あさ川進の、宗教と私

浄土真宗親鸞会に所属しながらアウトサイダーだった私(現在は会員でなくなりました)が、宗教(浄土真宗親鸞会)との付き合い方を考えつつ書いている更新頻度が低いブログ(この説明も暫定です)リンクフリーです。なお、投稿文を受け付けております。「【投稿文】」と書かれている記事は、頂いた投稿文です。

2013年06月

7月の大導師以上座談会は無くなったそうですが、6月(今月)の大導師以上座談会の内容について、一部メールで頂いていました。私はご縁が無かったのでどういうお話だったのかよく分からないのですが、せっかく頂いたのでご縁ということで出すことにしました。


今回は、私が手を入れると意味が変わりそうな気もしたため、あまり手を入れていません。さりとて頂いたメールのままでもよろしくないと思いましたので、一部だけ手を入れています。


ちなみに、頂いたのはおそらく内容の一部だと思います。以下の内容は、メールを頂いた方が「このように聞いた」ということを書かれたメモですので、その点はご注意下さい。


なお、メールを頂いた方とは別に、支部の方からは少しだけ、
「弥陀の本願真実によってすべての人は悪人であると見抜かれているのに、なぜ善人と悪人とがいるように教えられたのか」について、「それも弥陀の御心である」ということのお話があったと聞いております。


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阿弥陀仏が18願ですべての人を曽無一善・一生造悪とみておられるのに、善をせよと勧められるのはどうしてなのかというようなテーマ
(あさ川註:「阿弥陀仏が18願ですべての人を曽無一善・一生造悪とみておられる」という根拠として、
 「一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして、清浄の心なし。虚仮諂偽にして真実の心なし」
 のお言葉が出されたそうです)


機の深信で「罪悪生死の凡夫」「出離の縁あることなし」とはっきりする。
これと法の深信との2種があるが、大悲の願船に乗ったかのものさし。
(あさ川註:二種深信が大悲の願船に乗ったかどうかのものさし、ということだと思われます)

人間には雑毒の善しかできないので、19願で諸善をせよというのは雑毒の善をしなさいということ。
観経では九品にわけて善人と悪人がいるといわれ、70億人なら70億通りの善があるが、本当の真実は善人はいない。全人類が善人と悪人がいると思っているから、私たちの認識に乗るところから真実に引っ張っていくためのもの。
(あさ川註:おそらく、「19願で雑毒の善をせよといわれていること」が真実に引っ張っていくためのものという意味だと思われます)

歎異抄1条に
「弥陀の本願には老少善悪のひとをえらばれず」
とあるのは、善人悪人は関係ないことを言われている、これは全員が極悪人であるということである。
(あさ川註:こういう話の展開だったそうです)

唯円は善人も悪人も含めてと解釈していただろうし、親鸞聖人も「えらばれず」と説法されていたのかもしれないが、私は、これは、全人類が極悪人との気持ちで聖人が言われていたと思う、なぜなら全員が極悪人であることは教行信証に
「一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして、清浄の心なし。虚仮諂偽にして真実の心なし」
と書かれているから。

一方で、3条では
「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」
と善人と悪人がいるかのように教えられる、聖人の説法は、3条のようであったろう。
(あさ川註:親鸞聖人は「全人類が極悪人である」という説かれ方では無く、歎異抄3章のように「善人と悪人がいる」というような説かれ方をされたのだろう、という意味だそうです)

阿弥陀仏が19願で雑毒の善をすすめておられる。それが宿善になるのかという人があるが、阿弥陀仏が勧めておられる。19願により18願の世界に出すための方便の善になる。
(あさ川註:上記の根拠は、「諸善万行ことごとく 至心発願せるゆえに 往生浄土の方便の 善とならぬはなかりけり」のご和讃だそうです)

