あさ川進の、宗教と私

浄土真宗親鸞会に所属しながらアウトサイダーだった私(現在は会員でなくなりました)が、宗教(浄土真宗親鸞会)との付き合い方を考えつつ書いている更新頻度が低いブログ(この説明も暫定です)リンクフリーです。 なお、投稿文を受け付けております。「【投稿文】【○○さん】」と書かれている記事は、いただいた投稿文です。後ろ【】に投稿主の方の名前を表示しております(2020/6/20)。投稿文の内容や行事案内等については、投稿主に直接ご連絡ください。

2014年02月

横超とはすなはち願成就 一実円満の真教、真宗これなり
(教行信証信巻)

一週間ほど前、朝食を食べている時にふと、このお言葉が頭をよぎったのでした。


・・・


「クロールの 息つぎを見て 恋終わる」


緑茶の袋に書かれていたこの言葉は、「新俳句大賞」の高校生の部の大賞に選ばれた作品とのことです。名前を見ますと、おそらく女子高生の作品だと思われます。


言葉としては認識できますし、意味もなんとなく推定できるのですが、少し私の理解を超えていたように思えました。ですので、元女子高校生だった妻にその心を聞いてみました。


妻の解説によると、息継ぎをしている時の変顔によって残念な恋の終わりを知らされた、というようなことのようです。


ひょっとしたら、違った意図を持って作られたものかも知れませんが、ひとまずはそのようなことなのだと理解して、話を進めます。


私としては、変顔を見て恋が終わるというのは、どうにも安易と言いますか、身勝手なようにも思われたのですが、移ろいやすい心を表現しているのだと味わうと頷けます。


ある一面を見たときと、別の一面を見たときと、同じものを見ていても心が変わってしまう。
夢中な時は自分にとって良いものばかりが見えていたかも知れませんが、ふとした隙間に違うものが見えてくる。
そんなことを表しているのかも知れません。

しかしながら、移ろいやすい心は恋する高校生のことだけではなく、日々の営みを紡ぐ人間について広く言えるように思います。


・・・


後輩と、「人生の目的」ということがらについて話をしたことがありました。


いろいろとご意見はあるでしょうが、「何のために自分は生きているのか」ということを掘り下げるということは、意義があることだと思います。


ところで、そもそも「人生の目的」とは何を指すのでしょうか。
自らの人生の目的を定義する時には、何が基準となるでしょうか。

自分が「これが人生の目的だ」と思う時には、それなりの理由付けがあろうかと思います。


お金、財産、家族、地位、名誉、褒賞、社会貢献、創作・・・

納得感、達成感、使命感、充足感・・・


その源を訪ねてみれば、行き着くところは「自らの幸せ」なのかもしれません。


何をもって「幸せ」とするか。「自らの幸せ」を「自ら」が考える限り、どうあっても自らの知識や価値観等の範疇に収まるのではないかと思います。


ある「答え」を提示されて考えが変わったように見えたとしても、自らの思考で判断する限りは、やはり自らの知識や価値観等の範疇になってくるのではないかと思います。


ああなりたい、こうなりたい、

自らの人生の主題を、このような「求め」や「願望」の上に置いたとすると、
何かが変わらない限りそれは、未だ満たされない「願い」に留まると言えるかも知れません。


・・・


横超とはすなはち願成就 一実円満の真教、真宗これなり
(教行信証信巻)


弥陀の願いは、願いだけに留まらず、成就されている、と説かれています。
しかもその願いは自らのものではなく、願力として私たちに掛けられている、そこに深い頼もしさを覚えます。


「横超」という言葉を聞きますと、親鸞聖人の教えられた二双四重の教判を思い出します。二双四重の教判については詳しく説明をされている方がたくさんありますし、私には上手に説明する能力がありませんので、ここでの詳細は割愛いたします。


