あさ川進の、宗教と私

浄土真宗親鸞会に所属しながらアウトサイダーだった私(現在は会員でなくなりました)が、宗教(浄土真宗親鸞会)との付き合い方を考えつつ書いている更新頻度が低いブログ(この説明も暫定です)リンクフリーです。なお、投稿文を受け付けております。「【投稿文】」と書かれている記事は、頂いた投稿文です。

2012年09月

しばらくブログの更新を滞らせてしまいました。ひとまず、あさ川は元気です。
コメントをいただいたお返事は、改めてしたいと思います。



検査入院ということで、せっかくなので今後このブログをどう書いていこうかということなども考えていました。


先日のネタにしました、『他力本願のすすめ』も、実はあのエントリを書く前にアマゾンで購入していましたので読んでいました。



そんなに重病ということではない(と思います)ですが、来月に検査結果が出てから今後の治療のことを考えていくことになると思います。

「放置していたら突然死のリスクが高まりますよ」ということを聞かされてはいたのですが、正直なところ、全然そのような逼迫した考えを持つには至りませんでした。よほど重大な病気を宣告されたらどうなのかは分かりませんが、自分のことですのでひょっとしたら死ぬ心配より別の心配をするかもしれません。



かつて学生時代は、「病気をご縁に弥陀の本願にあわれた」という方の話をそれなりに聞いていたからか、重病になって「無常観が強まると信心決定に近いのではないか」などという思いもあったのですが、まったく思い違いも甚だしかったな、と思います。


さて、今日は雨が降りそうですが、テレビ座談会のご縁に行く予定です。

報恩講の時間割の連絡が来ました。これを見る限りですと、最近の降誕会や報恩講と同じような時間割だと思います。ご法話が土曜一日(午前70分、午後60分)、日曜午前(70分)、の予定だとのことです。



前々から決まっていたことですが、明日は検査入院しますのでブログの更新はできません。落ち着いたらまた書きたいと思います。 




 さて先日、ある方のコメントへのお返事で『親鸞聖人の花びら』を話題に出しましたので、改めて少し読んでみました。


藤の巻(43)に、「親鸞聖人が名号を本尊とされた根拠は何か」という項目があります。 

何度かお話ししているように、私はかつて 「親鸞会の本尊論を再考する」というブログを書いていました。(このタイトルは私が付けたわけではありませんが)


その「再考する」にこうありました。 


 
親鸞会の、本尊における主張は以前から一貫しています。要約すると、
・親鸞聖人は名号のみを本尊とされ、絵像や木像は排斥された
・そのためにそれまで掲げられていた弥陀三尊の絵像などもすべて捨て去り、名号本尊を徹底された
・蓮如上人も親鸞聖人同様、名号のみを本尊にされ、絵像や木像は廃された
となります。




親鸞会で教えられていることは、この当時を見る限り「以前から一貫して」いました。


翻って、『花びら』を読んで同じようにまとめてみますと、



・親鸞聖人は名号のみを本尊とされ、絵像や木像は排斥された
・そのためにそれまで掲げられていた弥陀三尊の絵像などもすべて捨て去り、名号本尊を徹底された
・蓮如上人も親鸞聖人同様、名号が正しい本尊だと教えて行かれた

 
とまとまりました。


 
『親鸞聖人の花びら』は、『こんなことが知りたい』等で教えていかれたことを、時代に合わないような表現や事例は現代の人に馴染むように変えられた、という趣旨の話を聞きました。


