あさ川進の、宗教と私

浄土真宗親鸞会に所属しながらアウトサイダーだった私(現在は会員でなくなりました)が、宗教(浄土真宗親鸞会)との付き合い方を考えつつ書いている更新頻度が低いブログ(この説明も暫定です)リンクフリーです。なお、投稿文を受け付けております。「【投稿文】」と書かれている記事は、頂いた投稿文です。

2013年01月

先回少し触れましたが、顕正新聞2/1号の論説に、滝つぼの話が詳しく出ていましたので紹介します。

私の問題(全文を書く気力がなかった)で、中略が発生していましたが、1/31に全文追記しました。


===顕正新聞 平成25年2月1日号 論説より引用===
「全人類は滝つぼに向かっている」

 
 生きるのは何のためであろうか。
「生きることは旅すること」と歌われているように、人生は旅のようなものだ。昨日から今日、今日から明日へと、止まることなく私たちは旅をしているが、一体どこへ向かっているのだろうか。

 このような場面を思い浮かべてみよう。今、私たちは、川を下る船に乗っている。船の中では、好きな人ができたり、嫌いな奴とケンカしたり、酒を飲んだり歌ったり、儲かった、損したと、泣いたり笑ったりしながら、あくせく日々を過ごしている。

 毎日毎日、そんなことに一生懸命だが、自分の乗っている船の行く先はどうなっているのか。誰も考えていないようだが、滝つぼなのだ。すべての人は、死の滝つぼに向かっている船に乗っているのである。これでは、船の中でどんなものをどれだけ手に入れたところで、心からの安心も満足もあるはずがない。
 
 このことを、蓮如上人は『御文章』にこう教えられている。

「まことに死せんときは、かねてたのみおきつる妻子も財宝も、わが身には一つも相添うことあるべからず。されば死出の山路のすえ・三途の大河をば、唯一人こそ行きなんずれ」

「生ある者は必ず死に帰す」といわれるように、滝つぼは百パーセント確実な私たちの未来である。いよいよ死なねばならぬとなった時は、今まで頼りにし、あて力にしてきた妻子も財宝も全てのものは、わが身から離れていく。

 私たちは何かを頼りにし、あて力にしなければ、生きてはいけない。夫は妻を、妻は夫を頼りにして生きている。親は子供を、子供は親をあて力にして生きている。

 また「これだけお金があるから大丈夫」「財産があるから安心だ」と、金や財産をあて力にしている。総理だ、大臣だ、社長だと、地位や名誉を力にしている人もあろうが、これら全てが死ぬ時には何の力にもならず、船ごと暗黒の後生の滝つぼに落ちていくのだ。
 
 武士として初めて天下を取った平清盛は、NHKの大河ドラマで「手に入れても手に入れても光に届かぬ。真っ暗闇だ。誰か助けてくれ」と叫んでいるが、まさに滝つぼに落ちていく心境だろう。

 これほどの大事は無いから、これを「後生の一大事」という。

 こんな悲劇の滝つぼに向かっている私たちを、この世から永遠の幸福に救ってくだされるお方は、大宇宙に仏さま多しといえども、本師本仏の阿弥陀如来以外にはましまさぬのだと、お釈迦さまは教示されて「一向専念無量寿仏」と仰ってる。

 だから蓮如上人も続けて、

「これによりて、ただ深く願うべきは後生なり、またたのむべきは弥陀如来なり、信心決定して参るべきは安養の浄土なり」

と言われているのだ。

 信心決定とは、阿弥陀如来に救われ、後生の一大事が解決されて、いつ死んでも浄土往生間違いない身になることである。

 浄土往生こそが、全人類の究極の目的であり、その身になれるか否かは、一向専念無量寿仏になるか否かで決するのである。

=======
 

たまには緩い話もいいかなあと個人的に思っておりますので、次回以降、どこかでまたそういう話も入れたいと思います。 

日曜日はテレビ講演でした。大講堂(旧第一講堂、願海)の映像が映し出されていまして、

「今日は”釈迦と弥陀の本願”について聞かせて頂きます」という生放送で始まったのですが、いざ始まってみると二千畳の映像が映し出されました。


要するに、昨年11月の二千畳テレビ講演のお話のビデオだったわけです。

「お疲れのために」お休みになった、と、終わってから聞きました。
 

最近はやはりお休みも多く、さすがに「月に3回のご縁は、80歳を超えた年齢にはかなりの負担である」ということなのだと思います。 

テレビもビデオも映像なので、 時事ネタに若干の古さを感じた以外は特に違和感はありませんでした。




さて、顕正新聞2/1号を頂きました。ついに [真実開顕へ刻む時] は4年11ヶ月、来月には5年を迎えることとなりそうです。5年を迎えたら、1面に大きく「正統と異端が逆転」といったような内容が掲載されるのではないか、と一人で勝手に思っています。 



