の昏闇うすくなりて宿善のたねきざすとき、まさしく報土に生るべき第十八の念仏往生の願因の名号をきくなり。しかれば名号執持することさらに自力にあらず、ひとへに光明にもよほさるるによりてなり。このゆゑに光明の縁にきざされて名号の因は顕るるといふこころなり。

この文章は、光明と名号はどういう関係にあるのか 善導大師が 顕かになさったということです。

これを丁寧にいうならば、阿弥陀如来の48願の中の第12の願を 光明無量の願といいます。
48願は、全部 大切な願ですが 、ことに
17願、18願、11願、12願、13願 の五つ、五願といいますが、これが特に重要です。
どのように重要かと言いますと
第17願は、行を誓っている。
第18願は、信が誓ってある。
第11願は、証か誓ってある。
12願、13願は、真仏真土が誓われている。

行、信、証、真仏土、
「教行信証」の 教が かけているだけですね。

教行信証という書物は、48願の中の 第17願、18願、11願、12願、13願を根拠として書かれています。
浄土真宗の教義が 皆、ここに収まるということです。
17願は、行が誓ってあるということについて、学派によって解釈が、分かれます。
「行を念仏だという学派」
それに対して、
「行は名号という学派」があります。
どっちを押さえても間違えではないけれど、
その押さえ方によって 教行信証そのものの読み方が違ってくる。教行信証の取り扱いが違うから、そういう違いが出て来るとも言えます。

私が習いましたのは空華という学派でしたが
そこでは、「行は 名号」、「名号のはたらき」「南無阿弥陀仏というはたらき」を行といいます。
そして 「南無阿弥陀仏というはたらきがあるということを信ずる」、それを 信 という。
これを誓ってあるのが、第18願。
だから、17願と18願は、セットになっているのです。

18願は、信心を誓ってある。
何を信じるのかと、いうと、南無阿弥陀仏のはたらきを信じる。
「南無阿弥陀仏となってはたらく」という誓いが17願。
「南無阿弥陀仏のはたらきを 信ぜさせる」というはたらきが、18願。
両方、他力です。

「南無阿弥陀仏とはたらいて、すべての者を仏にする」、そのはたらきを行という。それを南無阿弥陀仏の名号で表わすのだというのが、
第17願を名号で、押さえるという言い方です。

その名号のはたらきを信じるのを信といいます。
第18願に信心が誓ってあるのは、このことです。
その信心が、正因となって、11願が仏果、
第11願は、必ず滅度に至らしめるという願。
滅度というのは、さとりですから。
必ずさとりに至らめるという願が、第11願。

ですから、
名号となってはたらいて、信心を与え、さとりを開かせるのが、全部 阿弥陀さまの本願のはたらきなのです。

17願と、18願と、11願のはたらきです。
そして、その元になっているのが、12願と、13願で、これは何を誓ってあるのかというと、
12願は、私は光明無量の仏になる。
「光明無量の仏になる」とは、「どのような場所にいる者の上にもはたらく仏になる 」ということです。
13願は、寿命無量を誓っています。
寿命無量は、「いつの時代に生まれた者の上にもはたらく。」ということです。
光明無量、寿命無量、だから阿弥陀と名付けるのです。
アミダ というのは 計れないという意味ですから。何が計れないのかというと、一つには、光明が計れない。もう一つは、寿命が計れない。

光明が計れない、光明が無量だというのは、
光明は私を救う仏さまの知恵のはたらきを指しますから、知恵のはたらきが どんな場所にいる者の上にも届いているということです。
正信偈の 「超日月光 」というのは、光明無量のはたらきを表しています。

13願は、寿命無量の仏になると誓っています。
寿命無量とは、どんな時代に生を受けた者の上にも はたらいているということです。

光明無量、寿命無量ということは、阿弥陀さまの救いのはたらきを表わし
いつでも、どこでもはたらく仏ということを
12願と13願で、表しているのです。

いつでもって言ったら 「今」ということ、
どこでもって言ったら、「ここ」ということです。
ですから 光明無量、寿命無量の本願は、
「あなたのいるところにいつでも 届いている」ということを表しているのです。
何が届いているですか?と言ったら、

︎この12願と13願が元 で
︎名号となってあなたの世界に届くというのが17願で、
︎その名号を信じる信心をあなたに与えるというのが18願、
︎その信心を因としてさとりを開かせるというのがはたらきが、11願。

これが 五願です。

ですから、教行信証という書物は、何を表しているのかというと、
阿弥陀さまのはたらきは、いつでもどこでもどんな者の上にもはたらいているんだということを 教 、行 、信 、証 、真仏土という書物で表してるのです。
それを書いてあるのが、お経です。
このお経は、仏説無量寿経ですから、
「教」は、仏説無量寿経が、上げられています。
仏説無量寿経には 何が説かれているのかというと、17願、18願、11願、12願、13願という「 すべての衆生を仏にする」というはたらきが説かれているのです。

仏説無量寿経は、おさとりを開いたお釈迦さまが、「すべての者を仏にするはたらきが、もうはたらいている」ということを私に告げてくださっている お説教です。
ですから、私たちは、はたらきの中に居るのだということです。
はたらきの中に居るのに、何故 私がまだ さとりを開かないでいるのか?その原因はどのにあるのか、それが問題です。
それは 「私の自力心」が、迷いの原因なのです。

