あさ川進の、宗教と私

浄土真宗親鸞会に所属しながらアウトサイダーだった私(現在は会員でなくなりました)が、宗教(浄土真宗親鸞会)との付き合い方を考えつつ書いている更新頻度が低いブログ(この説明も暫定です)リンクフリーです。なお、投稿文を受け付けております。「【投稿文】」と書かれている記事は、頂いた投稿文です。

2013年08月

日曜日はテレビ講演でした。と、いまさら書いているわけですが、考えてみれば日曜日の件について書くのにここまで間が空いた記憶もありませんから、結構ご無沙汰してしまったなと思っています。


最近は、ご法話以外の「講演」についてはずっと「五重の義」、もっと言えば「宿善」のお話が続いています。ついでに言うとここしばらくは「因果の道理」の話が続いています。


今回の話の大まかなところは、


・五重の義・・・五つのものが揃わないと往生できない(往生=浄土往生)

・ 五重の義の一つ目が宿善。建物で言うと基礎。

・宿善にも厚薄がある

・宿善とは、仏教をどれだけ聞いてきたかということ

・仏教は法鏡。仏教を聞く=法鏡に近づく
↓ 
・仏教は何を教えられたか。一言で言うと、仏教の根幹は「因果の道理」

・因果の道理を知ったなら、必ず実行する。実行させるためにお釈迦様は因果の道理を説かれた

・因果の道理は一言で言うと「廃悪修善」。仏教の教えは「廃悪修善」の四文字になる。

・善に向かう(法鏡に近づく)ほど、悪が知らされる。真実の自己が知らされる。
 宿善厚くなるとは、本当の自分の姿が知らされる道程

・宿善が厚くなって初めて宿善開発、五重の義が揃う。そのように仏教を聞かなければならない。


まとめたつもりが全然まとまってませんが、最近は弥陀の本願さえあまり出てこなくなったことに寂しさを感じています。正直なところ、学生時代は弥陀の本願の話が出てくることを毛嫌いしておりました(宗教的な匂いが強いため)が、変われば変わるものだと思います。日常生活において「弥陀の本願とは」といったことは語らないヘタレではありますが。


いよいよ地元の会館の落慶が近いということで、会員の皆さんでいろいろと準備が忙しくなっています。落慶座談会には600人くらいの方が来られるようです。半分くらいの方は入りきれないので、第二会場のホールでのご縁になるそうです。
私は特に何をしたということもないのですが、 地元ということで会館でのご縁ということになりそうです。


あと、顕正新聞の九月一日号を受け取りました。

先回の記事で、一点訂正します。

演題は「『聞』というは・・・」のお言葉と聞いていますが、間違ってたらお知らせ下さい。

と書いておりましたが、正確に言うと「仏願の生起・本末について」が演題で、色紙の言葉が上記のお言葉とのことでした。
新聞を読んで思い出しました。 失礼しました。

私がどうかこうかというのはともかくとして、あまり更新をさぼるのもどうかと(個人的に)思いますので、手短に更新します。


表題のとおり、今日はテレビ講演です。演題はおそらくいつもの内容だと思います。そういえば、なんだかんだと言って、55周年大会があと1ヶ月半ほどになりました。演題は「『聞』というは・・・」のお言葉と聞いていますが、間違ってたらお知らせ下さい。


昨日は、新しく出来る会館の遷仏会が行われました。
会館については、いろいろな意見もあるのだと思いますが、私個人的には、あんなことこんなこともありましたので、「皆さんがつくろうと思ってつくった」会館については感慨深いものがあります。


もうそろそろ出ないといけませんので、この辺で失礼します。


 

昨日は二千畳講演でした。昼間に久しぶりのビデオ上映がありまして、『なぜ生きる』が大変よく売れている、という内容の説明がありました。


今年はメニューお布施と言って、新聞広告を出したい新聞を選んで広告費をお布施するということが行われているわけですが、その効果なのか、今年は8月までに8万部を増刷して前年の10倍以上のペースで売れているようです。思っている以上に新聞広告の反響は大きいようです。


