あさ川進の、宗教と私

浄土真宗親鸞会に所属しながらアウトサイダーだった私(現在は会員でなくなりました)が、宗教(浄土真宗親鸞会)との付き合い方を考えつつ書いている更新頻度が低いブログ(この説明も暫定です)リンクフリーです。なお、投稿文を受け付けております。「【投稿文】」と書かれている記事は、頂いた投稿文です。

2013年05月

個人的な事情で、今日は少しだけです。


山も山さんのブログの「高森顕徹会長(浄土真宗親鸞会)のよく言う「聞思して遅慮するな、モタモタするな」について考える」を読みました。


「聞思して遅慮するな、モタモタするな」と聞きまして、そのたびに私は「ああ、早く弥陀の本願聞けよということだな」と一人思っていました。一方で、この記事にあったような


「『モタモタするな』といわれたので、急がなければならないのです。」
「『モタモタするな』といわれたので、毎月富山に行かねばならないのです。」
「『モタモタするな』といわれたので、朗読版歎異抄をひらくのラジオ放送の為のお布施の用紙を出さなければならないのです。」
「『モタモタするな』といわれたので、早く地元に会館を建てねばならないのです。」


というように思うのも分かります。


たぶん、「早く弥陀の本願を聞けよ」というようにも聞かれているのだとは思うのですが、「モタモタするな」と聞いて、それが弥陀の本願を聞くより先に富山への参詣だったり、お布施だったりに脳内変換されているのだと思います。


なんでかな、と考えますと、皆さんも皆さんで思われるところはあると思います。


私は、「弥陀の本願を聞けとか仏願の生起本末を聞けとかいわれてもピンとこないが、それは親鸞会で教えられていることを忠実に実行することで分かるようになる」という思いが挟まっているからではないかと思います。


矢印で表すと、
「富山へ参詣」「お布施」「活動」等→(繰り返し)→「仏願の生起本末を聞いて疑心あることなしの『聞』」

 
よくよく考えますと、「弥陀の本願を聞く」より先に「どうすればいいのか」が先に来てしまっているわけですから、


「聞思して遅慮することなかれ」⇒「本願をそのまま聞きなさい、あれこれ計らってはなりません」


とすると、思い切り計らいが入るわけですね。 自力とでも言いましょうか。
 

1回飛ばしで、降誕会の日曜日の話の内容です。いつものように、「私はこう聞いた」というメモですけれども、以前に書いたとおり、「何を聞くのか」の話は終わりの10分くらいでまとめて出てきました。


こうやって振り返ってみると、土曜の午前午後、日曜日と、生死の苦海の話が繰り返されていることが分かります。


・・・

親鸞聖人はどういうことを教えていかれたか。

「生死の苦海ほとりなし ひさしく沈めるわれらをば 弥陀弘誓のふねのみぞ のせてかならずわたしける」


全人類は生死の苦海ほとりなし、これは現在の人だけでなく昔の人もこれからの人も、
日本だけでなくいずこの人も、皆生死の苦海におぼれ苦しんでいる。 
苦しむために生きているのか。
 

お釈迦さまは
「人身受け難し、今已に受く 仏法聞き難し、今已に聞く」
人間に生まれてきたことは有り難いこと、ずっと続く生命の歓喜の身になるために人間に生まれてきたのだ
仏法聞かなければその身になれないから、仏法聞き難しと言われる。
 
そうでなければ、川に浮かぶ水泡のようなものになってしまう。
全人類の救われる道はあるのか、あると教えられたのが親鸞聖人。
生死の苦海に浮かぶ丸太や板きれに裏切られ通しの私たち渡す大船が、すでに作られてある。


