あさ川進の、宗教と私

浄土真宗親鸞会に所属しながらアウトサイダーだった私(現在は会員でなくなりました)が、宗教(浄土真宗親鸞会)との付き合い方を考えつつ書いている更新頻度が低いブログ(この説明も暫定です)リンクフリーです。なお、投稿文を受け付けております。「【投稿文】」と書かれている記事は、頂いた投稿文です。

2012年08月

これまで、実はユニークな訪問者数の最大値は、さよならに私の作文が公開された6/23に記録したものでした。


それが今日、更新されました。直接的には昨日書いた記事ということなのでしょうが、正直なところ 、なぜこれほどアクセス数が伸びたのかはよく分からないでいます。とはいえ、ご覧いただきありがとうございます。


私が先日に書いた座談会のお話は、日曜日のものです。このほか、今週の水曜日にも予定されていたのですが、私はご縁がありませんでした。部分的にほかの親鸞会の皆さんが書かれたブログなどが参考になるかもしれません。



そのようなわけで、日曜の座談会の、午後の大ざっぱな内容です。 





・阿弥陀仏は、どんな者のために本願を建てられたのか。
 十方衆生(=すべての人)を助けるために建てられた本願
 

・十方衆生をどのような者と見て取られていられるか
→御文2-8

 大宇宙の仏方から見捨てられたのが私たち。そういう難病をもっている。
 大宇宙の仏方が助ける力が無い中、一人立ち上がられたのが阿弥陀仏。


・なぜ大宇宙の仏方は私たちを見捨てられたのか
→煩悩具足(=煩悩以外無い)だから
 

・阿弥陀仏が本願を建てられた相手は、煩悩具足の凡夫。煩悩熾盛の衆生 とも言われる。
 煩悩100%ということは、煩悩が無くなると私ではなくなるということ。
 煩悩100%だから捨てられた。

  煩悩が分かっていないから、具足と言われても分からない。
 すべて煩悩だから、煩悩以外のものの出ようが無い。

 
・これを真実の機(=実機)といわれる。 
 阿弥陀仏に救われる前も救われた後も、金輪際変わらないのが実機。
 
 十方衆生すべてが煩悩具足で変わらないが、表面でだまされてしまう。
 立派な衣を着ていると立派に見える。その立派な衣を着ている人が立ち小便をしていても、
 立ち小便をするような者が立派な衣を着ているだけ。


・煩悩具足が露塵ほどの疑いなくハッキリ知らされるのが 機の深信。明知、真知ともいわれる。

(根拠:機の深信のお言葉)
 私たちは死ぬまで罪悪生死の凡夫=煩悩具足の凡夫
 金輪際救われる縁手がかりが無いとハッキリした。これ以外の人間はいない、十方衆生のすがた。
 

・少しでも煩悩以外のものがあると思っている。これを自力という。
 煩悩具足の者が煩悩具足とは到底思えない。ゆえに邪見きょう慢の悪衆生と言われる。自力の限界。 

 それを助ける弥陀の本願だから、それが分からなければ弥陀の本願は分からない。
 弥陀の本願が分からなければ、煩悩具足は分からない。



・質問に戻って、
 「病気にかかると、死ぬのではないかと思う心がなぜ煩悩なのか」

→こういう心しか無いのが煩悩具足の凡夫。そんな者を助けるのが弥陀の本願。
 そんな心を無くしてやるとは仰っていない。どこがおかしいのか。どこもおかしくない。


・(映像の人からのコメント)
 助かる前は煩悩具足かもしれないが、助かったら何かが変わるのでは無いか、とどうしても思ってしまう。

→阿弥陀仏は無条件の救い。諸仏の救いは条件がある。
 自分で条件を付けて、なんとかなろうとする。なんとかなれる者なら諸仏は見捨てられない。
 救われても喜ぶ心の無い者を助けると仰っている。
 阿弥陀仏の救いに、喜ぶ心が条件だと思っている。弥陀の救いに条件は無い。
 喜ばない心100%。救われたら喜べるだろう、と思っている。それでは「具足」にならない。
 
 親鸞聖人は仰っている。
 「それにつきても、いよいよ大慈大悲は頼もしく、往生は決定と存じ候え」 

(30分ほど、「阿弥陀仏の救いは無条件の救い」というお話)




