横超とはすなはち願成就 一実円満の真教、真宗これなり
(教行信証信巻)
一週間ほど前、朝食を食べている時にふと、このお言葉が頭をよぎったのでした。
・・・
「クロールの 息つぎを見て 恋終わる」
緑茶の袋に書かれていたこの言葉は、「新俳句大賞」の高校生の部の大賞に選ばれた作品とのことです。名前を見ますと、おそらく女子高生の作品だと思われます。
言葉としては認識できますし、意味もなんとなく推定できるのですが、少し私の理解を超えていたように思えました。ですので、元女子高校生だった妻にその心を聞いてみました。
妻の解説によると、息継ぎをしている時の変顔によって残念な恋の終わりを知らされた、というようなことのようです。
ひょっとしたら、違った意図を持って作られたものかも知れませんが、ひとまずはそのようなことなのだと理解して、話を進めます。
私としては、変顔を見て恋が終わるというのは、どうにも安易と言いますか、身勝手なようにも思われたのですが、移ろいやすい心を表現しているのだと味わうと頷けます。
ある一面を見たときと、別の一面を見たときと、同じものを見ていても心が変わってしまう。
夢中な時は自分にとって良いものばかりが見えていたかも知れませんが、ふとした隙間に違うものが見えてくる。
そんなことを表しているのかも知れません。
しかしながら、移ろいやすい心は恋する高校生のことだけではなく、日々の営みを紡ぐ人間について広く言えるように思います。
・・・
後輩と、「人生の目的」ということがらについて話をしたことがありました。
いろいろとご意見はあるでしょうが、「何のために自分は生きているのか」ということを掘り下げるということは、意義があることだと思います。
ところで、そもそも「人生の目的」とは何を指すのでしょうか。
自らの人生の目的を定義する時には、何が基準となるでしょうか。
自分が「これが人生の目的だ」と思う時には、それなりの理由付けがあろうかと思います。
お金、財産、家族、地位、名誉、褒賞、社会貢献、創作・・・
納得感、達成感、使命感、充足感・・・
その源を訪ねてみれば、行き着くところは「自らの幸せ」なのかもしれません。
何をもって「幸せ」とするか。「自らの幸せ」を「自ら」が考える限り、どうあっても自らの知識や価値観等の範疇に収まるのではないかと思います。
ある「答え」を提示されて考えが変わったように見えたとしても、自らの思考で判断する限りは、やはり自らの知識や価値観等の範疇になってくるのではないかと思います。
ああなりたい、こうなりたい、
自らの人生の主題を、このような「求め」や「願望」の上に置いたとすると、
何かが変わらない限りそれは、未だ満たされない「願い」に留まると言えるかも知れません。
・・・
横超とはすなはち願成就 一実円満の真教、真宗これなり
(教行信証信巻)
弥陀の願いは、願いだけに留まらず、成就されている、と説かれています。
しかもその願いは自らのものではなく、願力として私たちに掛けられている、そこに深い頼もしさを覚えます。
「横超」という言葉を聞きますと、親鸞聖人の教えられた二双四重の教判を思い出します。二双四重の教判については詳しく説明をされている方がたくさんありますし、私には上手に説明する能力がありませんので、ここでの詳細は割愛いたします。
竪超・竪出・横超・横出。親鸞聖人は、仏教を四つに分けられました。
その中において横超、浄土真宗とご縁があったということは、たまたま弥陀の本願を聞くご縁に恵まれたこと。まったく不思議と味わわれます。
今までもよく目にしてきたこのご文は、前後も読むと次のように書かれています。
ただ男女善悪の凡夫をはたらかさぬ本形にて、本願の不思議をもって、生まるべからざるものを生まれさせたればこそ、超世の悲願ともなづけ、また横超の直道ともきこえはんべれ。この一段ことに曾祖師源空ならびに祖師親鸞已来、伝授相承の眼目たり。あえて聊爾に処すべからざるものなり。
(改邪抄)
ここでは「横超の直道」、と仰っています。「本願の不思議をもって、生まるべからざるものを生まれさせたればこそ」そのように言われるのだ、と教えられます。
また、「直」の文字から「二河白道の譬」の次のお言葉が味わわれます。
また西の岸の上に人ありて喚うて言わく、「汝一心に正念にして直ちに来れ、我よく汝を護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ」と。
(教行信証信巻)
この「直」については、
「直」の言は、回に対し迂に対するなり。また「直」の言は方便仮門を捨てて如来大願の他力に帰するなり、諸仏出世の直説を顕さしめんと欲してなり。