仏教の結論、「一向専念無量寿仏」
阿弥陀仏だけをただ信じよと言われたお釈迦様のお言葉。
その釈迦の教えを教えられたのが親鸞聖人。

親鸞聖人があまりにも、阿弥陀仏一つに向け、他の仏に向いていては助からんぞ、
阿弥陀仏以外助ける力は無いのだから、と強く言われたので一向宗と世間の人は言った。
 

阿弥陀仏は、先の見えない世界に住まいしているすべての人を絶対の幸福にしてやりたい、
これが阿弥陀仏の願い、阿弥陀仏の本願。
誰もこのことを知らずに一生を終わるから、親鸞聖人はまず大船のあることを教えられた。
次に、どうすればその船に乗せて頂けるか。
弥陀弘誓の船だけが、生死の苦海の私たちを助けることができる。
そのふねに阿弥陀仏が乗せて下さる。
”乗れ”と言っても乗れない。だから、乗せる。
船を作られたのも阿弥陀仏、乗せて下さるのも阿弥陀仏。かならず。


どうすれば乗せて頂けるか。聴聞にきわまる。
 
「至りて堅きは石なり、至りて軟かなるは水なり、水よく石を穿つ。「心源もし徹しなば菩提の覚道何事か成ぜざらん」といえる古き詞あり。いかに不信なりとも聴聞を心に入れて申さば、御慈悲にて候間、信を獲べきなり。只仏法は聴聞に極まることなり」 

阿弥陀仏があの大船に乗せてくださるのは一念。何億分の一秒より短い。
この一念が人生の目的完成。
今の今まで生死の苦海で苦しんでいた者を、パッと乗せて下さる。そのための場所が二千畳。
あの船に乗っていない人でも、聴聞を心に入れて申さば乗せて頂ける、ただ仏法は聴聞にきわまるから
聞く場所が必要。


親鸞聖人は、
「誠なるかなや摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ」

阿弥陀仏の大船に乗られて、一念で助けると言われた阿弥陀仏の仰ったことはまことだった、と言われている。
それまでは疑っている。乗ったら本当だった、と分かる。

聞思して遅慮するな、モタモタするな、聴聞の一本道と教えられている。


では、何を聞くのか。
阿弥陀仏の本願の、生起・本・末。これ以外聞くことはない。

「 「聞」と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心有ること無し。これを「聞」と曰うなり」

阿弥陀仏が本願を建てられた、生起・本・末は何か。この三つを聞けと仰っている。


阿弥陀仏が大船を作られた生起、目的は何か。
ほとりのない生死の苦海に苦しんでいる全人類を救うため。

本は大船。弥陀弘誓のふね。
生死の苦海に薬無比とを救うためにふねを作られた。これが本。

では、どうすれば、どのように乗せて下さるのか。これが末。
どのように乗せてくださるか。これを方便という。

この生起本末に疑い晴れた時が、大船に乗せて頂いた時。
阿弥陀仏の本願の疑い晴れるまでよく聞いて、聞かなければ疑い晴れないから、
聞思して遅慮することなかれ、といわれている。 

先日書きましたとおり、こないだの降誕会ではビデオ上映がありました。そういえば、記念行事以外でビデオ上映があるというのも珍しい気もしますが、私は時間調整の意味合いもあるのかな、と勝手に思ってました。


今日は、そのビデオの内容にもありました、『歎異抄をひらく』の「反論書」が出ない件についてです。
これまた、私が勝手に語るだけですが。 



結論から言いますと、タイトルに書いたとおりのことを、私は思ってます。つまり、いつまで経っても「反論書」は出ない、ということです。そのように私が思う理由を以下に挙げます。皆さんにとって、特に目新しい理由はないかと思いますけれども。



・出版社に持ち込んでも相手にされない(と思う)から

自前の出版社でも持たない限りは、どこかの出版社に企画書を持ち込むところから、出版の話は始まるそうです。出版セミナーでそんなことを聞きました。

そうすると、おそらく企画書には、

「20万部以上売れている『歎異抄をひらく』の誤りに反論する。読者の1割が手に取ったとして、2万部以上の売り上げが見込める」 

などと書くことになるでしょう。

皆さんが出版社の担当だったら、こんな企画書を読まれて、どうお考えになるでしょうか。

「1万年堂の本は親鸞会の会員が一生懸命買っている」と思われてしまっていたら、「(売り上げの多くを占める)信者がそんな本を買うわけ無いだろう」という反応が返ってくるような気がします。