自力心が、迷いの原因だと明らかにしたのが、教行信証の6巻目の 「方便化身土 巻」です。

(中略)

阿弥陀さまは、無碍光如来です。
無碍光とは、妨げるものがない。
碍とは、わたしたちの無明煩悩です。
阿弥陀さまのはたらきは、私たちの無明煩悩が邪魔にならない。
阿弥陀さまは、私たちの無明煩悩を問題にしない仏です。
それが、無碍光如来 という名前です。
ということは、私が迷っているのは、私の無明煩悩が原因では、ないのです。
せっかくそれを治す薬があるのに薬を飲まない。
阿弥陀さまの薬を、拒絶するのが、迷いの原因です。
阿弥陀さまの薬を拒絶する心を自力心 といいます。

阿弥陀さまのはたらきがあるのに、それを拒絶し続けてきたから迷っているのです。
「自力心が 私の迷いの原因である」いうことを明らかにしたのが、「教行信証の6巻目の化身土の巻」です。

阿弥陀さまのはたらきは、目に見えません。
春も、はたらきですから、見えません。
春が来たのが、わかるのは、花が咲くからです。
阿弥陀さまが はたらいているって言っても、はたらきは、見えません。
阿弥陀さまがはたらいているって何で、わかるのかというと、
一つには、お釈迦さまが、仏説無量寿経 というお経を説いたこと。これが、第17願です。
「お釈迦さまが仏説無量寿経を説いたこ」とが、「阿弥陀さまが成仏している証拠」です。

仏説無量寿経の内容は、一切全ての生きとし生けるものを仏にするはたらきがはたらいているということを私に告げているのです。

(中略)

無量寿如来というのは、見えない仏さまです。
だけど見えない仏さまのままでは、私の救いにも何にもならないので、私の上にはたらいているということを念仏で表しているのです。

「 念仏の声が聞こえている」ということは、「阿弥陀さまが はたらいて、あなたを仏にする仏がはたらいているぞ」と、私に告げてくださっているのです。

お念仏は阿弥陀さまのはたらきで
「私が、お念仏している」ってことは、「阿弥陀さまのはたらきが もう 私の中に届いて はたらいている」って言うことです。

阿弥陀さまのはたらきが届いてもう私の中ではたらいているのだから 私が お浄土に参るのは間違いない、こういう話しです。

言い方を変えれ、阿弥陀さまのはたらきにまかせるというのは、念仏を申すということです。反対の言い方をすれば、お念仏をしない人というのは、せっかく薬があっても飲まない人。せっかくお医者さまがいてもお医者さんの世話には、なりませんと治療を拒否する人です。

以上も前のことを踏まえて、正信偈大意を読むと、意味がわかると思います。

︎「光明名号顕因縁」といふは、弥陀如来の四十八願のなかに第十二の願は、「わがひかりきはなからん」と誓ひたまへり、

というのは、どんな場所にいる者の上にも 私のはたらきは、届いているのだ、ということです。

︎これすなはち念仏の衆生を摂取のためなり。

念仏の衆生というのは、阿弥陀さまからはたらきにおまかせした者。おまかせした者が、摂取というのは阿弥陀さまの光明に収めとららて、
二度と迷いの世界に戻らない、これを摂取不捨とか、不退転、正定聚といいます。

︎かの願すでに成就して

12願が、すでに 成就して

︎あまねく無碍のひかりをもつて十方微塵世界を照らしたまひて、

どんな場所にいる私の上にも そのおはたらきが届いていたのだ。

︎衆生の煩悩悪業を長時に照らしまします。

私の側の煩悩悪業を 長い時間照らしてくださって、

︎さればこのひかりの縁にあふ衆生、

私たちのこと、

︎やうやく無明の昏闇うすくなりて

迷いの闇が だんだんうすくなって

︎宿善のたねきざすとき、

宿善というのは、「たまたま行信をえば、遠く宿縁を喜べ」とおっしゃったように、宿縁ともいいます。宿は、過去ということ。
過去に善、過去の縁とは、仏さまのはたらきのことです。
仏さまのはたらきが ようやく私の上にはたらいて、無明の闇が だんだんうすくなって

︎宿善のたねきざすとき、
まさしく報土に生るべき第十八の念仏往生の願因の名号をきくなり。

南無阿弥陀仏の名号を聞くということは、「はたらき」によって聞くのです。
私が仏法の話しを聞こうという心を起こしたことも、こうやってお話してを聞かせていただいて、しかもそれが信じられて はからいに用事がなくなったということは、すべての 第12願の 「わがひかりきわなからん」という仏さまのはたらきが どんな者の上にも届いているということによって、起きるということです。


︎しかれば名号執持することさらに自力にあらず、

名号を 執持というは、念仏です。
念仏は、自力ではない。
阿弥陀さまのはたらきが私の上にお念仏となってはたらいてくださっている。

︎ひとへに光明にもよほさるるによりてなり。このゆゑに光明の縁にきざされて

12願の光明無量のはたらきによって

︎名号の因は顕るるといふこころなり。

名号の因とは、いろいろな取り方がありますが、具体的には、お念仏を申す身にさせていただいている。ということです。

これが、光明と、名号の関係です。

私たちが、お念仏を申させていただいているということは、元を正すと、
光明無量の願のはたらきによって、私たちが、お育てをいただいて、今 ここに南無阿弥陀仏の名号が、お念仏となって現れているということなのだ
ということを 光明た名号の因縁を顕す
と 言われています。