(愚禿抄)
とあります。「回に対し迂に対するなり」の説明が、先の
超は迂に対し回に対するの言なり。
と重なって見えます。親鸞聖人が教えられた横超、浄土真宗は、とにかく他力で貫かれていると味わわれます。
真に知りぬ。弥勒大士、等覚金剛心を窮むるがゆえに、龍華三会の暁、当に無上覚位を極むべし。念仏衆生は、横超の金剛心を窮むるがゆえに、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。かるがゆえに「便同」と曰うなり。しかのみならず、金剛心を獲る者は、すなわち韋提と等しく、すなわち喜・悟・信の忍を獲得すべし。これすなわち往相回向の真心徹到するがゆえに、不可思議の本誓に籍るがゆえなり。
(教行信証信巻)
ここでは、横超の金剛心を窮むるがゆえに、と書かれています。
また、「しかのみならず」以降の後半部分は、次の正信偈が思い出されます。
開入本願大智海 行者正受金剛心 慶喜一念相応後 与韋提等獲三忍 即証法性之常楽
(教行信証行巻)
いずれにせよ、横超の金剛心、他力信心の方がこのような弥陀の本願に相応しますので、親鸞聖人は信心を勧めていかれた、と蓮如上人は教えられました。
聖人一流の御勧化のおもむきは、信心をもって本とせられ候う。そのゆえは、もろもろの雑行をなげすてて、一心に弥陀に帰命すれば、不可思議の願力として、仏のかたより往生は治定せしめたまう。そのくらいを「一念発起入正定之聚」とも釈し、そのうえの称名念仏は、如来わが往生をさだめたまいし、御恩報尽の念仏と、こころうべきなり。
(御文5-10)
・・・
弥陀の本願が成就したことを、お釈迦さまは本願成就文と呼ばれるお言葉で説かれました。そこには、
其名号を聞きて 信心歓喜し 乃至一念することあらん
(大無量寿経)
と、名号、南無阿弥陀仏を聞いてと教えられます。その「聞」ということについては、
「聞」と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心あることなし。これを「聞」と曰うなり。
(教行信証信巻)
「聞其名号」というは、本願の名号をきくとのたまえるなり。「きく」というは、本願をききて、うたがうこころなきを「聞」というなり。また「きく」というは、信心をあらわすみのりなり。
(一念多念証文)
と親鸞聖人は説かれました。南無阿弥陀仏のいわれを聞いて疑いないことが信心であると味わわれます。
「聞即信」、聞くことがすなわち信心であるともいわれています。
・・・
古くは2ch、最近ではFacebookやtwitterなどでも見られるのですが、自分がよほど正しいと思っているのか、やたらと他人を罵倒する人があります。いろんな人があるでしょうが、多かれ少なかれ私も含めて人間の営みは、正しさの根拠に寄り添ってのものなのだな、と思ったりもしています。
1+1=2
2+2=4 ・・・
この、当たり前に思える数式も、定義によっては必ずしも「正しい」ものではなくなります。
いろいろな正しさも、「お約束」によって成り立っているに過ぎないと言えるかも知れません。 そういう意味では、「正しさ」や「確からしさ」を争うというのも空虚なものに見えてきます。
「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり。そのゆえは、如来の御こころによしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、よきをしりたるにてもあらめ、如来のあしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、あしさをしりたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」
(歎異抄)
・・・
親鸞聖人が、「ただ念仏のみぞまこと」といわれた南無阿弥陀仏は、私たちに向けてのものでした。
一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして、清浄の心なし。虚仮諂偽にして真実の心なし。ここをもって如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまいし時、三業の所修、一念・一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。如来、清浄の真心をもって、円融無碍・不可思議・不可称・不可説の至徳を成就したまえり。如来の至心をもって、諸有の一切煩悩・悪業・邪智の群生海に回施したまえり。すなわちこれ利他の真心を彰す。かるがゆえに、疑蓋雑わることなし。この至心はすなわちこれ至徳の尊号をその体とせるなり。
