あさ川進の、宗教と私

浄土真宗親鸞会に所属しながらアウトサイダーだった私(現在は会員でなくなりました)が、宗教(浄土真宗親鸞会)との付き合い方を考えつつ書いている更新頻度が低いブログ(この説明も暫定です)リンクフリーです。 なお、投稿文を受け付けております。「【投稿文】【○○さん】」と書かれている記事は、いただいた投稿文です。後ろ【】に投稿主の方の名前を表示しております(2020/6/20)。投稿文の内容や行事案内等については、投稿主に直接ご連絡ください。

宗教というのは、少なくとも人を幸せにするために存在するものだ、と思っています。
ところが、親鸞会と関わった少なくない人が、苦しみながらフェードアウトする姿も見てきました。
親鸞会はともかく、弥陀の本願とのご縁まで遠ざけてしまうのは、個人的にもったいないことだと思います。

私自身は追い出されるまでやめないということにしていましたが、そんな私自身の経験も含めて書くことで、宗教によって苦しんでしまった人に対して、なにかしらのご縁にでもなればと思います。

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今日、テレビ講演会がありまして、「五重の義」の演題で勤められました。


この五重の義成就せずは、往生はかなうべからずとみえたり


ということで、まずは「往生(=浄土往生)」ということについて午前中ずっと話があり、午後に宿善の話が始まりました。といっても、午後の前半は宿善の大切さの話でしたので、実際に宿善の内容の話が始まったのは午後の後半でした。
その宿善の話は途中までで、よく分かりませんがおそらく来週の二千畳テレビ講演で続きが勤められるのではないか、というところでした。


特に印象に残ったところをいいますと、

・確実な未来(=死)を問題にしないでアキラメている。
 アキラメるのは弱い人間、頭の悪い人間、と言わせたい雰囲気の中でアシスタントが困っていたところ

・ここでの往生が浄土往生なのはその通りだと思ったのですが、ある会員さんが「浄土往生のことなんですね」と言われていたこと

・宿善の説明での「宿世」を「過去世(生まれてくる前)」と説明されたこと






さて、蓮如上人がどこを典拠とされて「五重の義」を教えられたのかは分かりませんが、存覚上人の「浄土見聞集」に同じような内容があります。


もしききえてよろこぶこころあらば、これ宿善のひとなり。善知識にあいて本願相応のことわりをきくとき、一念もうたがうこことのなきは、これすなわち摂取の心光行者の心中を照護してすてたまわざるゆえなり。光明は智慧なり、この光明智相より信心を開発したまうゆえに信心は仏智なり、仏智よりすすめられたてまつりて口に名号をとなえらるるなり


ここでは、「五重の義」に出てくる五つのものが順番通り出てきています。覚如上人の口伝抄にも、若干順番が違うものの五つ出てきます。(名号を信ずるところの体とされているからだと思われます)


十方衆生のなかに、浄土教を信受する機あり、信受せざる機あり。いかんとならば、『大経』のなかに、とくがごとく、過去の宿善あつきものは、今生にこの教におうて、まさに信楽す。宿福なきものは、この教にあうといえども、念持せざれば、またあわざるがごとし。「欲知過去因」の文のごとく、今生のありさまにて、宿善の有無あきらかにしりぬべし。しかるに、宿善開発する機のしるしには、善知識におうて開悟せらるるとき一念疑惑を生ぜざるなり。その疑惑を生ぜざることは、光明の縁にあうゆえなり。もし光明の縁、もよおさずは、報土往生の真因たる名号の因をうべからず。いうこころは、十方世界を照曜する無碍光遍照の明朗なるにてらされて、無明沈没の煩悩漸漸にとらけて、涅槃の真因たる信心の根芽わずかにきざすとき、報土得生の定聚のくらいに住す。すなわちこのくらいを、「光明遍照十方世界念仏衆生摂取不捨」(観経)とらとけり。また光明寺の御釈には、「以光明名号摂化十方但使信心求念」(往生礼讃)とも、のたまえり。しかれば、往生の信心のさだまることは、われらが智分にあらず。光明の縁にもよおしそだてられて、名号信知の報土の因をう、としるべしとなり。これを他力というなり。