他力の念仏ということは 顕におっしゃったということです。

ここに善導大師の手柄があります。

それ以前は、念仏は、私が称えるという一つの阿弥陀さまの条件を満たすという行ない。
私が 阿弥陀さまの条件を満たしたら、浄土が成立すると 普通は考えますね。
善導大師の時代にも、そう考えていた人がいたのです。

それまでの仏教は、「修行をして悟りを開く」という仏教だったので、念仏もその一つとして、捉えられました。
修行して悟ろういう人たちにとっては、念仏は、ただ口に 南無阿弥陀仏と仏名を称えるだけのことだから、そんなようなことで直ちに悟りを開けるような行ではない と、考えられていました。悟りが高ければ高いほど、その修行は難しいはずです。簡単な修行で手に入れるようなものは、あまり価値がないというのは、
修行して悟りを、開こうとしている人たちにとっては、常識でした。

その中で、南無阿弥陀仏のお念仏も 大した行では、ないと言われていました。
「念仏して、浄土に往生する」っていうのは、お釈迦さまが、仏縁のあまりない人に対して、それを勧めることによって仏法に引き入れる為に「方便」として説いた、念仏して 直ちに悟り獲るということはないとされていました。
念仏にあまり値打ちを見ていなかったのです。

それに対して、善導大師が
「ちがう。」と言って 光明と名号の因縁を顕かにしてくださった。
「切符を買ったら、電車に乗れる」という、念仏は、切符くらいの話しではないのです。

念仏が申されるまでには、過去に無量寿如来の
光明無量の願のはたらきによって、それが六道輪廻している者の上に、そのはたらきが、積もり積もって、その者が、ようやく「南無阿弥陀仏」た、お念仏をする者に仕立てて頂いたのだということを、善導大師が、顕かにしたことを
「光明、名号の因縁を顕す」と、おっしゃっているのです。

ですから、それまでの人が、受け止めていた念仏とは、違うのです。
善導大師以外のお坊さんは、皆 修行して悟りを開くとしか受け止めていなかったので
その修行の一つとして 南無阿弥陀仏と口に名号を称える行と、一応しておきましょう。という程度の念仏の扱いでした。
お念仏は、あまり価値のある行では、ないと受け止められていました。
だから、お念仏によって開ける悟りなど 大したものでは、ないと考えていたのです。

それを善導大師が、ひっくり返したのです。
念仏往生とは、そんな話しではなく、全部他力。
だから 人が念仏を申すようになる前には、果てしない阿弥陀さまの 「その者を助ける」というお慈悲のはたらきが、ずーっとあったから、私がここで、今 念仏を申す者にしていただいているのだ というのが、善導大師のお言葉です。

このことを明らかにしたということを

光明名号の因縁を顕す。

︎しかれば名号執持することさらに自力にあらず、

お念仏を申す者にして頂いたということも他力であれは、今ここに、こうやってお念仏を申しておるということも他力なのです。、

︎ひとへに光明にもよほさるるによりてなり。

光明のはたらきによって、そうして頂いた。

たとえて言ったら、春が来たら花が咲くと同じように、
光明のはたらきによって お念仏をする者が存在するということです。
光明のはたらきが、なければお念仏を申すものがいないということです。

そのことが、
︎このゆゑに光明の縁にきざされて名号の因は顕るるといふこころなり。

ということであります。

あさ川です。

ここ一週間ほど落ち着かない日々が続いておりまして(言い訳)、頂いたメールも読めていなくてコメントの未読も溜まってしまっておりました。そのことについて書くご縁があるかどうかは分かりませんけれども、書くご縁がありましたら書きたいと思います。

一つ私の最近の味わいを述べますと、弥陀を人の親にもしたとえるならば、腹の中から外に出てくるまでずっと願いを掛けて誕生を待ち望み、腹の中から外に出てからもずっと南無阿弥陀仏との縁を結ばせようと願いを掛け待ち望み通しの親であって、しかし因縁の世界のことで子が必ずしも願い通りに生まれ、あるいはご縁を結べないということもあるとすれば、願いを掛けるのも喜ぶのも悲しむのも、一人一人に対しての弥陀のお仕事なのだろうと、そのような心持ちの今日この頃です。


さて、月曜にとくよしみねさんから投稿文を頂いておりました(ありがとうございます)が、気付くのが遅くなり掲載が遅れまして失礼しました。愛知で山も山さんの勉強会のご縁だそうです。ご縁ある方は愛知までおいでください。


========(以下、とくよしみねさんから投稿文です)========


皆様へ、とくよしみねからのお知らせです。今回は山も山さん(宮田さん)の勉強会を開催します。
場所はいつもの愛知県です。
日にちは 8月 20 日 ( 日 ) です。
時間は 午前10時30分から午後5時までの予定です。
演題は「正信偈」についてです。
ご縁があれば是非ご参加ください。
詳細についてお知りになりたい方は、aim_in_life(アットマーク)hotmail.co.jpにメールしてください。
( アットマーク ) は” @ ”に変更してください。
折り返しお知らせいたします。
私にメールをくださる場合、少しプロフィールも書いていただけると有り難いです。
個人情報を漏らすようなことはいたしません。
また私のブログの URL は以下の通りです。
お暇なら見てください。よろしくお願いします。
http://tokuyoshimine.hatenablog.com/