昨日はふと、思いついたうたの記事を上げましたが、昨日の講演の内容とはまるで関係ありません。念のため。



昨日の話は、「宿善は大きく分けて宿因と宿縁とに分かれる」という内容が久々にありました。細かい内容は機会があればということにしまして、私が印象に残った、といいますか、聞かれた方が強く心に留め置かれるのではないかと思った内容をいくつか挙げます。


・「噫、弘誓の強縁は・・・」のお言葉から、
 「人生の目的という言葉を使っているが、本当は多生の目的、億劫の目的。秀吉のやったことは人生の目的といえるかもしれないが、多生の目的とは言えない。秀吉のようなことでさえ大変なこと。それどころではないものを求めている。その自覚があれば”自分はこれだけ求めているのに”などという不満は出ようがない」
 という趣旨の話があったこと。

・因果の道理の話の中で、「私たちが億劫にもあえないこと(絶対の幸福、無碍の一道・・・)にあわせていただくのは、どのような因縁からか」
 について、

 因・・・悪
 縁・・・宿縁

 と黒板に書かれたこと。
 (あさ川註:私たちの種まきは悪ばかり、という趣旨で「因=悪」となっているようでした)

 
ちなみに、2つめについては、帰りの車の中で会員さんが、「『悪因善果』というように聞こえる」と言われてたので書いてみました。そもそも億劫にもえがたい真実の浄信についての因縁が私たちの行いに起因するのかという話もありますが、話の展開から「他因自果」はありえないことになっていたので、このような説明になったのかなあと思った次第です。(これはただの感想)


あと余談ですが、あるところで「顕正新聞の回収」云々の話題が出てましたので。別に親鸞会としても隠す内容ではないと思いますし。

私の話を信用するかどうかという問題はありますが、少なくとも私が入会してから十数年、一度も回収したという記憶はありませんし、たぶん今後も回収することはないのではと思っています。
あと、教学聖典の改訂はよくわかりません。細かい改訂は過去において知らぬ間に何度か行われていたことは知っていますが。

 

今日は二千畳講演です。
宿善の話ですが、今日は宿縁の話も出てくると思います。

今回は、このうたを思い出したので、書いておきます。


恋しくば 南無阿弥陀仏をとなうべし
我も六字の中にこそ住め


南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、

一週間近く寝かせてしまいました。明日は二千畳講演です。演題は同じく「五重の義」だろうと思います。


大導師以上座談会を詳しく振り返ろうかとも思ったのですが、すでに一週間近く経ってしまったので、取り急ぎは大ざっぱに振り返ることにします。


質問:
「親鸞聖人は、本願成就文の教えを仏教の至極と仰っています。仏教の至極といわれる本願成就文に教えられている弥陀の救いとは、どのようなものなのでしょうか。お聞きしたく思います」


・「至極」=これ以上大切なことはない、ということ

・本願成就文=お釈迦さまの教え。漢字40字。
         阿弥陀仏の本願(阿弥陀仏という仏が約束されたこと)を教えられたもの。 

・阿弥陀仏とお釈迦様の関係
 先生と生徒(あさ川註:他、太陽と月のような関係、というお話も出ました) 

・阿弥陀仏の約束に48願ある。すべての人を相手に約束されたのは、18,19,20願。摂生の願という。
 阿弥陀仏の本願と言えば、この摂生の三願のこと。

・このうち18願が阿弥陀仏の本心を約束されたもの。王本願。真実の願といわれる。
 18願だけが真実の願。あとは方便の願といわれる。
 方便がなければ真実は分からない。方便は真実を知るのに必要不可欠。

・親鸞聖人の教えの全てが書かれた教行信証の冒頭に、
 「難思の弘誓(阿弥陀仏の18願)は難度海を度する大船・・・・」とある。
→しばらく難度海の話

・親鸞聖人は、阿弥陀仏の18願のことを「難度海を明るく楽しく渡す大船だから、早く乗りなさい」と仰った。

・18願のお約束の内容=
 「十方衆生は極悪人。無条件で絶対の幸福に救う」
 すべての人を、手も足もない極悪人と見られた。
 大宇宙の諸仏にも見捨てられたような者だから、阿弥陀仏が無条件で助けると約束されている。

