あさ川進の、宗教と私

浄土真宗親鸞会に所属しながらアウトサイダーだった私(現在は会員でなくなりました)が、宗教(浄土真宗親鸞会)との付き合い方を考えつつ書いている更新頻度が低いブログ(この説明も暫定です)リンクフリーです。なお、投稿文を受け付けております。「【投稿文】」と書かれている記事は、頂いた投稿文です。

2014年04月

4/5の振り返りも(1)で止まったまま3週間が過ぎてしまいました。その振り返りの続きをするのかと思いきや、今回はそういうわけでもなく別のことを書きます。メールを頂いたり、法話案内を頂いたり、いろいろとご親切をいただいているのですが、なかなかお返事できなくて失礼をしております。私は一応元気でおります。
GWは、例年よりは休めそうです。


さて、私が結婚したということで、友人からちょっと変わったお祝いを頂きました。 

『顕浄土真実教行証文類 翻刻篇』 と書いてあります。教行信証の坂東本を、親鸞聖人の書かれた通りの文字や配列で復刻したものだそうです。そのようなわけで、漢文です。ちなみに、宗学院では教行信証の勉強を漢文で行うのだとその人は言ってました。


翻刻篇はその通り漢文なのですが、附録篇として教行信証の中で使われている漢字や字体、どこに使われているのかという索引がありました。ほかにも附録があるのですが、教行信証の勉強をしたことのない私には、どういうものなのかがよく分からないので、ひとまず眺めるだけにします。
妻も弥陀の本願喜んでいるから、ということでもないのでしょうが、なかなかない頂き物でした。


読み進めていくときっと、親鸞聖人がいかにこの教行信証に心を砕かれているのかが、文字の配置などからも伝わってくるのだろう、と思います。まだそこまで読めてはおりませんが。

 

このブログのカテゴリも、また再編が必要だとは思いつつ、今日も用事がありますのでこの辺にて失礼します。

そろそろタイトルにある通りの「更新頻度が少ないブログ」が文字通りになってきた感があります。本当はもっと早く振り返りをして、味わいたいと思っておったのですが、なかなかできませんでした。


さて、一週間空いてしまいましたが、先週八尾に行って聞いてきたお話を少し振り返りたいと思います。
といっても、

「お話は聞いて忘れるくらいでちょうど良い」

という話もあって、たいしたメモを取ってませんでしたので、流れに沿うというよりは、私が心に残ったフレーズを羅列するという形式にします。ですので、話の流れはつかみにくいかと思いますが、ご承知おき下さい。
表現が正確ではないということは、毎度のお断りとしております。


===
 
本願力にあいぬれば  むなしくすぐるひとぞなき  功徳の宝海みちみちて  煩悩の濁水へだてなし 


・親鸞聖人は、「あう(遇)」を、「聞」「信」と同じに使っていられる。
 南無阿弥陀仏をいただいて、本願信ずる身にさせていただく。


・人間に生まれて仏法聞かずに死んでいく 、これをむなしいといわれている

・なぜ人間に生まれてきたか。蓮如上人は五戒を保てる功力によるといわれている。 
 五戒を保ったのは私だけれども、仏さまの、人間に生まれさせてやりたいという願いが働いた
 仏法を聞かせて仏に生まれさせてやりたいという計画。
 私は、その計画を知らない

・お前が救われなければ、この私(仏)が救われないという仏さまの心

・全部如来の一人働き。これが浄土真宗と浄土宗の違い。
 浄土真宗は「母さん助けて」が南無阿弥陀仏ではない。如来の働きが先。

・阿弥陀如来のはたらきにおまかせしての念仏。
 はたらくままがお念仏。

・若不生者 不取正覚、お前を仏に出来ないうちは私の仏にならないというお誓い。
 (仏になったという)阿弥陀如来の名前は、私が仏になる証拠

 阿弥陀仏の、むかし法蔵比丘たりしとき、衆生仏にならずはわれも正覚ならじとちかいましますとき、その正覚すでに成じたまいしすがたこそ、いまの南無阿弥陀仏なりと、こころうべし。これすなわちわれらが往生のさだまりたる証拠なり。
(御文4-8)

 私が仏になる証拠が届いているのが、南無阿弥陀仏のお姿。
 だから、助けて下さいという念仏は、浄土真宗にはない。
 
・「もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて」とは、自力には用事が無いこと。
 南無阿弥陀仏以外の証拠は無い。

・南無阿弥陀仏のいわれを聞いた。もう人生の目的は済んだ。御恩報謝の人生。
 浄土真宗の人生には、救われるための人生は無い。

・ご法義を喜ぶ姿を見て、ご法義を喜ぶ人が現れる。
 私が「念仏させよう」ではない。仏さまが念仏させようとされてる。
 自分のご法義を喜ぶ姿が、周りをご法義にする。これが御恩報謝。



つづく

 

蓮如上人の御文には、「細々に信心のみぞをさらえて、弥陀の法水をながせ」とあります。


そのようなこともあるのでしょうが、


黙って八尾に行けやハゲ。
あれすごいぞ。行かないと絶交だ。
 

というメールがきました。私は別に禿げているわけではないのですけど、私を誘ってくれた人がありましたので、大阪の八尾までご法話を聞きに行ってきました。 誘った当人は北海道に行っているみたいで、電話を掛けても出られないくらい忙しいようでした。



それはさておき、八尾を「やつお」と読んでしまった私は、きっと未だ富山に思い入れがあるのでしょう。そんなことを思いながら行ったわけです。


ブログの読者の方、何名かの方とお話しすることが出来ました。書物を下さった方、近隣のお話の日程を下さった方、ご馳走して下さった方、いろいろ有り難いご縁でした。 ありがとうございます。