よくよく見ると、「蓮如上人も親鸞聖人同様、名号のみを本尊とされ、絵像や木像は廃された」の部分が変わっています。
 


これも「時代に合わないような表現」だから、変えられたのでしょうか。


蓮如上人の教えそのものではなく、あくまで挙動の話だから略されたのでしょうか。





そういえばほかにも、知らない間に少しずつ変わっている、ということがあったと思います。


学生時代に、『なぜ生きる』は改版のたびに少しずつ表現を変えられていた、という話を聞いたことがあります。



親鸞会の学友部員ががんばって勉強する「教学」の拠り所、教学聖典もその例に漏れません。


学生が教学の模試を行う時、地区にもよるのでしょうが「漢字かひらがなか」だけでもかなりの問題になります。


ところが、この教学聖典も、年代によって細かいところが結構異なります。結果として、本人の教学聖典を見ないと本人が「正しく覚えているのか」が分からなくなる、といったこともありました。





誤りや行き届かないところ、不十分なところを改善する、ということは大切なことだとは思います。

ただ、改めたところがさほど問題とならないところなのか、そうではないところなのか。変えても影響が出ないところなのか、影響が出るところなのか。

改めたことをきちんと説明しなければならない場面というのもあるのではないか、と『花びら』を読んで思いました。
 

更新した後で、こっそりと誤字脱字を見つけて直すこともある私が偉そうなことは言えませんけれども。 

最近、アニメが勧められていると言うことで、そのようなビデオを見せてもらいました。


タイトルを正確には覚えておりませんが、「病床で弥陀の船に乗せられて」という趣旨のタイトルだったかと思います。



もう12年以上前、私は初めての夏合宿で「T本さんの獲信の記録」というビデオを見ました。

ほどなく、「獲信の記録」ではよろしくない、となったからか、「聞法の記録」と名前が変わったそうです。



親鸞会に縁のある方であればよくご存じのビデオでは無かろうかと思います。



あれほど露骨な内容ではありませんでしたが、今回のビデオの方も、病床でアニメを熱心にご覧になって、弥陀の本願を喜ばれたそうで、そのような内容を紹介して、アニメは尊いご縁だと結ばれていました。


このビデオの趣旨は、
「アニメを見せていただくことは、親鸞聖人のご説法を聞くのと同じく尊いことですから、真剣に見せていただきましょう」
ということだったと理解しています。



弥陀の本願を喜ばれたということは非常にすばらしいことだと思います。病床でなおいっそう、弥陀の本願に心を掛けられたこの方には本当に頭が下がります。一人でも多くの方がそのように弥陀にあわれることを念じ上げる次第です。





ところで、大学一年の夏に「T本さんの獲信の記録」を初めて見た私は、病床での大逆転にびっくりしました。


そして、恥ずかしながらこのような心が芽生えたのです。



「病床にあって、死が目の前に迫ると無常観が深まって信心決定できるのか」

(まあ、実際にはちょっと違いますが)




今回の方もそうですし、あるいはかつて弁論大会等で何名か、「弥陀の本願を喜ばれた」方が紹介されたシチュエーションも、だいたい病床だった気がします。



実際には病床であっても無くても、弥陀の本願の妨げにはなりませんが、今回のビデオをご覧になって、



「病床でアニメを熱心に見れば信心決定できるのか」



などと、かつての私のように思う方が現れないことを願っています。



今日もまとまりがなくて失礼しました。

昨日、久しぶりにライブドアブログのアクセス解析を見ていました。目に付くのは、先週の日曜日(二千畳座談会の日)のアクセスがかなり少なくなっていたこと。元々更新をしていない日の翌日はアクセスが少ない傾向にあったのですが、それ以上の下がり方でした。ひょっとしたら、少なくないアクティブ会員さんもご覧になっているのかもしれない、と思いました。