(教行信証信巻)
まず、仏願の起こりを私たちがいるからだといわれます。
一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして、清浄の心なし。虚仮諂偽にして真実の心なし。
そのために願いを起こし、修行されたのが弥陀如来です。
ここをもって如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまいし時、三業の所修、一念・一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。
そして南無阿弥陀仏を成就されました。
如来、清浄の真心をもって、円融無碍・不可思議・不可称・不可説の至徳を成就したまえり。
そして、それを私たちに差し向けられています。
如来の至心をもって、諸有の一切煩悩・悪業・邪智の群生海に回施したまえり。
親鸞聖人が、仏願の生起本末といわれたことを窺いますと、こう味わわれます。
仏願の生起本末を聞いて、尊く思われる方もあるでしょうし、おとぎ話のように思われる方もあるでしょう。
「こう聞けば良いか」「こんな聞き方では駄目か」、自分の思いを差し挟んでいては、弥陀のはたらきも自分の心で推し量ってしまって「疑心有ること無し」からは遠ざかってしまうかも知れません。
親鸞聖人は、どうこういわれずにただ、
「聞」と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心あることなし。これを「聞」と曰うなり。
といわれました。
・・・
浄土真宗とのご縁、出会いはまた人ぞれぞれであろうかと思います。そのご縁が、一人の人間ということもあるでしょうし、一カ所の寺ということもありましょうし、一個の宗教団体ということもあるかしれません。
いずれの場合もありましょうが、親鸞聖人のお勧めは信心をもって本とされています。どこの寺で無ければならない、どこの人で無ければならない、そのようなお勧めではありません。
「そのまま助ける」弥陀の本願を疑心有ること無しと聞くこと。
人のしがらみ、仕事のしがらみ、付き合いのしがらみ、団体のしがらみ、
それぞれの方で、それぞれのご縁もあり、しがらみもあると思います。そういう意味では、種種の「障り」もあるかしれません。
ところが「横超」といわれた浄土真宗、南無阿弥陀仏は、そういったご縁もしがらみも一切、障りにはならないと教えられます。
念仏者は、無碍の一道なり。そのいわれいかんとならば、信心の行者には、天神地祇も敬伏し、魔界外道も障碍することなし。罪悪も業報も感ずることあたわず、諸善もおよぶことなきゆえに、無碍の一道なりと云々
「いや、それは”念仏者”の話だろう」といわれるかも知れませんが、さわりもしがらみも一切を超えて、阿弥陀仏は常に寄り添われているのです。
汝いま知るやいなや、阿弥陀仏、此を去りたまうこと遠からず。
(観無量寿経)
弥陀の本願を聞けば、傍目には「近しいご縁」と感ずることも、「遠ざける障害」と歎きたくなることもすべて、お計らいだったと味わわれます。
釈迦弥陀は慈悲の父母 種種に善巧方便し われらが無上の信心を 発起せしめたまいけり
さて、どうということもありませんが、私が個人的に一区切りついた状態となりましたので、記事の更新はしばらく行わないことにしたいと思います。再開するかどうかも、時期も決めておりませんが、一応今回を一区切りとしたく思います。
なお、コメントやメッセージについては頂ければ改めてお返事いたしたく思います。
皆様に感謝、感謝です。ありがとうございました。
(3/9微修正)
(教行信証信巻)
一週間ほど前、朝食を食べている時にふと、このお言葉が頭をよぎったのでした。
・・・
「クロールの 息つぎを見て 恋終わる」
緑茶の袋に書かれていたこの言葉は、「新俳句大賞」の高校生の部の大賞に選ばれた作品とのことです。名前を見ますと、おそらく女子高生の作品だと思われます。
言葉としては認識できますし、意味もなんとなく推定できるのですが、少し私の理解を超えていたように思えました。ですので、元女子高校生だった妻にその心を聞いてみました。
妻の解説によると、息継ぎをしている時の変顔によって残念な恋の終わりを知らされた、というようなことのようです。
ひょっとしたら、違った意図を持って作られたものかも知れませんが、ひとまずはそのようなことなのだと理解して、話を進めます。