また、たとえ雑毒でも善である。因果の道理から必ずやっただけの善がその人にくる。やって無駄になることはない。 

~~~~~~~
 

とあるブログにて、「聞法の敗残者」というワードを見つけました。懐かしい、というと語弊があるか知れませんが、かつて2chなどを騒がせた言葉でした。さすがに最近は親鸞会の中でも公式には聞かれなくなりました。が、最近思うところがありましたので、(ブログの中の人の論旨とは違いますが)今回、話のネタとして使用いたします。



如来の作願をたずぬれば  苦悩の有情をすてずして  回向を首としたまいて  大悲心をば成就せり
(正像末和讃)



私がこのご和讃を引くのは何回目か分かりませんが、それだけ私がこのご和讃を好いているのでしょう。親鸞会の教学聖典にも出てくるご和讃ですので、なんとかの一つ覚えに思われる方があるか知れませんが、それを否定するつもりもありませんのでそんなことはどうでも良いです。


いちおうは十年以上も親鸞会の中にいると、色んな方がありました。


・あんなに「真実に出会えた喜び」を語っていたのにやめていった方
・あんなに人にも勧めていたのに、去って行った方
・講師部員だと思っていたのに、やめていった方
・講師部員だと思っていたら、講師部員でなくなった方


何かが変わった、あるいはやめていった場合は目立つのですが、そこまで行かなくても、元気がなくなったりやる気が萎えてしまったり、というように見える方もあります。


別段、それが悪いといいたいわけではありません。


ただ、親鸞会の中にいると「熱心に活動している人=宿善の厚い人≒弥陀の救いに近い人」みたいな感覚になってしまいがち(だと思います)です。そんな状態で、常にやる気を出せる人は良いのかもしれませんが、そんなにやる気が続く人というのはそうそうあるものではないと思います。


そんなとき、「自分には弥陀に救われる資格が無い」「自分には仏法を聞く資格が無い」となってしまうとすれば、大変に勿体ないことです。


私が大学一年生のときに大変お世話になった先輩は、大学卒業して間もなく「自分には仏法を聞く資格は無い」といってやめて行ったそうです。親鸞会云々はさておき、弥陀の本願とのご縁まで切ってしまったとすると残念なことです。


あと私が気になっているのは、最近増えているように思える「以前に講師部員だったけど今は講師部員では無い」という方です。


私は講師部員になろうと思ったことも無ければ、講師部員が「無上の道」と思ったこともありませんから、講師部員になろうと思った心境も、やめるときの葛藤も分かりません。ただ、弥陀の本願とのご縁を大事にされてのことなら良いのですが、「活動についていけなくなったから」などという理由で、「自分は敗残者だ」といった思いを持ったままでいるとするならば、やはり弥陀の本願を遠ざけてしまっているのではないかと勿体なく思います。


はじめに出したご和讃は、『教学聖典』には

阿弥陀如来が、苦しんでいる者を正客として本願を建てられたことを教えられた『ご和讃』

の根拠として出てきます。


活動について行ける人、
常にがんばれる人
たいそうなお布施ができる人


それぞれ尊い方ですが、これらの人を正客とは仰っていません。
弥陀の本願を聞く資格があるとか無いとか、自分で決めるものではありません。あくまで弥陀が建てられた願だからです。

 
もともと書こうと思っていた話題でしたが、たまたま丁度いいタイミングで言葉が出てきましたので、使用いたしました。 

ちょっと久しぶりですが、二千畳講演(「五重の義」)の話を、例によって私のメモをもとに振り返ってみます。
いつものお断りですが、私が「このように聞いた」というメモですのでご承知おき下さい。


*****

五重の義→蓮如上人の『御文章』に書かれている。


「これによりて五重の義をたてたり。一には宿善、二つには善知識、三つには光明、四つには信心、五つには名号。この五重の義成就せずは、往生はかなうべからずとみえたり」 
(2-11)


五つのものが揃わなければ、往生はかなうべからず、と教えられている。 
往生するには、五つのものを揃えなければならない。


往生とはどんなことか。

往=ゆく。 極楽、浄土、無量光明土にゆくこと。