竪超・竪出・横超・横出。親鸞聖人は、仏教を四つに分けられました。


その中において横超、浄土真宗とご縁があったということは、たまたま弥陀の本願を聞くご縁に恵まれたこと。まったく不思議と味わわれます。

今までもよく目にしてきたこのご文は、前後も読むと次のように書かれています。


横超断四流というは、横超とは、横は竪超・竪出に対す、超は迂に対し回に対するの言なり。
竪超とは大乗真実の教なり。竪出とは大乗権方便の教、二乗・三乗迂回の教なり。
横超とはすなはち願成就一実円満の真教、真宗これなり。
また横出あり、すなはち三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり。
大願清浄の報土には品位階次をいわず。一念須臾のあひだに、すみやかに疾く無上正真道を超証す。ゆえに横超というなり。


横は竪超・竪出に対す、超は迂に対し回に対するの言なり、と言われています。
竪、自力聖道門に対する言葉であり、迂や回、回り道に対する言葉と言われています。

横超、まっすぐ、と聞きますと、覚如上人の次のお言葉を思い出します。 


ただ男女善悪の凡夫をはたらかさぬ本形にて、本願の不思議をもって、生まるべからざるものを生まれさせたればこそ、超世の悲願ともなづけ、また横超の直道ともきこえはんべれ。この一段ことに曾祖師源空ならびに祖師親鸞已来、伝授相承の眼目たり。あえて聊爾に処すべからざるものなり。
(改邪抄)


ここでは「横超の直道」、と仰っています。「本願の不思議をもって、生まるべからざるものを生まれさせたればこそ」そのように言われるのだ、と教えられます。
また、「直」の文字から「二河白道の譬」の次のお言葉が味わわれます。


また西の岸の上に人ありて喚うて言わく、「汝一心に正念にして直ちに来れ、我よく汝を護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ」と。
(教行信証信巻)


この「直」については、


「直」の言は、回に対し迂に対するなり。また「直」の言は方便仮門を捨てて如来大願の他力に帰するなり、諸仏出世の直説を顕さしめんと欲してなり。
(愚禿抄)


とあります。「回に対し迂に対するなり」の説明が、先の


超は迂に対し回に対するの言なり。


と重なって見えます。親鸞聖人が教えられた横超、浄土真宗は、とにかく他力で貫かれていると味わわれます。


先ほど挙げました「横超断四流」のお言葉を読みますと、報土往生と同時に成仏するから横超、と教えられています。私には、次のお言葉が思い出されます。


真に知りぬ。弥勒大士、等覚金剛心を窮むるがゆえに、龍華三会の暁、当に無上覚位を極むべし。念仏衆生は、横超の金剛心を窮むるがゆえに、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。かるがゆえに「便同」と曰うなり。しかのみならず、金剛心を獲る者は、すなわち韋提と等しく、すなわち喜・悟・信の忍を獲得すべし。これすなわち往相回向の真心徹到するがゆえに、不可思議の本誓に籍るがゆえなり。
 (教行信証信巻)


ここでは、横超の金剛心を窮むるがゆえに、と書かれています。
また、「しかのみならず」以降の後半部分は、次の正信偈が思い出されます。


開入本願大智海 行者正受金剛心 慶喜一念相応後 与韋提等獲三忍 即証法性之常楽
(教行信証行巻) 


いずれにせよ、横超の金剛心、他力信心の方がこのような弥陀の本願に相応しますので、親鸞聖人は信心を勧めていかれた、と蓮如上人は教えられました。


聖人一流の御勧化のおもむきは、信心をもって本とせられ候う。そのゆえは、もろもろの雑行をなげすてて、一心に弥陀に帰命すれば、不可思議の願力として、仏のかたより往生は治定せしめたまう。そのくらいを「一念発起入正定之聚」とも釈し、そのうえの称名念仏は、如来わが往生をさだめたまいし、御恩報尽の念仏と、こころうべきなり。
(御文5-10)