・出版しても、多分売れない(と思う)から

歎異抄が仏教書の中では非常に有名だとしても、現在において出版されている分野から言えば相当にニッチな分野です。しかも、「『歎異抄をひらく』の反論書」となると、ニッチの中のニッチです。
1万年堂の本のように、初版の部数も相当に用意して、宣伝広告も派手にやれば認知されるのでしょうが、万一「2万部は売れる」を真に受けて出版されたとしても、普通の出版社から普通の著者の本が、初版で2万部出ることはあり得ないと思います。 いいとこ数千部でしょうが、それが全国の書店の「いい場所」に置かれるかは分かりません。というより、そんなニッチな本を「いい場所」に出すほど余裕のある書店は皆無でしょう。そうすると、自ずと売れ行きにも影響が出ます。

また、そもそもこのような「反論書(あるいは批判書)」が、オリジナルより売れたという例を私は知りません。
その昔、『買ってはいけない』という本がありました。200万部売れたそうなのですが、その批判書も出てました。私は 『「買ってはいけない」は買ってはいけない』しか知らなかったのですが、これも含めて、単品でオリジナル以上に売り上げたという話を聞きません。

仮に『ひらく』の「反論書」を出版したとして、『ひらく』の売り上げの中の何割かは会員さんのものでしょうから、反論書が20万部以上売れるとは到底思えません。
 



・結局、「反論書」が「無かったこと」になる(と思う)から
 
私の記憶によりますと、実はほんの一瞬(?)、本願寺から「反論書」が出たということになっていた時期がありました。顕正新聞に明確に出たわけではありませんが、それがいつの間にか「無かった」ことになっているのは、以前にも書いてますし、他のブログにもネタにされているとおりです。

出版すれば「出た」ことに普通はなるはずなのですが、同様にいろいろな理由で、「無かった」ことに結局はされてしまうのではないか、というわけです。

たとえば、

・本願寺の中心人物が書いてないからという理由
・本願寺から出版されてないからという理由
・内容が明確な反論になってないからという理由
・「『歎異抄をひらく』を閉じる」といったような反論書と分かるタイトルでないからという理由
・オリジナルの『歎異抄をひらく』より遙かに売れていない(=認められてない)という理由

などで、結局「出ない」ことにされてしまうのではないか、ということです。

 

およそ上記のような理由により、親鸞会は「反論書」が出ることを「待っている」としても、いつまで経ってもそのようなものは「出ない」のではないか、と思うのです。

実際、『歎異抄をひらく』に反論をブログ上にされている方はあるのですが、出版という形を取らない限りはおそらく「出てない」ことになるし、出版したとしてもおそらく「出てない」ことにされるのだろう、などと思いました。 


そんなわけで、結論は、

 『歎異抄をひらく』の「反論書」はいつまで経っても「出ない」と思います

です。 



「出た」ことになるとすれば・・・・は、無くはないと思いますが可能性としてものすごく低い気がします。

もうすぐ、開設一周年なわけですが、一周年に何を書こうかとか、それより前に「2日に1本」のペースを達成できるのか、などと一人しょうもないことを考えています。


少し間が空きましたが、降誕会の話の続き(土曜の午後)です。例によって、「私はこう聞いた」というメモですが、繰り返しやループは少し端折りましたので、なんとなくボリュームが少なくなったかも知れません。例えば丸太の話は、結構色々あったのですが、諸々の都合により割愛しました。



===


親鸞聖人の教えが分からなければ、降誕会にならない。

「生死の苦海ほとりなし ひさしくしずめるわれらをば 弥陀弘誓のふねのみぞ のせてかならずわたしける」

生死の苦海で苦しんでいる私たちを明るく楽しく渡し、極楽まで届ける、といわれている。

 
すべての人は、生まれたと同時に広く果てしない海に落とされる。
落とされたら、泳ぐより仕方ない。生まれたら、生きるより仕方がない。
周り中海の中で、どこへ向かって泳ぐのか、大事なのは方角。

