あさ川進の、宗教と私

浄土真宗親鸞会に所属しながらアウトサイダーだった私(現在は会員でなくなりました)が、宗教(浄土真宗親鸞会)との付き合い方を考えつつ書いている更新頻度が低いブログ(この説明も暫定です)リンクフリーです。なお、投稿文を受け付けております。「【投稿文】」と書かれている記事は、頂いた投稿文です。

2014年11月

私は 平成26年10月25日 2人の法友と共に親鸞会を退会しました。
会員歴は30年以上です。

今年の8月の追悼法要までは毎月の本部会館のご法話は ほとんど欠かさず参詣して来た私です。今年も報恩講に参詣しないなどあり得ない、って思っていました。私が この世で たった一つの真実と信じて 生活の中心にして来た「 親鸞会」を去る日が来るとは 自分でも「青天の霹靂」って感じです。
退会のきっかけは、ネットの「反親鸞会のサイト」を見た事です。何故 反親鸞会のサイトを見ようと思ったのか と言うと、アニメバス、「移動映画館」に ウンザリしたからです。
だいぶ前から 地下道や同朋の里や会館の絵画などには、疑問を持っていました。そして 「あんしん弁当」で 疑問は更に大きくなって行きました。宗教団体なのに なんで、弁当屋?って思いました。あんしん弁当では、お金を得て働く人と、布施行として 朝の3時とか4時とかお店に行ってご飯炊き をする人が混じっていると聞き イヤーな感じがしました。布施行としてご飯炊きをしていた人が、「布施をさせていただき清々しい気持ち」って親鸞会のメーリングリストに発表しているのを見て「おかしい!」って 一緒に退会した法友と話していました。
「仏法が大事だから、身体が大事。身体が大事だから食事が大事。だから あんしん弁当を 高森先生が勧めて下さるのです」って 言うけど。
じゃあ、高森先生が 「身体が大事だから、水が大事」って言ったら 「水」を売り歩くのか?「睡眠が大事」って言ったら マットレスを売り歩くのか?「空気が大事」って言ったら 空気清浄機を売り歩くのか?
それに 世間のお弁当屋さんは 人を雇って賃金を払って 資本主義の中で勝負しているのに 賃金を払わず会員をただで しかも布施行として 働かせて 「安くてあんしんなお弁当」って売るのは 卑怯!って 思いました。
親鸞聖人の教えを伝えるのが たった一つの使命と言っていながら 何故?また 親鸞会の人達は 高森先生が勧める事に 疑問も持たず、批判もせずに、「弁当屋なんかやって 採算は取れるの?」って 普通の人なら当然心配する事も口に出す事も 出来ない雰囲気。全ては、善知識の深いみ心で、高森先生は信心決定に関係無い事は されないって言うけど・・・。
そして各地に多数 建立された会館。実は 私の家の近くにも 建立され その時は 「阿弥陀仏が私の為に 近くに会館を用意してくだされた」ように感じ、お布施もすごく奮発しました。「会館建立功労賞」をもらい、会館のお世話やお仏壇の荘厳なども する事になりました。今回 いっしょに退会した法友達と 交代でしたが とても大変でした。
知っている人は、少ないと思いますが 親鸞会では、毎日 各地の会館の電気と水道のメーターの数字を報告するようにと指示されています。私は当番の日は 朝4時に起床して出勤前に会館に行き、メーターの数字を確認、メモし お仏壇のお花のお水を替えお仏飯を お供えしてから出勤しました。晩も仕事が終わってから会館に行き お仏壇のお花のお水を替え、お仏飯をお下げしました。お仏花も傷まないうちに、新しく替えなければならないなど 会館の事で かなりの時間を使うようになりました。私は フルタイムで仕事もし、主婦もし、会館のお世話と 大変な負担でした。なぜ、メーターの数字を毎日見なければならないのか聞きましたが、「水道管から水が漏れていたりした時に 早く発見するため(?)」との事でしたが・・・。水道管から水漏れして、困った事なんて、私の人生では一度も経験がないのに。ほとんどあり得ない事故を想定して、私たちの貴重な時間が奪われるのはなんだか悔しい気持ちでした。納得できませんでしたか、親鸞会会員である以上 会の決まりを守らなければならないと思い従いました。しかし、会館から道路に出る時に、見通しが悪く、事故でも起こしたら嫌だなーって 思って 「カーブミラーを付けて欲しい」と何度も言いましたが なかなか設置されず 数ヶ月後にやっと設置されました。 ほとんどあり得ない水道管の水漏れは心配するのに、可能性としてはずっと高い交通事故の心配はしてくれなかったようです。事故がなくて本当に良かったです。
会館が家の近くに出来て、負担が大きくなりましたが、その時は まだ 「この苦労が私の宿善になるのだから 我慢しよう」って 自分に言い聞かせ 、友人も励ましました。
ですが、 会館ができた始めの頃 高森先生は「会館を 1日も遊ばせてはならない」と言ってましたが、数ヶ月たっても 毎日どころか、月に数日しか使われていない状況でした。ところが、何故か 突然に「動く法城」と称し 移動映画館が出現し、「今後は アニメバス、移動映画館が布教の中心になる」と発表がありました。会館はますます利用されなくなるばかりじゃないの?何の為に 苦労して稼いで貯めたお金を会館建立に布施したのか?人のお金をなんだと思っているの?更にアニメバスは一台 4000万円!しかも、既に10台以上発注してあるとか?誰がお金を出すの?疑問 だらけになって行きました。
高森先生は「布教の為です。財施は尊い宿善になります」って言えば いくらでもお金が集まるって思っているのでしょうか?親鸞会会員は、高森先生にとっては、「打ち出の小槌」のような存在なのでしょうか?
そして 当支部でもアニメバスでのアニメ上映会が開催されました。真夏の暑い暑い日、バスのエアコンが壊れ、暑さでフラフラになりながら親鸞聖人のアニメを見せらました。頭はボーっとして熱中症になりそうでした。なんですぐ近くにクーラーの効いた建物があり、部屋も借りてあるのに こんな暑さを耐えて わざわざ バスの中でアニメを見なければならないのか、全く理解できません。余分な燃料も使うし 地球に優しくない!