生=仏のさとりをひらくこと。
 
往生即成仏、ともいわれる。 


無量光明土にいって仏になれるかどうかは、五つのものが揃うかどうかで決まる。
当然では無いかと思う人もあるだろうが、世間では「みんな死んだら極楽」と思っている人が多い。

往生という言葉をどのような意味で使っているか。”困った”ことや”人が死んだ”ことを「往生」と言っている。どこにもそんな意味は無い、まったく逆の意味に使っている。死んだ人のことを「仏」と言っている。


蓮如上人は、死んだら誰でも仏になれるのでは無い、往生するには五つのものが揃わなければならないと「見えたり」と仰っている。

見えたり=お経やお聖教にそのように書かれている


「いずれの経釈によるとも、すでに宿善に限れりと見えたり」

ここにも、「見えたり」と仰っている。 



すべての人は、死の滝つぼにゆく船に乗っている。

(滝つぼの絵。滝つぼの部分に「死」の文字)

人間の全ての営みは、この船の中のこと。一切を乗せて、100%滝つぼにおちる。

これをお釈迦様は「必堕無間」と仰っている。

必堕=必ずおちる
無間 =限りなく暗い世界、苦しみの世界

こういう一大事を、皆が抱えている。これを後生の一大事という。

後生=滝つぼにおちた後のこと。来世。おちた後の世界。
一大事=滝つぼにおちること。

すべての人は、このことを知ってはいるが、「まだ先のこと」と思っている。
だから、何を手に入れてもポッカリと穴の空いたようにむなしい、こんなことは続かなくてやがて滝つぼにおちるのだと心の奥底で思っている。

後生の一大事を解決すること、いつ死んでも往生間違いなしの身となることが、全人類にとって大切なこと。



こないだ話を聞かれた方で、
「滝つぼにおちるのはイヤだが、極楽にいきたいという心も無い」
という方があった。

極楽にいきたい、往生したいという心は、なかなか起きるものではない。
そのようにお釈迦様は観無量寿経に説かれている。

観無量寿経
=お釈迦様が亡くなる少し前に説かれた、一切経の結論のようなお経。一切経が収まっていると言って良い。
 阿弥陀仏(お釈迦様の師匠)の19願(どのようなお約束をされているか)を明らかにされたお経。


滝つぼはイヤだという心はあっても、死んで極楽にいって仏に生まれたいという心とは繋がらない。
そのことを教えられているお経。阿弥陀仏の19願は、そのつなぐところを約束されている。

では、観無量寿経には何が説かれているか。
王舎城の悲劇の話が説かれている。
 

(午前の前半終わり。この後、午後の後半まで王舎城の悲劇の話)

*****

なお、王舎城の悲劇の話は、アニメ『王舎城の悲劇』に沿ってまして、イダイケが「阿弥陀仏の極楽浄土に生まれたい」と願ったところまでの話がありました。
 

今日は二千畳講演でした。演題はしばらく続いている「五重の義」についてでした。といいつつも、すぐさま(久しぶりに)滝つぼの話が出てきまして、王舎城の悲劇の話になりました。そんなわけで、今回は「宿善」の説明についてはまるっきり出てきませんでした。(出された根拠の中の単語としてはでましたが)


ちなみに、なんで王舎城の悲劇の話が出てきたかと言いますと、かなり大ざっぱには


・滝つぼの話
 全人類は死の滝つぼに向かって進んでいる=必堕無間
⇒後生の一大事

・「滝つぼにおちるのはイヤだが、かといって往生したいという心も無い」という人がある
⇒往生したいという心はなかなか起きるものではない、ということを、釈迦は観無量寿経に説かれている。
(観無量寿経= 阿弥陀仏の19願を明らかにされたお経)
⇒「滝つぼにおちるのはイヤだ」という心と「往生したい」という心は繋がらない。そのつなぐところを阿弥陀仏の19願で約束されている。 
⇒観無量寿経に何が説かれているか=王舎城の悲劇の話 


といった展開でした。ちなみに、王舎城の悲劇の話の後にあった最後の話はよくわかりませんでしたので、ご縁があればまとめてみたいと思います。

 