五重の義では、宿善によって善知識にあい、光明の縁に催されて信心獲得の身になって名号を称える、「信心正因称名報恩」が説かれているといわれます。五つのものが重なって、とありますが、この五つのものは前後お互い関係があります。前の三つが獲信の縁で、「信心正因、称名報恩」。
口伝抄では見た目の順番が異なりますが、

往生の信心のさだまることは、われらが智分にあらず。光明の縁にもよおしそだてられて、名号信知の報土の因をう、としるべしとなり

とありますので、いわんとされていることは同じだと思います。

 
宿善も、善知識も、縁なのです。信心も私が起こすわけではありませんで、弥陀が用意されたものです。

となれば、
 

この五重の義成就せずは、往生はかなうべからずとみえたり


と言われていますけれども、この五つを自分で用意しなければ「往生はかなうべからず」ではありませんね。
覚如上人が


しかれば、往生の信心のさだまることは、われらが智分にあらず。光明の縁にもよおしそだてられて、名号信知の報土の因をう、としるべしとなり。これを他力というなり。 


 と仰っているとおりなのだと思います。

昨日、コメントに「一度親鸞会の講演を聞いてみたい」という旨、頂きました。


お返事にも書きましたが、テレビ講演は全国各地で受信されます。そして、たかだか一般会員の私は、全国のどこでやっているかを知りません。ただ、親鸞会に問い合わせをすれば、喜んで会場を教えてもらえると思います。


ここに問い合わせフォームができていました。 公式に問い合わせすることに抵抗がある場合は、各地のHPもあるようで、日程が掲載されているケースもありますので、直接行かれても喜んで教えてもらえると思います。



久しぶりに公式HPを見て、就職して間もなくのことを思い出しました。



就職しても、当時は支部への移籍がどうしたことか認められませんでしたので、私は学生と同じ所属のままでした。ところが、就職していきなり地方工場に配属されたため、学生の集まりには日曜に顔を出すのがやっとの状態になりました。

 
学生は新入生の相手で忙しいからなのか、新聞さえこちらから催促しないと届きませんでした(ということをたまにネタとして話をするのですが)。要するに完全に放置されてました。まあ、(学生は当時知らなかったかもしれませんが)ブログで親鸞会を批判していたような人間ですので、自業自得だなと思っていました。



そんなわけで、「放置されてます」といったことをぶるうの氏にメールしてやりとりしていたところ、


「親鸞会に問い合わせて、近くの支部の勉強会の日程でも聞けばいい」


と、親鸞会の公式HPにある連絡先に連絡するよう勧められたのです。
 


親鸞会的には悪人ということになっている(と自分では思っている)私が問い合わせをして、どういう答えが返ってくるのかが気になりましたが、すぐにその地域担当の支部長さんから連絡があったのです。 



あれから6年半余り経ち、今はどうなのか分かりませんけれども、 どういう動機であれ、問い合わせをしたら喜んで返事が返ってくるのではないかと思います。「一人でも多くの人に」ということなのですから。



ちょっと話が変わりますが、テレビ座談会をやめて「テレビ講演会」になったときのこと。
さすがに教誨服は着られずにお話、だったのですが、その理由は、


「一人でも多くの人にご縁をもってもらいたい。私が話をするから、皆さんはここまで連れてきなさい」


ということだったそうです。教誨服で話をするよりは体力的な負担が少ないということは理由ではないと。




そのようなわけで、どういう動機であれ少なくとも「聞きたい」という方の問い合わせを親鸞会が断る理由はないと思います。


私が親鸞会に問い合わせをして答えが返ってくるかは分かりませんが、個別にメッセージと連絡先をいただければ(日程に余裕があれば)できるだけ対応したいと思います。

今度の日曜日には地元でのご縁が予定されておりますが、その演題が「五重の義」であるという連絡をもらいました。


五重の義のお話を直接お聞きする機会というのも、私の記憶ではしばらく無かったように思います。そういう意味では、私にとって久しぶりの「五重の義」 のお話ということが言えます。