また、 担当支部長は4000万円どころか、40万円の中古車さえも買えずに困っていて、支部の会員で布施をして買ったというのに。親鸞会が講師を大切にせず、会の外見ばかりを 立派に繕っているように感じました。人を大切にしない組織に未来はないと思います。専任講師は親鸞聖人のみ教え一つに人生をかけた尊い方なのに、どうして高森先生は講師の活動条件を整える事にはお金をかけずに、首都圏では、むしろジャマになるような大型バスにお金を使うのだろう?高森先生は 自分の弟子である講師をかわいいと思わないのだろうか?阿弥陀仏からお預かりした大切な人達とは、思っていないのだろうか?
私は 高森先生のお金の使い方を見て、親鸞会という組織や高森先生の人間性にも強い疑問を持つようになりました。そして私と同じような思いでいる人が、 インターネットで意見を述べている方がいないかって思ってネットの親鸞会批判サイトを見ました。 そして、本当に色々な事がわかり とても驚きました!
サイトの種類も、そして掲載量もとても多いので 全体をを把握したのはだいぶ経ってからですが、まず驚き 腹立たしく感じたのは 、「TM講師が起こした不倫事件の結末」でした。当時も不倫事件を聞いて大変驚き、また傷つきました。なぜ親鸞会の幹部の人が大切な仏法を傷つけるような言動をするのか?そんな人に法を伝える資格あるのか?
しかし 事件の後に、担当支部長から
「私は、あなたの後生の心配をするべきでした」と言われ 「確かに他人の色恋沙汰などに振り回されずに、自分の後生の一大事の解決の為に仏法を聞く事の方が大切だ」と思い直し、M講師の言動は許し難いけれど それも「空ごとたわごと」の一つと思い 不倫事件にこだわらない事に決めました。担当支部長からは、不倫事件の結末は聞けませんでしが 事件に関わった講師の方たちも 辞めていないようだったので 「喧嘩両成敗」のような形になったのだろうと 思っていました。ところが、ネットには、「捏造と捏造された不倫事件の真相」というサイトがあり、不倫事件は、高森先生によって 「事件そのものが捏造された事」とされて、揉み消された事を知りました。証拠写真や動画があったのに 「捏造」とは!
事実を完全に捻じ曲げていると思いました。事件 の当事者の女性講師の嫁ぎ先のご両親が、事件を知ってから の 悲痛な気持ちや、女性講師との話し合い、T一家への質問状やTM講師や高森会長からの返事の手紙をブログにアップしてありました。その中の高森会長からの 誠意のない返事の手紙は、「情けない!」の一言です。真剣な質問に何も答えないばかりでなく、迷惑をかけている相手に対して「時間のある身がうらやましい」などと、相手を見下すような言葉に 嫌悪感を感じました。
「こんな不誠実で 他人を見下すような人が 阿弥陀仏に救われている善知識なのだろうか? 弥陀の本願を全人類に伝える使命感など カケラさえ感じられない」 「こんな不誠実な人に頭を下げて聞く教えなど 何もない!こんな人から聞かないと救われないのなら もう今生では救われなくても構わない」とさえ思いました。親鸞会会員をこんな思いにさせる高森会長って、既に会長の資格はないでしょう。また、 不倫の当事者の女性講師の義母の方は 不倫事件を知るまでは親鸞会会員だったそうですか、事件をきっかけに会を辞めたそうです。
もし 親鸞会の教えを聞かないと 阿弥陀仏に救われないならば、会長は自分の不誠実な対応で 一人の人を阿弥陀仏の救いから遠ざけたわけです。
「高森先生は皆さんの信心決定に関係無いことは何もされません。親鸞会ですることは全て 会員さんの仏縁になります」と聞いていましたが、それは、真っ赤な嘘だとわかりました。
他にもネットには親鸞会は非常識で反社会的な組織だという情報ばかり 数え切れないくらいありました。
例えば
●講師は辞める時は1000万円 払うと誓約書を書かされている。(支部長、や講師長に確認したところ事実だと認めました。)
●親友部は 残業しても 残業代はお布施とするので、もらわない、と誓約書を書かされている。
●特専部は、真生会病院の赤字を自分の財産で補填するという誓約書を書かされている 。 ・・・とか。
知れば知るほど親鸞会という組織はおぞましい!
私は最初は「 組織はおかしいが 教えは正しい」って思っていました。ですが ネットのサイトを詳細に読み 進めて行くと 「親鸞会の教えと親鸞聖人の教えは違う」という事が徐々にハッキリして行きました。
実は、親鸞会の教えを信じていた頃も、親鸞会の教えを 真面目に考えるとどうしても矛盾に突き当たりました。それは、「一念の阿弥陀仏の救い」と「三願転入を進むのにかかる膨大な時間とエネルギー」は、どうしても矛盾する事でした。三願転入するのに気の遠くなるような時間がかかってしまうのに 最後に救われる時だけが一念という短い時間だからって、ちっとも嬉しくも有難くもないと 腹底では思いました。でも そんな事を思うのは 法謗罪だと思い、考えないようにしていました。
しかし、「命一刹那に縮まる短命の根機の為の本願」であり、「命が 後一秒の人も救える」って言うけど、一秒では、三願転入は出来ない!私にとってはどうしても納得出来ない、長年の疑問でした。誰も何も言わないけれど、他の方はどう思っているのだろうと、不思議でした。
今回 ネットを見て、疑問が氷解しました。三願は、別々の願だったのです。18願の阿弥陀仏のみ心を信じ、阿弥陀仏の本願に救われたいと願う衆生は 18願のみ心をひたすら聞くというのが正しい理解だったのです。18願を信じられない衆生(「善をやらずに助かるはずがない」としか思えない 衆生)に19願 20願を用意されのです。親鸞聖人の平生業成のみ教えは、18願の教えです。19願から始めよと言う親鸞会は、全く親鸞聖人の教えではなく、聖道門の教えに近いのでしょうか。しかし末法の現在では、聖道門では救われないと言われているように、親鸞会で頑張っている人が救われないのは、当然の事と理解出来ましたし、私が長年抱いていた疑問は当然の疑問だったのだと、やっと納得できました。
また、ネットを見て知ったのですが、親鸞会で聞いて来た「二河白道の譬え」と 善導大師が教えられた話しとは 違う内容です。譬えている事も違うのです。また、「人間の実相」の話しも 比喩経の内容と違います。