親鸞聖人は、まず方角を教えられた。弥陀弘誓のふねに向かって泳げ、といわれた。
70億の人間が知らなければならないのはこのこと。
二千畳には70億人も入らないので、知らない人には教えなければならない。
 



弥陀弘誓の船、阿弥陀仏とはどんな仏か。 
無量寿仏、弥陀弘誓、難思の弘誓とも言われる。 
阿弥陀仏は十方諸仏の本師本仏。大宇宙が阿弥陀仏の舞台。



周り中、何も見えない海で泳いでいると、すがるものを探す。
丸太や板きれにすがって、休む。
丸太や板きれ=金、財産、健康、地位、名誉、妻子、邪教、迷信・・・

何かにすがらなければ生きていけない。そうやって朝から晩まで走り続けて一生を終える。

板きれや丸太はひっくり返る。私を裏切っていく、離れていく。
では、何にすがれば良いのか。裏切らないものは何か。これが全人類に問われている「なぜ生きる」ということ。 

親鸞聖人は「弥陀弘誓のふねのみ」と答えられている。
阿弥陀仏の作られた船のみ。


お釈迦様は、仏教の結論として、「一向専念無量寿仏」と教えられた。一切経はこれに収まる。 
親鸞聖人は、「一向専念の義は往生の肝腑」、一切経は一向専念無量寿仏一つ教えられたといわれている。

阿弥陀仏しか、私たちを助ける力は無いから、無量寿ぶつに一向専念せよ、阿弥陀仏一つに向け。

親鸞聖人はこれ一つ、厳しく教えられたので、「一向宗」とも言われた。
(御文章1-15)


これがお釈迦様の結論。自分で助ける力があればこのように言われない。
(御文章2-8)

大宇宙の仏方に見捨てられた私たちを助ける力があるのは阿弥陀仏だけしかない。
 

生死の苦海におぼれる私たちを助けるのには船が必要。
これが弥陀弘誓の船、難度海を度する大船。
生死の苦海を明るく楽しく渡す大船のあることと、あるところを教えられたのが、

「難思の弘誓は難度の海を度する大船」

大船のあることと、その船に乗るにはどうしたら乗せて頂けるか。
二千畳はそれ以外説かれていない。
大船に乗られるなら、ここで聞くこと。
諦めてはいけない。
大船がある、だからどんなに苦しくても自殺してはいけない。

この船は、死んでから乗るのではない。

「誠なるかなや摂取不捨の真言、超世希有の正法 、聞思して遅慮することなかれ」

大船に乗られた時の親鸞聖人のお叫び。阿弥陀仏の本願まことだった、のお叫び。

死んでから助ける弥陀の本願では無い。
この船に乗るのは、今。

では、どうすれば乗せて頂けるか。

「聞思して遅慮することなかれ」

聞思=聴聞
仏法は聴聞にきわまる。

聞く一つで大船に乗せて頂ける。その聴聞の場が二千畳。


明日は、「聞く一つ」とは何を聞くかについて。

(土曜 終わり) 

今回、といいますか今日は二千畳講演だったのですが、私はご縁がありませんでした。そもそもが降誕会の翌週ということで、今回の二千畳講演は参詣者がいつもと比べてどうなのかな、と思ったのですが、そもそもご縁の無い私がそれをいっても仕方ないことでした。


 
さて、今日の話題は「親鸞会の職員」についてです。といっても、私が見るところの「親鸞会の職員とはどういうものか」であるわけで、どこの誰が何をした、という話ではないのですが。


私が学生時代、親鸞会の職員とか学院といったものは、非常に縁が遠いといいますか、ハードルが高いもののように思ってました。親鸞会で聞いてきた話を真受けにすると、まっすぐな人は親鸞会の職員(特に講師部)を志向するのだろうな、と思いながらも、自分は全くその気にはなれなかったので、縁遠く感じたものでした。
 

実際、私の同期は関東だけでもかなりいましたが、結局のところ講師部や親友部員など親鸞会の職員になった人はごく一握りでした。

ちなみに私は、親鸞会の職員ではありませんが、なぜか夏になって「真生会富山病院のシステムエンジニア」にならないか、とお呼びが掛かりました。必要とされることにありがたさは感じつつも、すでに就職先も決めていたため、お話を伺った上で丁重にお断りしました。