また、変わったところでは、なぜか検索フレーズに

「携帯電話 電波が全く入らない」
 
で来られた方があったようです。そんなフレーズで検索エンジンに掛かるのか?と思ったのですが、昨日Googleで見たところ、なぜか検索7位でした。 



先週の二千畳座談会の内容を、少しだけ教えてもらいました。

「善導大師は”実凡”と教えられたのに、なぜ親鸞聖人はあえて”権仮の方”と教えられたのか」

という趣旨の質問だったそうです。一通りの説明を終えられた後で、

「それでもやはり分かりません」

というような質問が終了前にあったようでしたが、打ち切られたそうです。また後で説明があるのでしょうか。

私は、こういうことは親鸞聖人に直接聞かない限り本当の意味では分からないのでは無いかと思います。




いつもながら、前の話が長くなりました。
 

今日、『「なぜ生きる 」を全人類に 2』のビデオを見ました。これは、以前に書いたとおりその名前のお布施を案内するビデオでした。



内容をすでにご存じの方もあるかと思いますが、私がやや意外に思ったのは、本願寺派の僧侶が出版した本の参考文献に『歎異抄をひらく』を出して、


「高森先生は、安心して読めます」 


と書いてあったという話。 


私はまだ現物を見ていませんが、アマゾンの書評を見ると、どうも事実のようです。内容としては仏教書と言うより自己啓発系の匂いがいたしましたが。 


ちなみに著者はウィキペディアに出てましたが、「日本の環境心理学者・評論家・浄土真宗の僧侶」だそうです。僧侶が本職ではないかもしれません。

 


ビデオでは、「参考文献に出ている名だたる本願寺の仏教学者の中で 、”安心して読める”のコメントがあったのは高森先生だけだ」ということで、「ほかのものは”安心して読めない”ということだ」という話になっていました。

ここで「親鸞学徒の本道」の話になりました。 


 

ほかの話題としては、
 

・「ご著書」を通じて「本当の親鸞聖人の教え」に出会った方の喜びの声(国内・海外)
・本願寺の妨害で、8月の全国紙の「仏教書特集」のページに広告が出せなくなった事件 
・ 今回の浄財はすべて「新聞広告」「ラジオ布教」「翻訳の大事業」に生かされます。
・総額1億円。



このお布施は、「人生の目的を全人類に」という趣旨ですので 当然ながら「宿善になる」「信仰のバロメータ」などの話は出ませんでした。


私が言っても仕方ないことだとは思うのですが、「親鸞聖人の教えを全人類に知ってもらいたい」の気持ちで出されるはずの浄財に、最初から1億円という金額を設定するというのが、どうにも合わないように思えます。


企業ならば予算を組んでスタート、となるのでしょうけど。

別に浄土真宗親鸞会の報恩講が近いから、というわけでは無いと思うのですが、なんとなく親鸞会関係のブログの更新頻度が全体的に上がっているように思います。さよならの更新頻度も上がっているように思いました。


特にふざけているわけではありませんが、今日はどういうタイトルをつけようか考えてしまいました。


「を」だろう、と思った方もあるかもしれません。


実際はそれが自然だろうと思うのですが、そのタイトルには若干の抵抗がありましたのでこうなりました。
「~を読んで」に反応できる方は、親鸞会関係のブログを比較的長いこと観察されている方くらいでしょうが。





「まじめな人からやめてゆく」ということで、さよならの今日の記事が書かれていました。


 私は、観光等で東西本願寺を巡ったことはありましたが、たまたま法話の無い日だったため、実は本願寺でどういう話がなされているかは知りません。


ちなみに親鸞会では、ごく大ざっぱに言うと、

・東本願寺⇒後生を否定
・西本願寺⇒死んだらお助け

と括っているように思います。(間違っていたら、ご指摘ください)



親鸞会では、今生の救いと死んでからの救いと、両方の説明をされます。その上で、死んで弥陀の浄土に往生できるのは今生救われた人だけだから、現在の救いを急げ、と説明されます。


現在ただいま助かる弥陀の本願、なのですが、学生時代は少なくとも「ご法話(富山)に行ってこそ絶対の幸福に近づける」という思いしかありませんでした。


というよりも、たとえば大学で講義を聴いている時、あるいは電車に乗っている時、アルバイトをしている時、そんなときにいきなり「絶対の幸福になれる」とは思わなかったのです。