ネットでは、お聖教の根拠を多く載せて、親鸞会の間違いを指摘していますが、親鸞会はそれに反論出来ていません。
私は、親鸞会退会を伝えるメールで、担当支部長やその上の講師長に親鸞会の間違いを指摘し、「なぜ親鸞会はお釈迦さまや善導大師と違う話しをするのか?」と 聞きましたが、全く返信がありません。「ネットを見たから辞める」って 伝えたのですから、ネットの情報に反論出来るなら、私達を引き止める事が出来るはずです。なのに 支部長も講師長も 反応しません。反論出来ないから だと思いますが、あまりにも 情けない。私は、こんな組織や高森会長や講師を 100%信じて 30年の時間を送ってしまったのです。本当にガッカリしました。私は その後 質問に答えない講師長に「ネットの人に 歯が立たないのですか?!」ってメールを送りましたが、そのメールも無視でした。破邪顕正を使命としているんじゃないの?!講師長と名乗っているくせに、親鸞聖人の教えをお伝えしたい情熱は カケラもない事がよーくわかりました。
また、何故か 退会直後には「私の体調が非常に悪く活動出来ない状態だ」という内容のメールが流されたようでした。この件には 非常に腹が立ったので、支部長に電話して真実確認をしたところ 真実と認めたので「名誉毀損でないのか?!」と迫ったら 、支部長は「会員の皆さんに、辞めたとは、言いにくい。みんな 戻って来て欲しいのに」と言って 号泣しました。私はとてもシラけました。号泣じゃなくて、ネットの情報に反論して 「親鸞会の教えが正しいって証明してよ」って 思いました。
30年間も 信じて来た事が 間違っていたなんて こっちの方が泣きたいのに・・・。
退会の際の経過を見ても、 親鸞会の組織が歪んでいる事、教えも親鸞聖人の教えとは、違う事が更にハッキリ分かって 親鸞会を離れる事が出来て本当に良かったとつくづく思いました。
ネットの反親鸞会サイトをつくり、勇気を出して 丁寧に色々と教えて下さった方たちに 心からお礼 申し上げます。それらの方々がおられなかったら、今も私は腐った組織で チンケな教えを 有難がって、時間とお金と体力を注ぎ込んで 人にも勧め 悪因を作っていました。
私は いっしょに退会した法友と共に、今まで以上に、阿弥陀仏のみ心を聞き求めて行来ます。
親鸞会がなければ、私は親鸞聖人のみ教えに出会う事はなかったので、親鸞聖人の教えを知るきっかけとしては,有難く感じています。
親鸞会との出会いも阿弥陀仏のお計らいであるならば、退会は 更に また 一歩阿弥陀仏の救いに 近づいたのだと思います。
私のこのメールは、どんな人が読みどんな風に受け止められるのか、わかりませんが。
親鸞会会員の方であれば、阿弥陀仏のみ心を 親鸞会では聞けない事を、知るご縁になればと思い 、私の退会の事情を綴りました。