私の先輩の世代ともなると、かなり「がんばっている」ような先輩でも、なかなか学院に入ることができずに力を蓄え続けていたりなどしてまして(結局講師部員になりましたが)、まあともかく学院に入るということさえもハードルが高かったように思いました。


潮目が変わったのは、「学顕クラブ」ができてからでしょうか。


最初、この「学顕クラブ」の話が出た時、事情があって講師部員を志望しているのになかなか学院に入れなかったような人が次々と手を挙げました。私にとって、「学顕クラブ」というのは、そういった「講師部員志望者のためのもの」と映ったのでした。


ところが、私の何年か後輩の時代になってくると、ずいぶんと変わっていきました。


私の時代は、親鸞会の職員を志望する人などほんの一握りだったのに、その後輩の世代ともなると、(メンバーが幹部だけだったからかも知れませんが)殆どが親鸞会の職員を志望するようになっていました。


そして、「学顕クラブ」も、大学を出て仕事のない学友部員のアルバイトのようになっていたのでした。




私はこれまで、このブログでもそうですし、オフライン上でも、「弥陀の本願はどんな人でも助ける本願だから、がんばれないような人でも諦めなくて良いのだ」というようなことを言い続けてきました。

一方で、親鸞会の職員になった後輩には、「24時間親鸞会のことを考え続けられないようなら、親鸞会の職員はやめた方が良い」などと言ってきました。


言ってることがおかしい、矛盾している、と思われるかもしれません。


本当のことを言えば、親鸞会の職員が考えるべきは浄財を出される会員さんすべてのことでありましょうし、そもそも親鸞会の職員であっても無くても、働きぶりがどうであるかも、弥陀の本願の前には関係無いことです。


ただ、私としては、上記のような経緯もありますし、そもそも会員さんの浄財で生きているような人間が、そんないい加減な心持ちで親鸞会の職員をやっているようでは、親鸞会の職員を志望されながらも叶わなかったと残念に思われている会員さんに対して失礼だと思うのです。


そうすると、普通の会社員も会社から金をもらっているから24時間会社の仕事のことを考え続けなければならないのか、と思われるかもしれません。


今までの話の流れだとそういう理屈になるのかも知れませんが、やはりただの会社員と宗教団体の職員とは違うと思います。 宗教団体の職員は、いわゆる賃金とは別のところにロイヤリティがあるからです。そうした意味で、親鸞会の職員になるということは、それだけ志が高くあるべきだ、と思うのです。



私が「24時間~」という言葉を投げつけたからなのか分かりませんが、その言葉の後姿を見なくなった後輩がありました。その言葉以外にも色々あったので、その言葉が直接の原因ではないかもしれませんが、配慮不足だったかも知れません。親鸞会でなくてもいいから、弥陀の本願のご縁にあっていれば良いのですが。


私の「24時間~」の言葉は、親鸞会の職員なら相応の志をもってほしいという私の考えと、弥陀の本願は親鸞会の職員かどうかなど関係ないということ、 この2つが混ざっているのです。


今その後輩がどこで何をしているか分かりませんが、もし叶うことなら、きちんと説明したいと思います。 

今回の降誕会は、土曜の午前と午後、日曜の午前、おのおの一時間ずつで休憩はありませんでしたので、3回に別れました。

例によって、私のメモに基づく「私はこのように聞いた」というものです。
メモの内容で変なところがあればご指摘頂ければと思います。

最近は、滝つぼの話はすっかり出なくなりました。


・・・・・・


今日は親鸞聖人降誕会。親鸞聖人は90年の生涯、どのようなことを教えられたのか。 
こんにち、親鸞聖人が世界の光、人類の光と呼ばれるのは、親鸞聖人の教えが全人類を救う教えだから。