五重の義については、以前にこのブログでも紹介しました。(明確に五重の義ということは言いませんでしたけど)
今回の演題と関係あるのかは分かりません。おそらく全然関係ないのでしょうが。


このときは、話の都合もありまして「善知識たのみ」の部分から書いてしまいましたが、実際にはこの前に十劫安心のことも書かれていますので、十劫安心と善知識たのみに対して「信心正因称名報恩」の親鸞聖人の教えを明らかにされたものと言えるでしょう。 


これによりて五重の義をたてたり。一には宿善、二つには善知識、三つには光明、四つには信心、五つには名号。
(御文2-11)

 
どのようにとか、どういう順番でとか、どうお話しされるのかは分かりませんけれど、


善知識というは、阿弥陀仏に帰命せよといえるつかいなり。 
(御文2-11)

 
ここが変わっては親鸞聖人の教えにはなりませんから。

今日は親鸞会館でのご法話でした。一方、こちらは衆院選と都知事選のダブル選挙への準備たけなわといった風情で、富山へはご縁がありませんでした。


さて、前回の予告が正しければ、今日のご法話の内容は「二河白道のたとえ」であったと思われます。
もともと正信偈の善導大師のお話でありますので、だいたい近いところはお話があったと思います。


この「二河白道のたとえ」には、思い出があります。 



大学3年生(もう10年以上前ですね)の頃、 後輩に「二河白道のたとえ」の説明をする際に「真宗聖典」を用いながら話をしていました。 もともと私は、親鸞会が「根拠、根拠」とかいう割には、後輩などに話をする時には「聞いた話をそのまま右から左」に話をすることが気に入らなかったのです。そこで、真宗聖典にある教行信証を元に話をしようとしたわけです。


ところが、聞いた話をそのまま教行信証に沿って話をしても、うまくつながりませんでした。
そんなことから、「必ずしも教行信証のままではない」ところがあるということを、漠然と知ることとなったのです。 


「再考する」ブログを書いていた時、実はこの「二河白道のたとえ」も記事にしようと考えていて、実際に文章も書いていました。結局、うまい文章を書く前にブログを閉鎖したために日の目を見ませんでしたが、調べてみた時にあることに気付きました。


ネットを検索しても、親鸞会の「御著書」を探しても、「二河白道のたとえ」をつぶさに書いているものが見当たらない、ということでした。


私の探し方が甘いのか、とどろきなどの本にはあったのかもしれませんが、私が探した中にはなぜか見当たりませんでした。 



親鸞会で教えられている「二河白道のたとえ」が、教行信証に引用されている内容と違うことは、話を聞いた内容と照らしてみればなんとなくでも分かるでしょう。また、様々な方が指摘されていることでもありますので、特に私が改めて指摘することではないでしょう。



一般に知られる「二河白道」の絵と、親鸞会で紹介される絵で、明らかに違うところがあります。


それは、彼岸が見えるか見えないか。


ちなみにググってみると、親鸞会ではないけど親鸞会と同じような絵が紹介されているブログもありましたが、華光会の方のブログのようでした。やはりルーツが同じなのでしょうか。



東岸と西岸の間は、


「この道、東の岸より西の岸に至るに、また長さ百歩」


とあり、


「二つの岸、あい去ること近しといえども」


ともあり、これについて愚禿抄では


「百歩とは、人寿百歳に譬うるなり」


とあるので、ふつうに読めばそんな遙か彼方のことではないと思います。


そもそも、この「二河白道のたとえ」は、 (私が言うまでもありませんが)