私としては、変顔を見て恋が終わるというのは、どうにも安易と言いますか、身勝手なようにも思われたのですが、移ろいやすい心を表現しているのだと味わうと頷けます。
ある一面を見たときと、別の一面を見たときと、同じものを見ていても心が変わってしまう。
夢中な時は自分にとって良いものばかりが見えていたかも知れませんが、ふとした隙間に違うものが見えてくる。
そんなことを表しているのかも知れません。
しかしながら、移ろいやすい心は恋する高校生のことだけではなく、日々の営みを紡ぐ人間について広く言えるように思います。
・・・
後輩と、「人生の目的」ということがらについて話をしたことがありました。
いろいろとご意見はあるでしょうが、「何のために自分は生きているのか」ということを掘り下げるということは、意義があることだと思います。
ところで、そもそも「人生の目的」とは何を指すのでしょうか。
自らの人生の目的を定義する時には、何が基準となるでしょうか。
自分が「これが人生の目的だ」と思う時には、それなりの理由付けがあろうかと思います。
お金、財産、家族、地位、名誉、褒賞、社会貢献、創作・・・
納得感、達成感、使命感、充足感・・・
その源を訪ねてみれば、行き着くところは「自らの幸せ」なのかもしれません。
何をもって「幸せ」とするか。「自らの幸せ」を「自ら」が考える限り、どうあっても自らの知識や価値観等の範疇に収まるのではないかと思います。
ある「答え」を提示されて考えが変わったように見えたとしても、自らの思考で判断する限りは、やはり自らの知識や価値観等の範疇になってくるのではないかと思います。
ああなりたい、こうなりたい、
自らの人生の主題を、このような「求め」や「願望」の上に置いたとすると、
何かが変わらない限りそれは、未だ満たされない「願い」に留まると言えるかも知れません。
・・・
横超とはすなはち願成就 一実円満の真教、真宗これなり
(教行信証信巻)
弥陀の願いは、願いだけに留まらず、成就されている、と説かれています。
しかもその願いは自らのものではなく、願力として私たちに掛けられている、そこに深い頼もしさを覚えます。
「横超」という言葉を聞きますと、親鸞聖人の教えられた二双四重の教判を思い出します。二双四重の教判については詳しく説明をされている方がたくさんありますし、私には上手に説明する能力がありませんので、ここでの詳細は割愛いたします。
竪超・竪出・横超・横出。親鸞聖人は、仏教を四つに分けられました。
その中において横超、浄土真宗とご縁があったということは、たまたま弥陀の本願を聞くご縁に恵まれたこと。まったく不思議と味わわれます。
今までもよく目にしてきたこのご文は、前後も読むと次のように書かれています。
横超断四流というは、横超とは、横は竪超・竪出に対す、超は迂に対し回に対するの言なり。
竪超とは大乗真実の教なり。竪出とは大乗権方便の教、二乗・三乗迂回の教なり。
横超とはすなはち願成就一実円満の真教、真宗これなり。
また横出あり、すなはち三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり。
大願清浄の報土には品位階次をいわず。一念須臾のあひだに、すみやかに疾く無上正真道を超証す。ゆえに横超というなり。
横は竪超・竪出に対す、超は迂に対し回に対するの言なり、と言われています。
竪、自力聖道門に対する言葉であり、迂や回、回り道に対する言葉と言われています。
横超、まっすぐ、と聞きますと、覚如上人の次のお言葉を思い出します。
横は竪超・竪出に対す、超は迂に対し回に対するの言なり、と言われています。
竪、自力聖道門に対する言葉であり、迂や回、回り道に対する言葉と言われています。
横超、まっすぐ、と聞きますと、覚如上人の次のお言葉を思い出します。
ただ男女善悪の凡夫をはたらかさぬ本形にて、本願の不思議をもって、生まるべからざるものを生まれさせたればこそ、超世の悲願ともなづけ、また横超の直道ともきこえはんべれ。この一段ことに曾祖師源空ならびに祖師親鸞已来、伝授相承の眼目たり。あえて聊爾に処すべからざるものなり。
(改邪抄)
ここでは「横超の直道」、と仰っています。「本願の不思議をもって、生まるべからざるものを生まれさせたればこそ」そのように言われるのだ、と教えられます。
また、「直」の文字から「二河白道の譬」の次のお言葉が味わわれます。
また西の岸の上に人ありて喚うて言わく、「汝一心に正念にして直ちに来れ、我よく汝を護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ」と。
(教行信証信巻)
