あさ川進の、宗教と私

浄土真宗親鸞会に所属しながらアウトサイダーだった私(現在は会員でなくなりました)が、宗教(浄土真宗親鸞会)との付き合い方を考えつつ書いている更新頻度が低いブログ(この説明も暫定です)リンクフリーです。なお、投稿文を受け付けております。「【投稿文】」と書かれている記事は、頂いた投稿文です。

2012年07月

このブログの右上に、メッセージを送る機能があります。
このブログは一人で書いているので、私個人宛に届きます。


ここにメッセージを寄せて頂いた方の中で、今もやりとりが続いている方があります。
そのやりとりの中で

「支部によって、ずいぶんと違うのですね」

という話が出ました。


そこで思い出したのが、冒頭の

「親鸞会にもISO9000を」

の話です。


ある先輩(メーカーに就職)が就職後しばらくして、私に言われました。

「講師によって、質問しても返ってくる答えが違う。親鸞会もISO9000を導入したほうがいいんじゃないか」



おそらくここで言わんとしていることは「標準化・マニュアル化」だと思います。

私自身は、宗教というものにそのような枠組みはそぐわないのではないかと考える立場ですが、浄土真宗親鸞会のスタンスを考えると、なるほど、とも思います。


「講師の先生が言われることはすべて正しいことだ」と思っている会員さんもある中、講師間で違うことを言われると、たしかに混乱してしまいます。



「A講師はこのようにおっしゃっていたけど、B講師はああ仰っている。どっちが正しいのか」


するとやはり親鸞会の場合、
「高森先生にお聞きするしか無い」
となるような気がします。


そういう意味では、「高森先生が”基準”」のような言い方が出来るのかもしれませんが、そういうことを言っていると、いつまでもマニュアルも品質基準も明文化できない町工場みたいな状態が続くだけのように思います。


その先輩が、どんな話題でそのように思われたのかは分かりませんが、標準化は難しいような気がします。


勧誘手法なんかは、マニュアル化(と”継続的改善”も)されてたりするのですが。

先日の座談会のエントリで、

・「一切経に善が説かれてないと言う者がある。善を説かれているということはやりなさい、ということだ」(と、そのあと壇上のある方が仰ったうどん屋の話)
・「大宇宙の仏がたが南無阿弥陀仏を褒め称えるのは、南無阿弥陀仏を受け取らせるため」

ということが「心に残った」と書きました。


お釈迦様が一切経を説かれたのは、阿弥陀仏の本願を知らせて南無阿弥陀仏を受け取らせるため。

その南無阿弥陀仏は、十七願成就文にあるとおり十方の諸仏が褒め称えられている。

諸仏方が南無阿弥陀仏を褒め称えられているのは、南無阿弥陀仏を受け取らせるため。


その流れの中で、

・一切経には善が教えられている。善を教えていないお経は無い。

・お釈迦様が善を教えられたのは、善をやりなさいということだ。

というお話があって、その流れでうどん屋が出てきました。


・私たちが、「あのうどん屋はおいしいよ」と言うのは、そのうどんを食べて欲しいからだ。




そんなわけで、今日は少し、うどん屋について考えてみます。

いつもはそば屋だったような気がしますが、確か前回はうどん屋が出てきました。
そば屋の話では、2ちゃんねるに以前、笑ってしまう話がありましたが今日は別の話です。


私は、職場の人と一緒にラーメン屋やインドカレー屋に行くことがあります。それは、私も一緒に行く人も、ラーメンやインドカレーを食べるのが好きだからです。(私はうどんも好きです)