ちなみに、ここであえて「弥陀の本願にあう」などと言わずに「絶対の幸福」とか「人生の目的」と書いたのは、少なくとも学生時代、弥陀の本願が眼中に無かったからでもあります。



まあ、笑われるかもしれませんが、


思えば、大学一年の頃、


「合宿に行けば人生の目的を達成できる」と意気込んで行ったはいいが、結局「続けて聞法しましょう」と言われて目的を果たせず落ち込んだり、
 

案内された名古屋のご法話はお金が無かったのでアルバイトをして、「次の大阪で人生の目的を果たすぞ」と意気込んでは空振りして落ち込んだり、


そんな頃もありました。


実際にまじめだったのかはともかく、少なくとも一回のご法話で気合いを入れて、とやっていたのが、いつの間にやら空振りが当たり前になり、それなりに反省するもだんだんと「人生の目的」が遠く感じられるようになっていきました。


自分のことを棚に上げて言うのも何ですが、学年が上がるにつれて、言葉にはならないが

「阿弥陀仏の救いにあうのはそんなに生やさしくない。だから救われなくても当たり前」

のような空気が強かったように思います。



学生時代はまだ、(金が無いとはいえ)富山に行こうと思えば比較的行きやすい環境ではありましたが、社会人になって同じような環境に身をおける人はそうそうありません。



私に「施しは生きる力の元と知る」ことを教えてくれた先輩は、大学を卒業して程なく


「自分には、弥陀の本願を聞く資格は無い」


と言って去って行ったと聞きました。



「真面目な人からやめてゆく」と聞いて、では残っている人が不真面目なのかというと、特にそうは思いませんが、学生時代の「求道」が基準となってしまうと、真面目な人ほど思い詰めて到底「ただいまの救い」とは思えなくなってしまうのも致し方ない、と思います。



 
本尊論ブログの後、なんとなく不完全燃焼でくすぶる形になってしまった私は、社会人になったらなんとなくフェードアウトしようかと思っていました。


ところが、「ただいま助ける弥陀の本願」を喜ぶようになり、それでいてなんとも日々の活動に追われているようにしか見えない後輩の姿を見るにつけ、私は私なりに思うところがありました。



ただいま助ける弥陀の本願、ということは、頭の善し悪しはもちろん関係ないし、お布施の額も関係ないし 、どれだけ部室に足を運べるかも関係ないし、何より資格があるとか無いとかいう話では無い、勝った負けたと言うこともない、成功とか失敗とか言うこともない、ということは言いたかった。個人的に縁あるごとに、後輩にもそういう話をしていました。



親鸞会だけに弥陀の本願があるわけではない、逆に親鸞会に弥陀の本願が無いわけでもない。そもそも親鸞会(だけ)には弥陀の本願があるとか無いとかいうこと自体、私には弥陀の本願を馬鹿にしているように思えてなりません。親鸞会にいては弥陀の本願にあえないように思うのであれば親鸞会を去るということもあるでしょうし、親鸞会にいればこそ弥陀の本願にあえると思うのなら親鸞会にいればいいと思います。


もっとも、親鸞会にいる人が全員、「親鸞会にいればこそ弥陀の本願にあえる」と思っていて親鸞会にいるとは思っていません。なかには親鸞会が単純に居心地がいいからいるとか、あるいはもっと別の理由で残っている人もあると思います。


それらも含めて、弥陀のお手回しだと思います。ただ、自分は正しく相手は必ず間違いなどという次元で弥陀の本願を見ているならば、それは違うのでは無いかと思うのです。

私事ですが、どうも寝不足が続いているようです。


今日中に記事を書こうということで、今日の記事は簡単になりますことをご了承いただければと思います。
コメントへのお返事は、改めてしたいと思います。


昨日いただいたコメントを読みまして、思ったことがありました。 



>親鸞会の講師はもちろん、会長もこう言うでしょう。
>「何何したら救われるとは説いていない。すべて阿弥陀仏の一人働きだから。ただ、阿弥陀仏に救われるためには自力いっぱい求めないといけない。」

