ブログを始めるまでは、正直なところあまり親鸞会関係(親鸞会系・批判系とも)のブログ等を見ていませんでした。せいぜいたまに、さよならや飛雲を読んでいた程度でした。


最近は私のブログが「ブログポータルナビ」に登録されたこともあり、山も山さんの安心問答も少し読むようになりました。山も山さんは信心について記事を書かれていらっしゃいます。最近の記事を読みまして、ふと以前読んでいた本のことを思い出しました。


私には難しい本で、当時は(今も)内容をなかなか理解できないでいたのですが、他力信心の味わいについて感ずるところがありました。改めて結びの部分を読んでみて、 話の角度は異なるかもしれませんが、山も山さんのおっしゃっているところと通ずるのではないか、と思いました。長くなりますが、終わりに「結語」の部分を引用します。
ひょっとしたら誰かがすでに引用されているかもしれませんが。



ここで書かれていること、たとえば、


>真剣に聞くことは重要であるが、聞くことによって救いの法にあうように思われる。この方向は全く逆になっていることには気がつかない。救いの法が先手になっている法を聞くのである。若し自らの聞くことが先行すると万劫かかっても真実の法にはあえないこととなる。

> 一般の常識の上では多くの宗教の如く、信ずるものを救う、よく聞いたらたすかるということが当然の如く思われる。その場合、信ずることや、よく聞くことが前で救いは後になっている。他力の信心の世界は既述の如く、逆になっているのである。ここに真剣に聞くほど救いの法をはねつけることとなる。しかも聞く以外に通ずる道はあり得ない。このようなジレンマに遭遇することは多くの真剣な聞法者によっても知られる。 


というところは、よく言われる「どうすれば信心決定できるのか」という問いを思い出します。因果の道理がしみついて、「聞く→救われる」という思いからどうしても離れられない、それはいわゆる「ただもいらんただ、のただが分からん」ということに通じてくると思います。また、誰から聞けば良いのか、とか、どう聞けば良いのか、などと問題になるのもこの思いからでしょう。ここでは、そのことに対して全く逆であることを指摘しており、山も山さんもブログで同じことをおっしゃっているのではないか、と思います。



ちなみに、本文で「一念覚知者」という言葉が何カ所か出てくるのは、この本が一念覚知を中心として書かれているからです。それ以上に意味はありません。



==(『他力信心の特色 ―一念覚知を中心として―』 稲城選恵著 より「結語」を引用)====

 浄土真宗の法を聞く場合、甚だ矛盾しているものに逢着する。仏教では各宗とも「行」ということが最も重要である。教理行果とか信解行証といわれる。証果に直接するものは行である。それは理解の座に止って眺めている世界ではない。身を以て実践することである。身証という言葉も存するように頭の中の世界とは異なる。

浄土真宗では「行」という、この私の今実践しなければならないものは何であろうか。それは勿論、「聴聞」という行である。覚如上人の『最要鈔』にあるように、
 
「経釈すでに聞をもて詮要とせられたり。よくきくところに往生の心行獲得する条、顕然なり。しるべし。」

とあり、また蓮師も『御一代聞書』に、

「いたりてかたきは石なり、至りてやはらかなるは水なり、水よく石を穿つ、心源もし徹しなば菩提の覚道何事か成ぜざらん」といへる古き詞あり。いかに不信なりとも、聴聞を心にいれまうさば、御慈悲にて候間、信をうべきなり。只仏法は聴聞にきはまることなりと云々」