この「直」については、
「直」の言は、回に対し迂に対するなり。また「直」の言は方便仮門を捨てて如来大願の他力に帰するなり、諸仏出世の直説を顕さしめんと欲してなり。
(愚禿抄)
とあります。「回に対し迂に対するなり」の説明が、先の
超は迂に対し回に対するの言なり。
と重なって見えます。親鸞聖人が教えられた横超、浄土真宗は、とにかく他力で貫かれていると味わわれます。
先ほど挙げました「横超断四流」のお言葉を読みますと、報土往生と同時に成仏するから横超、と教えられています。私には、次のお言葉が思い出されます。
真に知りぬ。弥勒大士、等覚金剛心を窮むるがゆえに、龍華三会の暁、当に無上覚位を極むべし。念仏衆生は、横超の金剛心を窮むるがゆえに、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。かるがゆえに「便同」と曰うなり。しかのみならず、金剛心を獲る者は、すなわち韋提と等しく、すなわち喜・悟・信の忍を獲得すべし。これすなわち往相回向の真心徹到するがゆえに、不可思議の本誓に籍るがゆえなり。
(教行信証信巻)
ここでは、横超の金剛心を窮むるがゆえに、と書かれています。
また、「しかのみならず」以降の後半部分は、次の正信偈が思い出されます。
開入本願大智海 行者正受金剛心 慶喜一念相応後 与韋提等獲三忍 即証法性之常楽
(教行信証行巻)
いずれにせよ、横超の金剛心、他力信心の方がこのような弥陀の本願に相応しますので、親鸞聖人は信心を勧めていかれた、と蓮如上人は教えられました。
聖人一流の御勧化のおもむきは、信心をもって本とせられ候う。そのゆえは、もろもろの雑行をなげすてて、一心に弥陀に帰命すれば、不可思議の願力として、仏のかたより往生は治定せしめたまう。そのくらいを「一念発起入正定之聚」とも釈し、そのうえの称名念仏は、如来わが往生をさだめたまいし、御恩報尽の念仏と、こころうべきなり。
(御文5-10)
・・・
弥陀の本願が成就したことを、お釈迦さまは本願成就文と呼ばれるお言葉で説かれました。そこには、
其名号を聞きて 信心歓喜し 乃至一念することあらん
(大無量寿経)
と、名号、南無阿弥陀仏を聞いてと教えられます。その「聞」ということについては、
「聞」と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心あることなし。これを「聞」と曰うなり。
(教行信証信巻)
「聞其名号」というは、本願の名号をきくとのたまえるなり。「きく」というは、本願をききて、うたがうこころなきを「聞」というなり。また「きく」というは、信心をあらわすみのりなり。
(一念多念証文)
と親鸞聖人は説かれました。南無阿弥陀仏のいわれを聞いて疑いないことが信心であると味わわれます。
「聞即信」、聞くことがすなわち信心であるともいわれています。
・・・
古くは2ch、最近ではFacebookやtwitterなどでも見られるのですが、自分がよほど正しいと思っているのか、やたらと他人を罵倒する人があります。いろんな人があるでしょうが、多かれ少なかれ私も含めて人間の営みは、正しさの根拠に寄り添ってのものなのだな、と思ったりもしています。
1+1=2
2+2=4 ・・・
この、当たり前に思える数式も、定義によっては必ずしも「正しい」ものではなくなります。
いろいろな正しさも、「お約束」によって成り立っているに過ぎないと言えるかも知れません。 そういう意味では、「正しさ」や「確からしさ」を争うというのも空虚なものに見えてきます。
「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり。そのゆえは、如来の御こころによしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、よきをしりたるにてもあらめ、如来のあしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、あしさをしりたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」
(歎異抄)
・・・
親鸞聖人が、「ただ念仏のみぞまこと」といわれた南無阿弥陀仏は、私たちに向けてのものでした。
