自分のあれやこれやで更新が滞って、気がつけば久しぶりの更新です。
実は、この間アクセスはほとんど0に近くなっているのではないかと思っていたのですが、ありがたいことにそういうわけでもなく、少ない時をもう少し少なくしたくらいで推移していました。


さて、七月は個人的な事情で聞法のご縁もありませんでしたので、そういう話題ではなく、今日は以前に元会員さんと話をしたときのことを思い出して書きます。


一月ほど前でしょうか、たまたま元親鸞会の会員さんと話をする機会がありました。雑多な話をいろいろしていたのですが、その中で、その元会員さんの知人の話を思い出しました。ずいぶん前の話ですので、記憶が曖昧ではありますが。




その方は葬儀屋さんで、普段人の死を間近に見ている職業柄、命の尊さについて熱っぽく語る方だそうでした。その方が、こういうことを言われたそうです。


「昔の家は棺を出せるようにできているが、 最近の家は棺を出すことができない。棺を入れたり出したりすることを考えて家が作られていない」


ここしばらくは、病院で亡くなる方が多い、という話を聞いたことがありましたが、裏を返せば自宅でなくなる方が少なくなった、と言えるかもしれません。自宅という日常の場で死を間近に見るということが少なくなり、病院で死を迎える。日常から死が遠ざかっているといわれれば、その通りかもしれません。

もっとも、亡くなったといっても医者が確認しなければいけませんから、自宅でなくなっていても病院へ運ばれていってから命終が確認される、ということもあるのでしょうけど。


それはさておき言われてみれば、幸か不幸か最近は特に、好きこのんで目にしたくない死ということについては、日常の中で間近に見なくて済むような状態にさえあるように思います。



私は「間近に死を見る機会」が格別多かったとも思いませんし、幼少期にトラウマとなるような辛い別れも経験した記憶はありません。ただ、小学一年生の時にあった昭和天皇の崩御は、私の中で死ぬということを考える大きな出来事でありました。

少し昔も今も、新聞やテレビやネットなどで、死の情報に触れることは多いと思いますが、小さいときに比べて深刻に考えることが少なくなっているのは、免疫ができたからなのか間近に感じられないからなのか。
 

そんなことを考えたのは、最近起こった女子高校生の殺人事件があったからでした。
「いのちの教育」に力を入れてきたはずなのに、と教育関係者が落胆との記事もありましたので、親鸞会ではきっと「今こそ全人類に『なぜ生きる』を」と気勢を上げているのだろうなどとお節介なことを考えたりもしてました。


今思えば親鸞会は、ともすれば少なくない人が遠ざけている死ということを身近な問題だと示したことに対しては一定の役割を担っていたのではないか、と思います。同時に、暗部をあまりに強調しすぎていたようにも思いました。門戸が広いように見えて、ずいぶん人を選ぶようなところがあったのではないか。
 

振り返ってみれば、近づこうとも思わないはずの話から入って親鸞会と縁があり、そして弥陀の本願のご縁にあったことは、やはり不思議なことだと味わわれました。

 
自分の問題は自分の問題に違いありませんが、自分の問題だと一人閉じこもってしまうと、ともに我が事と悲しまれる弥陀の本願からは遠ざかってしまうように思われます。

 
久しぶりに、やはりまとまってませんが、今日はこれくらいにします。