とあり、「聴聞」の二字に私の行は摂せられる。しかるに聴聞はただ聞くことではない。そこには全生涯をかけて聞く真剣さを必要とする。真剣な聞法者ほど躓きに出会うのである。というのは聞いて自らの生死問題を解決しようとかゝるからである。また解決しようとかゝらなければ真剣にはなれない。聞損の人とはすべて真剣な聞法者である。しかも真剣に聞くことを否定媒介として真実の法にあうことが出来るのである。それは既述の如く、聞損の機といわれる二十願の立場は自らの救いを彼方におく。真剣に聞くことは重要であるが、聞くことによって救いの法にあうように思われる。この方向は全く逆になっていることには気がつかない。救いの法が先手になっている法を聞くのである。若し自らの聞くことが先行すると万劫かかっても真実の法にはあえないこととなる。二十願から十八願へは直入や趣入といわない。転入といわれる。転入は乗物でいうと乗り換えることである。自分の乗ってる車が異るのである。それは自らが聞くのが先でなく、聞くより先の救いの法を聞くのである。聞いて救われるのでなく、救いの法が自ら求めるに先行して既に与えられているのである。そこに聞即信といわれる世界が開かれるのである。しかも救いの法が先行しても、自ら聞かない限りは永劫にあうことは不可能である。自らの「聞く」という動作は否定媒介として重要な意味をもつ。一般の常識の上では多くの宗教の如く、信ずるものを救う、よく聞いたらたすかるということが当然の如く思われる。その場合、信ずることや、よく聞くことが前で救いは後になっている。他力の信心の世界は既述の如く、逆になっているのである。ここに真剣に聞くほど救いの法をはねつけることとなる。しかも聞く以外に通ずる道はあり得ない。このようなジレンマに遭遇することは多くの真剣な聞法者によっても知られる。六連島のおかるの歌といわれるものの中に

「弥陀のお慈悲を聞いて見りや、聞くよりさきのおたすけぢや、きくに用事はさらにない、用事なければ聞くばかり、……」

という言葉の中にも聞くよりさきのおたすけも聞かなければ通じない。しかし、おかるの上では聞くことによって救いの答えが与えられるというところに全力をそそいでいたことがこの歌からくみとることが出来る。この聞くことに力をいれたことはおたすけには直接しないが否定媒介として大変重要な意味をもっているのである。それ故、聞法に注意することは自らの聞損いがいづこにあるかを聞き分けることである。救いの法を聞くことが常に順序が錯到しているのである。ここに聞法に力をいれるほど、逆に救いから遠ざかることとなるのである。多くの宗教にみられる、「求めよさらば与えん」という対応的な呼応関係の上に立つものと、他力の信心の本質的な相違が考えられる。しかし、このような聞損も否定媒介としては重要な意味をもつ。

一念覚知論者は何よりも先に自らの求道を呼びかける。求道という言葉の意味する如く、救いの法は彼方におかれているのである。そこに命をかけて求めても「自己をはこびて万法を修証するは迷なり」で自らの彼方に救いはあり得ないのである。自らが求めている自己の上に既に与られているものに出遇うのである。それ故、キリスト教の如き求道は浄土真宗では通じない。与えられている法を生涯かけて聞くことにある。しかし求めることは全くの無駄であろうか。否といわねばならない。

求めることと聞いてものにしようという意欲のないものには生涯法にあう縁は恵まれないであろう。この点、一念覚知を強調する人々の真剣さには頭を下げざるを得ない。全面的に敬服すべきである。ただ自らの求める方向に直接する救いであるところに問題が残されているのである。他力の信心は禅家でいう「百尺竿頭一歩を進む」という世界でなければならない。百尺の竿頭まで、五十年聞法したおかげで上ったというのが多くの偽信者の上にみられる。彼等は自らは聞いて既に信心決定の身になっているから、他に向う以外にない。嫁が聞かないとか、隣の婆さんまで聞かないことに気にかかる。このような竿頭の上に上った人を邪見きょう慢(あさ川註:変換できません)の悪衆生といわれる。禅家では百尺の竿頭をもう一歩上れという。若し上ったとしたら落ちる以外に術がない。この落ちたことが仏法である。五十年間生命をかけて聞いたこともすべて無駄であったという自覚は五十年間の聞法、求道は無意義ということではない。無駄をしたことによって無駄であることが明らかになることはこの無駄はすべて生かされるのである。ただし、真実の法に遇うことによって開かれる世界でなければならない。

このような意味において一念覚知者の真剣な聞法、求道の態度は多いに学ぶべきものをもっているのである。尚、残された問題も存するが、他日に稿を譲ることにする。