・ところが、私たちは自惚れて、この阿弥陀仏の18願を疑っている。=本願疑惑心、自力の心

・どうすれば阿弥陀仏の本願のとおりに従う(難度海を度する大船に乗る)ことが出来るのか、
 阿弥陀仏が五劫の思惟をされて建てられたのが19,20願。
 親鸞聖人は、摂生の願、三願によって救われたと仰っている。→三願転入のご文
 
・では、19願のお約束はどんなものか=
 「力一杯善をせよ。必ず助けましょう」

・なぜ、18願で無条件に助けると仰っているのに19願で「力一杯善をせよ」とおっしゃるのか。
 すべての人は自惚れていて、自分を善人だと思っているから、やらせるより他にない。
 自惚れ心がある間は分からない、聞けない。心からまかせられない。
 やってみて、できない自分だったと知らされたらまかせるより他にない。それを助けるのが18願。
 善に向かうほど自分の本当の姿が知らされる。これが19願を建てられた目的。

・後生の一大事が自分の力で解決できないと知らされると、念仏に目が向く。
 20願の内容=
 「一心に念仏称えなさい。目的を果たさせます」
 目的を果たさせます=18願に入れてあげます

・一心に念仏称えるようになる。この一心が20願の特徴。

・定散心の念仏の説明
 →このような心で称える念仏を、自力の念仏という

・19願から20願、20願から18願の世界へと、一念で転入する。
 阿弥陀仏はこの摂生の三願によってすべての人を18願の世界に出させようとしている

・ここまでの話は本願成就文に説かれている。

・(私たちが)三願を読んでも、三願の御心は分からない。
 大船に乗るにはどうすれば良いか、(弥陀の18願)36字を読んでも分からない。

・阿弥陀仏の御心を知るには、同じ仏であるお釈迦様に聞くよりない。
 それで、本願成就文以上に真実の教えはない、だからこの本願成就文の教えを聞きなさい
 と、親鸞聖人や覚如上人は教えられている。
(「横超とはすなわち・・・
 「それについて三経の安心あり・・・
 「かの心行を獲得せんこと・・・・)

・では、成就文では、大船にどうすれば乗れると教えられているか=
 聞其名号、聞く一つ。
 
 「聞というは、衆生仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし・・・」
 衆生=十方衆生、すべての人
 仏願=阿弥陀仏の本願、18願、真実の願
 生起=どんな者のために建てられたか、どんな相手と約束されているか
 本= 18願
 末= 19願、20願・・・18願の本から出てきたから、従真垂化。19,20願は18願に収まる。
 疑心=私は極悪人ではないと言う心、19願20願に対する疑い、本願に対する疑い

・親鸞聖人は、この疑い晴れた時のことを
 「誠なるかなや摂取不捨の真言、超世希有の正法・・・」
 一念の時に、19願20願に対する疑いも晴れる。摂生の願すべてまことだったと知らされる。
 真仮ともに疑い晴れる。片方だけということは絶対ない。

・阿弥陀仏の御心は、仏であるお釈迦様にお聞きするよりないから、至極といわれる。
 親鸞聖人の教えを聞く=成就文の教えを聞く、ということ

(以上)


内容をかなり端折ってますが、大意はこのような内容だと理解しています。
(違ってたらお知らせ下さい)

今回は、ご文も端折ってます。すいません。(ここをご覧になる方は、およそご存じと思われるご文のため)
なお、今回は出てきた根拠全てをここに書いているわけではありません。時間等の都合により相当割愛してあります。

いつもながら、「私はこう聞いた」というメモであることをご承知おき下さい。
 

昨日(日曜)は、大導師以上座談会でした。以前から何度か記事にしてましたが、基本的には

「一万円以上のお布施をしてでも聞かせて頂きたい」

という方のためのご縁です。 従前の親鸞会における「大導師」の定義からは若干というかかなり外れてます。
あさ川ウォッチャーの方の中には、この「大導師以上座談会」に私は出ない、と宣言していたことをご記憶の方もあるかと思います。 

といいつつ、昨日、私は「大導師以上座談会に参詣」しました。 



何か重大な心境の変化があったというわけではなく、追悼法要にご縁が無かったことに対するバーターというわけでもなく、興味がわいてきたということが第一の理由というわけでもありません。理由は単純な話で、