一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして、清浄の心なし。虚仮諂偽にして真実の心なし。ここをもって如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまいし時、三業の所修、一念・一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。如来、清浄の真心をもって、円融無碍・不可思議・不可称・不可説の至徳を成就したまえり。如来の至心をもって、諸有の一切煩悩・悪業・邪智の群生海に回施したまえり。すなわちこれ利他の真心を彰す。かるがゆえに、疑蓋雑わることなし。この至心はすなわちこれ至徳の尊号をその体とせるなり。
(教行信証信巻)
まず、仏願の起こりを私たちがいるからだといわれます。
一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして、清浄の心なし。虚仮諂偽にして真実の心なし。
そのために願いを起こし、修行されたのが弥陀如来です。
ここをもって如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまいし時、三業の所修、一念・一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。
そして南無阿弥陀仏を成就されました。
如来、清浄の真心をもって、円融無碍・不可思議・不可称・不可説の至徳を成就したまえり。
そして、それを私たちに差し向けられています。
如来の至心をもって、諸有の一切煩悩・悪業・邪智の群生海に回施したまえり。
親鸞聖人が、仏願の生起本末といわれたことを窺いますと、こう味わわれます。
仏願の生起本末を聞いて、尊く思われる方もあるでしょうし、おとぎ話のように思われる方もあるでしょう。
「こう聞けば良いか」「こんな聞き方では駄目か」、自分の思いを差し挟んでいては、弥陀のはたらきも自分の心で推し量ってしまって「疑心有ること無し」からは遠ざかってしまうかも知れません。
親鸞聖人は、どうこういわれずにただ、
「聞」と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心あることなし。これを「聞」と曰うなり。
といわれました。
・・・
浄土真宗とのご縁、出会いはまた人ぞれぞれであろうかと思います。そのご縁が、一人の人間ということもあるでしょうし、一カ所の寺ということもありましょうし、一個の宗教団体ということもあるかしれません。
いずれの場合もありましょうが、親鸞聖人のお勧めは信心をもって本とされています。どこの寺で無ければならない、どこの人で無ければならない、そのようなお勧めではありません。
「そのまま助ける」弥陀の本願を疑心有ること無しと聞くこと。
人のしがらみ、仕事のしがらみ、付き合いのしがらみ、団体のしがらみ、
それぞれの方で、それぞれのご縁もあり、しがらみもあると思います。そういう意味では、種種の「障り」もあるかしれません。
ところが「横超」といわれた浄土真宗、南無阿弥陀仏は、そういったご縁もしがらみも一切、障りにはならないと教えられます。
念仏者は、無碍の一道なり。そのいわれいかんとならば、信心の行者には、天神地祇も敬伏し、魔界外道も障碍することなし。罪悪も業報も感ずることあたわず、諸善もおよぶことなきゆえに、無碍の一道なりと云々
「いや、それは”念仏者”の話だろう」といわれるかも知れませんが、さわりもしがらみも一切を超えて、阿弥陀仏は常に寄り添われているのです。
汝いま知るやいなや、阿弥陀仏、此を去りたまうこと遠からず。
(観無量寿経)
弥陀の本願を聞けば、傍目には「近しいご縁」と感ずることも、「遠ざける障害」と歎きたくなることもすべて、お計らいだったと味わわれます。
釈迦弥陀は慈悲の父母 種種に善巧方便し われらが無上の信心を 発起せしめたまいけり
(高僧和讃)
私が偉そうなことを言うのも憚られますが、お念仏の方もそうでない方も、共に南無阿弥陀仏を味わえれば有り難いご縁だと思います。まとまってないかもしれませんが、今回はそのような思いも込めて、「超」の字を当ててみました。
私が偉そうなことを言うのも憚られますが、お念仏の方もそうでない方も、共に南無阿弥陀仏を味わえれば有り難いご縁だと思います。まとまってないかもしれませんが、今回はそのような思いも込めて、「超」の字を当ててみました。
さて、どうということもありませんが、私が個人的に一区切りついた状態となりましたので、記事の更新はしばらく行わないことにしたいと思います。再開するかどうかも、時期も決めておりませんが、一応今回を一区切りとしたく思います。
なお、コメントやメッセージについては頂ければ改めてお返事いたしたく思います。
皆様に感謝、感謝です。ありがとうございました。
(3/9微修正)