そういう関係であれば、

「あのラーメン屋の○○ラーメン、おいしいよ」
「あのインド、旨いぜ」

という話が出た場合、

「じゃあ、今度一緒に食べに行こうか」

と話がまとまります。


ところが、ラーメンが好きではない、あるいは興味が無いといった人に同じことを言ったらどうでしょうか。

「じゃあいっぺん食べてみたいね」

という場合もあるでしょうが、


「あ、そう」
「ふーん」
「そういえば、まさかサッカー、スペインに勝てるとは思わなかったよな」


という寂しい反応が予想されるのではないでしょうか。


そもそも、興味が無い人とは一緒に食事を楽しもうという発想にならないかもしれませんが、
仮に

「どうしても食べてもらいたい」
「食べたら絶対にラーメン(カレー)に対する価値観が変わる」

とまで惚れ込んでいて、興味が無い人にも何が何でも食べさせたい場合、どう言ったら良いのでしょうか。


たとえば、そのラーメン屋が元プロ野球選手の店で、なおかつ誘いたい人がその選手のチームのファンだった場合、

「元●●の○○が作っているラーメンが食える店があるんだけど、行かないか」


たとえば、そのカレー屋で珍しい酒が飲めて、なおかつ誘いたい人が酒好きの場合、

「珍しくて旨い酒が飲める店があるんだけど、一緒に飲まないか」


のように、言い方が変わるのではないでしょうか。


プロ野球選手や酒をネタに話をしていたとしても、この場合の目的は「その旨いラーメン(カレー)を食べてもらうことであり、元プロ野球選手に会わせることでも酒を飲むことでもないはずです。


うどんにしてもそうで、うどんを食べてもらいたいので

「あのうどん、おいしいよ」

は正攻法ですが、ほかの言い方は全くしないのか。


逆に言えば、

「あの店の店員、ものすごくかわいいよ」

という、一見まったく関係ない言い方が、実はうどんを食べて欲しいという心から出ることは無いのか。


もっと言えば、

「ものすごくかわいい店員がいるよ」

という言葉は、ほんとうに「ものすごくかわいい店員を見て欲しい」という心から出ているのか。


人それぞれなだけに、難しいですね。

何を書こうかと、一応は毎日考えているのですが、あまり考えていても仕方がありませんので、いろいろなことを振り返りながら時には親鸞会で聞いた内容についても書いていこうかと思いました。

本当は講師部員とゆっくりお話が出来れば良いのでしょうが、お互いなかなか会えませんのと、私の頭の中を少し整理するということで、書いていきたいと思います。


先日の「座談会」のエントリで、「心に残ったこと」として

>・「全部説き尽くせるのであれば、無上とは言われない(無上宝珠の名号の話で)」

と書きました。

「お釈迦様は、『南無阿弥陀仏の功徳は一生涯掛かっても説き尽くせなかった』と仰った」というお話はよくされる話ですので、このこと自体特に違和感は無いはずなのですが、それでも気になったのは、以前頂いたコメントの中に、

>「親鸞聖人の教えを説ききっている」というのは現実ではなく、

というものがあったからです。


この主語を補うと、「(高森先生は)親鸞聖人の教えを説ききっている」です。


一年生の時から、何人もの先輩からこの言葉を聞きました。また、御法座中に

「私は説ききります。だから皆さんは聞ききってください」

ともお聞きした記憶があります。


実は学生時代から、この「説ききっている」とはどういうことを言うのだろう、ということがよく分かりませんでした。そのことについて先輩等に尋ねなかったのは私の怠慢ですが、最近改めてこのお話を聞いて思い出しました。

いずれも主語を補って並べますと、


・「(釈尊が南無阿弥陀仏を)全部説き尽くせるのであれば、無上とは言われない」

・「(高森先生は)親鸞聖人の教えを説ききっている」


親鸞聖人の教えと言っても、南無阿弥陀仏のこと一つを教えられた、ともお聞きしますので、「説ききる」対象は同じように思います。ただ、そうするとおかしな事になります。


「親鸞聖人の教えを説ききっている」

という言葉を改めて聞くと、すごい話だと思います。

このブログを始めてしばらくしてから、6~7年前に買い込んでいた仏教関係の書物を少しずつ読み直しはじめました。恥ずかしながら最近は、仕事やプライベートも忙しいという言い訳をしてあまり読めていなかったので、真宗聖典も含めて改めて親鸞聖人に親しもうと思います。

本尊論ブログを書いてから閉じてしばらくの間まで、本棚2段分くらいの仏教関係(というか真宗関係)書物を買いました。なかなか値が張るのでたくさんは買えませんでしたが、それでも結構な金額になりました。それを本棚の肥やしにするのも勿体ないので、改めて読もうと思ったのです。



さて、昨日の日曜日も親鸞会館で座談会がありました。形式は前回と一緒でした。ただ、壇上に上がっていた人数は20人くらい、ではなく30人くらいはいたと思います。訂正します。


私がご縁なかった前回の御法話の内容を受けた今回の質問は、(質問文が長くて正確にメモができなかったことを予めお断ります)

