あさ川進の、宗教と私

浄土真宗親鸞会に所属しながらアウトサイダーだった私(現在は会員でなくなりました)が、宗教(浄土真宗親鸞会)との付き合い方を考えつつ書いている更新頻度が低いブログ(この説明も暫定です)リンクフリーです。なお、投稿文を受け付けております。「【投稿文】」と書かれている記事は、頂いた投稿文です。

2014年10月

前の話を書き終わってしばらくして、おぼろげに当初書こうと思った内容から激しくずれたことに気がつきました。ついでにいうと、妻からは「文章の意味がまるで分からない」と思い切りダメ出しを食らいました。前回の記事をご覧になった皆さんに対してお詫びします。


途中まで戻りますと、(今後は分かりませんが)最近の親鸞会での報恩講や降誕会の法話は、いつもの講演会や座談会等と比べると、弥陀の本願が強調されているように(私には)味わわれていた、という話をしていました。


このブログを読まれている方の中にいらっしゃるかは分かりませんが、たとえば親鸞会の話ばかり聞いているけど、他の話も聞いてみたいと思いながら御縁が無いという方。今回はそういう方に向けて書こうと思います。


親鸞会での報恩講は終わったようですが、大谷派は今月あたりから、本願寺派はたぶんその後にかけて、いろいろなお寺で報恩講が勤められるはずです。せっかくですので、親鸞会以外に御縁が無かったような方も、「弥陀の本願」を思い出しながら、近くのお寺のご法話などを聞かれると良いと思います。


なぜ「弥陀の本願を思い出しながら」と書いたのかと言いますと、「因果の道理」だとか「人生の目的」だとかいうことは、あまり他のところで話をされないからです。逆に例えば親鸞会では「念仏」の話はめったに出た記憶がありませんが、お寺の話で「念仏」が出ないことはまず無いと思います。

独断と偏見で言えば、親鸞会で教えられていることが浄土真宗の教えだと理解していると、お寺の話は受け付けられないと思います。話がずれて聞こえる、ということもありますし、親鸞会で批判的に言われていることがそのままそのように聞こえてしまうことがあるようにも思います。理由は様々あるかもしれませんが、一つ私が思うのは、大なり小なり「自力」的な要素がある(親鸞会の)ほうが「機に馴染む」ように思えるということです。


親鸞会が唯一絶対真実だと思っていると、ほかの話を聞こうという発想も出てこないでしょうが、ほかの話を聞こうという気持ちが起きたということでしたら、その御縁を大切にして頂ければと思うのです。


そのためにはやはり、頭から撥ね付けてしまう状況では勿体ないので、接点のある(というよりも浄土真宗はその話にきわまるのでしょうが)「弥陀の本願」を思い出しながら聞く。親鸞会で「弥陀の本願」の話がおそらくもっとも聞こえるのが報恩講や降誕会だと思いますので、「弥陀の本願」を思い出すといってピンとこなければ、そういった他力の話を思い出して聞くということも御縁かと思います。




とはいえ、親鸞会にどっぷり漬かっていると、行事を休んだり、ほかのところに行ったりすることに対して、最初はものすごい抵抗感があるかもしれません。そんなことを気にしない方はいいのですが、そういう方ばかりではないと思います。


かくいう私も、学生時代は「(親鸞会館の)行事はすべて参加が当たり前」というよな思いがありました。何でそう思ったのかはよく覚えていませんが、思い当たることはあります。


・臨終間際に救われた方の話を聞いたときに、講師部員が「一座足りなかったら、間に合わなかった(かもしれない)」という話をしたことが頭に引っかかっていたこと
・「聴聞の積み重ね」の先に信心決定があると思っていたこと


人によって理由は異なるでしょうが、私のことで言いますと、上記ご覧の通り、「自力の思い」そのものでした。しかしながら、弥陀の本願はそのような自力の積み重ねの先にあるものではありません。親鸞会の行事を皆勤したとか休んだとか、そんなこととはまるっきり関係ありませんでした。




また一方、親鸞会以外のところで話を聞くという行為自体に違和感というか、嫌悪感を覚える方がひょっとしたらあるかもしれません。この「感じ」も、人によって起こりは様々かと思います。一概には言えないと思いますが、「親鸞会以外で聞くということは、”浮気”をするように感じる」というふうに思われる方があるかもしれません。ちなみに学生時代の私はそんな傾向がありました。