今回の「お言葉」は、

○教えを説くべし

親鸞学徒は
 自己を語らず
  教えを説くべし


こうなった 仏法使って 自慢する


でした。

何を意識されてのことか、正確なところは分かりませんけれども、「我がごと」として聞きますと、この「教えをあまり語っていないブログ」ということも一つ言えるかもしれません。

私がブログで「教え」を書いていないのは、そもそもの私の立場とスタンスを考えてのことであり、ブログの趣旨が「教え」を説くことではないからです。会員さんもアンチの方も、教えを一所懸命書かれている方は何人もいらっしゃいまして、それぞれの立場や教学、スタンスによって書かれています。もちろんそういう方があっての上で、必ずしもそこに引っかからない方もあるだろう、という趣旨でこのブログは書いています。


まあ、体験談のオンパレードだった昭和時代の親鸞会はどうなんだという思いが無いこともありませんが、私が言う立場にはないでしょうし、それを反省しての上での、この言葉なのだろう、とも思っています。




あと、以前に、「全ての人間のすがた」 として紹介した滝壺の話が、今回の新聞の論説に詳しく書かれていました。


私がいろいろ言うよりも、たとえ話について詳しく書いてあると思いますので、機会がありましたらいずれ紹介したいと思います。

前のエントリでお話ししましたが、とある方から、先週の「二千畳テレビ講演」の内容を頂きました(ありがとうございます)。せっかく頂いたので、私の覚えとして少し体裁を変えてみました。

なお、毎度毎度しつこいですが、あくまで聞いたご本人が「このように聞いた」というメモです。
文言をいじったところもあります(意味は変えていないつもりです)。ご了承下さい。

=====

五重の義の1番目に宿善。
宿善は「宿善まかせ」といわれるように大切。これがないと往生できない。

宿善=過去世の善

汎爾の宿善=阿弥陀仏に心を掛けない一般の善
釈迦の教えは廃悪修善、釈迦はすべての善をまとめて六度万行と教えられた
六度万行は、どれか1つでもやれば他の5つをやったと同じことになる

一番私たちがやりやすいのが布施
布施=法施と財施
施す相手に三田があり、誰にでも施せば良いというものではない
布施は三輪空の心で行うことが大切

汎爾の宿善は、19願でいうと「修諸功徳」


係念の宿善=阿弥陀仏の極楽浄土に往生したいと思ってやる善
善自体は同じだが、阿弥陀仏一仏に心がかかっているか否かで異なる

19願では「修諸功徳」を「欲生我国」の思いでやりなさい、そしたら助けてあげますといわれている

浄土往生は宿善まかせ
その宿善に厚薄・遅速があり、巳今当の往生があると蓮如上人は教えられている。

(あさ川註:蓮如上人御一代記聞書309が出たと思われます)

頓機と漸機がある
頓機の人は法然上人のお弟子でも3人だけで少ない

(あさ川註:蓮如上人御一代記聞書106が出たと思われます)

宿善到来して信楽開発(=信心決定=信心獲得)するが、これは滝壺にむかう船から阿弥陀仏がつくられた大船に乗りかえたとき

大船に乗せていただくのは一念だが、漸機は乗り換えまでが遅い
遅い人はどうすれば速く信心決定できるのかが大事

どうすれば宿善厚くできるか、薄いから宿善開発をしない
どうすれば宿善「到来」するか
宿善薄ければ今日心がけて善をやれば明日には宿善になる

厚くして時節到来するには「用心」していなければ、待っていても到来しない
用心するとは聴聞、聞法善が最高の善

「至りて堅きは、石なり。至りて軟かなるは、水なり。水、よく石をうがつ。「心源、もし徹しなば、菩提の覚道、何事か成ぜざらん」といえる古き詞あり。いかに不信なりとも、聴聞を心に入れて申さば、御慈悲にて候うあいだ、信をうべきなり。ただ、仏法は、聴聞にきわまることなり」(蓮如上人御一代記聞書・193)

火の中を分ける気持ちで、仕事(世間の隙)をやめてきくべし
同じことを続けて聞くと聞こえることがある

(今日も短いです)