今回の演題
「生死の苦海ほとりなし 久しく沈めるわれらをば 弥陀弘誓のふねのみぞ のせてかならずわたしける」
親鸞聖人90年の教えは、この言葉に収まる。


”生死の苦海は果てしないけれど、久しく沈んでいる私たちを、阿弥陀仏の本願の船だけが、私を乗せてくだされて極楽浄土まで渡して下さるのだ”


生死の苦海とは、どんな海か。どこにあるのか。
生死=生まれてから死ぬまで=人生

親鸞聖人は、釈迦の教え以外教えていかれなかった。 
「更に親鸞珍らしき法をも弘めず 如来の教法をわれも信じ人にも教え聞かしむるばかりなり」

その親鸞聖人は、私たちの人生を、「生死の苦海」、苦しみの海 と仰っている。
これをお釈迦様は、「人生苦なり」と、仏の悟りを開かれた最初の第一声にいわれている。

ここから仏教が説かれた。 


人間は、生まれてから死ぬまで、ずっと苦しみ続ける動物である。
ずっと苦しみ続けるのなら、何のための政治、経済、科学、医学・・・・なのか。
私たちは ”人間に生まれてきて良かった” という身になるために生きている。

そのために、
「弥陀弘誓のふねのみぞ のせてかならずわたしける」
といわれ、何のための政治・経済・科学・医学・・・であるのかを教えられた。



お釈迦様は「苦しみ」を「四苦」と教えられた。
四苦=生苦、老苦、病苦、死苦

生苦=生きていく苦しみ
子供も学生も、傍から見て苦しく無さそうな人でも苦しんでいる。
有名な人、利口な人でも苦しんでいる。
お釈迦様は、王様の子供として生まれてきたから、何の不自由もなく満たされていた。
それでも、人生は苦しい、と仰った。

老苦=いつまでも若くはいられない、老いていく苦しみ
小野小町は 「面影の 変わらで年の 積もれかし たとえ命の 限りあるとも」 と歌った。

病苦=病気の苦しみ
人間は病の入れ物といわれている。
病の苦しみは甲乙付けがたいから「丙」と書かれている。
 
死苦=死んでいかなければならない苦しみ
病気になったら病院へ行くのは、死を恐れているから。
アメリカの女優は、乳房を切ってまで死から何とか逃れようとした。
「上は大聖釈迦牟尼世尊より下は提婆に至るまで、逃れがたきは無常」といわれるように、誰も死から逃れられない。

どんなに楽しく過ごしていても、最後にぶちこわす、次から次へと苦しみがやってくる。
まさに生死の苦海ほとりなし。


この人生苦しみの海から、大きな船に乗せて楽しい航海をして、死ねば極楽浄土に連れて行く船がある。
そんなことは誰も教えられなかった。


苦海に沈む私たちを乗せて下さる船がある、という親鸞聖人のお言葉が
「難思の弘誓は難度の海を度する大船」

難度の海=渡るのが難しい、生死の苦海。
難度海を明るく楽しく渡す大船、弥陀弘誓の船はものすごく大きいから、どんな人でも乗れる。
だから諦めてはいけない。

この船を作られたのが阿弥陀仏という仏。
阿弥陀仏は本師本仏、大宇宙の仏の先生。釈迦は阿弥陀仏の弟子だと仰っている。 

降誕会の詳しい話の内容(私が「聞いた」内容)も、機会があればまとめたいとは思っていますが、現在はまだちょっとできてません。今回は参詣された方も多かったと思いますので、「確かにそう聞いた」とか、「いや、そんな意味の話ではなかった」などということも伺えるといいかな、とは思います。


今回のお話で、「仏願の生起本末」についていろいろコメントを頂きました、ありがとうございます。

いただいたコメントを振り返ってコメ返しをしながら少し考えてました。

「末」が「どのように弥陀がそのふねにのせてくださるのか、方便」というように今回の話を私は聞きました。

明確に書いてませんでしたが、「弥陀弘誓のふね」は「極楽までゆくふね」だという話も聞きました。


なんだかんだいって、「どうしたら助かるのか」が重要であり「信心決定」(今回この言葉は出なかったと記憶してますが)がゴールだ、ということなのかな、と思いました。親鸞会で熱心な方とアンチな方と、その辺の隔たりが大きいのかな、とも思いました。上手に言葉になりませんが。 