なお、午後の後半は、朗読版DVDの再生でほぼほぼ終わりました。

・当然阿弥陀仏に救われると、機の深信だけでは無く、法の深信が必ずある



大ざっぱには、以上のようなお話をおききしました。

予定では、日曜日のほかに水曜日も座談会が予定されておりました。


本日いただいたコメントの内容をたどっていくと、どうやら水曜も行われたような気がします。


続いて、日曜日にご法話が予定されておりました。ただ、連絡によると、これは座談会に変更、ということのようです。


確かに、ご法話は重そうな教誨服を着ての説法で、体力的には相当厳しいものでしょうから回避されたのかな、と思います。 

 
ただ、二千畳での座談会は通常、その月のご法話の内容についての質問が出されるため、今度の座談会はどのような質問になるのかはよく分かりません。 当日どのようになっても、よほどの天変地異がない限りは何かしらの行事が行われるはずですので、いつも通り参詣、ということになるでしょう。
 


 なお、報恩講は

「誠なるかなや 摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ」

のお言葉についてのお話だそうです。以前に紹介した「お言葉」の一つですね。 


簡単ですが、今日はここまでです。

ご覧いただき、ありがとうございます。座談会のおおざっぱな内容を、私のメモを元に振り返りたいと思います。


毎度のお断りですが、あくまで私のメモを元に書き起こしたものですので、その点、ご理解いただきたく思います。 



質問 (歎異抄第9章について)

「私は、欲や怒りや愚痴の心に煩わされ、悩まされている、ということは分かりますが、
 病気になると”死ぬのでは無かろうか"と思う、阿弥陀仏に救われても喜べない、
 早く弥陀の浄土に往きたいと思わない、というのが煩悩と聞くと煩悩というものが分からなくなります。
 喜ぶべきことを喜ばせない煩悩とは何か。
 弥陀がお見抜きになっている煩悩の塊とは、どういう私なのか、教えていただきたいと思います」 


・この質問者は、「煩悩=欲・怒り・愚痴」と理解している。
 自分たちが”病気になると心細く思える”のはともかく、阿弥陀仏に救われた親鸞聖人がこのような心になられることがあるのか?と思っている。アニメの親鸞聖人とはずいぶん違う、ついて行って大丈夫かと不安になる、救われても救われなくても一緒では無いか、と思ってしまう。

 「どんなことが来ても崩れない、死が来ても崩れない大安心の身になる」と聞いていたので、あれ?と思う。
 みんなが聞きたい、と思うことを質問している。 


・ほとんどの人は、あの逞しい親鸞聖人がそのようなことを仰るはずが無い、あくまで歎異抄だから、と思う。
 ところが、直接筆を執られた教行信証でも、

 「悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまず、恥ずべし、傷むべし」

 とおっしゃっている。

  真証の証 とは、極楽浄土。病気になると近づく。それを ”たのしまず” と仰る。

 よいところに近づくなら楽しいはず。”極楽往生間違いなし” と仰る方がこういうのは矛盾している。

 信心決定することが人生の目的であれば、ハッキリ極楽にいけるのであれば、極端な話、信心決定してすぐ自殺するのが利口。だからますます分からなくなる。
 



・「病気にかかると、死ぬのではなかろうかと思う心」が、なぜ煩悩なのか。

 病気にかかると死ぬのではなかろうかと 思う心
=いささか所労の こともあれば、死なんずるやらんと心細く覚ゆる
=死にたくない、生きたい、という心

  ○○したい、という心は欲の心。欲が妨げられて出てくる不安な心が煩悩。


・「早く弥陀の浄土に往きたいと思わない心」が、なぜ煩悩なのか。

 早く浄土に往きたいと思わない心
=浄土に急ぎ参りたき心のなくて
=久遠劫より今まで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだ生まれざる安養の浄土は恋しからず候

 極楽浄土は、私たちの欲を満たすような世界ではない。
 だから煩悩からは、「弥陀の浄土に往きたい」という心は起きようがない。

 親鸞聖人は、
 真証の証に近づくことを快しまず
= 早く弥陀の浄土に生まれたいとは思わない
= 死にたくない

 と仰っている。やはり煩悩。


・「阿弥陀仏に救われても喜べない、という心」がなぜ煩悩なのか。

 阿弥陀仏に救われても喜べない、という心
= 念仏申しそうらえども、踊躍歓喜の心疎かに候
= 親鸞もこの不審ありつるに、唯円房同じ心にてありけり
=  定聚の数に入ることを喜ばず