>これは阿弥陀仏の本願力を疑う心であり、自らの力で宿善を厚くできるという思い上がりの心だと気付いていないのでしょう。  



先日、 のエントリで「阿弥陀仏の救いは無条件の救い」というお話がありました。


ではなぜ、お布施などの善が勧められるのか、というところが問題になろうかと思います。いや、実際にそういう話題が信心の沙汰で出たのですが。


どういう回答になるかはそれぞれ考えられましょうが、今まで聞いてきたお話から考えると、

「善ができない自分と知らされるために善をする」

といった答えがあると思います。



ただ、これだと「善ができない自分と知らされる」ことが 条件になってしまうように思いますので、善をすることが弥陀の救いの前提になってしまうと、おそらくはどんな理由を建ててみても、「無条件の救い」と言えなくなってしまうのでは無いか。



少し話がずれますが、アニメ第一部の 「親鸞聖人が獲信された」 場面、あの場面に描かれていることが、ほとんど親鸞会で教えている弥陀の救いを象徴しているのではないか、と思います。 



今、うろ覚えで親鸞聖人と法然上人のやりとりの言葉の趣旨をいくつか思い出してみますと、法然上人も親鸞聖人も、親鸞聖人の心(機)は思いっきり問題にされているように思うのですが、そういうものを助ける弥陀の本願ということを(少なくとも表面上は)ほとんど言われていないように思うのです。



のときは、機の深信のお話は詳しくされたのですが、少なくとも文字面の上で法の深信のお話は少しでした。


そういう意味からしますと、親鸞会ではやはり「機」を重視されているが故に「機」のお話が中心になる。その「真実の機」を知らされるために自力いっぱい、となってしまう。まあ、最近は「自力いっぱい求めよ」というフレーズも聞きませんけれども。

弥陀の本願を置き去りにしないで味わうと、もう少し違うのかもしれないと思いました。

本日中の更新を急いだため、まとまりなく感じられましたら失礼しました。

最近、さよならでも信心の話が増えてきたなあ、と個人的には喜んでいるところです。別段、今に始まったことでは無いのでしょうが、なんとなくそのように感じています。
 


信心の話をしますと、親鸞会で聞いた「信心決定」のイメージがあまりに強いからか、

「信心決定なんて世界は無い」

といったことをいわれる人もあります。



ぶるうのさんが親鸞会を離れて間もない頃、

「”信心決定の体験”は、変性意識体験の一種では無いか」

というようなことも言われていましたが、「信心決定=神秘的な宗教体験」と捉えてしまうと、「そんなものは無い(あるいは意識の変調だ)」となるのは仕方ないかもしれません。



私がどうのこうの言っても仕方ないと思いますが、信心決定というのは本当に信心、心の問題なので、神秘的な宗教体験とかそういう話とは次元が違う(あるとか無いとかいう話とも違う)のではないかと言いたいのです。





さて、私が就職して少し経ってから、京都に行ってぶるうのさんと会って少し話をしたことがありました。
 
当時はIT企業で働いていたようですが、そのときは

「自分はなんか仏教に関心が無くなった」

といわれていました。それが本音だったかどうかは分かりませんが、私はきっとまた弥陀とのご縁があるだろう、と思っていました。

 


「 ただいまの救い」


「仏願の生起本末」


どういうものを助ける本願か。弥陀のお徳、光明無量と寿命無量は、場所を隔てず時を選ばず私を助けるためのもの。仏願の生起本末を聞くということは、弥陀が私を今助ける本願とそのまま聞くということだと味わわれます。