こないだの日曜日の二千畳テレビ講演、私はご縁ありませんでしたが、とある方より内容について教えて頂きました。私が多少体裁をいじった上で掲載しても良い、とのことでしたので、しばらくしたら皆さんと共有したいと思います。ただ、毎度のお断りですが、あくまで「このように聞いた」というメモではあります。


ビデオ講師がアニメ講師になって、なおかつアニメ講師も新しい方がかなり増えて全国で活動中です。基本任務はちらし配りだそうなのですが、テレビ講演などの場合、遠方だと富山に行くよりも活動優先で地元に残ってちらし配りに精を出す、ということもあると聞きます。その方が望んで進まれた道とは言え、きっと、「近くで」「より真剣に」「多くのご縁を」と思われての方もあろうかと思いますと、他人事ながら複雑な思いは致します。


さて、ウェルカム、といってもあんしん弁当ではありません(あれはウエルカムだったかしら)。今日は本当にそのまんまの意味です。


飛雲氏のブログに、このようなくだりがありました。

す。厳しい修行によって悟りをひらく尊い人もありますが、厳しい修行にとてもついていけない人が大多数です。厳しい修行に堪えられる人には聖道門を説かれ、修行に堪えられない人には浄土門を説かれたのです。浄土門でも、聖道門と同じ行で諸行往生を誓われた19願があり、諸行往生も目指せない人には念仏往生の18願が勧められているのです。

この18願念仏往生を勧めるのが浄土真宗であり、親鸞聖人の教えなのです



飛雲氏(ほかのアンチの皆様も)と私とでは、そもそもの立場が違いますし、スタンスもまるっきり違います。ただ、まあ思うところはあります。「親鸞会の活動についていけないということと弥陀の救いとはまったく関係ないのだ(と私は勝手に味わっています)」という意味においてはものすごく。


私のブログに最初っから書いてある言葉です。

宗教というのは、少なくとも人を幸せにするためのものだ、と思っています。
ところが、親鸞会と関わった少なくない人が、苦しみながらフェードアウトする姿も見てきました。
親鸞会はともなく、弥陀の本願とのご縁まで遠ざけてしまうのは、個人的にもったいないことだと思います。


これは、ブログ開設当初も今も、いや、それこそ学生時代からの思いです。(もっとも、弥陀の本願を喜ぶことになって味わいが変わったように思いますが)
 

「弥陀の本願を知り、ご縁のあった皆さんと、なんとか弥陀の本願を共に喜びたい」

 
この思いは立場を超えて共通なのでは無いか、と独り勝手に思っています。


そんなわけで、ひさしぶりに「親鸞会ブログポータル」を見て、更新順で一番上にあった「親鸞会.NET(親鸞会Information)」を見ました。


・・・まあ、タイミングが悪かった、と思うことにしましょうか。去年の8/7から「「食事宅配事業(北陸)」メニュー」が続いてます。正直なところ、「親鸞会.NET」の看板は下ろして「「食事宅配事業(北陸)」メニュー」にした方がいいんじゃないかと思いました。



話はずれましたけど、私がこうしてしょうもないと思われるかもしれないブログをちまちま書いていますのも、やはり冒頭の思いがあるからです。


私は、その方が弥陀の本願を喜べるのであれば、親鸞会であっても無くてもどっちでもいい、と思っています。むしろ、弥陀の本願の前に親鸞会という存在はどうでもいいと思っています。


私の立場も思うところも、理解される方はあまり無いかもしれませんが、それはそれとしてご縁のある方と共に、弥陀の本願を喜びたいとの思いはあります。


ブログを開いた当初、実は、「こんなブログを開いて、親鸞会は何も言ってこないのか」と心配して下さった方が何人かありました。また、最近も、「最近本音を書いているのでそのうち親鸞会から沙汰があるのでは無いか」と心配して下さった方もあります。


実際どうだかわかりませんが、私が思うところ、親鸞会はすでに私のことは相手にしていないと思います。もはやいっても無駄だと思われているかもしれません。「勝手にどうぞ」ということなのだろうと、こっちは勝手に思っています。



親鸞会の活動に一生懸命ついていく、ということなら、親鸞会のHPなどをよめば良いと思います。とにかく親鸞会の教義的な部分を徹底的に検証したい、ということでしたら、何人もの方が書かれている教義系のブログをよめば良いと思います。

それぞれ納得できるけど、なんとなく自分とは感覚的に合わないとか、あるいは、単純に親鸞会の会員でいながらこんなことをやっている人間に興味があるとか、教義的なことに詳しくない人間と弥陀の本願の話をしてみたいとか、

いろいろなところで興味を持たれて、もし個人的なやりとりをしてみたい、といわれる方がありましたら、「ウエルカム」です。右上のフォームよりメッセージをいただければ、私宛に届きます。