私の家(あさ川宅)が会場だったから


でした。 自宅の近辺に、親鸞会の会館ができるという話は以前に書いたかと思いますが、丁度落慶前の改装中でまだ使用できないため、私の家が会場になりました。来月には落慶を迎えるため、どのみち私の家で行事を行うのも、おそらく最後だと思います。



前に書いたような気もしますが、私はもともと、「多くの人が弥陀の本願を喜ぶ場を創りたい」という思いがありました。それがある時は箱物、ある時は寺、ある時は宗教都市といったような妄想ばかりがあったわけですけれども、その思いが高じて買ったのが、今の家(集合住宅の一室)です。(買ったといっても住宅ローンですが)

そこに至るまでの経緯は端折りますが、そんなことで引っ越してきた経緯がありますので、支部会合だったり電話座談会だったりビデオご法話だったりと、しばらくはいろいろな集まりに使われました。

一般会場あるいは親鸞会の施設の方が集まりやすいということもあって、私の家ですることもめっきり少なくなっていたのですが、恐らく最後だろうということで、声が掛かったのだろうと思います。

個人的には、よく私の家で行うことについて許可が下りたなあと思ったものでした。



さて、会場を提供したからといって、特にお布施額が変わるということはありませんので、諭吉さん一人とお別れをしました。


座談会ということで、今回の質問はこの一問でした。


「親鸞聖人は、本願成就文の教えを仏教の至極と仰っています。仏教の至極といわれる本願成就文に教えられている弥陀の救いとは、どのようなものなのでしょうか。お聞きしたく思います」


細かい話をすると、定散心の念仏など、あまり聞かない言葉も出てきたことは出てきたのですが、内容自体は当然ながら特別という感じは受けませんでした。 


今回も「摂生の三願」として三願を説明されましたが、その内容は以下の通りでした。

18願=十方衆生は極悪人。(だから)無条件で絶対の幸福に救う。 
19願=力一杯善をせよ。必ず助けましょう。
20願=一心に念仏称えなさい。目的を果たさせます。 


・弥陀の本心である18願の内容(十方衆生は極悪人)を聞いても自惚れていて、本願を疑っている。
・弥陀はその約束を果たすために、19,20願を建てられた。
・(極悪人だと知らせるためには)実際にやらせてみるより他にない
・この摂生の三願によってすべての人を18願の世界に出させようとした 


このような話がありまして、あとの本願成就文との繋がりは、

・本願文を読んでも、私たちにはその御心が分からない→同じ仏であるお釈迦様にお聞きするよりない
・どうすれば大悲の願船に乗せて頂ける(救われる)か=聞其名号
・何を聞くのか=仏願の生起本(18願)末(19願・20願)

というような話がありました。 


ご縁があれば、またまとめたいと思いますが、取り急ぎは以上といたします。



何か特別な話があったとすれば、「お金を出さないと聞けない話」があることになってしまっていたでしょうから、そういう意味では、何ら特別な話がなかったという点は「良かった」と言えるかも知れません。「たくさんのお布施を出す理由」は、「同じ話でも、ご本人が出されたいから」という以外に言いようが無い気も致しますが。 

いきなり私ごとですが、今週は体調を崩しておりました。


さて、一週間以上前に受け取っていた顕正新聞8月1日号は、一応目を通してはいたのですが、論説を読んでふと、先月(7月)のご法話にはご縁が無かったことを思い出しました。


7月7日、その日私は、冷房も照明も使えない建物内で作業をしてました。今日も暑かったですが、あの日も暑かったです。そんなことをしていたので、ご縁がありませんでした。


顕正新聞の中の「法友通信」には、いつのご法話(もしくは講演)についてのお礼状かということが書かれているのですが、論説の場合はぱっと見、テーマが脈絡なく出てきているようにも見えます。


ただ、論説に書かれている内容は、親鸞会として非常に重要な内容ですから、いわゆる「ご教導」に違いありません。ここしばらくの論説は、だいたい、ご法話か二千畳講演の内容である(と推測できる)ということに、最近ようやく気付きました。 