あさ川です。

先の日曜日に、7月の埼玉恵日会がありました。なかなか最近文章を書けていませんが、味わいなどご縁があればまた書きたいなあと思ったりしております。


さて、RCさんからの前回の投稿文で、「念仏者の生き方」についての予告がありましたが、今回そちらの投稿文を頂きましたので掲載します。なお、先回お話しした通り、私は前回ご縁がありませんでした。ですのでこのようにまとめて頂けるのはありがたいなと思います。


RCさんに限らず、聞いたお話の内容でも、日頃のご自身の思いでも、自分でブログを作るまでいかないけど何か発表したい、というようなことがございましたら、お寄せ頂くのもありがたいかなと思います。


ちなみに、率直に言いますと「念仏者の生き方」のフレーズだけ見た時に私は少し引っかかってしまっていたのですが、最後を読んで「なーるほど」と思ったのでした。


========(以下、RCさんからの投稿文です)========
RCです。

前回の投稿文の「唯識」の お話しのおしまいに、「念仏者の生き方」のお話しも 投稿しますと書きましたが、仕上がりました!

親鸞会で、「破邪顕正せよ」の話しの時に 「すごーく美味しい蕎麦屋を見つけたら、人に教えずにおれないでしょ?」と言われて「なるほど」って、思いました。

親鸞会の教義は、??? ですが、「美味しい蕎麦屋を見つけたら人に教えてたくなる」っていう話しには、頷けます。

「 美味しい蕎麦屋を教えたい気持ち」と同じ気持ちで、私は 「埼玉恵日会」のご縁のお手伝いをしたり、投稿文を書いたりしています。

では、念仏者の生き方について、阿部先生からお聞きしたことを 書きます。

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「念仏者の生き方」とは、一言で言ったら
「ご恩報謝」です。

「阿弥陀さまと出遇った」ということは、そこに 「ご恩」があるわけです。
今まで、阿弥陀さまが いない生活をしていた人が、「私を仏にしてくださる阿弥陀という仏がいらっしゃって、この私を仏にしようとしてくださっている」ということに 出遇ったということは、そこに「ありがたいなー。」というご恩が 生まれます。
そのご恩に報いるという生活をご恩報謝といいます。
「お念仏を申さないで 来た私」と、「この教えに出遇った私」の 一番大きな違いは 「おかげさまで、ありがとう。」という ご恩の世界が開かれたか、ご恩のない世界に生きているかです。

「ご恩」いうのは 何かというと、今まで、自分を成り立たせていたものを、当たり前だと思っていたのを、そうではなくても 有難いと頂く世界です。
今 私が、生きているということは、実は、他のものの命をいただいている。
他のものの命をいただいて、生きているのですから、これは、「生きている」というより、「生かされている」のですね。

食前に、「いただきます」というのは、食事をいただくというよりも、命をいただく。
「あなたの命をいただくことによって、私の今日の命が恵まれました。」という「いただきます」です。
そして、食後に
「尊いお恵みを美味しくいただき、ますます ご恩報謝に努めます。」というのは、 頂いた命をどう使って行くかということが、問題で、それは「ご恩報謝と使わせて頂きましょう」ということです。

ご恩報謝と使わせていただくということはー

仕事は、普通は、給料をもらうために仕事をしていますが、「ご恩」という世界は、「他の人の働きによって、自分自身が今 ここに こうして生かされている。」ーーこれは、仏教の縁起論です。
自分が、成り立っているのは、他のありとあらゆるものによって成り立たしめられている、成立させられている。
ということは、私が 今 ここにこうして あるのは、あらゆる 多くの命と、みなさまのお陰なのです。みなさまのお陰 というのが、大事です。
「 みなさまのお陰に よって、今 こうやって命を恵まれて ここに 私かおるんだ」と気づかされたら、みなさまのお陰に どう報いて行くかということが、ご恩報謝です。

具体的には、
お米を作っている人が、魚を捕っている人に、「あなたのお陰で」とお礼を言い、
魚を捕っている人が お米を作っている人に「いやー、あなたのお陰で」と言って、
「お互いが、お互いの姿に感謝し合う世界」
それが、ご恩報謝の世界です。

「浄土真宗の生き方」というのは、こういうことです。
浄土真宗が広まると、世の中は、どうなるかというと、
給料を稼ぐために仕事をしているんじゃなくて、他の多くの方々のお陰によって 自分の生活が、成り立っていると、気づかされたら、多くの方々にお陰に、報いて行くような生き方をしたいとなります。これが ご恩報謝です。

そうすると、お米を作っている人は、相変わらず、お米を作っているわけですが、お米をつくる目的が、違います。
「お金を儲けるためにお米を作っている」のではなくて、「他の方々のご恩に 報いるためにお米を作っている。」そうすると、お米作りが、「少しでも美味しいお米を食べて頂きたい」となります。
「少しでも美味しいお米の食べて頂きたい」という、ご恩報謝の日暮らしが 始まると、そのお米を食べた人が 「このお米は、本当に美味しいなー。有難いなー。」と 衣食住が来るのです。

「 衣食住を求めてお米を作っている人」と、
「ご恩報謝で お米を作っている人」とでは、お米を作っている姿は、同じでも、内容が違う。

内容が違うことを 「転」といいます。
「転ぜられる」のです。
転ぜられるというのは、内容が変わるのです。
仕事をしている姿は同じです。

浄土真宗の盛んな地域でも、浄土真宗がない場所でも、皆 仕事をして暮らしています。
浄土真宗の盛んな地域であれば、仕事をしている人に、「よう 仕事なさいますなー」と言うと「それは 皆さんのお陰ですからね。」と
ご恩報謝の応えが、返って来ます。
浄土真宗がほとんどない地域では 「よう 仕事しますね。」というと、「だって仕事しなけりゃ食べられないじゃないですか」と、なります。

今 、我々は、どっちに暮らしているかということです。
「仕事しなけりゃ、食えないじゃないですか」という世界に暮らしては、いませんか?