私はメールを書くのが遅いので、返信に時間は掛かりますけど、それでもよろしければ、それもご縁なのだと思います。

ちなみに、浄土真宗の教義については詳しくありませんので、そういうことをお聞きになりたいなら、ほかの詳しい方に聞かれた方が良いと思います。


今日はいつも以上に殴り書きみたいになってしまったので、乱文失礼しました。

(今日は短いです)


そういえば随分前に、親鸞会館で執り行われる予定の、親鸞聖人降誕会の日程が発表されました。


 5月18日(土)、19日(日)


会員の皆さんには既に案内されているかと思いますが、会員さんでない方で参詣を希望される方があれば、お近くの会員さんもしくは親鸞会館にでも問い合わせになれば、喜んで案内してくれると思います。




全国各地で講演会が行われていた頃と比較すると、今は親鸞会館で固定されており、「通りすがりにちょっと興味がわいたから参詣しよう」という方は多くないと思いますが、現在は名札の着用が必要です。ですから、「通りすがりにちょっと」というご縁の方は参詣が難しくなりましたね。 

今日は、二千畳講演の日でした。私はご縁がありませんでした。


先回、「すべての人のすがた」の絵を描きました。この絵は五重の義の話の時に初めて出てきました。 このときは、「滝におちること=死ぬこと」という話でした。

ところが、今回の初聞法会でのお話では、「滝におちる=死ぬ」とすると、話が明らかにおかしくなります。コメントにあったように、「滝におちる=地獄に墜ちる」という意味であろうと推測されますが、明確にそのような話を聞いた記憶はありません。


それでは、日が経ってしまっているので曖昧な部分も多いのですが、続きです。
いつもながら、「このように私は聞いた」というメモです。
ちょっと乱雑になってしまっているかもしれません。すいません。


(続きから)


正信偈の続きには七高僧のことが書かれている。
釈尊から親鸞聖人まで、阿弥陀仏の本願を正しく伝えられた七人の方。
今回は、善導大師について書かれている。
 

「善導独明仏正意  矜哀定散与逆悪 光明名号顕因縁」
これで一区切り。


”善導独り、仏の正意に明らかであった”⇒”仏の正意を明らかにされた”
善導大師は自分が明らかであった 、ということでなく、徹底的に仏の正意を明らかにされた、ということ。

 
唐の時代は、仏教の全盛期。たくさんの僧侶がいた。
僧の仕事は仏の正意を明らかにすること。だからこそ恵まれた生活ができる。

仏の正意=釈迦の本心、釈迦の教えられたこと 
たくさんの僧侶だけでなく、一宗一派を開いたような人間でさえ仏の正意を知らなかったと仰っている。
善導独りだった、これは大変なこと。


「矜哀定散与逆悪」

定散=定善の機(心を静めて善のできる人)と散善の機(心散り乱れたまま善をする人)

”心を静めて毎日おつとめをしようと勤めていると、どんどん集中できない自分が知らされる”という手紙をもらった。こうでなければならない。

逆悪=五逆と十悪
 
定散と逆悪ですべての人


(午後後半)

矜哀=かわいそうに思われて
どんな人も、この道を進んで後生の一大事を解決して絶対の幸福になれる、と教えられた。


どうして、どんな人も阿弥陀仏の約束通りに救われるのか。
光明と名号の因縁のよるのだ、ということを明らかにされた。

どんなものも、因と縁がそろわないと結果が現れない。

因=名号    果=信心決定
縁=光明 


たとえると、

因=もみだね       果=コメ
縁=水、日光、土・・・ 


阿弥陀仏が私たちを助けるために作られた大船、大悲の願船が南無阿弥陀仏の六字名号。
南無阿弥陀仏は阿弥陀仏の本願によって作られた。

 
親鸞聖人は、「本願名号正定業」とおっしゃっている。
本願によってできたのが名号だから、どんな人でも滝壺に落ちる船から極楽往きの船に乗せてくださる。

蓮如上人は、
「それ南無阿弥陀仏と申す文字は、その数わずかに六字なれば、さのみ功能のあるべきともおぼえざるに、この六字の名号のうちには無上甚深の功徳利益の広大なること、さらにそのきわまりなきものなり」
「一切の聖教というも、ただ南無阿弥陀仏の六字を信ぜしめんがためなり」