それは、次の蓮如上人のお言葉を思い出すからです。


しかれば、一心一向というは、阿弥陀仏において二仏をならべざるこころなり。このゆえに、人間においてもまず主をばひとりならではたのまぬ道理なり。されば外典のことばにいわく、「忠臣は二君につかえず、貞女は二夫をならべず」といえり。阿弥陀如来は、三世諸仏のためには本師師匠なれば、その師匠の仏をたのまんには、いかでか弟子の諸仏のこれをよろこびたまわざるべきや。このいわれをもってよくよくこころうべし。
(御文2-9)



「忠臣は二君につかえず、貞女は二夫をならべず」という言葉によって、親鸞会に操を立てなければいけないという勘違いを引き起こす方は私以外にそうないかと思いますが、これはもちろん親鸞会に対してでは無く、阿弥陀仏に対してのことでした。

蓮如上人はもとより、

一心一向というは、阿弥陀仏において二仏をならべざるこころなり。

とはっきりいわれています。

浄土真宗ですから、心にかけるのは阿弥陀仏であって、親鸞会に対して何かを気にする必要は無いわけですね。




私は、親鸞会の会員だった頃から、いろいろな方の御縁によって、親鸞会以外のお話を聞く御縁がありました。熱心な皆さんのようにたくさんのお寺を回っているというわけではありませんが、今までの経験を思いつくままに少し書きます。


・お布施をしないと白い目で見られるとかいうことはありません。(参加費が発生するものは除く)

・年齢構成はやはりご年配の方が多いですが、場所によっては若い(といっても2,30代)方も聞かれています

・受付で住所や氏名を書くことが多いですが、書かなくて済むこともありました。

・皆さんのお念仏の声は(親鸞会と比べて)大きいです。

・正信偈の節は異なります。

・親鸞会では見た記憶の無い「歎仏偈」をあげることも多かったです。

・お仏壇に相対しての合掌は、頭を深く下げないようです。

・お話をされた方と座談会をすることもあります。

・など。


当然ながら親鸞会と勝手が違うところも多いですが、何回か行くと慣れてくると思います。


あと、私事ですが、仏教の本を読むこともお勧めです。


親鸞会の中から外を見ると、しばらくは受け付けないかも知れませんが、いずれは親鸞会の中から見ていた弥陀の本願が、違った深みをもって味わわれることと思います。


聖人のおおせには、「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり。そのゆえは、如来の御こころによしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、よきをしりたるにてもあらめ、如来のあしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、あしさをしりたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもっ*641て、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」

今日、ライブドアブログのマイページを開いたら、未読コメントが46件になっていました。


さて、「もう親鸞会館には来ないでくれ」と言われてからは、ほとんど親鸞会情報が入ってきませんでしたし、特に書くことも無かったので意図的にブログ上では親鸞会のことに触れていませんでしたが、久しぶりに思うところを少しだけ書こうかと思いました。


とはいえ、私が親鸞会について思うところは、たいてい親鸞会に対して好意的でないことが多いと自覚することもあって、そのまま思うところを書き綴ると見苦しくなるような気もしております。それもあって、あまり親鸞会のことを書いてきませんでした。


今回は、「まあいいや」と思って書くことにします。今後もそういうことがあるかと思いますが、見苦しく感じられるようでしたら失礼しました。



さて、10日ほど前に親鸞会は報恩講をやったはずなのですが、「親鸞会公式ブログポータル」の現時点での「更新状況」は新しい順にご覧の通りです。


親鸞会 information
「食事宅配事業(北陸)」メニュー(10月27日?11月2日)(2014/10/16 10:14:59)

親鸞会 公式ブログ 菩提樹
御嶽山の次に噴火するのは?(2014/10/05 10:00:24)

親鸞会 心のポートピア
みかりんの播磨会館日記38(9/15)(2014/9/20 07:46:52)