これは、仏法でも、なんでもないです。

皆さん、子どもを どのように育てていますかね?
子どもに「勉強しなさい。勉強しなさい。」と勉強させるでしょ。それで どう言っていますか?いい学校を出なさいって言っているでしょ。
自分の子どもの尻を叩いて、ちょっとでもいい学校に入りなさいって言っているのは、ちょっとでもいい就職をさせたいのです。ちょっとでもいい就職が出来れば いい給料が貰えるからです。
そういう風に、子育てしていませんか。
競争になるのは、当たり前です。

「学校に、入りました」っていうことは、誰かが落ちたのです。
人気のある企業に就職出来たということは、だいぶ落ちた人がいるっていうことです。

私か入ったってことは、誰が落ちたということです。

そして、皆が 「勝ち組」とか「負け組」とか、言っている、それが今 我々か生きている世の中では、ないですか。

お説教で、
「いいんですよ。そうやって自分の理想の生活を追求して暮らして行ったって。
そうやっていつか死ぬんだけど、死んでもお浄土だから」
こういうお説教が、今、多いのではないですか。

こういうお説教を聞いていると
浄土真宗に出遇おうが、出遇わまいが
生きている姿は、変わらないっていうことになってしまいます。

これでは、おかしいでしょ。

「浄土真宗に出遇った」というとことは、
「今まで存在がなかった阿弥陀如来という存在が、私の生活に 存在として、出て来た」というとことです。

それまで、阿弥陀さまのいない生活をしていた。具体的に言ったら 仏壇のない日暮らし、念仏しない日暮らしをしていたのです。 その人が、念仏する日暮らしになって 、お仏壇を買い求めて、そこにご本尊をかけて お給仕して、正信偈をあげたり、お念仏したりする生活にチェンジするのです。

何かどうチェンジしたのかというと、阿弥陀さまが、いない生活から、阿弥陀さまのいる生活に変わったのでしょう?
ということは、そこに当然「ご恩」 というものが、出てくる。そうすと 「ご恩に報いる日暮らし」というものが出てくる。
ご恩に報いる日暮らしをもっと拡大していくと
「今まで、当たり前だと思っていたこと」が、「当たり前ではなかった 」と気づかされ、「今までの当たり前」が、「おかげさまで」 と、喜べる。
その代表的なものが、命じゃないですか。

仕事して、お金払ってご飯食べているのだから、食べるのが、当たり前だと思っていたでしょ。
違いますよね。
だって この命は、お金では、買えません。
命は、頂くものです。

だから、「いただきます」と、
今日も一日、命を頂いて生かされて生きている、ありがたいなーと、このことに、気づかされていく。
そこには、お米を作ってくれる人のおかげが あり、魚を捕ってくれる人のおかげが あり、
「多くの命と、みなさまのお陰によりこの命を頂いて、深くご恩を喜び 、有り難く いただきます。」と言って 「頂いたその日々の命」を どうやって使って行くかといったら、
「尊いお恵みを美味しく頂き、ますますご恩報謝に努めます」と、
私の生きることによって、周りのご恩報謝に報いて行く。

「利他」とは、違います。
利他とは、そんなに簡単なものではないのです。
私たちが出来るのは、ご恩報謝なのです。

浄土真宗の門徒の生き方は、「菩薩行の利他行」では、なく「ご恩報謝の日暮らし」なのです。

「信心頂いたら、利他が 出来る」と間違っている人が多いですが、
私たちに、利他は、出来ません。
利他は、 我々が、還相回向の位になった時にやるのです。

お浄土に参らない限り、 我々は、利他はできない。自我が、あるうちは、利他はできない。
生涯 我々は、「自我のとらわれ」から離れることはできない。
自我のとらわれから離れられたら凡夫ではないですから。
やっぱり自分が、優先して行くのです。
だから、他を利する、利他行はできない。

念仏者の生き方は、ご恩報謝です。
みなさまのお陰によりと、そのお陰に 報いて行く生き方をさせていただく。
お米を作る人は、お米を作っている姿は変わらないが 、お金のためにお米を作っているのでは、なくて、ご恩に報いるためにお米をつくる。少しでも美味しいお米を食べて頂いたたいと、日々努力をする。ご恩報謝には、「努力」があるのです。昨日よりも、もっといい仕事をしよう、少しでもいい仕事をして 周りの人に喜んで、頂こうとか。
ご恩報謝で作った美味しいお米を食べた漁師さんが、「あなたのお米は、美味しい。おかげさまで、ありがとう。」と 言ったら 、お米を作っている人は「いや~、あなたが、新鮮なお魚を捕って来てくれるから、私も お米が、美味しく食べられる。こちらこそ、ありがとうございます」と、「お互いが お互いに手を合わせあう世界」が、 浄土真宗の社会では、ないですか。
そういう風に、仏さまがしてくださる。