この南無阿弥陀仏を与えようとしてくださっている。


阿弥陀仏はこの名号を十劫の昔に完成して下さっている。
なのになぜ、未だに私たちは後生の一大事を解決できていないのか。

因は既にできているが、縁が無いから。


光明=阿弥陀仏のお力。
   =遍照の光明(機をととのえてくださる)と摂取の光明(南無阿弥陀仏の宝を頂く)

阿弥陀仏がこの道を育てて下さる。私の心をととのえて、南無阿弥陀仏の宝を受け取れるまで育てて下さる。 
因も縁も阿弥陀仏のお力だから他力。だからどんな人でも助かる。


今日、ここへ来たのは遍照の光明のはたらきによって。
それが光明名号の因縁だったと知らされるのが一念、

信心決定したらどうなるのか、どこがどう変わるのか。
それをこの後教えられている。


(おわり)

「同じ」と「一つ」の話題について(?)コメントが少しのびています。特に議論をするとか、これが正しいこれが間違いとか、そういうつもりは(少なくとも私は)みじんも無く、だからこそ「味わわれる」という表現を遣ったわけです。私の性格や感情・言動、知識や経験とは全く関係なく弥陀から賜る信心は異なること無く、また、一つとも同じともいわれる他力の信心を頂いても、それぞれの方の性格や感情・言動等が異なることはまた自然なことでしょう。コメ返しが遅くなってしまって失礼しています。明日以降にお返事できればと思います。(すいませんが金曜日もほぼ午前様確定です)


あ、ちなみに、私がふつうの人様から見たら変に思われることは十二分に承知しています。ところが、私が思っていた以上にこういう立場には需要があるようです。

 
メールを頂いておりながら、まだ私からお返事ができていない方が何名かいらっしゃいます。こちらもお待たせして失礼しております。今しばらくお待ち頂ければと思います。


さて、しばらくやっていなかったのですが、コメントやメール等で何名かの方からご要望がありましたので、簡単ではありますが久々にこれを書きたいと思います。


これも毎度のお断りですが、あくまで私の記録を元にしての「こういう話を聞いた」という内容です。 
なお、日が経ってしまっているので、正直なところ話の前後関係がメモからはさっぱり分からないところもあります。ご承知おき下さい。


初聞法会でのお話は、例月の正信偈のお話ですので、午前の前半は正信偈について、最初の二行について、弥陀と釈迦の関係について、同じことを二度書かれているということについて、の話があって、最後に


・阿弥陀仏はどんな本願を建てられたか?これが分からねば、何が救われたのか分からない。
⇒後生の一大事を解決し、絶対の幸福に助ける、というお約束


とあって、後半にいきました。午前前半は簡単にまとめます。


なお、最近のご法話や講演会では、「すべての人間の姿」として、「滝壺に向かっている川を進んでいる船」の絵が出されて説明されます(参考までに、最後に描いておきました)。このたとえ話も色々と思うところはあるのですが、とりあえずそのことを念頭に置かれてご覧下さい。この話が成立していることが前提で話が進んでいきます。


<午前後半>

・阿弥陀仏の約束されている「後生の一大事を解決する」の「後生の一大事」とは?
⇒自覚しようとしなかろうと、全ての人は滝壺に向かって進んでいることを感じている。
 みんな滝壺に向かって進んでいる。これを後生の一大事という。

 後生=後世・来世。私たちは後世に向かって生きている


・船に乗っている人にとって最も大切なのは船の行き先、後生。 
 行き先が滝壺だったら、暗い。 
 平清盛も、天下を取っても満足できなかったと言っていた(※註:大河ドラマのシーンのようです)
 秀吉も同じ。
 天下を取ったと言っても、船の中のこと。安心も満足も無い
 だから、阿弥陀仏は本願を建てられた。


・親鸞聖人「難思の弘誓は難度海を度する大船~」
 難思の弘誓=阿弥陀仏の本願
 難度海=船に乗っている川(※上記たとえ話のこと)=満足できない苦しみ悩み
 阿弥陀仏は、苦しみ悩みの絶えない世界を渡す大きな船を作って下された

 この船(上記たとえ話の船)は、必ず滝壺に落ちる。阿弥陀仏が用意された船に私たちが乗り換える。

・乗り換えられたことを、「大悲の願船に乗じて~」
 今日、ここ(二千畳)に来た目的は、大悲の願船に乗り換えること
 乗り換える場所はこの二千畳

  全人類は悲劇の滝壺に向かっている、だから早く大悲の願船に乗れと教えられたのが親鸞聖人
 阿弥陀仏に救われた、大悲の願船に乗って救われた、と仰っている。


・では、乗り換えたらどうなるか。「光明の広海に浮かんだ」と仰っている。
 浮かんだと言うことは沈んでいたということ。
 親鸞聖人が沈んでいた、というのは、あの船(※たとえ話の船)に乗っていた時