とりあえず今回は、論説の内容をこちらに書いてみます。これを7月ご法話の内容であると推測したのは、

・私が最近聞いた記憶のない内容であったこと
・法友通信が7月ご法話の内容であったこと
・内容を読んで

からでした。


=====(顕正新聞8月1日号から引用)====== 
○弥陀は与えるためだけに

「如来の作願をたずぬれば 苦悩の有情をすてずして 廻向を首としたまいて 大悲心をば成就せり」
(正像末和讃)

"阿弥陀如来は、なぜ本願を建てられ、南無阿弥陀仏を創られたのか。よくよく案じてみるに、すべての仏から見放され苦しむ我々を見捨てることができなかったので、南無阿弥陀仏の大功徳を与えて助けたいの弥陀の大慈悲心一つが知らされる”
苦から苦の綱渡り、迷いの旅路の果てしない我々をご覧になって、十方諸仏は、何とか助けてやりたいの大慈悲心を起こされた。「仏心とは、大慈悲これなり」と言われる通りである。
しかし、我々があまりにも罪悪深重であったため、諸仏方は力及ばず、断念せざるを得なかった。
そこで十方諸仏の本師本仏でまします阿弥陀仏は、大宇宙の仏方が皆、さじを投げた者たちならばなお見捨ててはおけぬと、五劫の長期にわたって思惟なされ、「我一人、助けん」と崇高無上の大願を建てられたのである。
仏さまは皆、悲智円満のお方であるが、阿弥陀仏が十方諸仏に本師本仏と仰がれるゆえんは、智慧(助ける力)がずば抜けておられるからである。
釈迦はそれを、「阿弥陀仏の威神光明は最尊第一にして諸仏の光明の及ぶこと能わざる所なり」「諸仏の中の王なり、光明の中の極尊なり」と絶賛されている。
だが、「必ず助けてみせる」の弥陀の願心は色も形もなく、我々には認識できない。そのままではとても救うことができないから、弥陀は不可思議兆載永劫のご修行の末に、我々の認識にのる「南無阿弥陀仏」の六字の中に、ご自身の智慧と慈悲のすべてを封じ込められ、ついに無上宝珠の名号を完成してくだされたのだ。
手も足もないダルマのような我々は、ああしなさい、こうしなさいと言われても不可能。ああなって来い、こうなって来いと注文されても何一つできない極悪人である。
だから弥陀は、無条件に、ただ廻向する(与える)ことだけを考えて、六字の名号を成就してくだされた。弥陀のまことはひとえに、悪業煩悩にまみれて苦しみ、闇から闇へと突っ走る十方衆生に、無上の功徳の名号を与えて、絶対の幸福に救うためであったのである。弥陀の救いが、他力廻向と言われるゆえんだ。
だが、どんな大功徳があっても、我々がそれを頂かなかったら助からない。当然だろう。
ゆえに弥陀は、名号が完成した十劫の昔から、私たちに名号を与えて助けようと必死になっていられるのだが、深い迷いの我々は、疑って一向に受け取ろうとしないでいる。この疑情一つが、実に三世を流転してきた元凶なのである。
南無阿弥陀仏の大功徳は「聞く」一念で全領できる。
聞即信の一念に仏智満入して、「本願に疑心有ること無し」と信楽開発しなければ、弥陀の五兆の願行は水泡に帰すのだ。銘記しなければならない。

===========
※赤字、太字等の指示は基本的に原文ママ


私がまず、ここだけを読んで思ったのは、「善の勧めが全然出てきてないな」ということでした。
つづまるところ、「南無阿弥陀仏を受け取れよ」「南無阿弥陀仏を聞けよ」というお話だったのかな、と思いました。

もっと言うと、「私たちには何もできない」から、「ただ阿弥陀仏は与えることだけを考えて南無阿弥陀仏を創られた」というお話だったのかな、と、この論説を読む限りではそう思いました。


ちなみに、法友通信の感想(お礼)を読んでみますと、

(Bさん)
・・・前略・・・
時間、体力、多方面において全力で臨んで初めて聴聞といえるのだと思いました。
肝要である「タノム一念」は、命と命がぶつかるところであると知らされます。人生は「聴聞に極まる」ことを、自他ともに徹底したいと思います。