二日間の「親鸞聖人降誕会」も終わりまして、帰ってきました。


>明日は「聞く一つ、とは何を聞くのか」ということだそうです。


と、昨日(一昨日)に書いたのですが、「仏願の生起本末を聞く」という話は11時50分頃に出てきました。

生起: ほとりのない生死の苦海に苦しんでいる全人類を救うため
本: 大船、弥陀弘誓のふねを作られた
末: どのようにそのふねにのせてくださるか、方便

この阿弥陀仏の本願の生起本末に疑い晴れるところまでよく聞きなさいよ、というお話を聞きました。 



今回の弁論大会は若々しい感じがしました。



ところで、私が最近、蓮如上人のこのお言葉の話をしていることについて、「あさ川は、十劫安心を勧めている」などという理解をされる方はないと思いますけれども、一応もう少し言葉を継いでおきます。



私がこのことを書いたのは、あくまで「弥陀のお力は遍く届いているのだから、自分で勝手に弥陀の本願を諦めることはいらないのだ」ということを表すためでした。弥陀の本願は「只今お前を助ける」という本願ですが、その本願を疑って跳ね返してしまっていては、さすがに本願に相応しません。日向の花は早く咲く、ならば日向に花が置かれれば一番良いのでしょうが、日陰から動けないとしても諦めることはないのです。


こんばんはこの辺で。

先日のエントリで、蓮如上人のこのお言葉を出しました。


陽気・陰気とてあり。されば、陽気をうくる花は、はやくひらくなり。陰気とて、日陰の花は、おそくさくなり。かように、宿善も遅速あり。されば、已今当の往生あり。弥陀の光明にあいて、はやくひらくる人もあり。遅くひらくる人もあり。とにかくに、信・不信、ともに、仏法を心に入れて、聴聞申すべきなりと云々  已今当の事、前々住上人、仰せられ候うと云々  「きのうあらわす人もあり。きょうあらわす人もあり。あすあらわす人もあり」と、仰せられしと云々
(蓮如上人御一代記聞書 309) 


このお言葉に行き着くまでの話の流れからして、「どうしてこのお言葉が出てくるのか」と奇異に思われる方もあるだろうな、と思いながらも書きました。


親鸞会でのお話を聞いていると、このお言葉は「宿善の厚い人は早く救われる、宿善の薄い人は救われるのに時間が掛かるから、早く救われるために宿善を求めなければならない」というような理解になるのかな、と思ったからです。そういう意味でこのお言葉を使うと、まったく意味がつながらないのではないかと思います。


はたして、このようなコメントを頂きました。


  • 1. そらまめ
  • 2013年05月16日 23:59
  • 時々楽しみに読んでいます。
    陽気の花がうらやましく、日陰の花の自分はもっともっと陽をあびなければならないとずっと思っていましたし、そのようにお聞きしていました。でも、日陰の花は日陰に根をおろしているので、行きたくても日向に移動することはできませんでした。日陰の花は日陰のまま、遅速はあっても必ず救ってみせるとの阿弥陀仏の御慈悲のお話でした。仏法を心に入れて聴聞すべしとのありがたいお勧めですね。

  • 2. mary
  • 2013年05月17日 23:39
  •  そらまめさんのコメント、本願がありがたくて涙が出そうになりました。本当にそのとおりですね!
     阿弥陀様は「二千畳に来た人を優先して救う」などど言われない・・「二千畳に来た人は選ばれた中の選ばれた人(阿弥陀様が選びに選んだ人)」とも言われないでしょう。
     南無阿弥陀仏は十方に轟いているのですから。老若男女善悪の人を選ばれないのですから。
    どこにいようと、何をしているときも寝ているときも働き続け護り続けて下さる南無阿弥陀仏だからこそ、日陰の花は日陰の花のまま、日向の花は日向の花のまま、業に縛られてがんじがらめの私のままを救って下さるのですね。
    「この道を進んだ先に救いがある」などという本願をねじ曲げた話はおぞましい限りです。


