あさ川進の、宗教と私

浄土真宗親鸞会に所属しながらアウトサイダーだった私(現在は会員でなくなりました)が、宗教(浄土真宗親鸞会)との付き合い方を考えつつ書いている更新頻度が低いブログ(この説明も暫定です)リンクフリーです。なお、投稿文を受け付けております。「【投稿文】」と書かれている記事は、頂いた投稿文です。

2013年12月

最近すっかり更新のペースが落ちてありますが、今年ももう残すところあとわずかです。「宗教と私」とタイトルをつけている割には、誰でも知っているような親鸞会情報を書いてぐだぐだコメントしているだけという感じを受けられる方もあるかしれませんが、今年を簡単に振り返りたいと思います。(残りは積み残し)


今年は、親鸞会の大きなトピックとしては、おそらく以下のようなものが挙げられるかと思います。


・『歎異抄をひらく』発刊より5年、「反論書」は出ず 
・各地に会館建立(特に関東・関西に初の会館)
・結成55周年
・『なぜ生きる2』発刊


最初のは『歎異抄をひらく』の発刊から5年、「反論書」を待ち続けていたそうですが、「5年たって出なければ永久に出ない」ということで、「正統と異端の逆転」と騒ぎ出したトピックです。「反論書」の定義があやふやで、一時は「反論書が出た」と騒いだことも無かったことになっているような気もしますが、私の記憶違いでしょうか。
以前のエントリに書きましたが、「反論書」は永久に出ないと思います。昭和時代の本願寺との論争は、「返答が無い」と言いつつ一応返信は来ていたわけですが、今回はそれらしい動きも聞きません。


各地に会館建立、というのは、個人的には思い入れのあるトピックです。私の地元にもできました。ローンがあるので大した金は出していませんが。これもずいぶん前に何度か書いていた内容かと思います。


親鸞会結成55周年、10年前の45周年は誰も何も語っていなかった記憶もありますが、今回は語呂が良いのか、盛大に(?)行われました。個人的にオープニングとフィナーレのビデオは、有名声優が声を当てられた50周年大会(だったと思いますが)がダントツです。


『なぜ生きる2』、今にして考えると、親鸞会55周年記念出版のような気がしてしまいます。会員の皆さんにはおおむね待望の書だったようにも傍目には見えますが、私の知る会員さんの中に「残念だ」と言われた方もありました。「初めての人に分かるように」ということでいろいろな工夫もされているようですが、会員さんの中には「親鸞会の矜持をかなぐり捨てたような本」という感想を持った人もあったと聞いています。私個人の感想としては、装丁その他の外見は非常に親しみやすく工夫されているものの、テーマの「どうすれば親鸞聖人のように大悲の願船の乗れるのか」は他力を自力にしてしまうように思われるので、出すべき本では無かったと思います。


あまりまとまっていませんが、個人的な事情により、今年は以上といたします。
一年間、ご覧いただいたりコメントをいただいたり、ありがとうございました。来年もご縁ありましたら、よろしくお願いします。
 

詳細はまた後日、ご縁があればと思いますが、夜も遅いので簡単にします。

先日とある会員さんと『なぜ生きる2』について語るご縁がありました。


その方は、『なぜ生きる2』については「残念だ」と言われてました。


いくつかある「残念」の中に、「意訳が先になっている」というところがありました。これは懇親会でも話題になったそうですが、懇親会にご縁のあった方によりますと、「新しい人の立場に立って」ということだそうでした。


その是非については語りませんが、特に親鸞会結成50周年で大いに語られていた「親鸞学徒の本道」を思いますと、残念だと言われた会員さんの心はよく分かります。


親鸞会HPの論説にありましたので、引用します。
http://www.shinrankai.or.jp/b/gendai/20090101hondou.htm

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 まず親鸞聖人のお言葉を明示して


 高森顕徹先生のご説法は、常に親鸞聖人のお言葉を示して、その意味を懇切に説き明かされます。そのスタイルは50年間、一貫しています。
 ベストセラー『なぜ生きる』(高森顕徹先生・監修)の「はじめに」には、こう書かれています。

「はたして人生の目的は、あるのか、ないのか。親鸞学徒として、親鸞聖人の言葉を通して迫ってみたいと思う」
「聖人の言葉をあげて、古今東西、変わらぬ人生の目的を明らかにした」 

 同じく、『歎異抄をひらく』にも、こう記されています。

「本書は、聖人自作の『教行信証』などをもとに、『歎異抄』の真意の解明に鋭意努めたつもりである。親鸞聖人のお言葉を提示して、一石を投じたい」

 いずれも、まず親鸞聖人のお言葉を示す、という姿勢で貫かれているのです。

「私は、ああだった。こうなった」の私事を語る者たちの行く末は、明らかでしょう。
 私たちはあくまでも、親鸞学徒の本道を驀進します。
 そうである限り、浄土真宗親鸞会は無限に発展することでしょう。 