「また一切往生人等に白さく、今更に行者のために、一つの譬喩を説きて信心を守護して、もって外邪異見の難を防がん」

 
とありますから、そのまま読めば「信心守護のたとえ」ともいわれるように信心のお話です。
 

親鸞会では、「教学聖典」に、

 
「信心獲得するまでの求道の道程を示すため」


に善導大師が「二河白道のたとえ」を説かれたのだ、としています。
ちなみに、同じ「教学聖典」に、「白道」について

 
「求道心・信心」
 

という微妙な言い回しがあります。
この「信心」が、他力信心のことかどうかは分かりませんが、学生時代に講師部員に質問した際は、他力信心のことのようにいわれました。

そうであれば、「何を教えんがために説かれたものか」について、せめて


「他力信心のこと」


とも書いてほしいものです。
 

私の記憶では、親鸞会館で教えられている「二河白道のたとえ」には、お釈迦様が2回くらい出てきたと思います。


1回目は、「無人空こうの沢」をとぼとぼ旅人が歩いている時、
2回目は、旅人が二河を目の前にして立ちすくんでいる時。


私は、この2回目のお釈迦様のおすすめを、漠然と18願弥陀の本願へのおすすめ、と聞いていました。


しかしながら、よくよく考えると、二河(水の河=欲、火の河=怒り)の中を求道しろと言われていることになりますから、親鸞会でのお話では、お釈迦様は求道の勧めをされているようにも思えます。


18願は、煩悩と闘って求道しろ、という本願ではありません。
 

教行信証を読む限り、お釈迦様のお勧めと弥陀の呼び声は「同時」です。
お釈迦様が「二河の中を突き進んで行け」と言われてから、「じゃあ行きます」と言って進んで、二河の波にもんどり打って悶絶して弥陀の呼び声を聞く、とは書かれていません。 


すなわち自ら思念すらく、「我今回らばまた死せん、住まらばまた死せん、去かばまた死せん。一種として死を勉れざれば、我寧くこの道を尋ねて前に向こうて去かん。すでにこの道あり。必ず度すべし」と。この念を作す時、東の岸にたちまちに人の勧むる声を聞く。「仁者ただ決定してこの道を尋ねて行け、必ず死の難なけん。もし住まらばすなわち死せん」と。また西の岸の上に人ありて喚うて言わく、「汝一心正念にして直ちに来れ、我よく汝を護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ」と。


今日、どのようなお話があったか分かりません。また、お釈迦様のお勧めがどのようなお勧めだというお話があったのかも分かりません。ただ、求道が前面に出て信心の話が全く出ない、ということになると、善導大師や親鸞聖人の御心から外れるように思えてなりません。


いずれにしても釈迦弥陀の二尊のお勧めは、共に「弥陀に帰命せよ」であることは、二河白道のたとえからでも味わわれるのではないでしょうか。

かなり個人的な話(言い訳)ではありますが、最近はだいぶ慌ただしくなっておりまして、コメントへのお返事も更新もメールも滞っています。コメントへのお返事ができておりませんが、読ませていただいてはおりますので、土曜日以降にお返事できればと思います。メールのお返事も滞っておりまして、いただいている方には申し訳ありませんが、週末にはどうにかと思っています。


さて、コメント欄にて安楽集や仏説比喩経などのお話が出てきました。
そこで、私が学生時代のとき、様々なお聖教、一切経を読んでみたいと思って、


「一切経がデータ化されたものが存在したら、どんなにいいだろうか。百万円出せるか分からないけれど、それくらいほしい」


と思っていたことを思い出しました。


7年前で、今ほどネット上でも充実していたわけでは無かったかと思いますが、一切経のテキストデータ、真宗聖典のテキストデータ、というものは存在していました。


「百万円でも」と思っていたものが、実は労せずただで手に入ることを知ってしまった私は非常に現金なもので、正確性はともかくとして「無料」の手軽さにどん座ってしまったものです。 


以来、自分のPCやスマホ(当時はスマホとは言いませんでしたが)などに入れて持ち運ぶようになったのです。
ちなみに、今は持ち歩いていません。


ご存じの方も多かろうかと思いますが、私が愛用した一切経のデータを紹介します。

おそらく、ここです。

大蔵経テキストデータベース 


真宗聖典については、本願寺のホームページからとってきた記憶があるのですが、今日見てみたらどこにあるか分からなくなってしまいました。ただ、検索すると色々出てきます。 最近は、和訳(現代語訳)付きのものもあるのですね。



テキストデータとはいえ、やはりお聖教はお聖教、粗末にならないように気をつけたいと思います。 

短くてすいませんが、今日はこれくらいにします。

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