 阿弥陀仏が、どのような人のために本願を建てられたのか(=仏願の生起)が分かれば、すぐに分かる。

 (根拠:阿弥陀仏の本願)


午後に続く

私は先週の二千畳座談会(ビデオ聴聞に変更)にご縁がありませんでしたが、上映された演題は正信偈の「帰命無量寿如来 南無不可思議光如来」のお話だったようです。


あと、その日に上映されたビデオは、「降誕会の後の奇瑞について」上映されたとのことです。
おそらく、降誕会のビデオの続きなのだろうと思います。



今日はテレビ座談会ということで、『歎異抄をひらく』についてのお話でした。
質問は、歎異抄9章全体についての質問でした。質問文は長かったため、正確ではありません。


「私は、欲や怒りや愚痴の心に煩わされ、悩まされている、ということは分かりますが、
 病気になると”死ぬのでは無かろうか"と思う、阿弥陀仏に救われても喜べない、
 早く弥陀の浄土に往きたいと思わない、というのが煩悩と聞くと煩悩というものが分からなくなります。
 喜ぶべきことを喜ばせない煩悩とは何か。
 弥陀がお見抜きになっている煩悩の塊とは、どういう私なのか、教えていただきたいと思います」


ある程度詳細の話は、改めて後日にでもできればと思います。



映像だけでは、私はどこに集まって上映しているのかよく分かりませんでしたが、一緒に参詣されていた人が、「F館の最上階では無いか」と言われていましたので、そうなのかもしれません。
形式は、だいぶ前に書いたとおり、すでに一斉講義方式ではなくなっています。



今日も大きなソファに座られて、最初は声もあまり出ずにお疲れのようにも見えました。


ところが、午後の前半、


質問に答えられる前の事前の説明(だいたい、いつもあります)が一通り終わって質問に戻った時、


「病気にかかると"死ぬのではないか"、と思う心しかない者が煩悩具足の凡夫。
 そんな者を助けるのが弥陀の本願。そんな心を無くすなどと弥陀は仰っていない。どこがおかしいのか」


に始まり、(体感的には)およそ30分ほど、


「弥陀の救いは無条件の救い」


「無条件の救いに、自分で条件を付けている」


「煩悩具足の凡夫を助けるのが弥陀の本願。おかしいところはどこも無い」



といったお話を、ずっとされていました。


いつもご法話では、だいたい午後の後半にかけて話の流れが速くなり、直接話をされることが増えてくるのですが、今日は午後の前半の最後に勢いよく話をされました。


午後の前半の終わりが3時30分近くになったのは、ずいぶん久しぶりではないか、と思います。

ブログを始めるまでは、正直なところあまり親鸞会関係(親鸞会系・批判系とも)のブログ等を見ていませんでした。せいぜいたまに、さよならや飛雲を読んでいた程度でした。


最近は私のブログが「ブログポータルナビ」に登録されたこともあり、山も山さんの安心問答も少し読むようになりました。山も山さんは信心について記事を書かれていらっしゃいます。最近の記事を読みまして、ふと以前読んでいた本のことを思い出しました。


私には難しい本で、当時は(今も)内容をなかなか理解できないでいたのですが、他力信心の味わいについて感ずるところがありました。改めて結びの部分を読んでみて、 話の角度は異なるかもしれませんが、山も山さんのおっしゃっているところと通ずるのではないか、と思いました。長くなりますが、終わりに「結語」の部分を引用します。
ひょっとしたら誰かがすでに引用されているかもしれませんが。



ここで書かれていること、たとえば、


>真剣に聞くことは重要であるが、聞くことによって救いの法にあうように思われる。この方向は全く逆になっていることには気がつかない。救いの法が先手になっている法を聞くのである。若し自らの聞くことが先行すると万劫かかっても真実の法にはあえないこととなる。

> 一般の常識の上では多くの宗教の如く、信ずるものを救う、よく聞いたらたすかるということが当然の如く思われる。その場合、信ずることや、よく聞くことが前で救いは後になっている。他力の信心の世界は既述の如く、逆になっているのである。ここに真剣に聞くほど救いの法をはねつけることとなる。しかも聞く以外に通ずる道はあり得ない。このようなジレンマに遭遇することは多くの真剣な聞法者によっても知られる。 


