今日、テレビ講演会がありまして、「五重の義」の演題で勤められました。
この五重の義成就せずは、往生はかなうべからずとみえたり
ということで、まずは「往生(=浄土往生)」ということについて午前中ずっと話があり、午後に宿善の話が始まりました。といっても、午後の前半は宿善の大切さの話でしたので、実際に宿善の内容の話が始まったのは午後の後半でした。
その宿善の話は途中までで、よく分かりませんがおそらく来週の二千畳テレビ講演で続きが勤められるのではないか、というところでした。
特に印象に残ったところをいいますと、
・確実な未来(=死)を問題にしないでアキラメている。
アキラメるのは弱い人間、頭の悪い人間、と言わせたい雰囲気の中でアシスタントが困っていたところ
・ここでの往生が浄土往生なのはその通りだと思ったのですが、ある会員さんが「浄土往生のことなんですね」と言われていたこと
・宿善の説明での「宿世」を「過去世(生まれてくる前)」と説明されたこと
さて、蓮如上人がどこを典拠とされて「五重の義」を教えられたのかは分かりませんが、存覚上人の「浄土見聞集」に同じような内容があります。
もしききえてよろこぶこころあらば、これ宿善のひとなり。善知識にあいて本願相応のことわりをきくとき、一念もうたがうこことのなきは、これすなわち摂取の心光行者の心中を照護してすてたまわざるゆえなり。光明は智慧なり、この光明智相より信心を開発したまうゆえに信心は仏智なり、仏智よりすすめられたてまつりて口に名号をとなえらるるなり
ここでは、「五重の義」に出てくる五つのものが順番通り出てきています。覚如上人の口伝抄にも、若干順番が違うものの五つ出てきます。(名号を信ずるところの体とされているからだと思われます)
十方衆生のなかに、浄土教を信受する機あり、信受せざる機あり。いかんとならば、『大経』のなかに、とくがごとく、過去の宿善あつきものは、今生にこの教におうて、まさに信楽す。宿福なきものは、この教にあうといえども、念持せざれば、またあわざるがごとし。「欲知過去因」の文のごとく、今生のありさまにて、宿善の有無あきらかにしりぬべし。しかるに、宿善開発する機のしるしには、善知識におうて開悟せらるるとき一念疑惑を生ぜざるなり。その疑惑を生ぜざることは、光明の縁にあうゆえなり。もし光明の縁、もよおさずは、報土往生の真因たる名号の因をうべからず。いうこころは、十方世界を照曜する無碍光遍照の明朗なるにてらされて、無明沈没の煩悩漸漸にとらけて、涅槃の真因たる信心の根芽わずかにきざすとき、報土得生の定聚のくらいに住す。すなわちこのくらいを、「光明遍照十方世界念仏衆生摂取不捨」(観経)とらとけり。また光明寺の御釈には、「以光明名号摂化十方但使信心求念」(往生礼讃)とも、のたまえり。しかれば、往生の信心のさだまることは、われらが智分にあらず。光明の縁にもよおしそだてられて、名号信知の報土の因をう、としるべしとなり。これを他力というなり。
五重の義では、宿善によって善知識にあい、光明の縁に催されて信心獲得の身になって名号を称える、「信心正因称名報恩」が説かれているといわれます。五つのものが重なって、とありますが、この五つのものは前後お互い関係があります。前の三つが獲信の縁で、「信心正因、称名報恩」。
口伝抄では見た目の順番が異なりますが、
往生の信心のさだまることは、われらが智分にあらず。光明の縁にもよおしそだてられて、名号信知の報土の因をう、としるべしとなり
とありますので、いわんとされていることは同じだと思います。
宿善も、善知識も、縁なのです。信心も私が起こすわけではありませんで、弥陀が用意されたものです。
となれば、
この五重の義成就せずは、往生はかなうべからずとみえたり
と言われていますけれども、この五つを自分で用意しなければ「往生はかなうべからず」ではありませんね。
覚如上人が
しかれば、往生の信心のさだまることは、われらが智分にあらず。光明の縁にもよおしそだてられて、名号信知の報土の因をう、としるべしとなり。これを他力というなり。