「弥陀の18願、漢字36字に一切経がおさまる」と初めて話を聞いた時、私は36字の文字面の意味を理解すれば良いのだろうと思っていました。


言葉で上手には言えませんが、文字の意味、文章の理解、そういうことではありませんでした。
 


教行信証の信巻に、「掌を返すようなものだ。これがあまりに易しいからかえって疑いをおこすのだ」という趣旨の言葉を引用されています。


愚禿抄には「一難疑情 二易信心」といわれていました。



二千畳に行かないよりは行った方が弥陀の救いには近いだろうとか、

毎度毎度富山に欠かさず参詣することが信心決定の近道だろうとか、

お布施の額も弾まないと信心決定が遠くなるのでは無かろうかとか、

教学をよく勉強してお聖教のご文を覚えなければ救いは遠いだとか、

ビデオよりも直接のご法話で無いと救われるような気がしないとか、

自分は地獄行き間違いない身と知らされなければ救われないとか、

自分の命は今宵ともしれないものと無常を深く見つめなければとか、

 

かつて私はこんなようなことを思っていたのですが、
自分から何をすることも望まれていない弥陀の本願を聞いていても、
自分で勝手に弥陀の救いに条件をつけて疑っているのは非常にもったいないことです。



たくさん話を聞くことが条件なら、回数が問題になります。

お布施の多寡が条件なら、金額が問題になります。 

教えの理解が条件なら、頭の良さが問題になります。

教える人が条件なら、場所や時代が問題になります。



なぜ「ただいま助ける弥陀の本願」でなければならないのか。
こういった様々な思惑を超えて助けるには、今助けるしか無いからではないか、と思うのです。




ぶるうの氏が除名になった後、私の担当講師は何名か変わりましたが、いずれも「ぶるうの君」と、君付けで呼ばれる方でした。ぶるうの氏との縁はそれぞれでしたが、ぶるうの氏がいずれ弥陀とのご縁にあえば、という話をしていました。


個人的には、「仏教に興味が無くなった」というのはポーズで、常に弥陀への思いもあったのではないか、と思っているのでした。




信心の話をすると、どうしてもこんな感じでいつも以上にまとまりが無くなってしまうので、今まで控えていたのですが、最近ブログで信心の話も盛り上がっているように思いましたので、思っていることを少し書いてみました。 

もうそろそろかな、と思いましたがやはり、でした。

いろんな意味で、「今の親鸞会」にとってのエポックメイキングな日、と私が勝手に思っているのが7年前の9/18でした。



 

このブログを立ち上げてから、今までご縁の無かった方のご縁にも恵まれました。親鸞会をやめた方、今も親鸞会の方、そもそも親鸞会の会員だった経験の無い方、いろんな方があります。 

いろんな方がいらっしゃって、やりとりをしていると私には無い発想をされ、参考になることもしばしばです。
たとえば、こんなことを言われてました。 


「おかしなことを説いている、と何人も講師部員を除名にしているが、その前にまず、会員さんに対して”講師部員ともあろう者がとんでもないことをしでかして申し訳ない”と詫びて、具体的にどこがどうおかしいのかを説明すべきでは無いのか。講師部員の不祥事に対して誰も責任を取らないのはおかしいのではないか」


親鸞会はそもそも非を認めない団体だと、私が勝手に思っているからなのかもしれませんが、このような発想はありませんでした。言われて初めて、なるほど、と思ったものでした。 





7年前の9/18といえば、教学講義でぶるうのさんの除名発表があった日です。


12年ほどの親鸞会との縁の中で、ぶるうの氏以降、少なくない講師部員や職員等の除名があったことを陰に陽に聞いてきましたが、何千人といる前の壇上で、ご丁寧に朝と昼の二回の発表があったのは、このときだけだったと思います。


私はすでにこのとき、ぶるうのさんが親鸞会をやめていたことも知っていましたし、一緒に京都観光もしてたこともあったので、「ああ、ついに来たか」という程度でしたが、知らなかった人たちにとっては結構な衝撃だったようです。 


いろんな意味であまりに不愉快な内容でしたので、ここでこのときの詳細を書くことは控えます。



 