あと、8月1日から、名札が会費の種別ごとに色分けされることになったそうです。というわけで、今まで番号別に分けていた席順も分かりやすくなるのでしょうかね。名札を見たら種別が分かるようになるので、顕真も配りやすくなるのかな、と思ったのですが、「親学徒(整列番号も顕真も無し)」と「正学徒(整列番号は無いが顕真の対象)」の名札は同じ色だそうですので、それには使いにくそうですね。

 
短いですが、この辺で。 

今週末は二千畳講演、これにはご縁がある予定ですが、来月のご法話と再来月の親鸞学徒追悼法要はそれぞれご縁が無い予定です。追悼法要の演題は歎異抄第五章だそうですが、残念ながらご縁が無い予定です。



さて、このブログはもともと「親鸞会を批判する、あるいは擁護することを目的とはしていない」ブログです。一人一人の方が、宗教と向き合って弥陀の本願とのご縁を味わって頂く、という趣旨に叶ったものになっているかはさておき、「批判や擁護を目的とはしていない」という点は守ってきたつもりです。もっとも、批判や擁護をすること自体は否定しておらず、あくまで「否定や擁護を”目的としていない”」だけなので、表現として微妙なところはあるかもしれません。(最近の記事は


最近、親鸞会を誉める記事では無くてやや批判的な、そういったものが増えてしまっている気がしています。 本来は「批判や擁護を目的としてない」わけですから、いくら批判を目的としていないとは言え、批判的とも思えるような記事が並んでしまうと、それによって厭に思われる方もあるかしれません。


というわけで、少しだけ今日は親鸞会の良かったことを考えてみます。

実は以前に同じことを書いてました
同じような話題をループするな、と言われそうですが・・・


このときは、「弥陀の本願とご縁があった」ことは軽く触れていただけですが、やはり色々思い返してみると、親鸞会とのご縁によって、弥陀の本願とのご縁があったのだなとしみじみ思われます。私は。
あくまで、私は、です。しつこいようですが、私は、です。

中には、親鸞会がどうしても人生の黒歴史にしかならなくて、弥陀の本願喜ばれる身になっても、やはり親鸞会に対しては消し去りたい過去という記憶しか無い、という方もいらっしゃるでしょうから、これはそれぞれのご縁なのだな、と思います。


ほかに挙げていたこと、あるいはコメントで挙げられたこと、新しく思い出したことも含めて少し列挙して今日は終わりにします。


・「因果の道理」を聞かせてもらったこと
・宗教団体とはこういうものなのか、ということが肌身で分かったこと
・体系的に仏教を学べたところ
・理不尽な経験ができたこと
・多少のことには動じなくなったこと 
・高速道路を怖がらず走れるようになったこと
・雪道の運転に慣れたこと
・お年寄りに声をかけられるようになったこと
・臆せず年長者に自分の意見が言えるようになったこと
・親孝行を意識するようになったこと
・宗教の勧誘が断れるようになったこと
・時間を守る意識が高まったこと
・命を尊いと思えるようになったこと
・精神力が鍛えられたこと


あまり過去を振り返りすぎても進歩が無くなってしまうかもしれないので、ほどほどにして只今の弥陀の本願を味わいたいものです。

前回の記事は、いつもと違う時間帯に書いたということもあって、読み返してみるとやはりいつもとテイストが違ったように思います。皆さんがどう思われたかは分かりませんが、いつもよりは表現が粗かったかも知れません。


今日は、書こうと思って暖めていたネタではなく、ふとなんとなく思ったことを書きます。




最近は会場の都合でご縁が無かったのですが、そういえば「言葉の教室」というものが、テレビ講演の後に行われていたように思います。「親鸞学徒の敬語は大丈夫か」ということで始められた、と聞いています。


当然に敬語の基本的なことも話題としては取り上げられており、「相手を上げる」「身内は下げる」といったことも出てきました。


そんなこと思い出したのは、親鸞会HPのこの部分を見てのことでした。




 世界の光と仰がれる親鸞聖人の教えを、浄土真宗と言いますが、今日の浄土真宗は、葬式仏教、法事仏教と言われて久しく、衰退の一途を辿っています。
 この現状を嘆かれ、何とかして本当の親鸞聖人の教えを、明らかにしなければならないと親鸞会を結成されたのが、高森顕徹先生です。