・・・


弥陀の本願が成就したことを、お釈迦さまは本願成就文と呼ばれるお言葉で説かれました。そこには、


其名号を聞きて 信心歓喜し 乃至一念することあらん
(大無量寿経)

 
と、名号、南無阿弥陀仏を聞いてと教えられます。その「聞」ということについては、


「聞」と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心あることなし。これを「聞」と曰うなり。
(教行信証信巻)

「聞其名号」というは、本願の名号をきくとのたまえるなり。「きく」というは、本願をききて、うたがうこころなきを「聞」というなり。また「きく」というは、信心をあらわすみのりなり。
(一念多念証文)


と親鸞聖人は説かれました。南無阿弥陀仏のいわれを聞いて疑いないことが信心であると味わわれます。
「聞即信」、聞くことがすなわち信心であるともいわれています。


・・・


古くは2ch、最近ではFacebookやtwitterなどでも見られるのですが、自分がよほど正しいと思っているのか、やたらと他人を罵倒する人があります。いろんな人があるでしょうが、多かれ少なかれ私も含めて人間の営みは、正しさの根拠に寄り添ってのものなのだな、と思ったりもしています。


1+1=2
2+2=4 ・・・


この、当たり前に思える数式も、定義によっては必ずしも「正しい」ものではなくなります。
いろいろな正しさも、「お約束」によって成り立っているに過ぎないと言えるかも知れません。 そういう意味では、「正しさ」や「確からしさ」を争うというのも空虚なものに見えてきます。


「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり。そのゆえは、如来の御こころによしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、よきをしりたるにてもあらめ、如来のあしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、あしさをしりたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」
(歎異抄)

 
・・・


親鸞聖人が、「ただ念仏のみぞまこと」といわれた南無阿弥陀仏は、私たちに向けてのものでした。


一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして、清浄の心なし。虚仮諂偽にして真実の心なし。ここをもって如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまいし時、三業の所修、一念・一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。如来、清浄の真心をもって、円融無碍・不可思議・不可称・不可説の至徳を成就したまえり。如来の至心をもって、諸有の一切煩悩・悪業・邪智の群生海に回施したまえり。すなわちこれ利他の真心を彰す。かるがゆえに、疑蓋雑わることなし。この至心はすなわちこれ至徳の尊号をその体とせるなり。
(教行信証信巻)

 
まず、仏願の起こりを私たちがいるからだといわれます。

一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして、清浄の心なし。虚仮諂偽にして真実の心なし。


そのために願いを起こし、修行されたのが弥陀如来です。

ここをもって如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまいし時、三業の所修、一念・一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。


そして南無阿弥陀仏を成就されました。

如来、清浄の真心をもって、円融無碍・不可思議・不可称・不可説の至徳を成就したまえり。


そして、それを私たちに差し向けられています。

如来の至心をもって、諸有の一切煩悩・悪業・邪智の群生海に回施したまえり。


親鸞聖人が、仏願の生起本末といわれたことを窺いますと、こう味わわれます。

仏願の生起本末を聞いて、尊く思われる方もあるでしょうし、おとぎ話のように思われる方もあるでしょう。

「こう聞けば良いか」「こんな聞き方では駄目か」、自分の思いを差し挟んでいては、弥陀のはたらきも自分の心で推し量ってしまって「疑心有ること無し」からは遠ざかってしまうかも知れません。


親鸞聖人は、どうこういわれずにただ、


「聞」と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心あることなし。これを「聞」と曰うなり。


といわれました。


・・・


浄土真宗とのご縁、出会いはまた人ぞれぞれであろうかと思います。そのご縁が、一人の人間ということもあるでしょうし、一カ所の寺ということもありましょうし、一個の宗教団体ということもあるかしれません。

 
いずれの場合もありましょうが、親鸞聖人のお勧めは信心をもって本とされています。どこの寺で無ければならない、どこの人で無ければならない、そのようなお勧めではありません。