(Cさん)
・・・前略・・・
仏の命を懸けられて、阿弥陀仏は、私たちを救うと誓われ、善知識も常に、命懸けでご説法をしてくださっています。助けていただこうとする私こそが、「火の中かき分けて」の思いで、ど真剣に聴聞しなければならないと知らされました。



(Dさん)
「仏法には世間の隙を闕きて聞くべし、世間の隙をあけて法を聞くべき様に思う事浅ましきことなり」
・・・中略・・・
仕事を、「世間の隙」と言い切られ、仕事をやめて仏法を聞けと仰った蓮如上人のお言葉に圧倒させられます。
1億円稼ごうとしたら、並大抵の努力では到底無理です。それ以上のものを求めているのだと知らされました。


といった感じでした。
私なりにまとめてみますと、

・火の中かき分けて、仕事なんかやめて、命懸けで聞くのが仏法なのだ、と知らされました。
 
という内容と理解しました。
 

ちなみにAさんがなくて、B,C,Dさんだったのは、一人目の内容は若干違っていたからでした。

Aさんの内容は、大ざっぱに言うと

・名号を受け取ることが重要なのだと知らされました。

というものでした。 



以上をまとめると、7月7日の内容は、
 
・苦から苦の綱渡りをしている私たちを助けようと、阿弥陀仏は南無阿弥陀仏を創られた
・この南無阿弥陀仏は、阿弥陀仏が私たちに与えることだけを考えて創られた
・南無阿弥陀仏を頂かなければ、私たちは助からない。南無阿弥陀仏を聞いて、頂く。(聴聞に極まる)
・火の中かき分けて、仕事をやめて、ド真剣に聞かなければならない

というような内容だったのだろうと、勝手に想像しました。


長くなりますので、今日はこの辺で。
 

まったくもってタイトル通りです。追悼法要というと、報恩講や降誕会に次ぐ結集行事であるわけですが、私はこの日程が決まる前から予定が入って(入れて)いたためにご縁がありませんでした。私が若かりし学生時代には8月半ばに勤められたこともあった記憶がありますが、ここ十年くらいは8月の第一日曜とほぼ固定化されてます。


関東初の会館は着々とリフォームが進んでまして、異例の早さで来月に落慶の予定です。私が落慶の座談会の日に会館には入れるかはよく分かりませんが、それくらい多くの人が来られる予定だとのことです。


今のところ、私の耳に直接来月の日程の案内は入っておりませんが、おそらくは第二日曜日になるのではと思います。ここ数年、おわら風の盆と日程が重なってホテルが予約できずにいたので、ようやく落ち着くかなといった風情です。


さて、知り合いの寺の住職氏から「門徒だより」が届きました。そこに、「ブッダのおしえ」という小冊子が同封されてました。今日はその話です。


この冊子が同封されていた趣旨はよく分かりませんでしたが、中身を読んでみると親鸞会でも聞いた記憶のある話が結構ありました。


釈尊の誕生・出家から入滅前の最後の教えまで、手短に収められてました。その最後が、有名な「自灯明 法灯明」です。


弟子たちよ、おまえたちは、おのおの、自らを灯火とし、自らをよりどころとせよ、他を頼りにしてはならない。この方を灯火とし、よりどころとせよ、他の教えをよりどころとしてはならない。


この部分は非常に有名、だと思います。
ただし、今日の話題はそのしばらく後のフレーズから見てみたいと思います。 


弟子たちよ、今はわたしの最期の時である。
しかし、この死は肉体の死であることを忘れてはならない。
仏の本質は肉体ではない。さとりである。
肉体はここに滅びても、さとりは永遠に法とともに生きている。だから、わたしの肉体を見る者がわたしを見るのではなく、わたしの教えを知る者こそがわたしを見る。
わたしの亡き後は、わたしの説き遺した法がおまえたちの師である。この法を保ち続けてわたしに仕えるようにするがよい。



もう10年以上前になりますが、私が大学三年の頃、「親鸞会館に行ってビデオご法話」だったことがありました。
そのことに関連して、K玉先生がこのような話をされたことが印象に残っています。