ここで、「誰も責任を取らない」の話に戻ります。


世の中の大方の組織でも、実際のところ「潔く責任を取る」という行動があまり見られないような気もいたしますが、 宗教団体という性質上、しかも善のすすめを標榜しているのであればなおさら、責任を取ると言うことに対して敏感であっても良いように思います。


ぶるうの氏も、あるいはその後除名になった皆さんもそうかもしれませんが、除名につながる言動をするに至った「原因」というものがあるのではないかと思います。それが一人で終わるような原因であれば、今のように少なくない人たちを除名にする、という結果にはならなかったのでは無いか。



ぶるうの氏の時は、 (事情を知っている人間からするとかなり変でしたが)一応は除名の理由が3点、並べられていました。


ところが、少なくない除名のケースの中には、除名の理由もハッキリしないまま、ただ

「除名になった。以後あの者には近づいてはいけない」

とだけしか話が無かったケースもあったようです。 (私もすべてのケースは存じ上げませんので)



責任を取るとしたら幹部講師以上の誰かなのでしょうが、特にそういう話があったわけでもなく、具体的に何が原因でおかしくなったのかの説明も無く。ただ、「除名になった人間がおかしい」という風情では、不審を抱かれてもおかしくないでしょう。 



「今の親鸞会」と聞いて何を思い浮かべるかは人それぞれだと思いますが、その「結果」には「原因」があったはずです。私は、その一つの大きな原因として、ぶるうの氏の除名を思うのです。だいたい、2ちゃんねるの書き込みを元にしたのはいかがなものかと思いますが。



最近、講師部員のブログで因果の道理のお話も盛り上がっているようですので、ある方とのやりとりを元に因果の道理のことも思いながら、7年前を思い出していました。 

それは、私自身への反省も込めてのことです。

昨日のエントリは、昨日中の更新にこだわったために、いつも以上におかしなことになってしまいました。
読みにくいと感じられましたら、失礼しました。



最近は「アニメをもっと見せていただきましょう」ということで光法戦が始まるという話を、以前にしました。


そういえば、

「ビデオ法話は私の説法、アニメは親鸞聖人のご説法である」

というお話が以前ありましたが、 このような理由もあるようです。


余談ですが、このアニメ「世界の光 親鸞聖人」は、VHSが累計45万部を超えたそうです。
なぜかウィキペディアに記事が作られていましたが、弘宣局の人が作ったんじゃないかと思えてなりません。 
 


そのアニメ第4部には、寺から「金出せ」「金出せ」と言われてぼやいているシーンがあります。
お布施の中身や意義はともかくとして、親鸞会もお布施の募集は、多くなされています。


現在は、報恩講関係を除くと『「なぜ生きる」を全人類に(2期)』のお布施が行われています。


今までにも様々なお布施がありました。


・会館建立のためのご報謝(建物、お仏壇、黒板、根拠装置・・・)
・会館に付随するもののご報謝(座布団、絵画、壁画・・・)
・ 聞法ドメイン事業ご報謝(宿泊施設を含む同朋の里、あんしん弁当・・・)
・出版ご報謝 (光に向かってシリーズ、なぜ生きる・・・)
・メディア布教(新聞広告、テレビ広告・・・)
・ご法話関係

などなど。


中には、「全くの無駄」とネットで酷評されている同朋の里のダムやら絵画やらというのもありました。

このことに関して、ある幹部会員さんが話をしてくださいまして、絵画などもそれをご縁に仏法聞かれるから無駄ではない、ということを言われました。


私自身は、今まで募集されたお布施についても、

・親鸞会で話を聞くために使う
・それがあることにより、今まで縁の無かった人が仏法を聞かれる縁となる 
・親鸞会に参詣された方に、何かしらの喜びを与える

といったような観点(費用対効果等の経済性は一切無視)で見たときに、全く役に立たない、箸にも棒にもかからない、効果が絶無である、といったことは無いと思っています。


そういう意味で言えば、「意味のあるお布施」です。



ただ、その私から見てもそのお布施の対象となる基準が今ひとつよく分かりません。
(全員と言わないまでも多くの会員さんが必要性を認めるものばかりではないように感じられる)