 50周年フィナーレのビデオには、次の言葉があります。
「まず親鸞聖人のお言葉を明示して、その正しい御心を徹底していく。浄土真宗と全人類の輝ける未来は、この一点にかかっていると言っても、決して過言ではないのです」 と。

 この教導を忘れず、今年も、親鸞聖人のみ教えをお伝えすることに全力を尽くしたいと思っています。

今日は(最近いつものような気もしますが)手短にします。


個人的にはかなり残念なのが、来年から担当の支部長さんが変更になる、との知らせでした。ただ、今の支部長さんも全く話ができなくなrわけではなさそうなのと、新任の支部長さんも学生時代に縁のあった方ということで、少し残念さが軽減されました。新任の支部長さんには学生時代、合宿中に病院に連れて行って頂いた思い出があります。合宿中にCTスキャンを受けた人間はそうそういないんじゃないか、などということを思い出しました。


そういえば、先日にメニューお布施のビデオを見せてもらいました。『なぜ生きる2』は初版5万部、発売前に1万部増刷して6万部出ているそうです。考えてみれば、親鸞会のアクティブ会員さんは1万人もいないと思いますし、親鸞会全部の会員さんを数えても6万人はいないんじゃないかと思いますが、6万部ということはそれだけ読者がいるということでしょうか。何冊も買う人がいるのかも知れませんが、今回は出版記念のお布施の募集はなく、「メニューお布施を頑張って欲しい」とのことでした。


その『なぜ生きる2』の産みの苦しみの反動で相当に「お疲れ」なのかは分かりませんが、今月は親鸞会館でのご法話や講演がビデオご法話になり、地元の行事は座談会に切り替わってました。私の耳がおかしくなければ、来月の予定も、初聞法会以外に親鸞会館での行事は予定されておらず、1回は座談会、もう1回は録画の上映と聞いています。原稿が上がった時点ではなくて、無事に出版が済んだタイミングで「お疲れ」になったのは、好意的に解釈すれば無事出版されて緊張の糸が切れたため、というところかもしれません。



さて、今日(昨日)は座談会だったそうです。「だったそうです」というのは、私がご縁無かったからです。
もともと「大導師以上座談会」の予定だったので行かない予定にしていたのですが、どうも通常の(一万円出さなくて良い)座談会だったようです。まあ、連絡が来てなかったから知らなかった、ということになりますが。

行った人(妻←親鸞会の会員ではありません)の話によると、『なぜ生きる2』に解説されている「現生十種の益」の話で、その中の「至徳具足の益」のところが中心だったようです。電話で聞いただけなのでよく分かりませんが、どうも「至徳具足の益と煩悩具足の凡夫と言われる関係が(君らには)分からんだろう」という話があって、その話が中心になったという内容だと理解しています。善の勧めというか聴聞の勧めという話もあったみたいです。


そんな話を聞いて思いだしたのですが、『なぜ生きる2』は、以前『顕真』にて連載された文章が土台になっているそうです。連載の名前はよく覚えていませんが、「宿善と聴聞と善の勧め」だとか、そんな感じの名前だったような記憶があります。

 
今回はとりあえず以上と致します。 

日曜日は、二千畳講演の予定でしたが私はご縁がありませんでした。ただ、妻(先日結婚しました)の家に行っていたので「はくたか」に乗ってました。会員さんに会わないようにと思っていたのですが、いろいろな「原因」が重なって、とある会員さんと隣同士の席でお話しすることになりました。その方の話によると、二千畳講演はビデオご法話に変更だったようです。有り難いことに、その会員さんにビールなどをご馳走になりました。(ご覧になってるかは分かりませんが、ありがとうございます)
 

最近、『なぜ生きる2』の話題が(親鸞会関係のブログで)盛り上がって(いると思い)ます。
私も少し取り上げましたが、以前からそこはかとなく漂っていた「他人事臭」が、非常に露骨な形で現れてしまっていたので(自覚はありましたが)、不快に思われた方も少なくなかったのではと思います。 