・釈迦に救われたのでは無い。不可思議光の阿弥陀仏に救われた。
 善知識の元祖が釈迦。親鸞聖人は恩徳讃に、まず阿弥陀仏のご恩、そして師主知識のご恩
 釈迦の結論=一向専念無量寿仏、阿弥陀仏一つに向かえ
 

・ 大悲の願船に乗り換えたらどうなったか。
 光り輝く明るい海、人間に生まれて良かったという風が静かに吹いている
 過去にまいた悪い種まきの結果が出るが、それが転じ変わる
 
 親鸞聖人が大悲の願船に乗られたのは29歳の時。その後も大変なことが色々あった。
 一番大変だったのは善鸞のこと。阿弥陀仏の本願ねじ曲げた善鸞を勘当した。

 「至徳の風静に 衆禍の波転じ」たのが絶対の幸福になったこと


<午後前半>
・「帰命無量寿如来 南無不可思議光」
 後生の一大事を助けるという阿弥陀仏の本願 
 滝壺に落ちないようにする=後生の一大事を解決する 本願を建てられた
 滝壺でなく極楽に向かう大船、この大船に乗って絶対の幸福になったご自身のことを仰った


・親鸞聖人は阿弥陀仏の本願のことを「摂取不捨の真言、超世希有の正法」と仰っている。
 絶対に見捨てない本願
 世の中を超えて二つとない本願

・「誠なるかなや」=大悲の願船に乗った時のこと。時間が掛からない=聞即信の一念
 聞いた一念で大悲の願船に乗せて頂く


・二千畳はあの船から大悲の願船に乗り移るためのもの
 政治経済科学医学等もそのために存在する
 人間の営み全てがあの一念に向かっている
 殆どの人は知らない。今日、ここに来ている人は全人類の代表者


・では、どうしたらここ(一念)まで進ませて頂けるのか
 親鸞聖人はこの道を進まれて、誠なるかなやと仰っている。

 「聞思して遅慮することなかれ」とおっしゃっている。聞思=阿弥陀仏の本願を聞け


・親鸞聖人がまことだったと仰るのは、阿弥陀仏の本願以外にない
 「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は万のこと皆もって空事、たわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」
 すべてのことにまことはない、ただ念仏=阿弥陀仏の本願のみぞまこと、と仰っている。
 

・では、どうして阿弥陀仏の本願まことまで進ませて頂いたのか、がこのあとの正信偈に書かれている。


(つづく)


※参考:最近よく出される「全ての人間のすがた」の絵(イメージ)
 赤字はあさ川の補足

takitubo

私事ですが、今日は会社で試験でした。3連休はそのため勉強をしていた、ということになっています。最近は更新頻度が少なくてすいません。意外に親鸞会情報の需要が大きいようです。コメントの他、何通かメールやメッセージ等も頂きました。ちなみに、私がここに書くのは親鸞会の会員さんなら誰でも知っているような情報がほとんどです。重要情報を知る立場にはありませんから当然ですけれども。


ちなみに、今年の年頭所感は、最近では異例かなあと思ったのですが、「ご著書」からの引用が全くありませんでした。


さて、1/15号の顕正新聞の1面のタイトルは 「『ひらく』23万部 怒濤の光輪 正統・異端を決する年に」 です。
特段珍しくないような気もしますけれども、親鸞会の中では「『歎異抄』の解説書が『ひらく』以降は全く出なくなった」ことになっています。親鸞会55周年の今年は、『ひらく』発刊5周年でもありますので、「いよいよ、正統と異端が決する年」「自称・正統派”” が異端に転落する年」と言われてます。というか何度がそういう話を聞きました。

ところで、毎度恒例の「[真実開顕へ刻む時]」には、「解説書が、出なくなった」とあるのに、今回の1面記事の本文では「反論書がない」となっています。解説書も反論書も同じ意味で使ってるのでしょうが、わざわざ使い分けている理由はよく分かりません。
 


すいません、またつぶやいてしまいました。


数日前に、このような味わい深い問いかけを頂きました。


ところで親鸞会の言う「信心同異の諍論」は一般的には「信心一異の諍論」と呼ばれております。
法然聖人も「同じ」とは仰らずに「一つ」と仰っています。
「同じ」も「一つ」も同じ事だ、と思われますか?