というところは、よく言われる「どうすれば信心決定できるのか」という問いを思い出します。因果の道理がしみついて、「聞く→救われる」という思いからどうしても離れられない、それはいわゆる「ただもいらんただ、のただが分からん」ということに通じてくると思います。また、誰から聞けば良いのか、とか、どう聞けば良いのか、などと問題になるのもこの思いからでしょう。ここでは、そのことに対して全く逆であることを指摘しており、山も山さんもブログで同じことをおっしゃっているのではないか、と思います。



ちなみに、本文で「一念覚知者」という言葉が何カ所か出てくるのは、この本が一念覚知を中心として書かれているからです。それ以上に意味はありません。



==(『他力信心の特色 ―一念覚知を中心として―』 稲城選恵著 より「結語」を引用)====

 浄土真宗の法を聞く場合、甚だ矛盾しているものに逢着する。仏教では各宗とも「行」ということが最も重要である。教理行果とか信解行証といわれる。証果に直接するものは行である。それは理解の座に止って眺めている世界ではない。身を以て実践することである。身証という言葉も存するように頭の中の世界とは異なる。

浄土真宗では「行」という、この私の今実践しなければならないものは何であろうか。それは勿論、「聴聞」という行である。覚如上人の『最要鈔』にあるように、
 
「経釈すでに聞をもて詮要とせられたり。よくきくところに往生の心行獲得する条、顕然なり。しるべし。」

とあり、また蓮師も『御一代聞書』に、

「いたりてかたきは石なり、至りてやはらかなるは水なり、水よく石を穿つ、心源もし徹しなば菩提の覚道何事か成ぜざらん」といへる古き詞あり。いかに不信なりとも、聴聞を心にいれまうさば、御慈悲にて候間、信をうべきなり。只仏法は聴聞にきはまることなりと云々」

とあり、「聴聞」の二字に私の行は摂せられる。しかるに聴聞はただ聞くことではない。そこには全生涯をかけて聞く真剣さを必要とする。真剣な聞法者ほど躓きに出会うのである。というのは聞いて自らの生死問題を解決しようとかゝるからである。また解決しようとかゝらなければ真剣にはなれない。聞損の人とはすべて真剣な聞法者である。しかも真剣に聞くことを否定媒介として真実の法にあうことが出来るのである。それは既述の如く、聞損の機といわれる二十願の立場は自らの救いを彼方におく。真剣に聞くことは重要であるが、聞くことによって救いの法にあうように思われる。この方向は全く逆になっていることには気がつかない。救いの法が先手になっている法を聞くのである。若し自らの聞くことが先行すると万劫かかっても真実の法にはあえないこととなる。二十願から十八願へは直入や趣入といわない。転入といわれる。転入は乗物でいうと乗り換えることである。自分の乗ってる車が異るのである。それは自らが聞くのが先でなく、聞くより先の救いの法を聞くのである。聞いて救われるのでなく、救いの法が自ら求めるに先行して既に与えられているのである。そこに聞即信といわれる世界が開かれるのである。しかも救いの法が先行しても、自ら聞かない限りは永劫にあうことは不可能である。自らの「聞く」という動作は否定媒介として重要な意味をもつ。一般の常識の上では多くの宗教の如く、信ずるものを救う、よく聞いたらたすかるということが当然の如く思われる。その場合、信ずることや、よく聞くことが前で救いは後になっている。他力の信心の世界は既述の如く、逆になっているのである。ここに真剣に聞くほど救いの法をはねつけることとなる。しかも聞く以外に通ずる道はあり得ない。このようなジレンマに遭遇することは多くの真剣な聞法者によっても知られる。六連島のおかるの歌といわれるものの中に

「弥陀のお慈悲を聞いて見りや、聞くよりさきのおたすけぢや、きくに用事はさらにない、用事なければ聞くばかり、……」

という言葉の中にも聞くよりさきのおたすけも聞かなければ通じない。しかし、おかるの上では聞くことによって救いの答えが与えられるというところに全力をそそいでいたことがこの歌からくみとることが出来る。この聞くことに力をいれたことはおたすけには直接しないが否定媒介として大変重要な意味をもっているのである。それ故、聞法に注意することは自らの聞損いがいづこにあるかを聞き分けることである。救いの法を聞くことが常に順序が錯到しているのである。ここに聞法に力をいれるほど、逆に救いから遠ざかることとなるのである。多くの宗教にみられる、「求めよさらば与えん」という対応的な呼応関係の上に立つものと、他力の信心の本質的な相違が考えられる。しかし、このような聞損も否定媒介としては重要な意味をもつ。

