これまで、実はユニークな訪問者数の最大値は、さよならに私の作文が公開された6/23に記録したものでした。
それが今日、更新されました。直接的には昨日書いた記事ということなのでしょうが、正直なところ 、なぜこれほどアクセス数が伸びたのかはよく分からないでいます。とはいえ、ご覧いただきありがとうございます。
私が先日に書いた座談会のお話は、日曜日のものです。このほか、今週の水曜日にも予定されていたのですが、私はご縁がありませんでした。部分的にほかの親鸞会の皆さんが書かれたブログなどが参考になるかもしれません。
そのようなわけで、日曜の座談会の、午後の大ざっぱな内容です。
・阿弥陀仏は、どんな者のために本願を建てられたのか。
十方衆生(=すべての人)を助けるために建てられた本願
・十方衆生をどのような者と見て取られていられるか
→御文2-8
大宇宙の仏方から見捨てられたのが私たち。そういう難病をもっている。
大宇宙の仏方が助ける力が無い中、一人立ち上がられたのが阿弥陀仏。
・なぜ大宇宙の仏方は私たちを見捨てられたのか
→煩悩具足(=煩悩以外無い)だから
・阿弥陀仏が本願を建てられた相手は、煩悩具足の凡夫。煩悩熾盛の衆生 とも言われる。
煩悩100%ということは、煩悩が無くなると私ではなくなるということ。
煩悩100%だから捨てられた。
煩悩が分かっていないから、具足と言われても分からない。
すべて煩悩だから、煩悩以外のものの出ようが無い。
・これを真実の機(=実機)といわれる。
阿弥陀仏に救われる前も救われた後も、金輪際変わらないのが実機。
十方衆生すべてが煩悩具足で変わらないが、表面でだまされてしまう。
立派な衣を着ていると立派に見える。その立派な衣を着ている人が立ち小便をしていても、
立ち小便をするような者が立派な衣を着ているだけ。
・煩悩具足が露塵ほどの疑いなくハッキリ知らされるのが 機の深信。明知、真知ともいわれる。
(根拠:機の深信のお言葉)
私たちは死ぬまで罪悪生死の凡夫=煩悩具足の凡夫
金輪際救われる縁手がかりが無いとハッキリした。これ以外の人間はいない、十方衆生のすがた。
・少しでも煩悩以外のものがあると思っている。これを自力という。
煩悩具足の者が煩悩具足とは到底思えない。ゆえに邪見きょう慢の悪衆生と言われる。自力の限界。
それを助ける弥陀の本願だから、それが分からなければ弥陀の本願は分からない。
弥陀の本願が分からなければ、煩悩具足は分からない。
・質問に戻って、
「病気にかかると、死ぬのではないかと思う心がなぜ煩悩なのか」
→こういう心しか無いのが煩悩具足の凡夫。そんな者を助けるのが弥陀の本願。
そんな心を無くしてやるとは仰っていない。どこがおかしいのか。どこもおかしくない。
・(映像の人からのコメント)
助かる前は煩悩具足かもしれないが、助かったら何かが変わるのでは無いか、とどうしても思ってしまう。
→阿弥陀仏は無条件の救い。諸仏の救いは条件がある。
自分で条件を付けて、なんとかなろうとする。なんとかなれる者なら諸仏は見捨てられない。
救われても喜ぶ心の無い者を助けると仰っている。
阿弥陀仏の救いに、喜ぶ心が条件だと思っている。弥陀の救いに条件は無い。
喜ばない心100%。救われたら喜べるだろう、と思っている。それでは「具足」にならない。
親鸞聖人は仰っている。
「それにつきても、いよいよ大慈大悲は頼もしく、往生は決定と存じ候え」
(30分ほど、「阿弥陀仏の救いは無条件の救い」というお話)
なお、午後の後半は、朗読版DVDの再生でほぼほぼ終わりました。
・当然阿弥陀仏に救われると、機の深信だけでは無く、法の深信が必ずある