親鸞聖人は大変に権力者がお嫌いでしたので、政界進出という選択肢が無いのは当然かと思います。


ただたとえば、絵画はあるけど楽団による生演奏は無い、同胞の里に宿泊施設や遊歩道やダムはできたがコミュニティーはできていない、病院はあるけど学校が無い、など「アレはあるけどコレが無い」といったことがあります。


親鸞聖人のお心からはずれるかもしれませんが、認知度を上げるのであれば、

・芸能人や有名人を作り出す(A橋先生はこのカテゴリかもしれませんが)
・学校を作って小さい時から如来聖人のお心も学ばせる

などといった選択肢もあると思います。



以前には、グループホームやクリーニング店を作るといった案もあったようですが、これは実現されていません。


宗教は経済性で動くものではありませんので、経済性の観点で無駄だと切り捨てるのが必ずしも良いとは限らないと思いますが、”仏法を広めるために” 「コレはあるけどアレは無い」ことや、「コレが必要な理由」は、 聞かれたら答えられるようにしてもらいたい、と思いました。


まあ、ダムがどうして必要なのかはさっぱり分かりません。蓮如上人が本願寺の周りにお堀を作られた理由はきちんとしてると思いますが。

家庭の事情により、私は、今日の二千畳座談会のご縁はありませんでした。
ですので、今日は違う話です。



9/15の新聞に、富山会館落慶の記事がありました。
この記事に地図が出ているのですが、これで富山県の会館は5つだそうです。ただ、親鸞会館の東側としては初めての会館とのことです。


さすがに、富山県の会員さんが多いからなのかはわかりませんが、親鸞会の地元なだけに勢いがあると思います。




関東でも、前に書いたとおり少しずつ話が進んでいると聞いています。すでに具体的な物件も何件か内覧が行われているのですが、決まってはいないようです。


関東の会員さんも、数は決して少なくないと思うのですが、


・若い会員がそれなりに多く、資産持ちが少ない
・不動産価格がほかの地区と比べると(話を聞く限り)一桁くらい違う
・親鸞会館から遠いと言うほどでもないが、参詣にそれなりの費用と時間がかかっている 
・対象となるであろう支部が多い 
 

などの理由でなかなか決まらないのでは無いか 、と推測しています。



個人的には、会員さんが自発的に会館を建てよう、という心で聞法道場をつくる、というのは良いことだと思っています。


ただ、私も少し経験がある(機会があれば後日)ので言うのはお門違いかもしれませんが、「ほかの支部が建てたから」とか「ほかの支部で無くうちで作る」などというような気持ちで、会館を作ろうとしてしまうとすれば、やはり本来の趣旨にそぐわないと思います。


どうしても人間関係を持ち込んでしまいたくなるのは人情ですが、そんな気持ちで作っても、皆さんの心がすっきりしませんし、心から応援してもらえないです。そもそも弥陀の本願にそぐわないのですが。


特に関東の場合は支部が多いので、調整が大変だとは思いますが、作るのであれば、「私のところに」という基準では無いような決まり方をしてほしいと思います。



さて、富山会館では、懇親会で「顕正」の本のお話をされたようです。

10/6,7と報恩講の予定ですが、その前に山陰地方の会館の懇親会にも 行かれるようです。

報恩講前に遠くへ行かれるということで、大変な日程ですが、「報恩講には是非二日間立ちたいというお気持ちだ 」と聞いております。


今日はまとまりない文章ですみませんが、この辺で失礼します。


(あさ川註: 記事をあげてから、表現を若干修正しています。また、読み直して顕正新聞の号が9/1となっていたのも修正しています)

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