一念覚知論者は何よりも先に自らの求道を呼びかける。求道という言葉の意味する如く、救いの法は彼方におかれているのである。そこに命をかけて求めても「自己をはこびて万法を修証するは迷なり」で自らの彼方に救いはあり得ないのである。自らが求めている自己の上に既に与られているものに出遇うのである。それ故、キリスト教の如き求道は浄土真宗では通じない。与えられている法を生涯かけて聞くことにある。しかし求めることは全くの無駄であろうか。否といわねばならない。

求めることと聞いてものにしようという意欲のないものには生涯法にあう縁は恵まれないであろう。この点、一念覚知を強調する人々の真剣さには頭を下げざるを得ない。全面的に敬服すべきである。ただ自らの求める方向に直接する救いであるところに問題が残されているのである。他力の信心は禅家でいう「百尺竿頭一歩を進む」という世界でなければならない。百尺の竿頭まで、五十年聞法したおかげで上ったというのが多くの偽信者の上にみられる。彼等は自らは聞いて既に信心決定の身になっているから、他に向う以外にない。嫁が聞かないとか、隣の婆さんまで聞かないことに気にかかる。このような竿頭の上に上った人を邪見きょう慢(あさ川註:変換できません)の悪衆生といわれる。禅家では百尺の竿頭をもう一歩上れという。若し上ったとしたら落ちる以外に術がない。この落ちたことが仏法である。五十年間生命をかけて聞いたこともすべて無駄であったという自覚は五十年間の聞法、求道は無意義ということではない。無駄をしたことによって無駄であることが明らかになることはこの無駄はすべて生かされるのである。ただし、真実の法に遇うことによって開かれる世界でなければならない。

このような意味において一念覚知者の真剣な聞法、求道の態度は多いに学ぶべきものをもっているのである。尚、残された問題も存するが、他日に稿を譲ることにする。

今度のテレビ座談会、そしてご法話について、今のところ変わった連絡はありませんので、現状は参詣予定です。


以前、「親鸞会は愛が足りない」という作文を書きましたが、ある方から「おまえも親鸞会に対して愛が足りない」というメッセージをいただきました。
 

おっしゃるとおり、否定のしようがありません。親鸞会の人たちは好きなのですが、親鸞会という組織は正直なところ好きではありませんので、それが言葉の端々に出てしまっているのかな、と思います。




さて、今後何を書いていこうか、いろいろと考えながらもまとまりませんので、今日はちょっと違う話をします。

タイトルが「あさ川進の、宗教と私」ということもあり、親鸞会以外の宗教の話をしても趣旨に反しないと思いますので、たまにはそういう話でもいいかな、と思いました。



名古屋に、金山駅という駅があります。名古屋では、名古屋駅に次いで大きな駅と言って良いでしょう。

その駅から豊橋方面に向かって電車に乗っていると、なんとなくインドっぽい建物が見えます。「大乗教総本山」と書かれた建物。かつて小学生の時、友達に誘われて行ったところです。ざっと20年以上前の話です。


大乗教のことはよく知りませんが、変な思い出があるのでよく覚えています。
あまりに日が経ちすぎて、脳内変換されているかもしれません。



どういう経緯かは忘れましたが、友達に誘われて行くことになりました。

たぶん説法などもあったのでしょうが、さすがにまったく覚えていません。覚えているのは、抽選会のようなものがあったこと。

色々な色に塗られた落花生がばらまかれ、その落花生の色によって景品が当たるというものでした。一等の景品は、当時まだ珍しかった(と思われる)全自動洗濯機。当たるわけ無いな、と思いながらも一生懸命拾っていました。


こんなことを覚えているのは、今でも珍妙と思える光景だったということもありますが、そこで私が、
 
「一等の景品が当たったら信者になってもいいです」

という願掛けをしながら落花生を追いかけていたことを覚えているからです。


 
当時10歳にも満たない小学生だったから、かもしれません。あまりに信仰というものへの思慮が無かったと思います。同じ人物が、10年経たない未来に、親鸞会への入会を全力で拒否したわけです。