以下略。


報恩講から10日以上経っているはずなのに、その件についての(親鸞会側の)記事がまったく出ていません。

報恩講の内容については、「真偽検証」の中で少し触れられてました。

毎度思いますが、批判ブログのほうが親鸞会情報に関しては充実しているという皮肉な状態です。該当部分を引用してみます。


今年の親鸞会の報恩講では、高森会長は因果の道理や宿善、十九願の話は一切せず、「報恩講をよい機会とし、名号をよく聞いて信心獲得して下さい」「南無阿弥陀仏を聞く一つで浄土往生が決まる」というような話をした、と参詣した方から教えて頂きました。



一応去年までは私も現場にいましたので、このことに関しては特に驚くことではありませんでした。一応このブログにも残っているかも知れませんが、ここ最近の親鸞会法話について言えば、報恩講や降誕会はだいたいこんな傾向だった記憶があります。


報恩講や降誕会は、大勢の方が来られる(=いわゆる親鸞会法話に慣れ親しんだ「会員さん」ばかりではない)からなのだろうとは思いますが、いつもの法話とは趣が違うように味わわれました。

おそらく、今同じ話を聞けば、首が45度くらい傾くのかも知れませんが、いつもは自力の臭いが充満する中においてその臭いが和らいでいたので、「もっとほかのご法話でも弥陀の本願の話をすれば良いのに」と思ったものでした。




そんなことを思い出しながら昨年の報恩講の話の記事を読み返してみたのですが、随分と記憶が美化されていたのかも知れないと思いました。




親鸞会は弥陀の本願念仏の話をすればそれで良いわけで、そういう話がなされるようになったのであれば結構なのですけれども、親鸞会の話を聞いていれば誰しも思い浮かべるところの、

・「人生の”目的”」
・「光に”向かって”」
・たてとよこの線


これらによって、弥陀の本願と私を分断してしまっているとすれば、弥陀の本願の話をしているようで自分の話をしている、というように思ってしまうのでした。



久しぶりに、やはりまとまってませんが、今日はこれくらいにします。

新聞を読んでいましたら、今年のイグノーベル賞(物理学賞)を受賞された方のことが載っていました。


「人々を笑わせ、そして考えさせてくれる研究」に対して与えられるイグノーベル賞ですが、今年の物理学賞は「人間が床に置かれたバナナの皮を踏んでしまった際の、バナナの皮と靴の間の摩擦、およびバナナの皮と床の間の摩擦の大きさを計測したことに対して」(以上Wikipedia)とのことでした。「バナナの皮で受賞」というような新聞記事を読んだ記憶があります。


さて、新聞を読むと、「意外にもバナナの皮の滑りやすさを研究した人はいなかった」そうでした。

そもそも「バナナの皮は本当に滑りやすいのだろうか」ということについて疑問に思わないとか、経験上「なんとなく滑りやすいだろう」で終わったりだとか、そういうこともあるのでしょうが、とにかくそのような論文は無かった、ということなのでしょう。



・特に疑問に思わない
・経験上自明だと思っていて証明の必要性を感じない
・証明するという発想が無い


バナナの皮で滑るというのは、漫画やコントなどでもネタになっていて、「そういうものだ」となんとなく思っていたのですが、バナナの皮が実際に滑りやすいことを証明したという点については考えるところがありました。

生活をしていく中で、全部の事柄についていちいち証明をしてその正しさを確認している、という方はそう多くないと思います。周りが正しいと認識しているという同意があれば、特に検証すること無く正しいとしていることもあるのではなかろうかと思います。

ただ、時代が移り変わるなどして、その正しさが変化していく、ということも少なくないのではないでしょうか。食品の「これが健康に良い」などはころころ変わっているような印象があります。



さて、ここで親鸞会にネタを振ってみますと、親鸞会の中でも会員さんの中で特に疑問に思われていないところ、正しいとされていることがあるのではないかと思います。いろいろあると思いますが、私が思いつくところを書いてみます。(ここでは、若干の誇張は含みつつも実際に正しいとか正しくないとかいう観点は抜きにします)


・人生の目的は全人類共通唯一絶対のものである
・人生の目的は絶対の幸福の身になることである
・人生の目的は真実の仏教を聞くことによってのみ獲得できる
・高森先生は現在の世界で唯一、真実の仏教を説かれる方である
・高森先生は真実信心の方である
・高森先生は蓮如上人以来の善知識である