「駅のホームの時刻表を見る。朝、昼、夕方と多くの電車が行き交っているので、まだ大丈夫まだ大丈夫と思っていると、夜も遅くなるにつれてだんだん本数が少なくなっていく。そして、日が変わる頃にはほとんど来なくなって、やがて”これが最期の電車だ”という時がやってくる。
ちょうどそのように、毎週のご縁を当たり前のように頂いていたのが、やがて月に一回となり、その一回のご縁も頂けない時がやってくる」


お釈迦さまは仏様だからなのか、自らの最期の時を悟られました。そして最期のご説法をされました。
蓮如上人は、御文章4-15に「本復のすがたこれなし」と書かれ、最期の時が近いことは気付かれていたのかもしれません。

とはいうものの、やはり人間、「本当にこれが最期だ」という時というのは必ずしも分かるものではありません。
「これが最期だ」と宣言されると、心の準備ができるのかも知れませんが、そういうことなく突然に最期の時が訪れることも、現実にはあり得ます。


親鸞聖人のお名前を戴いている「浄土真宗親鸞会」ですが、その実は「高森先生」で持っているところもあります。


「高森先生のお話を聞くことができなくなったら」


それは、自ら望んで縁を絶ちきること無くてもいずれ必ず訪れる「時」です。

お釈迦様との別れは、お弟子方にとって大変衝撃的だっただろう、と思います。悟りを開いたような高僧でも、おそらく深い悲しみがあったのでは、と思います。そんな方々にお釈迦様は、


わたしの肉体を見る者がわたしを見るのではなく、わたしの教えを知る者こそがわたしを見る。
わたしの亡き後は、わたしの説き遺した法がおまえたちの師である。


と言われています。
従いまして、浄土真宗で言いますと、親鸞聖人の教え・阿弥陀仏の本願こそ、となると思います。


「高森先生のお話を聞くことができなくなったら」


は、かつて私も心配したことがありますし、全然心配しないのもドライすぎるきらいはありますが、それはお釈迦様で言うと「わたしの肉体を見る者」であって、「教えを知る者」としてはやはり弥陀の本願にこそ心を向けるものなのだろうと思います。 


一時では考えられなかったことですが、今は「ご縁」が月に4回と増えましたので、以前ほど気に掛ける人も少ないのかも知れません。ただ、話題になっていなくもないようです。私の周りでは聞きませんけど。


読んで、そんなことを思いました。 

今月(もう日が変わりましたので)の追悼法要より、名札の色が会員の種別ごとに色分けされます。私は顕真のご縁も無い親会員ですから、確か黄色だと言われた記憶があります。私は顕真のご縁が無いので、ここしばらく顕真は読んでいませんが、山も山さんのブログによると、7月の顕真では「6月のテレビ講演」についての感想が掲載されていたようです。


如来の諸智を疑惑して  信ぜずながらなおもまた  罪福ふかく信ぜしめ  善本修習すぐれたり 
(正像末和讃) 


このご和讃を通しての話があったときのことです。
 
実は、このご和讃が出てきたテレビ講演は随分前のことだと思っていたのですが、確かに6月のことでした。 


顕正新聞では、講演等で出された根拠の一覧は出てきても話の内容は概要さえも殆ど出てきません。顕真での扱いがどのようであるかは分かりませんが、おそらく似たようなものでしょう。

聞いた話は、たまにこのブログでも紹介していますが、最近さぼってしまっているので、なかなか紹介できずにおります。



二千畳の演台の上には、「なぜ生きるを全人類に」のスローガンはあるものの、ご法話や講演の対象はまだまだ「会場に行ける人」に限られているように思います。

テレビ講演の際には、「今日は、世界各地で聞かせて頂けるご縁です」とアナウンスがあります。せっかく「全世界で聞かせて頂けるご縁」であるなら、わざわざ限られた端末からだけではなく、ニコ動でもYoutubeでもUstreamでも、インフラは色々あるので誰でも見えるようにしたって良いのではないかと思います。


「全人類の救われるたった一本の道」を本当に全人類に徹底したいのであれば、わざわざ二千畳にとどめておく理由は無いはずですから。
 

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