宗教というものは、実に内面的な問題だ、と思います。

宗教に対して、抵抗感が薄い人もあれば強い人もあります。


私は正直なところ、親鸞会入会の時の光景を見て

「なぜみんなはこれほど抵抗なく宗教団体に入会するのだろうか」

と不思議でなりませんでした。



非常に内面的な問題だけに、それぞれの人の問題だろうとは思いますが、私なりに考えてみると、


・ご本人がそれほど内面的な問題としてとらえていない(趣味的なサークルに近いなどと考えている)
・ご本人の受ける利益が抵抗感を上回ると考えてのこと
・内面的な問題についての共感が大きいため、心を進んでゆだねようとされてのこと


といったことが思いつきました。もちろん、ほかにも様々あると思います。



幼い私が全自動洗濯機に心を売りかけたのは、一つ目と二つ目の理由かな、と思います。そもそも守るような内面、すなわち「自分」が無かったからかもしれません。
 

親鸞会に対して抵抗感があったのは、一応は大人になりかけの状態で、ある程度「自分」というものができてきていたからだと考えています。



ちなみに、この友人からは、ほかにも天理教の「おぢば帰り」に 誘われました。そう考えてみると、意外に近くに宗教はあったのだ、と改めて思います。



近くの宗教、という意味では、よく「七五三で神社に行き、結婚式は教会で挙げ、葬式は寺でする」などと言われますから、実はなんだかんだで多くの日本人が宗教と関わって生きている、と言っても良さそうです。
 

ただその場合は、それらに対して「入信」という意識が無いので、宗教と関わることがそのまま内面的な問題にならないのではないかと思いますね。 


私が思うに、宗教とは

>宗教というのは、少なくとも人を幸せにするためのものだ、と思っています。
 
 
と冒頭に書いているとおりです。そしてそれは主に内面の問題だと思っています。そもそも需要が無ければ詮無いことですし、世の中変な「宗教」も多いので難しいところですが、宗教と言うだけで毛嫌いせずに、自分を幸せにする宗教をもつというのは大切な ことではないか、と思いました。

今日、とある眼鏡をかけた方からメールをいただきました。


「最近のブログは何を言いたいのか分かりませんな」


このように指摘をしていただけるということは、とてもありがたいことだと思います。今までこのブログへのコメントでも様々なご指摘をいただきました。中にはややぞんざいにしてしまったお返事もあり、反省しておりますが、ありがたく思っています。

確かに最近、どちらかというと書くこと自体に重きを置いてきて、内容に気をつけているつもりでも、趣旨に沿った内容かどうかというところは自問自答していたところでした。(特に昨日)


そこで、 久しぶりに最初のエントリを振り返りました。
(註:以前も振り返りましたし、今後も振り返ると思います)


のブログの趣旨は、親鸞会を擁護することでもなければ批判することでもありません。
宗教(というか浄土真宗親鸞会)とつきあっていろいろな思いを抱いている人たちと、宗教について考えていこうということです。


「宗教とつきあっていろいろな思いを抱いている人たち」と書きつつ実際は主に会員さん向けだったり、
「宗教について」といいつつほとんど親鸞会の内容だったりと、
字面とは違っているようにも思いますが、それでも一応はこの趣旨に沿うように書いてきたつもりでした。


趣旨に沿うように、というのは、文章を読まれて「自分はそういえばこうだった」とか、「いや、自分はこう思う」などということを考えるご縁にしていただければ、という意味です。


この趣旨自体がわかりにくい(あるいは意味があるのか)ということもあるのでしょうが、 言われてみると「だからどうした」と言いたくなるような記事になっていたかな、という反省があります。


今後もしばらく書きながら、試行錯誤が続くと思います。以前もそのようなことを書いたように思います。
もし、「あさ川はこういうことについて書け」といったことがございましたら、連絡先は無くても結構ですので右上のメッセージにでもお寄せくださるとありがたいです。すべて書けるわけではないと思いますが、 参考にできればと思います。
 

冒頭のメールを寄せられた方は、私はごく個人的に、親鸞会に対する愛情がものすごく深い方だと思っています。 余談でした。

いつも(あるいはたまに)ご覧いただき、ありがとうございます。

最近は、続けられるだけ続けようということで、更新の頻度を上げております。見返してみると、「てにをは」がおかしかったり、文章のつながりがよく分からなかったりする箇所もあるのですが、もし気になられましたらやんわりとでもご指摘いただけるとありがたいです。