「当たり前だ」と思っていたことが、「当たり前でない」と気づかされる世界が、浄土真宗の世界です。
気づいたところから、変わって行くのが 浄土真宗の生き方です。
だからこのように生きて行きなさいとか、あのように生きて行きなさいとかはないです。
生き方というのは示されていない というのは、ご恩が、知れたら自ずと、そこに生き方が 変わって行くはずです。

おかげさまってことが わからないから、
おかげさまが、当たり前になっているから
ご恩報謝も出てこない。

多くの命を頂き、みなさまのお陰を頂きながら、自分の思い描いた未来の実現のために生きている。
今、そういう生き方の方が多いのでは、ないでしようか。

「お陰」が ないのです。

他の命を頂いて、他の人の労力を利用して、自分の幸せを実現しようとしているのです。

そうやって生きて行って、最後死んでもお浄土だから大丈夫という説教が 多いのでは、ないですか?
生きる時は、金の力を利用して、自分が太る事ばかり考えて、ひたすらそれを追及して、
挙げ句の果てに、命おわったら お浄土だから大丈夫だって。

とこに仏法があるのですか?
そんなの仏法では、ないです。

仏法っていうのは、「おかげさま」です。

「浄土真宗に出遇う」ということは、「我々の現実生活が 変わる」のです。

「生き方」というのは、「ご恩」というものが、スタートです。
こう生きるべきとか、ああ生きるべきとか、
浄土真宗の念仏者は、こう生きなければいけませんという話しは、どこにもない。

いけませんという話しはなく、「おかげさまでしよ 」という話しがあるのです。

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以上、念仏者の生き方 のお話しでした。


南無阿弥陀仏


前回の更新から10日あまり経ちました。どうも最近の感覚からすると10日どころではなく経ったような気もしていましたが、RCさんから投稿文を頂きました。


前回の投稿文にありましたとおり、前回は「唯識」のお話もあったようです。残念ながら私は直接ご縁がありませんでしたのでどのようなお話があったのか分かりませんでしたが、ありがたいことにRCさんから投稿文の形で頂きましたので掲載します。


唯識についてあまり知識が無いので新鮮な感じがしました。そういえば親鸞会では十二縁起の話とか聞いたことなかったですね。

========(以下、RCさんからの投稿文です)========

前回、6月4日の埼玉恵日会で、

◉「唯識」とは、どのように理解したらいいのでしょうか
と、質問がありました。

以下、その時の先生のお応えをだいたいまとめたものです。
(言葉で、お聞きしたので、もしかしたら、私が当てた漢字に 誤りが あるかもしれません。
お気づきの点が、ありましたあら、教えて頂けると、助かります。)


◉大乗仏教の中で、中心の学問は、1つには、「中観(ちゅうがん)」と 、もう1つに「唯識」が、あります。
「中観」とは、お釈迦さまが亡くなって、700年間後 、龍樹菩薩という方がインドに出ました。龍樹菩薩が中論という書物を書いて
「空」というかとを明らかにしてくださいました。
「空」とは、簡単にいうと あらゆる現象、私が目にしている物や、体験していること、私自身も含めて、私が認識している全ての存在は、「そのもの のみ」によっては、成立はしていない 。お互いが、お互いを成り立たせている。そういう関係で全てのものは存在している。

Aが存在しているのは、Bによって Aが存在している。BはAによって存在している。
自らのなかに、自らを成り立たしめているものは存在しない。

「自らの中に自らを 成り立たしめているもの」を「自性」と言います。
「自性 」とは、「私が 私である」ということが「私の中に私たらしめている自性が存在する」ということです。
これを否定した言葉が「無自性」と言います。

龍樹菩薩 が、いろいろな例えで示してくださっていますが、一番わかりやすいのが親子の例えです。
例えば、3歳の子どもを抱えた母親がいる。その時 「3歳に子どもと この母親との 歳の差は、幾つ?」というと、私たちは、頭の中で そのお母さん年齢が、24歳とすれば、24から3を引きます。これは、誤りです。なぜなら「このお母さん」との 歳の差だからです。
「お母さんは、子どもがいることによって お母さんになっている」のです。子どもがいない時は、お母さんではないのです。だから、「子どもの歳が お母さんの歳」なのです。
子どもが、出来た時に、母になる。
子どもによっては、母が成り立っている。
お母さん 自らの中に、お母さんたらしめるものは存在しないのです。
全てのものが、そういう関係に、よって お互いが、お互いを成立させている、成立している。
これを「無自性」といいます。
このことを 「空 」と言っています。
「空」ということは、「縁起 」ということと同じことです。
「縁起 」というのは、これがあるからこっちがある、こっちがあるからこっちがある、つまり
それぞれが、それぞれを成立せしめている関係。これを「縁起」といい、また「 空」 といい、「無自性」 とも言うのです。
こういうことを、龍樹菩薩が、中論という書物でおっしゃったのです。

こういう 空 をさとる知恵を、仏様の悟りの知恵と言います。
仏様は何を悟ったのかというと 「縁起を 悟ったのです」という言い方もするのです。
お釈迦様がなくった後に、大乗仏教という経典がいろいろ出来たのですが、
その経典の内容が、仏説であるということを論証したのが 中論という書物ということになりますが、中観の説明は、このくらいにします。