「そのまま助ける」弥陀の本願を疑心有ること無しと聞くこと。
 

人のしがらみ、仕事のしがらみ、付き合いのしがらみ、団体のしがらみ、


それぞれの方で、それぞれのご縁もあり、しがらみもあると思います。そういう意味では、種種の「障り」もあるかしれません。


ところが「横超」といわれた浄土真宗、南無阿弥陀仏は、そういったご縁もしがらみも一切、障りにはならないと教えられます。


念仏者は、無碍の一道なり。そのいわれいかんとならば、信心の行者には、天神地祇も敬伏し、魔界外道も障碍することなし。罪悪も業報も感ずることあたわず、諸善もおよぶことなきゆえに、無碍の一道なりと云々


「いや、それは”念仏者”の話だろう」といわれるかも知れませんが、さわりもしがらみも一切を超えて、阿弥陀仏は常に寄り添われているのです。 


汝いま知るやいなや、阿弥陀仏、此を去りたまうこと遠からず。
(観無量寿経)


弥陀の本願を聞けば、傍目には「近しいご縁」と感ずることも、「遠ざける障害」と歎きたくなることもすべて、お計らいだったと味わわれます。


釈迦弥陀は慈悲の父母  種種に善巧方便し  われらが無上の信心を  発起せしめたまいけり
(高僧和讃)

 
私が偉そうなことを言うのも憚られますが、お念仏の方もそうでない方も、共に南無阿弥陀仏を味わえれば有り難いご縁だと思います。まとまってないかもしれませんが、今回はそのような思いも込めて、「超」の字を当ててみました。





さて、どうということもありませんが、私が個人的に一区切りついた状態となりましたので、記事の更新はしばらく行わないことにしたいと思います。再開するかどうかも、時期も決めておりませんが、一応今回を一区切りとしたく思います。
なお、コメントやメッセージについては頂ければ改めてお返事いたしたく思います。
皆様に感謝、感謝です。ありがとうございました。
 

(3/9微修正) 

専修念仏のともがらの、わが弟子ひとの弟子、という相論のそうろうらんこと、もってのほかの子細なり。親鸞は弟子一人ももたずそうろう。そのゆえは、わがはからいにて、ひとに念仏をもうさせそうらわばこそ、弟子にてもそうらわめ。ひとえに弥陀の御もよおしにあずかって、念仏もうしそうろうひとを、わが弟子ともうすこと、きわめたる荒涼のことなり。つくべき縁あればともない、はなるべき縁あれば、はなるることのあるをも、師をそむきて、ひとにつれて念仏すれば、往生すべからざるものなりなんどいうこと、不可説なり。如来よりたまわりたる信心を、わがものがおに、とりかえさんともうすにや。かえすがえすもあるべからざることなり。自然のことわりにあいかなわば、仏恩をもしり、また師の恩をもしるべきなりと云々
(歎異抄六章)


「親鸞会館に来ることは遠慮して欲しい」と言われてから約一ヶ月、行事連絡等は特にありませんでしたが、先日、お約束していた講師部員の方とのお話をしました。


ブログについてお話がありまして、「本会としては、これ以上本会の学徒としていてもらうわけにはいかない、ということになった」ということになりましたので、
「ブログの内容が不適切だったため、除名となったと承りました」というお話をして、御名号をお預けしました。 

私としては、今回の事実に対しての判断については、あくまで受け取り側の立場においての問題ですのでそれについて争うつもりは無く、ただ事実で無いことを混ぜて扱われなければ構わない、ということでお話ししました。


一時間半ほどお話をしました。


法然上人のお弟子の西阿のお話などをしていただきました。

私からは、皆さんに対しての感謝を申し上げました。また、

・親鸞会が開かれた存在となって欲しい
・『なぜ2』について質問が多いだろうから、新聞等で広く解説して欲しい
(本来は、読者は会員さんだけではないでしょうから一般の方にもわかるように)
・ネット上では法論を希望している方があるので、ぜひとも応じてもらいたい
・皆さんと会えなくなることと、ビーヤングの漫画が読めなくなることが残念である