・無上宝珠の名号に具足せられるところの願行とは何か。
 どのような者に願行具足の名号を与えるということか。

訂正がありましたらおしらせください。
手元にあるメモを元に振り返ります(ので、完全に正確ではありません)


まず、「無上宝珠の名号」について一時間ほど説明がありました。
・御文5-13「それ南無阿弥陀仏と申す文字は・・・」
・「釈尊が亡くなるときに、南無阿弥陀仏のことを説き尽くせなかったと仰っている」
・御文5-9「一切の聖教というも・・・」


その説明の後、壇上の人がいろいろな質問をしました。

・般若心経も南無阿弥陀仏のことが説かれているのか
・蓮如上人の「思うべきなり」「心得べきなり」と仰っているのはどういう意味か
・南無阿弥陀仏の六字を信ぜしめるのが難しいから、釈尊は45年間も仏教を説かれたのか
・南無阿弥陀仏を受け取ろうとしないのは、価値が分からないからか
・南無阿弥陀仏の大功徳が分かったときに南無阿弥陀仏を頂けるのか
・南無阿弥陀仏の功徳がたくさんあるから、たくさんのお経になったのか


休憩の後、なぜお釈迦様が南無阿弥陀仏に一生涯を賭けられたのか、という話がありました。
・阿弥陀仏の十七願文
・十七願成就文

また、壇上の人が質問をしました。
・釈尊が南無阿弥陀仏の尊さを賛嘆された結果が一切経となったのか
・(十七願成就文の)「無量寿仏の威神功徳不可思議」とは、仏さまも想像できないということか

そして、「南無阿弥陀仏が素晴らしいというのは分かるが、どう素晴らしいのか」という質問が出たところで、アニメ王舎城の悲劇全編が上映されました。


午後までアニメが続いて、「唯願無行」と「願行具足」の話、天台浄影嘉祥・善導大師・親鸞聖人がイダイケをどのように見られたか、という話がありまして、時間となりました。
・御文5-11「南無というは帰命・・・」
・さとりの52位
・「『凡夫』というは無明・煩悩・・・」
・「大聖おのおのもろともに・・・」



メモを改めてみて、印象に残った話を挙げます。(これもメモですので、あくまで「私がこう聞いた(聞こえた)」という内容です)

・「全部説き尽くせるのであれば、無上とは言われない(無上宝珠の名号の話で)」

・「一切経に善が説かれてないと言う者がある。善を説かれているということはやりなさい、ということだ」(と、そのあと壇上のある方が仰ったうどん屋の話)

・「大宇宙の仏がたが南無阿弥陀仏を褒め称えるのは、南無阿弥陀仏を受け取らせるため」


どの辺が心に残ったかは、また機会がありましたら改めて、と思います。

社会人になって2年くらい経った2008年の5月頃、親から

「浜離宮に”カフェ親鸞”というのができたそうだ。おまえは親鸞が好きだろうから行ってみたらどうか」

と電話がありました。


調べてみるとこの”カフェ親鸞”とは、実際には浜離宮ではなく築地本願寺に存在した”カフェ・ド・シンラン”のことでした。(2007年9月から2008年6月まで)


ならば実際に行ってみようということで、行ってみることにしました。

築地駅からすぐのところに築地本願寺があったのですが、どこから入ったらよいのかわからず、しばらく迷っていました。


特に法話がない日だったようで人の姿もまばらでしたが、親鸞会がいうほどガラガラというわけでもありませんでした。また、意外に若い人の姿をよく見かけ、中にはカップルも何組かいました。


てっきり隣地にでもあるのかと方々探し回った結果、実際には入り口から入った脇(しかし相当奥まったところ)に、周りから明らかに浮いた色彩の派手な小屋に、親鸞聖人のお姿が描かれていました。


一人ではいるのには多少の勇気が必要でしたが、意を決して中に入ると、中は小洒落た喫茶店の様子そのものでした。店員は男女共々全員若く、学生かせいぜい当時の私と同年代(20歳代後半)と見受けられました。


ただ、さすがは寺だけあってメニューの書かれた黒板の横には法話や行事の日程が、かわいい字で書かれていました。


そして、テーブルに置かれていたレター(よくある「○○通信」のようなもの)を見て、私は深い感動を覚えました。

レターには手書きで、「慈悲について」など仏教の話題が紙面に広がっていたのです。手書きの文字はいかにも若い女性風で、実際に店内にいた店員が書いたのかな、こんなところにも仏法を喜ぶ人たちがいたのだな、と妙に感心してしまいました。