「空」いうものが言われましたが、
今度は 「十二支縁起」というのがあります。
「十二支縁起」というのは、「我々になぜ 老病死という現実があるのか?」。
お釈迦様が 悟りの知恵で原因を訪ねていかれた。原因を訪ねていられて 一番の原因は、「無明 」という、知恵がないこと、そういうことが 「老病死の原因」だということが、わかった。

「無明」によって 「行」が起こる、「行」によって 「識」が 起こる。

「無明」「行」「識」「名色」「六入」「触」「受」「愛」「取」「有」「生」「老死」
で 十二。「十二支縁起」といいます。
普通は、「無明」からスタートして、最後「老死」とするのが、「順観」といい、
逆に 「死」の原因を訪ねて
「老死」から始まって、「生」「有」・・・「無明」に辿り着く見方を、「逆観」といい、
「順観」「逆観 」という見方をしていたのですが。

龍樹菩薩の「 空 」の 縁起と、いうことが、明らかになると、十二支縁起のそれぞれが、それぞれを成立させている、川の流れのように 「無明」から出発して、「老病死」となって行った縁起が、そうではなくて、「十二が、 十二それぞれが、それぞれを成り立たしめているという関係だ」ということになっている。
全ての存在は、お互いをお互いによって 成り立たせ合っているというのが 「空 」ですから。

そうすると、十二の関係が、もっと立体的な、
ーお互いがお互いを成立させているーという縁起論になっていく。

その中で 我々が、呼んでいる「世界」というものですが、どこにおいて世界が、存在しているのかというと、「識」によって存在している。
認識の「識」です。

認識の「識 」ということは、受け止めておる者がおるから、世界は存在しているんだ。
受け止めているということを「識」でおさえるのです。
そうすると、我々が「世界」」と呼んでいるのいるものは、何によって世界が存在するかといいますと、我々が受け止めている 識 。
仏教では、「六識」といいます。
六識とは、
眼識,耳識,鼻識,舌識,身識,意識
「眼」は、「眼根」眼根とは、眼球 のことです。眼球が無いと ものが見られないが 眼球は、レンズで、あって、眼球を通して、脳で見ている。この脳を「眼識」といいます。
眼根が、あって、眼識かあって、我々は、見えていると認識しているのです。
耳も、そうで、耳根 というのは、鼓膜も含めた三半規管です。音を感知するセンサーです。実際に聞いているのは 脳の中の音を感知する部分で、これを耳識 。香も鼻は、センサーで、認識しているのは、脳。味も、舌は、センサーで、美味しいとか 不味いと言っているのは 脳です。
身体とそう、硬いとか、柔らかいとか触れて、受け止めているのは、脳です。
それを全部受け止めているが、意識。
眼識,耳識,鼻識,舌識,身識,意識の
六識によって、我々は、物事を認識している。
科学は、ここまでです。

だから、科学者は、人間が死んだらなにも残らないといいます。なぜなら 心は、脳だということだから。
「 心は、脳であり、心といっても肉体に過ぎない」というのが、「唯物論」です。科学は、だいたいこういう考えです。
「死んだらおしまい」という考え方です。

「唯識で」は、もっと深いところに違う意識があるといいます。これを阿頼耶識(アラヤシキ)といいます。
「アラヤ」とは、「蔵」という意味です。
「蔵識」ともいいます。

「阿頼耶識というのが 一番深いところに存在している。」

なぜそういうことがわかったのかというと「ヨウガ」に よって発見されました。ヨウガというのは、禅定です。
仏教のがヨウガを瑜伽業(ユガギョウ)と言い、瑜伽業によって発見された唯識ですから、「瑜伽業唯識学派」といいます。

科学とは、違います。
科学は、思考によってこういうものを発見した。物が見えるとは、眼球があってそのことを受け止めていると脳の部分があって、物を見ている。ということは思考によってわかります。 科学は、ここまでは知っていますが、これから先は、知らないのです。これから先は、禅定によって発見された真実です。
何を発見したのかというと阿頼耶識です。

身の行い、言葉、心の行い、これをカルマと言います。カルマは、漢字で「業」と言います。
我々は、全てのものを見て、認識して、聞いて、嗅いで 、味わって、触れて、心で受け止めて 何事かのことをそこで思い、そこで 何事かを喋り、何事かを行う。
これを 「身口意の三業」と言います。
そのやった行いの結果が、この「阿頼耶識の蔵」に「薫習し」ていきます。お香を作っている人の身体にお香の匂いが染み付くようなことを「薫習」といいます。
心で思っていること、身体で行っていること、口で喋っていること、全てが、阿頼耶識に薫習していくのです。薫習したものを種子(しゅうじ)と言って、縁に触れることによって、現行(現れてると)する。これが今 我々が生きている現実である。こう説明するのが唯識です。

世界というのは、世界があってそこに私がいるのではなくて、自分が作った行いが、この世界を作っている、これが唯識です。
ですから、今 我々が、享受している世界は、我々の心が作ったものをです。
自分が作った世界を自分が受けている、これを「自業自得」といいます。