などといったこともあわせてお話ししました。


除名理由を文書では受け取っていませんし、何月何日付での除名なのかも判然としませんが、私に自主退会の選択肢が無いことはおそらく了解をいただいていたのか、上記のやりとりになりました。
実際に会員さんにどのような説明があるのかは分かりませんが、事実を説明頂ければ結構です、とお話ししました。
 

重ねてお話ししたのは、弥陀の本願とのご縁も含めて親鸞会の皆さんにはお世話になりました、ということでした。
また縁あれば連絡をくれ、というお話と、縁があればまた共に信心の沙汰をしたい、というお話を頂きました。私としては、会員であるとかないとかいうことで人間関係を変えるつもりはありませんので、ご縁がどうなるかは分かりませんが、ご縁があれば連絡はさせてもらいますしお話もできれば、というお話をしました。 


とりいそぎそのようなところです。 

先週ほどの大雪にはならないという予報だったのですが、蓋を開けてみれば先週は43センチ、今回は62センチの積雪だったという私の地元です。雪国ならともかく、雪になれていない関東平野部にはなかなか重い雪です。そんな雪の中を歩きながら、「雨風雪はもののかずかは」という言葉を思い出しました。


親鸞会の行事日程の連絡も一切来なくなりましたし、会館に来るのも遠慮して欲しいと言われているので行きませんが、順調にいけば今日はテレビ座談会か何かだったと思います。自分自身のことを振り返りつつ、皆さん、「雨風雪はもののかずかは」と参詣されているのかな、と思いを馳せています。


さて、書こうと思っていることも無いわけではないのですが、まったく頭の中でまとまらないので更新が止まっています。といっても、あまり放置していてもなあと個人的に思いますので、今日はまとまらないまんま思い出したことを書きます。 


とあるブログの読者の方が数ヶ月前にメールで寄越してくれた内容、これが今でも印象に残っています。
この人は、このブログでは珍しい(と思います)親鸞会の会員歴の無い人です。あまり詳しいことは書きませんが、近しい人が親鸞会で、それが縁となってか、弥陀の本願とご縁があり喜んでいる人です。経緯はよく分かりませんが、親鸞会で聞いていたわけではなく、自分でいろいろ探して法話などに足を運んでいたとのことです。

いわゆる、親鸞会から見たら外部の人ということになるのですが、外から親鸞会をたらこう見えた、ということだそうです。文脈については語らないでおきます。


結局は親鸞会のシステムが都合良いんだな、と。
自発的に求めなくても放っておいても、勉強会や法話のお知らせが来る。
親鸞会だけでスケジュールが埋まっていく。
自分がとても頑張ってる感覚を持てる。意味のある人生だと感じられる。
いつかは下がってしまうモチベーションを上げてくれる試験や体験発表もある。
富山は遠いかもしれないけど、慣れた土地。慣れ親しんだ人達も必ず居る。孤独や不安にはならない。
善知識から聞いているという安心感。失敗を恐れなくてもいい、保証付きの法話。

親鸞会は親切だと思いますよ。
ベルトコンベアで流れてくるように「仏法とのご縁」がやってくる。
特に仏教とのご縁(ツテ)が薄かった人にとっては、ラクで安心感があって便利だと思います。

まあ、結局は私自身がツテのないままに求めるようになったから、こんなことを思うのですが。
いざ探すとなると、どこに誰に尋ねたらいいのか、どうしたらいいのか分からなかったですから。

 法話でも本でも、まずは自分で探すしかなかった。
でも、当たり外れ(と言うのはアレですが)は聞かないと分からない。
変な話を聞かされるかもしれない。無駄足になるかもしれない。
はじめは知り合いも居ませんでしたし。