寺だから当然といえば当然なのですが、それでもやはりこのような若い人たちも色々なところで弥陀の本願とご縁があるのだと思うと、不思議な感動がこみ上げてきたことを覚えています。


残念ながら、その店員さんと会話をする勇気がなかったためそのまま帰ってしまい、しかも間もなく閉店してしまったので”カフェ・ド・シンラン”はそれっきりになってしまいました。

また行ってみたい、と思いながらもなかなか行く機会がなく今まで過ぎてしまいました。


そういえば、ぶるうの氏が退会して間もなく、私と京都の本願寺に行ったときに、
「親鸞会で言われているほど本願寺はガラガラではない。ぺんぺん草の映像とか、わざわざ人が居ない時を狙って撮りに行ったものなあ」
と言われていたことを思い出します。


寺に仏法聞く人が集まるという当たり前のことに感動してしまうあたり、やはり親鸞会で聞いた話の影響を受けているのだな、と苦笑してしまいました。たしかに昔に比べたらずいぶん少ないかもしれませんが、居るところには居るのだと、改めて思いました。


ただ、それでもやはり、弥陀の本願聞いている人がいるというのは、うれしいものだ、と思うのです。

別のことを書こうと思っていましたが、こんな記事を見つけました。

県立7高校で履修漏れ 愛知、世界史で近現代学ばず


卒業したのは10年以上前ですが、我が母校もしっかり入っていました。


生徒からしてみればいい迷惑といえるような気もしますが、そもそも自分が高校生だったとして、自分が受けている授業がカリキュラムに即しているかどうか、いちいち疑問に思うだろうか、と考えてしまいました。


私はどうしたことか、塾というものが嫌いで一度も塾に入ることなく大学まで行きました(なぜかアルバイトは塾の講師でしたが)。

ひょっとしてほかの高校の生徒とこのようなことを話題にする環境があれば、自分が受けている授業が少し違っている、と気付いたかもしれません。しかし、そもそもそのような疑問を持たない、あるいは知る環境が無いといった場合は、いつまでも違いに気付かずにいるかもしれません。現に、このように問題になる前に卒業してしまった人は、全く気付かないまま大学に行ってしまったわけです。



翻って、親鸞会を考えてみます。

大学で声をかけられた人の多くは、そもそも親鸞会と関わるまで宗教団体自体との関わりが無かった人が多いのではないでしょうか。

そうすると、必然的に親鸞会が宗教の基準になりかねません。


その上、ほかの情報が与えられなければ、今の自分が聞いている話、持つに至った信条が客観的に見てどのようであるか、という視点が欠落してしまうように思います。


私は大学一年生の時から、先輩がやたらと「真実だ」とか「間違いない」とかいうのを聞いてきて、なぜそう言い切ることができるのか、不思議でなりませんでした。そんな自分でも、ずっと親鸞会の中にいて四年くらい経つと、親鸞会で教えられている教えが正しい仏教の教えと思うようになったのですからおもしろいものです。(ただそれでも、親鸞会が無謬の団体であるとはついに思いませんでしたが)


もちろん、そのようになる環境整備がきっちりされていた、ということもあります。以下は私の感想ですが、たとえば、


・「より多くの意見を聞くべきだ」という思考をカットする
→「自分は正しい教えにあって、それを聞くことができているからそれに専念しよう」と思うようになる

・やたらと既存仏教のていたらくを見せつける、法論で勝ったことを強調する
→他の人の話は聞いても間違っている、と思うようになる

・救われた人の話をいろいろとする。しかし、そう簡単になれるものでないことも強調する
→(最近はやってないと思いますが)


挙げると色々出てきそうですが、今思いついたのはこのようなところです。

自ら進んで視野を狭めていこうとしたわけでは無いと思いますが、結果として自ら視野を狭めていったように思えます。



情報があるから適切なものを見極めることができる、とは限りませんが、情報があるから判断の幅も広がると思いますし、だからこそ多面的な情報の提供が必要では無いかと思います。その意味で、ここ何年かは本当に親鸞会についての情報が増えました。それだけ判断材料が増えたといえると思います。