 
そして、このようにお答えしました。


よくよく味わいますと、「”同じ”と”一つ”は同じことではない」と味わわれますね。この問いかけによって、今回の話のことがより深く味わわれます。


 
もっと詳しく、なぜそのように言えるのか、について書いても良かったのですが、私は味わい深い問いかけだと思いましたので、皆さんにも味わって頂きたいと思いまして、私はあまり詳しく言いませんでした。なお、私がここで、「今回の話のこと」と言ったのは、この記事のことです。
そして、試験が終わった後にでも話題に出そうと、こっそり絵を描いていたのですが、気がついたら、その後この件について質問が出ていて、すでに答えられていました。


同じと一つはどう違って、どう味わえるのですか?

「同じ」と聞けば比較した結果と受け止めてしまうと思います。親鸞会で喩えで出される一万円札と財布の話は、他人と比較しています。
信心とは仏心です。
南無阿弥陀仏を頂くという事です。
比較するものではありません。
また、同じと聞けば「何かしら物を頂く」という感覚になってしまいます。
喩えば太陽光とすれば、全ての人に平等に降り注ぎます。
太陽光は同じというよりも一つと言った方がわかりやすいと思います。
阿弥陀仏の光明は太陽光のごとく全ての人に平等に降り注ぎます。
また「同じ」と聞けば信心を獲た人は同じ心になると思ってしまいます。
つまり、信心の頂き様までも同じになると思ってしまいます。
「信心を獲たならば〇〇という心が出る筈だ」と決め付けてしまいます。
だから「同じ」と言われず「一つ」と言われた、と私は了解しています。



私がこの問いかけについて詳しく書いたとしても、ここで書いて頂いたような内容をかなり不十分な内容にして書き込むくらいのような気がしました。描いた絵をここに貼ると、せっかく説明頂いた内容がまた訳分からなくなるかもしれないと思いつつも、せっかく描いたので貼り付けてしまいます。

どうもうまく貼り付けられないので、下にまとめて貼り付けます。

上の絵が「同じ」で、下の絵が「一つ」です。訳が分からなくなってしまったらすいません。


ところで、下の「一つ」の絵で矢印が上から下に向かっていますが、ひょっとしたら今回の話題で言ったら、下から上の矢印の方が分かりやすいかなあとだいぶ考えてしまいました。考えたあげく、上から下の矢印にしました。


onaji
hitotu




昨日から今日に掛けて、先週にメッセージを頂いた皆さんにお返事を差し上げました。遅くなりましてすいません。届いていなかったら、お知らせ頂ければと思います。


6日は富山の親鸞会館で正信偈のご法話でした。その帰りに割賦が一年以上残っている携帯電話を無くすわ車は壊れるわということで、近年に無いスタートダッシュを切りましたので、きっと今年はいい年になりそうだと一人で思っています。すべては自分の種まきの結果ですね。


需要があるのかよく分かりませんが、しばらく続けていた「ご法話の内容」を最近は控えています。 あまり書いても仕方ないかな、と最近ふと思ったからです。需要があるようでしたら、私がご縁のあったときに限りますが、考えようと思います。



さて、私事ですが、最近 「ITストラテジスト」の合格証が届きました。あまり知られていない、私に似合いそうなマイナーな資格です。


昨年末に合格発表がありましたので、すでに「合格」らしいということは分かっていたのですが、それでも合格証が手元に届くまでは、本当かしらんという思いが取れませんでした。というのも、勉強をやる気が起こらずグダグダだったからです。受験票の写真は前日に思い出して慌てて貼って、時計は会場に持って行き忘れ、といった具合です。こんなことを言うと、一生懸命勉強した方に怒られそうですが。 


何はともあれ、合格証が手元に届いたので合格が明らかとなったのでした。


ここで、なんとなくこの先の展開が読めたかと思います。



最近、ひっそりとメールをやりとりしている中で、思ったことがありました。


「信心を頂いたらハッキリするのか」


こういうことを聞かれました。
私よりも教えに詳しい方はいっぱいいらっしゃると思うのですが、どうしたことか私に(も?)その質問が来ました。


どういうお気持ちでお尋ねになったのか、察するしかありませんが、

仮に「ハッキリする」のであれば、
「自分はハッキリしている。だから信心決定している」 
「自分はハッキリしていない、だから信心決定していない」

仮にハッキリしないのであれば、
「自分はハッキリしている。⇒?」
「自分はハッキリしていない。だけど信心決定しているかもしれない」 


とでもなるのでしょうか。どちらにしても、助かったという証拠がほしい、安心したい、ということなのかな、と思ったのでした。 


そういえば、親鸞会の本で「ハッキリしなければ安心できない」と書いてあるのを読んだような記憶があります。


これは分かりやすい話ですね。
さっきの私の話で言うと、「合格証が手元に来てハッキリしないと安心できない」ということと似ている気がします。


以前にご紹介した中で、『蓮如上人御一代記聞書』にある中で蓮如上人は、

 「心得たと思ふは心得ぬなり、心得ぬと思ふはこゝろえたるなり。弥陀の御たすけあるべきことのたふとさよと思ふが心得たるなり。少も心得たると思ふことはあるまじきことなりと仰られ侯」