ほかにもいろいろあると思いますが、とりあえず一部挙げるとこういうことがあると思います。(よろしければコメント欄にも挙げて頂ければと思います)

学生時代の先輩には、「高森先生は間違いのない方だ」ということで、生活だとか食べ物だとかまで合わせようとしていた方もあったのですが、それが高じて「講師部員も間違いのない方だ」になってしまって、引いてしまった記憶があります。

そんなことがありましたので、私は、例えばビデオ法話で書き順の指導をしている映像を見ながら「必の書き順がちがうじゃないか」と本題とは異なるところで突っ込みどころを探すような人間になってしまいました。


それはさておき、かくいう私も学生時代は、「高森先生は真実信心の方」だとかいうところは、とくに確認すること無く正しいものだとしていました。

実際どうなのかについては、今はさして興味も無く、推測はできても証明の仕方も分かりませんから証明もできませんが、批判系の皆さんの中には、「無信心」とされている方もありますね。


ただ私の場合、「親鸞会で教えていることがすべて正しいというわけでは無い」という視点でいろいろ味わってみた時に、世界が開けたように思います。


バナナの皮の話とは少しずれますが、自分も周りも特に疑問に思っていない事柄について、本当にそうなのかと確認する作業は、新しい発見を生む一つの方法なのだろうと思ったものでした。

少し前にコメント欄が忙しかった頃、私はPCにあったはずの画像を探してました。9年ほど前の画像で、PCも何台か替えていたのですが、見つかりました。


嵐






この画像は、私が9年前に書いていた「親鸞会の本尊論を再考する」の画像です。
私は原稿だけ作って、ブログを作ったのは別の人なので、「再考する」という大仰なタイトルは私のものではなかったですし、「浅川進」のペンネームも私が付けたわけではなかったのですが、結局2つとも私のものになりました。


なんでこんな魚拓を残していたかといいますと、左側にある「新着コメント」欄(画像からは分かりにくいですが)を記念として、でした。


今は親鸞会に対して教義問題をあれこれする気も能力も無い私ですが、当時はやる気だけ満々でした。当然、親鸞会の弘宣部(当時)と思われる方からもいろいろ質問コメントが寄せられたわけです。

その質問にもいちいち答えていた私ですが、議論ふっかける気満々(と私が判定した)のコメントについては、逆質問で返していました。そんな中、あるときブログの全ての記事に対して全く同じ文面でコメントを入れてきた方があったのです。これが、そのときの画像です。


コメントの文面は残していませんが、概ね以下のような趣旨でした。

「早く質問に答えて下さい。私は明日にでも死ぬ身なのです」


”明日死ぬ”という人に対して、親切に返事をするほど私はできた人間ではありませんでした。

ここで私が思ったことは、「本当に明日死ぬような人間なら、こんなブログの記事全部にコメントを入れているヒマなど無いだろう」ということでした。画像を見ると、1~3分ごとにコメントが書き込まれていたことが分かります。


いちいち全てに対してコメントするのも面倒だと思った私はとりあえず放置していたのですが、次の日には私が思っていたことほとんどそのままコメントをして下さった方がありまして、それ以降この”明日にでも死ぬ”と言われていた方のコメントは無くなりました。



そもそも明日死ぬとかそんなことを思っていない私が言うのも変なのですが、思い返してみると「人のことはよく見えていても自分のことは見えていない」ものだと改めて思ったものでした。


この”明日死ぬ”コメントを入れた人は表面上、”無常を感じ”ているように”装って”いました(敢えてこのように表現します)けれども、実際はポーズだけのようでした。



親鸞会での話でも、よく無常の話は出ますけれども、なんと言いますか、会員歴が浅い人は比較的そのようなことに敏感で真剣になっているけれども、長くなってくるといわゆる「耳慣れ雀」で、言葉には出てきませんけれども”余裕”になってしまう、そういうことに鈍感になってしまう、私も含めてですがそんな傾向があるように私には見えました。


外に目が向いているということは、逆に言うと自分に目が向いていないとも言えるでしょう。親鸞会の活動で人に話をするとか勧めるとか、そんなことをしているうちに、自分に目が行っているようで行かなくなる、そんなことがあるのかもしれないなあ、と、今回荒れたコメント欄を見ながら思ったのでした。

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