唯識とは、どのように理解したらいいかというと。
私の生きている世界は、私の心から生まれ出ている、という言葉です。

そこに南無阿弥陀仏が届いているのです。どんな世界にいる者の上にも南無阿弥陀仏の名号となって届いて救うということです。

我至成仏道  がしじょうぶつどう
名声超十方  みょうしょうちょうじっぽう
究竟靡所聞  くきょうみしょもん
誓不成正覚  せいふじょうしょうがく

我もし仏道成るに至て
名号が 声となって十方世界に聞こえる。
聞こえない世界が、あるならば、私は覚りは開きません。

逆の言い方をすれば、
「南無阿弥陀仏が私の世界に届いている」ということは、「もう法蔵菩薩は、覚りを開いて、阿弥陀となって私を救いにかかっているんだ」ということです。
阿弥陀さまが、救いにかかっているわけですから、こちらのはからいは要らないということです。

これが、自力の心を捨てて、一心に弥陀をタノムということです。
これが、ご文章の中心です。
タノム一念の時は、往生一定。
タノム一念というのは、
阿弥陀さまが、はたらいているのだったら、私のはからいは要りませんでしたと、自力が廃った一念を「タノム一念」と言います。
あくまでも、他力と出遇ったから、阿弥陀さまがはたらいていると信じられたから、自力が廃るのです。

唯識とは、なぜ我々が こういう現実を生きているのかを説明したものです。
神さまが 作ったのでも、仏さまが、作ったのでもなく、私自身が 作った世界を、私が 生きている、自業自得の世界を、唯識ということで説明したのです。

六識があり、六識のやった行いが、阿頼耶識という第八識に薫習して、それが出てくる。
やった行いが消えてしまうなどということは、ありえません。死んだら終わりでは、ないのです。

死んだら、どうなるのか?
薫習したものが、次に出てくるのです。

そして、この第八識(阿頼耶識)を自我だと、
錯覚する識が、あるのです。
これが、第七識の「末那識」と言います。
元の言語は、マナス と言って、迷妄とか 迷い という意味です。
末那識は、阿頼耶識は実体が無いのに、これが自我だと錯覚します。
これが、迷いの根源なのです。

これで 全部で、八識です。
眼識,耳識,鼻識,舌識,身識,意識の 六識と、六識の結果を蔵のように溜め込む阿頼耶識と、阿頼耶識を自我だと錯覚する 末那識の
八つの識で、この現実世界を説明するのを
唯識というのです。

私たちは、唯識で、悟るわけでは、ないので、このくらいの理解でいいのでは、ないでしょうか。
浄土真宗が、唯識と どう関係するのかというと
唯識を大成したのが、天親菩薩だということです。
法相唯識のご開山は、世親(天親菩薩)です。
同じ、世親菩薩が、我々にとっては、七高僧のひとりです。
世親(天親菩薩)は、お兄さん(無著菩薩)の唯識の教えを受けて完成させたのです。

末那識というものは、無著菩薩は、いっておられるず、天親菩薩が発見されました。
天親菩薩が 末那識を発見したことで唯識の体系が完成したのです。

六識によって 我々は、身口意の三業を起こして
起こした業が 皆 阿頼耶識に薫習して 薫習して種子となり、ありとあらゆる種子が、現実のありとあらゆる縁と出合うことによって、この世界が生まれてくる。
我々が今 感知している世界は、阿頼耶識の現成した世界ということです。

実態として何かあるわけではなく、私たちの行いが生み出した世界です。

そして
浄土教では「その世界に、阿弥陀さまのはたらきというものが、私の業の上にはたらいている」といい、それを 「お育て」とか、「宿縁(たまたま 行信を獲ば、遠く宿縁を喜べ のお言葉の宿縁)」と言われます。

宿縁とは、宿は、過去、縁は、仏縁。
私の上に、仏縁が常にはたらき続けて、今 私がこうやって お念仏のおいわれを聞くご縁に遇わせて頂いている、これは、如来さまの仏縁に依るのです。

これは 私の自業自得では ありません。
我々の「自業自得の業」は 「迷いの三悪道に輪廻させる業」であって、
「三悪道から救い出すはたらき」は、「阿弥陀如来の大願業力」によるのです。

『 私の身口意の三業は「迷い」しか生み出さない。そうして、六道を、ある時は、地獄に生まれ、ある時は天に生まれ、ある時は人間に生まれ、ありとあらゆる世界を 六道輪廻してそこから出ることができない私で、あります。』と
善導大師の二種深信の中で
「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた常に没し常に流転して、出離の縁あることなきにと信ず。」とおっしゃっています。

これは阿弥陀さまが、見抜いた私の姿なのです。どうやっても迷いの世界から出られない者と、阿弥陀さまが、ご覧になったので、そこに慈悲の心を起こしてくださって、その迷いの世界から、救い出してやろうと、願いを起こしてくださって、そこから救い出せないうちは、
私は仏と名乗りません。とお誓いくださって、ご修行に入られ、そして 今を去ること 十劫の昔に阿弥陀仏となって もうすでに、私を覚りの世界に生まれさせようと、はたらいてくださる。

我々は、その 阿弥陀さまのはたらきの中に居るので 自力を捨てて、他力をタノメと、
こう お勧めくださっているのが、浄土真宗。

これをやったら救われるという教えは、浄土真宗ではない。これをやったら救われるというのは自力の教えです。
そうではなくて、他力がはたらいているのだから、これをやることは、要りませんでしたね、
と、これがタノム一念です。

唯識とは、このように理解してもらえたらいいと思います。

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と、唯識について教えて、頂きました。

それから、
「念仏者に生き方」についても、お聞きしたのですが、それも やっぱり、ご紹介したいと 思います。

また、投稿させていただきます(o^^o)


南無阿弥陀仏

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