私としては、この蓮如上人のお言葉を、「日向や日陰、早い遅いの違いはあれど、弥陀はすべての人を救おうと力尽くされている」という程の意味で使ったのですが、どこにいてもそれぞれのご縁で救う弥陀の本願をコメント頂きました。


実は、このブログはこういった弥陀の本願を語らうご縁にもしたいと思っていましたので嬉しくなりました。コメ返しは改めてということにしますが、ひとまず。


そう考えますと、今までいろんなコメントを頂いて、それぞれの方のそれぞれの言葉に、やはり弥陀の本願を味わうご縁もあろうかと思いますので、ありがたいご縁だなと思います。

今日と明日は降誕会ということで、富山に来ております。ネットワーク環境の無いホテルのためテザリングしてますが、遅いです。そんなわけで、ありがたくコメントを頂いておりますが、恐らく戻ってからのコメ返しになろうかと思います。すいません。


ちなみに、最近のトレンドか分かりませんが、御法話は1時間×3回というのが定着しつつあるようです。そんなわけで、午前の最初はビデオ上映でした。恥ずかしながらさっそくタイトルを失念しましたが、私が理解した内容は「自称正統派(というか本願寺)は『歎異抄をひらく』に全く反論書を出さないので、もう正統と異端(親鸞会)が逆転したと言って良い」というようなものでした。ブログにて反論を行っている方がありますが、それについては完全に無視されているようです。


このビデオの内容についてはもうちょっとしっかり見ないとコメントしづらいのですがちょっと書きます。
「自称正統派」の主張は「救われてもハッキリするものではない」であると批判していたのですが、なぜか十劫安心が途中から混ざってきました。ビデオに対する私の理解がおかしいかもしれませんが、十劫安心が「救われてもハッキリしない」という信心とをごちゃまぜにして批判しているように思われました。本当にそういう話なのだろうかと思う次第ですが、突っ込みがあればお願いします。


さて、肝心の御法話の内容ですが、今回は「生死の苦海ほとりなし」のご和讃についてでした。大ざっぱに書きますと、


・親鸞聖人は世界の光=親鸞聖人の教えは全人類を救う教え
・親鸞聖人90年の教えは「生死の苦海ほとりなし ひさしくしずめるわれらをば 弥陀弘誓のふねのみぞ のせてかならずわたしける」のお言葉に収まる
・生死の苦海=人生苦なり(釈尊)
・釈尊は苦しみを四苦(生老病死)で教えられた
・この苦しみの人生の海に沈む私たちを乗せてくださる大船がある=「難思の弘誓は難度海を度する大船」
・この船は阿弥陀仏が作られた
・阿弥陀仏=本師本仏

・親鸞聖人は生死の苦海で苦しむ私たちに「弥陀弘誓のふねに向かって泳げ」と方角を教えられた
・私たちは周り中何も見えない海で、苦しいので丸太や板きれにすがる
・丸太や板きれ=金、財産、地位、名誉、妻子、邪教、迷信・・・=裏切るもの。
・何にすがれば良いか。仏教の結論=一向専念無量寿仏=阿弥陀仏一つに向け、信じよ=阿弥陀仏以外に私たちを助ける力のある仏は無い
・阿弥陀仏が私たちを助けるには船が必要=弥陀弘誓のふね=難度海を度する大船
・大船に乗るのは死んでからではない、ただいまのこと=「誠なるかなや 摂取不捨の真言、超世希有の正法」
・その大船に乗せて頂くにはどうすれば良いか、親鸞聖人は「聞思して遅慮することなかれ」、聞く一つで大船にのせて頂けると教えられた


かなり端折ってつないだため、話の言葉の通りではありませんが、ざっとこのような内容を聞きました。

明日は「聞く一つ、とは何を聞くのか」ということだそうです。


あと、当初ご縁の無い予定だった会食会で、新聞広告によってまた『なぜ生きる』の販売数が伸びている、という話がありました。最近は一ヶ月に数千冊出ている、のだそうです。そういうこともあるのですね。

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