ただ、判断材料が増えたと言っても、情報が完全になることはおそらく無いでしょうから、判断のよりどころとしている情報の正しさや自分の判断・考えに対する反省は忘れないようにしたいと思います。


ひょっとしたら、このように言っている私が未だ親鸞会に所属していること自体に違和感を感じる方もあるかしれません。


様々な情報を得て、その情報からどのように判断するか、行動するかは個人の価値観や考え方によるわけで、すべてがすべて同じ判断をするとは限らないのではないか、というのが私の考えです。


まとめますと、

・情報は広く集めた方が判断の幅が広がるので、環境はどうあれ広く集める努力はすべき
・集めた情報と行った判断については常に振り返るべきだと考える

考えながら書きましたので、やや文章や論点が乱れたかもしれません。読みにくかったら失礼しました。


私自身の反省も込めまして・・・

いつもご覧頂き、ありがとうございます。


さて、

「『なぜ生きる』親鸞聖人のお答え」として、最近、以下の4つのお言葉の話題が出るようになりました。


・難思の弘誓は難度の海を度する大船、
 無碍の光明は無明の闇を破する慧日なり。(教行信証)

・大悲の願船に乗じて、光明の広海に浮びぬれば、
 至徳の風静に、衆禍の波転ず。(教行信証)

・生死の苦海ほとりなし ひさしくしずめるわれらをば
 弥陀弘誓のふねのみぞ のせてかならずわたしける (高僧和讃)

・誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法、
 聞思して遅慮することなかれ。(教行信証)


なぜこのような話が出てきたのかという経緯はよく分かりませんでしたが、
どうも、「おつとめで拝読しなさい」というお話があったようです。
「なぜそのような話をされたのか」ということの直接の説明がどのようなものだったのかは不明ですが。


そのために、「親鸞学徒常訓」のような、カードにこれらのお言葉が書かれたものが作られるようです。


親鸞会に居たことのある方であれば、このようなお話がたまにあることはご存じかと思います。

当然、狙いがあってのことでしょうが、それについての捉え方はいろいろあるのではないでしょうか。

・先生は私たちの後生の一大事の解決を念じられて勧めてくださっているのだ
・人生の目的を教えられたお言葉を常に噛みしめ、人にも伝えよとの御心だ
・親鸞聖人のお言葉により親しみ近づけということか
・また思いつきで言われたのだろう
・紙を作って販売するビジネスを思いついたのか

など。


私自身は、「親鸞聖人の教えを学んでいる」というのであれば親鸞聖人のお言葉にもっと親しむべきではないかと思っていますので、その意味で親鸞聖人のお言葉に親しむご縁があるというのは良いことだと思います。


ちなみに、ちょっと関係ないですが、正本堂が出来たあと、親鸞会館の「第一講堂」の名称が、
「第一講義室」→「願海」→「大講堂」と、何度も変わったということがありました。
これも意図があってのことなのでしょうが、正直なところ、なぜこうも変わったのかはよく分かりません。

学生主体のようですが、光晴先生の講演会がありましたので、親鸞会の行事では久々に都内まで出て行きました。

それに先だって、座談会と会食会が行われました。


座談会は、「学友部員の質問に答えて頂く」ということのようで、いくつかの質問があがりました。学友部員と言っても、中には私より年上の方もありましたが。

質問文を全部は覚えていませんが、以下のような趣旨の質問がありました。


Q.「仏法も一番、勉強も一番」の意味について聞かせてください。

Q.「親鸞聖人のお言葉にはダントツの威力がある」と教えて頂きますが、ご縁の浅い人に本当に威力があるのかと思ってしまいます。どのように研究工夫すれば良いでしょうか。

Q.教学や声かけなどの活動すべてを広くやろうとすると中途半端になってしまいます。
  どれか一つに絞るべきでしょうか、満遍なくやるべきでしょうか、教えてください。

Q.「話を聞く価値はあると思うが、まだ聞く必要が無い」という人に対してどのように話をすれば良いでしょうか。


午後は、「親の大恩十種」から親の恩についての話でした。


そういえば、北日本新聞に「あんしん弁当の新工場建設」の記事が掲載されたようです。
7段抜きくらいの結構大きな記事でしたので、週末を狙ってプレスリリースでも打ったのでしょうかね。総投資額は7億円だそうです。償却も相当発生しそうで、個人的にはウェルカムの財務状況がとても気になりますが、非上場でしょうから非公開でしょうね。