今日からしばらくは、たぶん短めになると思います。




今日の話も、いただいたコメントに返事をしていて思い出したことです。


最近、ネットデビューされた方はご存じないかもしれませんが、かつて親鸞会関係で耳目を集めた批判サイトの中に、このような記事がありました。


この、「大学生Aさん」は私のことです。正確に言うと、当時は大学院生でしたけれども。



アルバイトは週2回、あとは無利子の奨学金で食いつないでました。


リンク先には、1ヶ月に10万円くらい親鸞会で使いました、という話が出ていましたが、1ヶ月にその何倍も使ったこともあります(というメールが残っていました)。もはや自分でも何と戦っていたのか、と呆れてしまいますが。



思えば、学生時代の最初の決断がずるずると尾を引いていたように思います


学生時代、最初のGWに親鸞会の合宿が企画されていました。そこで、


「人生の目的がハッキリする」


という先輩の言葉。それを、


「人生の目的が達成できる」


と勝手に脳内変換したあの日。

当然、GWの合宿でその目的は果たされず、合宿に使った38000円をなんとか取り戻そうと続けたのが、以来今まで12年におよぶ親鸞会との付き合いの始まりと言って良いでしょう。


”サンクコスト”という言葉がありますが、どうあっても回収することのできない38000円にこだわって、結局さらにお金を使い続けてきた、ということになります。




以前の話で、私が福徳会員に(一時的に)なったことを書きましたが、そこまでつぎ込んで私が学習したことはただ一つ、


「金を積んで真剣になろうとしたところで、どだい真剣にならない自分が居た」 こと。



今にして思えば、弥陀の本願をどこまでも馬鹿にしていたように思います。一般的に見ても理解しがたいと思います。とはいえ、たらればの話をしても詮がありません。ただ、今の自分があるだけです。


今の自分への反省も込めまして。

親鸞会に関わっている方は、「芳野作戦」という言葉を聞かれたことがあるかもしれません。
長くなるので端折りますと、各地に会館を建てようということです。これもやっぱり「戦」ですね。これにもいろんな見方があります。


少し前に、飛雲さんが芳野作戦について言及されていました。
(ただし、飛雲さんは「芳野作戦」という言葉は使われていません)


全国に無駄に会館を造り続けていますが、その目的は金集めです。
たとえば、会館建設費に1億円必要だとします。それを1億2千万円集めれば、2千万円はこれまでの借金返済、会の運営費に充てられます。  


 

ちなみに私は、含み資産を増やすという意味もあるのでないか、と思っていました。
 宗教団体の宗教施設は、固定資産税等が免除されます。たかだか都内の単身者用マンションでさえ、年間10万円くらいの固定資産税がかかるのです。多くの人が集まるような施設だと、どれくらいの固定資産税がかかるでしょうか。そんな税金が免除されるのです。ふつうの団体が資産を持つよりも、実際の含み益は大きいのではないか、と、そんなことを思っていました。

 
また、「銀行からそのように言われているのではないか」 という方もありました。いざというときに回収できる資産をとにかく増やせと、銀行からせっつかれているのでは無いか、ということのようです。ですので、銀行にとっては高い資産のほうがうれしい、ということになると思います。



もちろん、各地の会館ができるということは、それぞれの地の会員さんのモチベーション向上にもつながりますし、新聞等で言われているように、まさしく布教の拠点ともなり得ると思います。 

大人の事情もあるのかもしれませんが、あまりそういうことを言うのは無粋だ、というお叱りもあろうかと思います。



そんな会館建立ラッシュな昨今ですが、いままでの会館は地方ばかりで、いわゆる東名阪の大都市圏にできた会館はまだ発表されていなかったと思います。


しかしながら、全然話が動いていないわけでは無く、関東でも話があるようです。

「ようです」と他人事のようなのは、私が直接関わっているわけでも無く、内覧会の案内にも予定が合わずに行くことができないからです。



だいぶ前のエントリに書いたように、私の一つの夢は「寺」をつくることです。
そもそも不動産が好きということもあり、実はそれなりに関心を持っています。



ただ、関東の会館は、決まるまでにはまだ時間がかかるのでは無いか、と思います。
何カ所か、内覧会の案内が来ていますが、詳しい場所はよくわかりません。


内覧会をしても、エレベーターが無くてご年配の方が 「年寄りには やさしくない会館になりそうだね」
と言われていたり、駐車場が少なかったり、講堂からトイレに階段の上り下りが必要だったりと、
なかなか皆さんにとって良い物件というのは、難しいようです。