 敗戦後まもない混乱期より、日本各地で情熱的な布教を展開され、それによって親鸞聖人の教えを聞き求める人が陸続と現れました。昭和33年宗教法人・浄土真宗親鸞会を結成。以後、日本にとどまらず、ブラジル、アメリカ、台湾、韓国、香港など世界各国を布教に回られています。

 

それがどうしたと言われるかも知れませんが、なんとなく気になったのでした。
太字下線部は、私が「持ち上げている言葉」と判断した部分です。
 

「親鸞会」の中で「高森先生」はヒエラルキーの頂点ですから敬語であってしかるべきでしょうが、親鸞会のHPは親鸞会の会員でない方もご覧になるのではないでしょうか。「親鸞会」にとって「高森先生」は身内であり、会員でない方にとっては「親鸞会の人」になると思います。 

そういう目で見ると、外部の方にとっては「身内を持ち上げている」ように見えるこの部分が、会員でない方にとってどのように映るのだろうか、と思ったのでした。 


これについては、本願寺のHPにも


教団を統裁(とうさい)される方を、門主(もんしゅ)といいます。門主は、本願寺の住職であり、法灯を伝承してわたくしたちの教団を統一されます。
親鸞聖 人の孫、如信(にょしん)上人が第二代をつがれて以来、聖人の子孫が本願寺をつがれ、現在の門主は第二十四代大谷光真(こうしん)門主(即如上人・そく にょしょうにん)であり、わたくしたちは「門主さま」とおよびしています。
また、門主を退かれた方を「前門(ぜんもん)さま」とおよびします。

※「およびし」は「自分を低めて言う言葉」と判断しています。

とあるので、普通のことなのでしょうかね。


ちなみに、宗教ではありませんが、首相官邸のHPでは「首相を持ち上げる言葉」は特段見られなかったと思います。


そんなことをいいつつも、宗祖親鸞聖人や蓮如上人などのことは持ち上げても良いのではと思っている私ですので、ご都合主義かも知れませんね。
 

考えてみますと、もうすぐ夏至だったなあということを思い出しました。


大導師以上座談会でどのようなお話があったのか詳しくは分かりませんが、頂いた情報によりますと、最近盛り上がっている善人悪人の話題が出てきたようです。「聞きたいという気持ちが強い人 」が集まるご縁ですから、やはりそういうお話を聞きたいという気持ちと、その話をある程度理解すること、それがある程度保証されているわけですから、突っ込んだ話がなされたのだろうと思っています。


反面、ご法話なんかですと色んな方がいらっしゃることもあってか、あまり突っ込んだ話が聞かれないような気もしています。


さて、そろそろ夏至だなと思ったのは、朝の四時前だというのに空が少し明るかったからでした。結局仕事が終わったのがそんな時間だったからなのですが、帰り道はハイビームにしなくてもある程度遠くまで見通せたことに、一人で感動してました(でもハイビームは使用)。
 

こういうシチュエーションは、なんだか妙な気分になるものです。今まで徹夜明けにブログを書いた記憶はありませんが、そんな気分で書くとまた少し違う感じになるのかな、と思ったのでどんな感じになるかなあと思いながら書いてみます。徹夜明けアピールってただの痛い人ですが。




少し前に、このようなコメントを頂いていました。


>あなたこんな気持ちで2000畳に行って、空しくないですか?何の為に行って、新聞まで読んでいるんですか?

結局その後のお返事が無いので「こんな気持ち」の指すところがよく分からないのですが、今回は「むなしい」というところを考えてみます。


むなし・い【▽空しい/▽虚しい】    
1 空虚である。内容がない。
2 無益である。むだである。かいがない。
3 かりそめである。はかない。
4 (「己をむなしゅうする」などの形で)我欲・先入観などを捨てる。
5 事実無根である。根拠がない。
6 死んで魂がない。


辞典を引くと、色々な意味が出てきました。おそらくは、2あたりの意味なのだろうと思います。


そもそも、私は親鸞会に居ることによって何かの利益があるなどということを期待しているわけではありません。 私が学生時代に親鸞会に入った目的は 「さっさと絶対の幸福とやらになって楽しい人生を送りたい」 というものでしたが、現在はその必要も無くなりました。