座談会にて、相手目線に合わせて話をするという話がありました。こういうブログを書いているので少しは気にしているつもりなのですが、まだまだ相手目線が足りないなと思いました。


あとは、
「高森先生は”50有余年、常に初めて来られた人を正客として話をしてきた。何回も聞いている人はお相伴(ついで)である”と仰った」
というお話が妙に印象に残りました。

みなさん、引き続きご覧頂きありがとうございます。また、いろいろなコメントもありがとうございます。コメントに対するお返事はまた改めていたします。


私が大学院を出て就職した年には、支部に移籍が出来ませんでした。ただ、そのときの担当講師の方が非常に話しやすい方で、弥陀の本願の賛嘆を個人的にしていました。ですので、特に移籍の必要を感じていませんでしたが、社会人1年目も終わり頃、移籍することになりました。

幸いにして、といいますか、移籍先の支部の講師の方も話しやすい方でしたので、私はつくづく人に恵まれているなと思います。


学生達に送別会をしてもらうことになっていたのですが、残念ながら仕事が入ってしまい、行けなくなりました。そこで、担当講師の方を通じて学生諸君に宛てた文章を見つけたので、今日はその文章です。

5年以上前のメールですので、情報はいまよりずっと少なかった。自分で知る範囲のことしか書けなかったので、突っ込みどころもあるかしれませんが、ある意味私の今の心境と変わらないような気がしています。当然ながら、実名は伏せております点、ご了承ください。

この日の夜、学生からお礼メールが来ました。その内容を見る限り、おそらくはすべて、講師部員の方に読んで頂いたのだと思っています。


2007年2月10日 午前2時42分*****************
 
S(講師部員) 様

あさ川です。
今日の送別会は仕事でご縁ありませんので、
とりあえず一言お送りします。

だいぶ長くなりました。
あと、若干誤解を生むかもしれないところもあるかしれません。

急ぎだったので、文章が乱雑なのはご容赦下さい。

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今日は送別会を開いてもらいましたが、仕事で参加できず申し訳ない。
いないついでに話をしておきたいことを全部書こうと思いましたがやめておきます。

学生の皆さんは、もうすぐ新入生を迎える季節ですね。
そこで、人生の目的は大切だと話をする。数年前は、目的をはっきりさせて
学生生活を充実させようなどという話をしていたこともありました。
皆さんは、目的がはっきりしていて充実した学生生活を送っているでしょうか。
いろんな人があるかしれません。

今まで見てみると、親鸞会の学生さんは、いざ就職となったときに、
もうバリバリに進路が決まっている人もあるのですが、
結局どういう仕事に就けばいいのかわからないで途方に暮れてしまう人も少なくないよう
な気がしました。
「人生の目的がハッキリする」と言う話を人にしているような人でも、
自分の「どう生きる」は、なかなか難しいのだろうとも思います。

弥陀の本願は、すべての人を相手にされています。
すべての人ということは、どんな人生を送っている人でも
弥陀の本願の目当てになるということです。

自分の命は仏法のために捧げると言って学院に入る人も、
そこまでの覚悟はないけど聴聞のために公務員になるという人も、
自分のやりたい職業で夢を追いかける人も、
なんとなくサラリーマンな人も、
弥陀の本願の対象です。

十方衆生相手の弥陀の本願ということはしつこいくらい聞いていても、
なかなか自分相手とはピンと来ないものです。

親鸞聖人は、「邪見きょう慢の悪衆生、信楽を受持すること甚だ以て難し」と言われます。
一方、蓮如上人は「こころえやすの安心」とも言われています。

私は一年生の時、

「人生の目的達成は『難中の難』とも言われるけど『易中の易』とも言われるのだ」、

という話を先輩から聞いていたのですが、しばらくその意味はさっぱり分かりませんでした。


愚禿抄には

「一難疑情 二易信心」

といわれ

「難者三業修善不真実之心なり 易者如来願力廻向之心なり」

と親鸞聖人は言われています。

弥陀の本願の側からすれば、助かるために私が何をすることもないわけですから易と言われているようです。
にも関わらず、弥陀の本願を疑って掛かって、自分で計らってしまうので難と言われているわけです。