あと、現実的な問題では、お値段もネックかと思います。


芳野作戦の話があった当時、会から


「土地500坪(最低300坪)以上、(建屋は100坪以上だったか失念)、価格は3000万円程度」


などという、首都圏では現実離れしたパラダイスな条件を出されていたりしたらしいですが、当然現実はそんな価格に収まるわけがありません。


お値段の話はよく聞いていないのですが、高い物件は10億円とかいう話も小耳にはさみました。



 「思いは現実になる」


自己啓発の世界などでもよく言われることですが、みなさんにとって良い会館が、どのような形で実現するのか、と考えているところです。

ご覧いただき、ありがとうございます。最近、このブログにて感謝の心を述べる機会が減っていたような気がしましたので、久々に。



今月の上旬までは、記事を書いた日がだいたいユニークユーザ数で80名くらい、書かない日で30名くらいの方がいらしてました。プレビュー数で言うと、それぞれ200ちょっとと80ちょっとでした。

どうしたことか、最近は 徐々に増えてきました。ここ数日の現象なのかどうかはよく分かりませんが、見ていただいている方が多くいらっしゃるという意味で、久々にお礼を申し上げた次第です。



昨日、連絡が流れてきました。

来月から「光法戦」が始まるという連絡でした。
光法戦、なんだか懐かしい響きです。


かつてアニメ頒布の旅に出られた方も少なくないのではないでしょうか。(すいませんが、私はご縁ありませんでした)


ほかにも、顕正戦だとか学道戦だとか、よくよく考えると親鸞会は戦いが好きなのかと思ってしまいます。そういうメンタリティだからこそ、昭和の時代をあのように過ごせたのだと思います。


それはさておき、

先日のエントリで書いたように、正式に来月から「ビデオ講師」が「アニメ講師」になり、「アニメの上映のみになります」とのことです。


もっとも、 講師部員は引き続きビデオご法話をされるようですので、ビデオ講師が上映していたビデオご法話が無くなる、ということのようです。



近くにお住まいだったビデオ講師の方には、私の家で何度もビデオご法話をしていただいていましたが、今後はそれも無くなります。
 


ほかにビデオ講師、と聞いて思い出すのは、かつて

「歌手でメジャーデビュー寸前だったのを蹴ってビデオ講師を目指した」

という弁論をした女性のことです。


 
他人の人生についてとやかく言う筋合いは無いのですが、この話を聞いた時に私は「勿体ない」と思ってしまいました。


なぜ勿体ない、と思ったかと言いますと、


歌手でメジャーデビューというのは、そうそう無いこと(だと思う)、

親鸞会には数千人のひとがいたとしても、その中でせいぜい2,3人ではないかと思うのです。



弥陀の本願は時も場所も選ばない、もちろん職業も選ばない。 


ならばビデオ講師でもいいけれど、あえて多くの人の目に触れる歌手として、弥陀の本願をよろこぶという人生でも良いのではないか。

 
そう思ったからです。 


歌手でメジャーデビュー、というのは、もちろん努力もあると思いますが、努力だけではいかんともしがたい部分も少なくないように思います。


望んでも、かなわない人が少なくない、そのチャンスがあったわけですから、あえてそのような道を選んでも良かったのではないか、と、お節介ながら思ったものです。



申し訳ないことに、弁論の中身をあまりよく覚えていないのですが、おぼろげに、「聴聞のご縁がなかなか持てないから」ビデオ講師になりたい(歌手を断念する)、という話があったように思います。


親鸞会では、「(富山での)聴聞のご縁が持ちやすいように」と、親鸞会の職員を目指す学生も少なくなかったのですが、ほかにも、土日が休みの公務員を目指したり、自由に働けるというフリーターになったり、様々な「ご縁の求め方」をする人がありました。
(もちろん、土日に仕事が入るような仕事、自由がききにくい会社の会社員、といった人もあります)


ですから、ことさらこの女性が特別ということでもありませんし、出て当然の気持ちだと思います。
 

ただ、 時を選ばず場所も隔てない弥陀の本願をせっかく聞いているのだから、という思いが私にはありました。



おそらくその女性はビデオ講師として活躍されていると思います。そして今度、アニメ講師と変わるのですが、今、どういう思いでいらっしゃるかな、と、ふとそんなことを思いました。

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