大ざっぱには、以上のようなお話をおききしました。
それが今日、更新されました。直接的には昨日書いた記事ということなのでしょうが、正直なところ 、なぜこれほどアクセス数が伸びたのかはよく分からないでいます。とはいえ、ご覧いただきありがとうございます。
私が先日に書いた座談会のお話は、日曜日のものです。このほか、今週の水曜日にも予定されていたのですが、私はご縁がありませんでした。部分的にほかの親鸞会の皆さんが書かれたブログなどが参考になるかもしれません。
そのようなわけで、日曜の座談会の、午後の大ざっぱな内容です。
・阿弥陀仏は、どんな者のために本願を建てられたのか。
十方衆生(=すべての人)を助けるために建てられた本願
・十方衆生をどのような者と見て取られていられるか
→御文2-8
大宇宙の仏方から見捨てられたのが私たち。そういう難病をもっている。
大宇宙の仏方が助ける力が無い中、一人立ち上がられたのが阿弥陀仏。
・なぜ大宇宙の仏方は私たちを見捨てられたのか
→煩悩具足(=煩悩以外無い)だから
・阿弥陀仏が本願を建てられた相手は、煩悩具足の凡夫。煩悩熾盛の衆生 とも言われる。
煩悩100%ということは、煩悩が無くなると私ではなくなるということ。
煩悩100%だから捨てられた。
煩悩が分かっていないから、具足と言われても分からない。
すべて煩悩だから、煩悩以外のものの出ようが無い。
・これを真実の機(=実機)といわれる。
阿弥陀仏に救われる前も救われた後も、金輪際変わらないのが実機。
十方衆生すべてが煩悩具足で変わらないが、表面でだまされてしまう。
立派な衣を着ていると立派に見える。その立派な衣を着ている人が立ち小便をしていても、
立ち小便をするような者が立派な衣を着ているだけ。
・煩悩具足が露塵ほどの疑いなくハッキリ知らされるのが 機の深信。明知、真知ともいわれる。
(根拠:機の深信のお言葉)
私たちは死ぬまで罪悪生死の凡夫=煩悩具足の凡夫
金輪際救われる縁手がかりが無いとハッキリした。これ以外の人間はいない、十方衆生のすがた。
・少しでも煩悩以外のものがあると思っている。これを自力という。
煩悩具足の者が煩悩具足とは到底思えない。ゆえに邪見きょう慢の悪衆生と言われる。自力の限界。
それを助ける弥陀の本願だから、それが分からなければ弥陀の本願は分からない。
弥陀の本願が分からなければ、煩悩具足は分からない。
・質問に戻って、
「病気にかかると、死ぬのではないかと思う心がなぜ煩悩なのか」
→こういう心しか無いのが煩悩具足の凡夫。そんな者を助けるのが弥陀の本願。
そんな心を無くしてやるとは仰っていない。どこがおかしいのか。どこもおかしくない。
・(映像の人からのコメント)
助かる前は煩悩具足かもしれないが、助かったら何かが変わるのでは無いか、とどうしても思ってしまう。
→阿弥陀仏は無条件の救い。諸仏の救いは条件がある。
自分で条件を付けて、なんとかなろうとする。なんとかなれる者なら諸仏は見捨てられない。
救われても喜ぶ心の無い者を助けると仰っている。
阿弥陀仏の救いに、喜ぶ心が条件だと思っている。弥陀の救いに条件は無い。
喜ばない心100%。救われたら喜べるだろう、と思っている。それでは「具足」にならない。
親鸞聖人は仰っている。
「それにつきても、いよいよ大慈大悲は頼もしく、往生は決定と存じ候え」
(30分ほど、「阿弥陀仏の救いは無条件の救い」というお話)
なお、午後の後半は、朗読版DVDの再生でほぼほぼ終わりました。
・当然阿弥陀仏に救われると、機の深信だけでは無く、法の深信が必ずある
大ざっぱには、以上のようなお話をおききしました。