金も時間も体力も使って、何か自分の「足し」になるのかと言えばそういうわけでもない、という意味からすれば、「むなしい」と捉えられても仕方ないかな、とは思います。


それとは別に、「むなしい」という感覚なのかどうかは分かりませんが「むなしく」感じるところはあります。


親鸞会に元気がなくなった(ように見える)こと。
親鸞会が閉じこもっている(ように見える)こと。
 


かつて親鸞会は、批判する人に対して熱心に対応していました。その対応の中身はともかくとしても、少なくともそのような「元気」がありました。

私が8年近く前、私が本尊論ブログを立ち上げた時も、きちんとサイトを作って反論をしてました。
正直なところ内容は・・・というところはありましたが、それでも一応は批判に公式に答えようという姿勢がありました。 


また、かつては「いつでもどこでも法論を受ける」と言ってましたし、本願寺シリーズも大きく世に問うなどしてたと思います。外に打って出るという気概もありました。

現在も全国的に1万年堂出版を通じて書籍は販売されておりますけれど、「親鸞聖人の教えのここが大きく誤解されていて、正しくはこういう意味だ」というような主張は、昭和時代ほどおおっぴらにされてない気がしてます。

私は昭和時代に会員歴が無いので詳しいことは知りませんけれど、かつては「本願寺のここが誤っている」ということを、それこそ一般の人にまで向けて大々的に宣伝していた、と聞いてます。
ところが現在は、顕真などで「『歎異抄をひらく』だけが明らかにしている親鸞聖人の真意」を発表していますが、それを世に大々的に問うどころか、一般会員さえ気軽に読めない状態になっているように思います。


現在、二千畳の壇上に、「「なぜ生きる」を全人類に」というような標語が掲げられているのは、 ここ一年くらいの間に親鸞会館に参詣された方であればご存じかと思います。

私が思いますのは、「全人類に」と呼びかけている一方で入場には身分証明(名札)が必要、ご法話の内容は非公開、全世界にネット中継と言ってもウェブ会議、最近はビデオご法話も少ないといった感じで、対象を広げているのか狭めているのかどっちなのだろう、全人類にと呼びかけているのなら、ご法話だって最近のネット社会からしたら皆さんが聞けるような形で公開しても良いのでは無いか、と思ったりもしてます。
 

あと、最近ネット上で言いたい放題言われてます。別に最近に限った話でも無いのですが、私が8年くらい前に本尊論ブログをやっていた頃と比べてもずいぶん元気がありません。



私はずっと、会員のくせに親鸞会のことは嫌いだと言っているので説得力は無いかもしれませんが、少なくとも私に弥陀の本願の存在を教えてくれたのは親鸞会だったわけです。振り返って個々の出来事が「親鸞会はすばらしい団体だった」と思えるようなものは殆ど無かったにせよ、親鸞会が無ければおそらく私は浄土真宗とご縁がありながら(実家が浄土真宗なので)も弥陀の本願を知らずに一生を終えていたかも知れないと思うのです。 

そういう意味では感謝の心もあり、ということもあって、今の親鸞会の状態は個人的に情けなく思えるのです。
 
さりとて私に、その親鸞会を変えようという情熱が無いのでどうしようもないわけですが。 



直接提言しても特に何も起こらないでしょうし、ここで吠えても何も起こらないのでしょうが、

・ご法話(どなたでも参詣できます、なので)のネット中継(モラでなくて)や録画公開くらいやるというようなオープンさがほしい
・批判に対してオープンに答えようという姿勢がほしい 

常日頃思っていることではあります。
それが現状叶ってない、という意味での「むなしさ」はあります。



なぜに私が「親鸞会に対する”愚痴”になってしまう」と言っていたか、なんとなくおわかりになったのではと思います。 

今日は大導師以上座談会が勤められています。今回は、私の所属する支部も含めて近隣のみなさんにとっても特別な意味合いをもつ行事なのですが、いちおう筋を通す(?)ということで今回もご縁ありません。ちなみに、特別な演題でのお話、ということでは無いと思います。
 

こんなところでブログを書いているように、今は家にいるわけですが、午後から仕事に行くことになりました。深夜に及ぶかも知れないということで、昼間の更新はほとんどした記憶が無いのですが、今日は更新します。