と仰っているとおりなのだと思います。
この五重の義成就せずは、往生はかなうべからずとみえたり
ということで、まずは「往生(=浄土往生)」ということについて午前中ずっと話があり、午後に宿善の話が始まりました。といっても、午後の前半は宿善の大切さの話でしたので、実際に宿善の内容の話が始まったのは午後の後半でした。
その宿善の話は途中までで、よく分かりませんがおそらく来週の二千畳テレビ講演で続きが勤められるのではないか、というところでした。
特に印象に残ったところをいいますと、
・確実な未来(=死)を問題にしないでアキラメている。
アキラメるのは弱い人間、頭の悪い人間、と言わせたい雰囲気の中でアシスタントが困っていたところ
・ここでの往生が浄土往生なのはその通りだと思ったのですが、ある会員さんが「浄土往生のことなんですね」と言われていたこと
・宿善の説明での「宿世」を「過去世(生まれてくる前)」と説明されたこと
さて、蓮如上人がどこを典拠とされて「五重の義」を教えられたのかは分かりませんが、存覚上人の「浄土見聞集」に同じような内容があります。
もしききえてよろこぶこころあらば、これ宿善のひとなり。善知識にあいて本願相応のことわりをきくとき、一念もうたがうこことのなきは、これすなわち摂取の心光行者の心中を照護してすてたまわざるゆえなり。光明は智慧なり、この光明智相より信心を開発したまうゆえに信心は仏智なり、仏智よりすすめられたてまつりて口に名号をとなえらるるなり
ここでは、「五重の義」に出てくる五つのものが順番通り出てきています。覚如上人の口伝抄にも、若干順番が違うものの五つ出てきます。(名号を信ずるところの体とされているからだと思われます)
十方衆生のなかに、浄土教を信受する機あり、信受せざる機あり。いかんとならば、『大経』のなかに、とくがごとく、過去の宿善あつきものは、今生にこの教におうて、まさに信楽す。宿福なきものは、この教にあうといえども、念持せざれば、またあわざるがごとし。「欲知過去因」の文のごとく、今生のありさまにて、宿善の有無あきらかにしりぬべし。しかるに、宿善開発する機のしるしには、善知識におうて開悟せらるるとき一念疑惑を生ぜざるなり。その疑惑を生ぜざることは、光明の縁にあうゆえなり。もし光明の縁、もよおさずは、報土往生の真因たる名号の因をうべからず。いうこころは、十方世界を照曜する無碍光遍照の明朗なるにてらされて、無明沈没の煩悩漸漸にとらけて、涅槃の真因たる信心の根芽わずかにきざすとき、報土得生の定聚のくらいに住す。すなわちこのくらいを、「光明遍照十方世界念仏衆生摂取不捨」(観経)とらとけり。また光明寺の御釈には、「以光明名号摂化十方但使信心求念」(往生礼讃)とも、のたまえり。しかれば、往生の信心のさだまることは、われらが智分にあらず。光明の縁にもよおしそだてられて、名号信知の報土の因をう、としるべしとなり。これを他力というなり。
五重の義では、宿善によって善知識にあい、光明の縁に催されて信心獲得の身になって名号を称える、「信心正因称名報恩」が説かれているといわれます。五つのものが重なって、とありますが、この五つのものは前後お互い関係があります。前の三つが獲信の縁で、「信心正因、称名報恩」。
口伝抄では見た目の順番が異なりますが、
往生の信心のさだまることは、われらが智分にあらず。光明の縁にもよおしそだてられて、名号信知の報土の因をう、としるべしとなり
とありますので、いわんとされていることは同じだと思います。
宿善も、善知識も、縁なのです。信心も私が起こすわけではありませんで、弥陀が用意されたものです。
となれば、
この五重の義成就せずは、往生はかなうべからずとみえたり
と言われていますけれども、この五つを自分で用意しなければ「往生はかなうべからず」ではありませんね。
覚如上人が
しかれば、往生の信心のさだまることは、われらが智分にあらず。光明の縁にもよおしそだてられて、名号信知の報土の因をう、としるべしとなり。これを他力というなり。
と仰っているとおりなのだと思います。