(中略)

富山へ月に何度も通うのももちろん大変ですし、お金もかかりますし、時間も取られますけどね。
でも、その代わりに失敗する不安は避けられるし、受身でも続けられる。
小・中・高・大学まで一貫のエスカレーター式の学校に入ったような感じでしょうか。

だけど、本人にその自覚が無い。だからタチが悪いかもしれません。

 
私はこの是非を論ずる気はありませんけれども、親鸞会がよくできた仕組みである、という思いはあります。以前にISO9001を、などと突っ込んだことはありましたが、それでも「ご縁の浅い」状態から少なくとも親鸞聖人や蓮如上人の言葉をそらんじることができるまでになるというのは、考えてみればすごいことだなあと思います。

カリキュラムは年代によって変わってきたかも知れませんが、言われてみれば「親鸞会カリキュラム」のようなものがあって、会員さんは(私も含めて)だいたいそれに乗っかって「ご縁を深めて」いっていたように思います。


そういうご縁はそういうご縁として、この人のように親鸞会という団体のシステムに乗らないご縁の方というのももちろん少なくないわけです。ちなみにこの人は、今も正信偈をそらんじることができないそうです。失礼ながら、私の感覚には無かった話なのですが、考えてみれば全く不思議なことではありません。


私は、その親鸞会の仕組みからは外れていたわけですが、親鸞会の中で頑張っていると、知らず知らずのうちに「求道の道程」のイメージがついてしまって、そこから外れることへの不安や恐れというものがあるのかもしれません。かくいう私も、学生時代に「ご法話にご縁が無くなった時が終わりだ」と思っていましたが、まさに「外れることへの不安」の裏返しだったと思います。



別に、親鸞会で勧められる事柄について行ける人だけの本願ではありません。それぞれのご縁は、いろいろなご方便だと味わわれます。


釈迦弥陀は慈悲の父母 種種に善巧方便し われらが無上の信心を 発起せしめたまいけり


もっと言えば、求道の道程だけでは無く「信心」さえも自分のイメージがついてしまって、それに向かってしまうということもあるか知れません。
 

あまりまとまってないように思いますが、今回はこの辺にて失礼します。
 

先回の更新で、何人かの方からコメントを頂きました。また、個人的にメールを下さった方も何人かありました。ありがとうございます。メールについては、未だに返信し切れておりません。すみません。今しばらくお待ち頂ければと思います。また、個人的にメールを送ろうと思っていて送れていない方もあります。

 
「今後、親鸞会情報は書かないと思います」という宣言をしました。なので、そういうことを目当てにいらしていた方は訪問されなくなるかなと思っていたのですが、 数日のユニークユーザ数を見る限りでは以前とほとんど変わりませんでした。ありがとうございます。


「次回お話しする日程」については、今のところ今月の26日をお願いしております。これは仕事の都合とかそういうことではなく、思い入れのある日程だからです。昨年書いた記事をこの日に当てたのも、その思い入れによるところがあったのですが、 昨年とはまた違った心持ちで迎えることになるかと思います。


今までも特段、親鸞会の悪口を書いてきたつもりはありませんし、今のところ今後も書くつもりはありません。 しばらくは親鸞会の親の字も出さないような記事を書こうかとも思っていたのですが、「宗教と私」を書く上に於いてはどうしても親鸞会が出てきてしまうなと思いましたので、書かなくても良くなるまでは親鸞会の話題は出てくるかと思います。



さて、頂いたメールの中に、「最近は飛雲や安心問答を引用していることが増えてきていたので、心配していた」という内容がありました。私はあくまで弥陀の本願を味わうために書いたつもりだったのですが、そういえば会員のくせに親鸞会系のサイトを引用した記憶はほとんどありませんでした。