弥陀の本願はすべての人が相手だということは、弥陀の本願に制限はないのですが、
私たちは勝手に「こうしなければ弥陀は助けてくれないだろう」「こうすれば助けてくれるかも」
と、はねつけてしまうのです。

真剣に聞けば聞くほどそうなってしまいます。
ただ、それが行き過ぎると
「自分は弥陀の本願を聞く資格がない」といって、自分で弥陀の本願の対象外と決めつけて
弥陀とのご縁を無くしてしまうとすれば、残念なことです。

自分の問題になってくると、
毎回聴聞に行かないようでは助からんとか、
御報謝は何十万としなければダメで無かろうかとか、
すべての時間を仏法に費やしてこそ求道者だとか、
友人を百人くらい二千畳に連れて行くくらいでちょうど良いとか、
うまいもんに金を使うくらいなら御報謝だとか言ったモードになったりします。

ちなみに私が学生時代というのは、まさにこういう傾向がありました。

ただ、その場合、
そういうことができる人とできない人がいます。

学生時代はともかく、仕事なんか始めた日には必ずしも日曜が空くわけではありませんので
「仕事なんか世間のヒマだ」と投げられる人はともかく、
そうでもない人は、御法座にご縁のないこともあり得るわけです。

できる人しかダメとなると、できない人は弥陀の本願の対象外になってしまいます。
こんなのを弥陀は十方衆生とは言われませんし、親鸞聖人や蓮如上人が「易」と言われるはずもありません。

誤解する人は無いと思いますが、
聴聞がどうでもいいとか、御報謝なんかせんでいいとか、
そんなことを言いたいのではありません。

弥陀はすべての人を対象にされているのに、
自分で勝手に、自分は弥陀に助けてもらえないと思ってしまうのは勿体ないということです。

できないときに、できないと言ってそこでやめてしまうのか、
開き直ってしまうのか、
次の機会に向けて前向きになるか、
それは自分で選択することです。


思い悩むことも今後あるかしれません。
一人で抱えて一人でやめるのもその人の勝手といえば勝手ですが、
愚痴でも言える人がいて、言ってすっきりするなら話をするのも一つの方法です。
その相手が私でもいいです。
・・・

まだ足りないのですが、土曜も仕事なのでこの辺にしておきます。
長くなってしまいましたが、皆さんの仏縁をお念じ申し上げます。

先日、ある会員さんから頂いていた問い合わせは、「往生礼讃」の別名で「六字礼讃」というのはあるか、とのことでした。

調べてみますと、往生礼讃は「勧一切衆生願生西方極楽世界阿弥陀仏国六時礼讃偈」とも言うそうで、そこから「六時礼讃」とも言われるようです。字違いですね。

先日の御法座で出たそうですが、どのように紹介されたのでしょうかね。



3月だったかと思いますが、仏願の生起本末について、それまで聞いたことの無かった話がありました。色々なブログで話題になった、

18願が「本」
19,20願が「末」

というお話です。ちなみにこのお話の時には「こういう説もある」と聞いた覚えがあります。


ちなみに、私の知る限りこのような説は聞いたことがありませんでした。実際のところは味わいを言われたのかな、とも思いました。



そんなことを考えていた折、たまたま私の車に、ある講師部員の方がご一緒なさることになりました。詳細は割愛しますが、かなりベテランの方で、初めてお会いする方でした。


帰りの車は、意外にも沈黙の時間が長かったのですが、終わり頃になると一緒に乗車中の会員さんに向かって色々と話を始められました。


その中で、先ほどの「仏願の生起本末」も話題にされて、

「先生はあのように(そのような説がある、ということ)仰ったが、あのような解釈は、文字通り解釈する学者には絶対に出来ない。あれは先生の信心から出たものだろう」

と言われました。

聞きようによっては、お聖教に根拠は無いけども、と聞こえるのですが、それを受けて私は、

「先生は自由自在な方ですね」

と言いました。私と、その講師の方とで、「自由自在」の指す意味が異なっているのでは無いかと心配しましたが、その講師部員の方は、

「そう、先生は真実信心によって自由自在なのだ」

というようなことをおっしゃいました。


後日、別の講師の方に同じ話をしまして、
「先生は、自由自在な方ですね」
とお話ししたところ、黙ってしまわれました。


信心から出た、と言われたらどうでしょう。
お話では、「そのような説もある」とお聞きしたわけですが。

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