もちろん、それはそれでありがたいご縁でしたが、法話もまた私にとっては味わい深いものがありました。


天親和讃の、


本願力にあいぬれば  むなしくすぐるひとぞなき  功徳の宝海みちみちて  煩悩の濁水へだてなし

を通してのお話でした。ご縁があればまた書きたいと思いますが、南無阿弥陀仏について味わい深く聞きました。


あと、聞きながら思ったことは、おそらく学生時代の私が聞いていたら今のような味わいにはならなかったであろうな、ということでした。やはりなんと言ったら良いか分かりませんが、お気楽に聞こえてしまうような。それもまた弥陀のお計らいなのだろうと味わっております。


短いですが、今日は以上です。 

2月26日に更新をしてから、一ヶ月あまり更新を止めていました。この間、実はアクセス数がどのように変化していくのかを見ていたのですが、私が思っていたほどには減少していませんでした。ということは、定期的にご覧になっている方が少なくは無いのだろう、と思っている次第です。どうもありがとうございます。


実のところ、このブログを閉鎖するというところまでは考えていなかったのですが、自分の中で良い区切りだと思っただとか、講師部員から言われただとか、家族が増えただとか、いろいろありまして、しばらくお休みしていました。

コメントでSNSへのお誘いなどもありましたが、私は実際、SNSの類いは何もやっておりませんので残念ながらそういうご縁はありませんでした。





ブログをご覧になっている皆さんがどう思われているのか、それぞれにあるのでしょうが、一面として

「会員なのに会員っぽくないことを書いている」

というところに興味を持たれた方も少なくなかったのではないか、と思っていました。


そういう意味で言いますと、会を追い出された形になった私は、その珍しい状態ではなくなったわけですから、いわば「オワコン」と捉えられるのかな、と思ったものでした。

ただ、一ヶ月以上更新を止めていても一定数の方が足跡を遺されているということは、必ずしもそのように捉えていられる方ばかりでもないのかな、とありがたく思います。



 
さて、「会館に来るのを遠慮して欲しい」と言われてから、実は私もいろいろ振り返っていました。このブログの冒頭にもある通り、私は「自分からはやめない」ということについて相当に拘っていたように思います。


今にしてみれば、「自分からやめる」ということは、さんざんこのブログで書いてきたことを否定することになるように思えますので、そういう観点から言えば「除名」という結果は、「筋を通した」結果だと言えるのかも知れません。


 
あれ以来、一般会員さんとはまるで交流が無くなり、連絡も無くなりということで、宗教団体ネタを書く元ネタは無くなりました。ですので、ある意味今度は自分の思ったことなどを自由に書くことが出来る良いご縁だとも思います。


そのようなわけで、今後はさらに更新頻度は少なくなるでしょうが、またボチボチと駄文を書き連ねて行ければと思います。




「超」親鸞会は、タイトルに比して内容が残念だったように思います。さりとて結局大幅に書き直す気力もありませんでしたので、これについてはまたのご縁にしたいと思います。

・・・・

さて、今日のタイトルは『日経ビジネス』のコラムに紹介されていたネットスラングです。これは企業名ではなくて、


「俺、今来たんだけどこのスレッドの内容を三行にまとめてくれないか」
 

という趣旨の言葉だそうです。これについて思ったことがありました。



KYなどのように、ただでさえ大して長くない言葉さえも短くしてしまう、ある意味創造的と言えるかも知れませんが、一方で長文を読むことが全体的に面倒になっている、長文が読めなくなっている、という見方もできるように思います。


かつて、ある読者の方とやりとりしていた中でその方は、

「カルトに嵌まると、文章が読めなくなってくる。これには驚いた」

という趣旨のことを言われてました。


この手の人たちがやっている噛み合わない議論や、どうしようもない断章取義などを見ていると、私も頷かずにはいられませんでしたが、それは「嵌まっている」人たちだけのことだろうか、とも思いました。


長い文章を読むことができない、読解することが出来ない、ということは、その文章についてしっかり考えることが出来ない、ということも言えるのではないか。 


私なんかはそうなのですが、考えることが面倒になると、すぐにネットで検索したりしてしまうわけです。
問題を解いているとすると、すぐに解答の頁を読んでしまうようなものでしょう。


物事について考えることを放棄する、あるいは考えたとしてもすぐに「解答」を探してしまう。
ものごとに対して端的な「解答」を短絡的に求めてしまうとすれば、すぐに結論を欲する「今北産業」の言葉が重なってきます。



人生についての悩みや苦しみ、もやもや感・・・


そのループに煩わされる中で、自らの人生に対しての意味、価値証明を欲した時、

「人生の目的」

についての「鮮やかな解答」に依存してしまう心の道程もまた、「今北産業」に通ずるように思えました。



なんにせよ、その「人生の目的」という、(私にとっては)胡散臭い単語を通じて弥陀の本願にあえたことは、やはり私にとって有り難いご縁でありますので、そこについては今も感謝しています。

追い出されたからと言って、特に私はその宗教団体の悪口をここぞとばかりに発する気はありませんし、「絶対にやめなければならない」という気もやはりないわけです。



あの親鸞会という宗教団体に対して「今北産業」と言ってみたい気もしますが、悲しいかなあの団体自体に対しては、そこまでの関心がとうに無くなっている私でありました。もっとも、今も残っている会員さんがどうされているかは気になるところではありますが。 


今後、どういう形になるか分かりませんが、多分、こんな文章が続いていくのではないかと思っています。 

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