これについては、「親鸞会公式ブログポータル」をご覧頂けると、お分かりになるかしれません。

http://xn--6oqq14l22m.com/

 
最近は特に、会館の話題とかそういうのが目立って、「親鸞聖人のお言葉」が見られないように思ったものでした。読者層が違うからなのでしょうが、親鸞会を縁として弥陀の本願との縁があった私としては、その辺寂しく思っていたのも事実です。そんなことを過去にも言ったり書いたりしていたかもしれません。親鸞会のホームページでも参照してれば良かったのにと言われれば、確かにそうかなとも思います。


短いですが、今日はこのくらいにします。 

今日は親鸞会館にてご法話が行われているはずなのですが、私はご縁なくなりました。


私自身の自覚においても、最近の記事はずいぶん粗雑になっている感じがして、そもそものブログの趣旨からはまた外れていっているような気がしておりました。 今までも外れていることは少なくなかったのですが、それでも、先日再度ご紹介した「思い入れのある記事」にあるように、一応は趣旨に沿うような記事も書いてきたつもりです。とはいえ、分量から言えば「粗雑な記事」のほうが多くなっている、と言われたら否定できません。


私の中でこのブログは、(当初はけっこうあやふやでしたが)一言で言えば「弥陀の本願は、親鸞会という狭い枠におさまるものではない」ということを言いたいものでした。この辺の文言はいろいろ言い方があるのかもしれませんが、たとえば「親鸞会の中にいても外にいても、隔てないのが弥陀の本願」というようにも思っています。


いまいち何のために書いているのか分からないような「会員さんなら誰でも知っているような親鸞会情報」も、弥陀の本願を説いているはずの親鸞会なので、当然に親鸞会も隔てない存在であってほしい、という趣旨から書き始めたものでした。


ただ、やはりもともと親鸞会が嫌いと言っていた私のこと、最近は突き放したような書き方が多くなってきていて、ご覧になった方もあまりよく思われないかもしれない、という思いは少し持っていました。そう思ってはいても、なかなか軌道修正できずにおりました。


そんな折りに、講師部員の方から電話が掛かってきまして、ブログの件についての指摘があり、

「本会としては今後、親鸞会館に来ることを遠慮してもらいたい」

と言われました。すでにMLなども解除されているようで、これが何を意味するかはおそらくおわかりになると思います。冒頭、「ご縁がなくなりました」と書いたのは、「(おそらく今後)行かないことになった」ということです。
 

この件については確認中のこともあり、また月末にお話しするご縁があるそうなので、そのときまた講師部員の方とお話ししたいと思います。推測でものを語ってはいけないと思いますので、この件はこれくらいにします。


従って今後、「親鸞会情報」を目当てにされていた方については、このブログはその用をなさなくなる可能性が高くなります、ということを取り急ぎお伝えします。



ちなみに、講師部員の方にも再三お話ししてきたことですが、少なくとも今においては、親鸞会との縁があったからこそ弥陀の本願を知ることができた、ということは私の中では変わらず思っていることです。その点において親鸞会には感謝しておりますし、会員さんにも非常によくしていただきました。個人的な恨みつらみなどはありません。ただ、一つ個人的な思いとしては、もっとオープンであってもらいたかった、ということでしょうか。(これはあまり露骨に言ってませんでした)


今後の展開は分かりませんが、当面ブログは続けていく予定です。
おそらく親鸞会情報を書かなくなると思います。ですので更新頻度は少なくなるでしょうが、なるべく趣旨に沿った内容になるように努めたいと思います。


「思い入れのある記事」を読んで、この件もあって、改めて振り返る機会がありました。そういう意味では、これも良い縁なのだろうと思います。ただ、私を応援してくださった皆様と会員さんに対しては申し訳ない気持ちです。


私の経験からすると、今感謝を述べていてもだんだん良からぬ感情が増えてくるような心配をしています。
ですので、今のうちに、親鸞会あるいはこのブログにてご縁のあった皆様に感謝いたします。 
 

あまりまとまっておりませんが、今日は以上といたします。 

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