今日は(も?)少しだけ、思ったことをつれづれと書いていきます。


この『なぜ生きる2』の話(本のタイトルは明らかではありませんでしたが)を最初に聞いたのは夏頃だったと思いますが、その時に思ったことは、


「どうすれば(大悲の願船に)乗れるのか、ということは弥陀の本願にそぐわないのではないか」


ということでした。私がそう思っていることは、過去このブログでもしつこいくらい書いてきたと思いますので、その是非はともかくとして、納得頂けるかと思います。

と同時に思ったのは、


「学生時代だったら、恐らく待ち焦がれるような内容ではなかろうか」


ということでした。




とはいえ、実は学生時代の私の弥陀の本願に対する理解だとか思いだとかいうのは無きに等しく、あったのは


「さっさと人生の目的を達成してしまいたい」


の思いだけでした。弥陀の本願というのはどうでも良く、別に弥陀である必要性も感じておらず、神秘体験はどうにもうさんくさく思われるが仕方ない、という程度のものだったわけです。 

当時の私にとっては、弥陀の願心などどうでも良く、「私の人生の目的を達成」することが一番だったのです。なので、そのためには学生時代は多少楽しくなくても、達成できれば後はバラ色だ、くらいに思ってました。
よって、そのためにできることはしよう、と思っていたのです。



「どうすれば乗れるのか」というのは、乗ってないから出る言葉、
もっと言えば、「今乗ってない」のと同時に「乗るためには何かをする必要がある」と思うから出る言葉だと思います。


親鸞聖人は、阿弥陀仏の本願を「摂取不捨の真言」といわれました。

摂はおさめとる
取はむかえとる

と親鸞聖人は解説されました。 

不捨は「捨てず」と読みますと、逃げまとう「私」を願い待ち尽くして決して捨てることのないのが弥陀の本願だと味わわれます。「そのまま助ける」が弥陀の本願、とも聞きます。

 

とすれば、「どうすれば大悲の願船の乗る(弥陀の本願に助けてもらう)ことができるのか」を詮索して『なぜ生きる2』を読んで、読むことによって大悲の願船に乗ろうとすること自体が、まったく弥陀の本願に合いません。
 


『なぜ生きる2』を、まだ読み込めてはおりませんが、「三願転入」が書かれているという割には19願の話が多いなど気になる部分もあり、なおかつ結論が一読しただけではよく分かりませんでした。



私が勝手に想像するに、おそらく言わんとしているところは

「聴聞に極まる」

なのだろうと思います。



山も山さんのブログでも言われていたと思います。書物に答えを探すのではなく、弥陀の「本願招喚の勅命」を弥陀から聞くのだと。


今は、「どうすれば乗れるのか」に関心はありませんが、そんなことが気になって気になって、弥陀の本願そっちのけだった学生時代をこの本は思い出させてくれました。


その『なぜ生きる2』は、「聴聞に極まる」ということを書いていますから、この本の趣旨は、

「この本ではなくて、著者の話でもなくて、弥陀の本願を、弥陀から聞けよ」

ということ、そういう意味で『なぜ生きる2』は捨て物なのだと、そのように味わうことにします。それがきっと親鸞会の本望でしょう。私の希望的観測が大いに入っているような気も致しますけれども。
 

そういえば今月は、いずれの土日も関東にほとんどいない状態が続いていることにふと気付きました。今週末は二千畳講演の予定だったのですが、私はご縁無い予定です。


さて、表題のとおり、アマゾンから届きました。もともと別のものをアマゾンで買う予定があったため、一緒に購入と相成りました(どうでもいいことですが)。 

と思ったら、すでに飛雲氏なども読まれているようですので、いずれ詳しい内容は皆さんから出てくるかと思います。


まだきちんと読んでませんので、詳しく読む必要があるとは思いますが、少しだけ読んでみた感じでざっくりと表現すると、


「『本願寺なぜ答えぬ』の現代版」


といった内容のように思いました。
 
もちろん、あれよりも手に取りやすく、表現も良くなっています。ただ、一般読者からしたらかなり難解な内容かも知れないとも思いました。 

 
そういえば「仏願の生起本末」の「末」は、「19願・20願」という最近の説明で書かれてました。
あと、「王舎城の悲劇の話」で、最初に占い師に言われた”懐妊までの年月”は「三年」に変わってました。 




詳しく読んではいませんが、少し読んだ限りでは、「ネット上で批判されている内容」が大量に含まれているように思います。その内容を今回出版して一般書店に並べたということで、今後どうなっていくのかなあと思っているところです。

ちょっと外れますが、「マーフィーの法則」の中に


声の一番デカイ奴が発言権を得る


とあるのを思い出しました。意味合いは少し違うでしょうが、なんとなく親鸞会の志向するところなのかなあとも思っている次第です。



弥陀のお仕事は弥陀のお仕事で、私が口を挟むことはありません。まずは「如来のドラマ」の展開を楽しみにしていようと思います。 

『なぜ生きる2』は、一部の書店で既に発売されていたようです。私の場合は、辺鄙な工場勤務のために大きな書店へは行けないので、アマゾンで注文する予定です。


さて、 日曜日はテレビ講演、という予定だったのですが、見た感じ座談会でした。久しぶりにどこだかよく分からない部屋からの中継で、でかいソファに深々と座っての座談会ということで、相当にお疲れな様子が見て取れました。