何人かの皆さんからコメントを頂いています。ありがとうございます。返事が遅くなりすみませんが、帰ってからか明日かにでも、と思います。
 


先回の記事で、

>最近、また書いてみようと思うネタがいくつか出てきました。ただ、文章がまとまらないので自重してます。

と書きました。

実際のところは、文章がまとまらないのもそうなのですが、 書こうとすると親鸞会に対する愚痴になってしまいそうな気がして自重している、ということもあります。(今まではどうなんだ、というご指摘もあるでしょうが)


最近の記事についてブログの読者の方から、

「最近、ずいぶんと批判的になってきましたね」

と言われました。私も認識していたのですが、最近いただいたコメントの中にも、「むなしくないですか」というコメントがありました。私がどう思っているかはともかく、そういうマイナスの感情がブログから読み取れてしまうのはよろしくないかな、と思いましたので、何をどう書こうかということはまた考え中です。


今回は取り急ぎ以上です。 

最近、また書いてみようと思うネタがいくつか出てきました。ただ、文章がまとまらないので自重してます。


顕正新聞6月1日号の論説が、親鸞会のHPにも出てました。親鸞会のHPは別にリンクしても構わないだろうと思いますので、躊躇うことなくリンクします。全部をくまなく読んだわけではないのでひょっとしたら細かいところの違いはあるかしれませんが、最後に近いところまでは概ね同じでした。


最後の一文が、ぱっと見る限りは違ってました。
 

HPでは、こうあります。


苦悩の群生海は、救助の大船を刻々と、今も待っている。弥陀の一念の救いを伝えられた親鸞聖人の教えは、すべての人に燦然と輝く「世界の光」なのである。


新聞では、こうありました。


二千畳は、この「仏願の生起本末」を聞く聞法道場であり、弥陀の大船への乗船場所である。それ以外の目的はないのだ。
二千畳の参詣者は、全人類70億の代表である。だからこそ真剣に聞いて、いまだ生死の苦海に溺れ苦しんでいる人々に、「あきらめなくていい。弥陀の大船ここにあり」とお伝えしなければならない。
それが、真実知らされた者の責任であり、崇高な使命なのである。
人類が救われる、たった一本の道を明示なされた親鸞聖人のみ教えこそ、まさに世界の光。親鸞会結成以来55年は、この真実開顕の歴史であった。弥陀の大船の厳存を、全世界に伝えんとする我ら親鸞学徒は、よほど深い絆の同志に違いない。
苦悩の群生海は、救助の大船を刻々と、今も待っている。弥陀の一念の救いを伝え、全人類に燦然と、「世界の光」を掲げよう。

 

やはり、会員さん向けと、一般の方向けとでは、表現が違いますね。「70億の代表」といったあたりは、先日ブログに書いた内容でした。
 

青年大会の内容について、私が書くまでも無く会員さんのブログに載ってました。私が書くということについても、ありがたいことに楽しみにして下さっている方が一部いらっしゃいますが、なんとなく雰囲気は分かるかと思いますので、当ブログで取り上げる前の、ひとまずのご案内です。


リンクフリーという表現が見当たらないのでリンクを貼っていいのかはよくわかりません(から貼りません)が、「親鸞会 イミズム」というブログです。



私の記憶する限り、青年大会でスローガンが設定されたのは初めてでないかと思いました。「来たれ 末法の風雲児」というものでした。



このブログに書かれてない内容で私が(特に)印象に残ったところは、

「阿弥陀仏に向かっては、この自惚れ心が恐ろしい。この自惚れ心を自力の心という」
「自力の心を捨てよ、両手両足も無い者だということを聞けよということ」
「 うぬぼれ心、自力の心をぶち破って下さる。そこまで聞け」
「難度海に苦しむお前達を絶対に助けると仰った阿弥陀仏のお約束まことだった、私は手も足も無い者だった。それに疑い晴れるまで聞きなさい」

といったところでしょうか。ご法話だからなのか、三願転入とか五重の義とか、そういう話は出ませんでした。 

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