と仰っています。 


ここで、「心得たと思う」というのは「心得ぬなり」、と仰っています。
「自分が救われた証拠があるから間違いない」という思いを「心得た」、とでもいわれているのでしょうか。


よく、信心を頂くとか賜るとか言われますが、少なくとも何か物をもらってというような言われ方をしているところを、私は知りません。


先の話で言いますと、

「合格証をもらわないと安心できない」

というのと、弥陀が助けるということを聞いても、

「実際に助けるという証拠をもらわないと安心できない」

と言っているのとは同じように思います。で、何が証拠になるかということで釜底にたたき落とされたとか光が差したとか、そんなものが出てきたらもはやただのトランス体験と変わりません。今そんなことを言う人は特にいないでしょうけど。
 

自分が証拠を握らないと安心できないのだったら、人間世界と変わりませんね。
 
合格したという合格証、
金を返すという借用書、 
入社したら会社のいうことを聞きますという誓約書、
あれを買いますという契約書、
言った言わないの問題から会話の録音をする人もあるようですが・・・
 
 
弥陀の本願まこと、ということは、私がまことだと確認したからまことなのではなくて、まことだからまことなのです。というと訳分からないかもしれませんが、別に私が確認しようとしなかろうとまことなのです。


信心を頂く、といっても、何かを受け取って間違いないと確認する、自分の側に確かな証拠が残る、というのとは違うのだということを、さっきの蓮如上人のお言葉は表されていると味わわれます。

 
なんか中途半端な気がしますが、今日はここまでにしたいと思います。

このブログを始めてから、7ヶ月あまりが経ちました。記事の数も120件を超えまして、正直なところ、以前に何を書いたのかよく覚えていないこともあります。


たくさんの方に読んで頂いておりますが、必ずしもすべての方が全部お読みになっているわけでは無いと思います。最近読み始められた方、あるいはあまり時間が無くて全部は読めないよといわれる方など、いろいろいらっしゃるかと思います。


少しでも読みやすいように、ある程度カテゴリ分けをしてはいたのですが、そのときそのときで決めていたので、今見返すとおかしいところが色々見つかりました。どう仕分けるのが分かりやすく伝わるのか分かりませんけれども、とりあえず今日できる範囲でカテゴリを整理して、一部記事についてはカテゴリ分けを見直しました。


正直なところ、カテゴリの境界が不透明なところもありますが、おおよそ以下の基準で振り分けました。


・「弥陀の本願について思うこと」・・・あさ川が弥陀の本願をどのように味わっているかについて
・「あさ川について」・・・あさ川のことについてと、あさ川が過去に書いた文章について
・「所感」・・・あさ川が弥陀の本願などについて感ずるところ
・「ご法話や座談会」・・・親鸞会で行われているご法話や座談会の内容、またはその内容について思ったこと
・「雑感」・・・あさ川が親鸞会についてあれこれ思うこと 
・「回想」・・・おもにあさ川の学生時代にあったことを振り返って
・「親鸞会のできごと」・・・ご法話等以外の親鸞会のトピックについてとその内容について思ったこと
・「親鸞会じゃ無い話」・・・親鸞会とあまり関係の無い話


このブログは、浄土真宗教義を扱っているわけではありませんし、親鸞会の特ダネを扱っているわけでもありません。そういう意味では立ち位置が中途半端ではありますけれども、例えば


・あさ川がどういう人間か知りたい⇒「あさ川について」
・あさ川が弥陀の本願をどう味わっているのか知りたい⇒「弥陀の本願について思うこと」(と「所感」)
・親鸞会でどういう話がされているか知りたい⇒「ご法話や座談会」
・最近の親鸞会で使われている話題などに興味がある⇒「親鸞会のできごと」


といった形でご覧頂くのも良いかと思います。
とはいえ、もともと体系立てて書いているわけではありませんので、情報量としては心許なく思われるかもしれません。 

また変えるかもしれませんが、今のところは以上の振り分けでやっていきたいと思います。



ご意見がございましたら、お知らせ頂けると有り難いです。

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