私は、今度予定されている(変更されたかも知れませんが)大導師以上座談会にはご縁無く、初聞法会もご縁がありませんので、またしばらく間隔が空く予定です。



今回の内容は、先日の真生会ご法話で予定されていた「自利利他の精神について」ということで、内容はほとんど「因果の道理」でした。基本的に、親鸞会でお話を聞いてきた方であれば概ね聞かれているであろう内容でしたので、特にここで詳しく書くつもりはありません。 


座談会ということで、当然いくつかの話題についての議論もあったのですが、その議論の質については微妙なところでした。


「因果の道理」の話になると、必ずと言って良いほど「偶然ではなく、すべては必然だ」というような内容の話が出てきます。「偶然」という単語についてはよく、「原因が無いこと」と同義で語られることが多いのですが、そんな意味で「偶然」という言葉を使っている人が、果たしてどれだけいるのだろうかといつも首を傾げていました。今回の議論では、特にその傾向(偶然=原因が無い)が強かったので、皆さんがどう思われるかは分かりませんが、私は余計に気になって仕方ありませんでした。

昨日は用事があったので終わったらそそくさと帰ってしまったくせに、ブログでこんなことを書いている私も大概だなと思いつつ、懐かしい思いにも浸っていました。 

 

そういえば、今週末のテレビ講演はどんな演題になるのかな、とふと思いました。


取り上げるのが随分遅くなりましたが、以前にこのブログで話題にした「五重の義」の「光明」について、山も山さんが記事を書いてらっしゃいますのでご紹介します。


こちら


”御文章「五重の義」の光明とは?(摂取の意味で、調熟ではありません)” とあります。
これは、私が以前書いた内容について様々なコメントを頂いて議論になった内容でもあると思います。

親鸞会では通常、「遍照の光明=調熟の光明」と言われている(と理解している)ので、私もその意味で使っていたのですが、調べてみるとどうもその前提が怪しいといったところが話題に上ったところです。

「光明」の詳しい意味については、山も山さんのブログや、下のコメントも下記とあわせてご参照頂ければと思います。
(12/7 リンクの下よりこの部分まで、表現を一部修正 あさ川)

 
さて最後に、私が中途半端に取り上げていた、『真宗用語辞典 蓮如篇』にある、「遍照の光明」の説明をご紹介しておきます。今回も手抜きのため、そのまま撮影したうえで中途半端に修正しました。最近は手抜きがさらにひどくなりすいませんが、とりあえず内容はお読み頂けるかと思います。

(稲城選恵著 『真宗用語辞典 蓮如篇』より)

 遍照の光明

今回のドクターストップは、「『なぜ生きる2』ご執筆の極度の疲労のため」というような内容でした。


産みの苦しみということもあってのことでしょうが、その『なぜ生きる2』は、12/10頃から書店に並び始めるかもということでした。『なぜ生きる』はついに80万部を超えたそうですが、その続編との位置づけです。


このブログをご覧になる方は、今現在も親鸞会の会員さんだったり、過去に会員さんだったり、あるいは入会の経歴がなかったりと、様々なかたがいらっしゃると思いますが、関心がおありの方もあるでしょうから、目次を紹介します。と言っても、入力が面倒だったので1万年堂新聞の号外をそのまんま撮影しただけです。いずれこの本も大々的に広告を打つでしょうから、目次を紹介しても別に問題なかろうと勝手に思ってます。


ブログ側で勝手にサムネイルを作ってくれていれば良いのですが、そのままだと結構大きなデータです。すいません。あと、若干見づらい箇所もあるかと思いますが、ご承知おき下さい。


目次を見ると、会館でのお話そのまんまな感じがします。きっとまた新聞広告で結構な部数が出るでしょうから、物量でデファクトスタンダードでも目指すつもりではないかとしょうもないことを考えたりしています。
出版社の新聞広告って、宗教団体のお布施として集めても問題ないのか分かりませんが、来年も引き続きメニューお布施は続くのでしょう。




 naze2

今日は親鸞会館でのご法座の予定で、富山に来ています。

今朝メールが飛んできまして、タイトルの通りということでビデオになるようです。
十年以上行ってますが、当日に連絡があったのは初めてのような気がします。

通常、こういうケースは講演者の責任になると思いますが、親鸞会はどう考えてもそうならないと思います。

もっとも、ビデオといっても内容に差は無いのですけれども。

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