南無阿弥陀仏

やや唐突ではありますが、先日に投稿文を頂きました。こちらで確認しまして、後日掲載しようかと考えています。


私がブログを始めて、今までにもいろいろな方とやりとりをしてきました。それは、このブログのコメント欄でもそうですし、メールや電話といったやりとりをさせて頂いた方もありました。その中で、まれにこのブログの記事を書くに当っての内容としたこともありましたが、殆ど表には出しませんでした。

それは私が、やりとりの内容自体はあくまで「個人的なやりとり」と理解していたからでした。


経験はおありかと思いますが、相手によって言えること言えないこと、書けること書けないことがあって、特定の相手だからこそ出てくる言葉があると思います。お互い面識がない状態でやりとりをさせて頂いた方も何人かありましたが、それでもその方が「他の会員さんには言えないけどあさ川が相手だから」発せられた言葉もあっただろうと思っています。そのように思っていましたので、私としてはなるべく「個人的なやりとり」に収めてきたつもりです。


今思えば、ひょっとしたら「ブログに書いてもらってもいいから、この気持ちを他に人にも伝えたい」と思われながらやりとりをされた方もあったかしれません。


とはいいましても、例えばメールにしても会話にしても、基本的に私を相手にした言葉をそのままブログに載せるわけにはいきません。私が編集して掲載しても、それはその方の言葉でなくなってしまいます。このブログの内容をご覧になれば、およそニュアンスが伝わらなくなるのは自明だと思います。


言葉には、その方が表れるものだと思っています。文章の構成、書き方、語尾、句読点の打ち方、改行の仕方など、様々なところにその人の特徴が表れます。それを私が手を加えたら、その方のニュアンス、感情の表出などもかき消されてしまいます。文章力のある方であれば、そういった表現もできるか知れませんが、私はそのニュアンスを表現することはできない、と思いました。


やりとりをする中で、ご自分の思いを今も残る会員さんに会員さんに伝えたい、というような趣旨のことをいわれた時、以上のような思いから、文章を書いてみてはいかがでしょうか、とお話ししました。それで今回、投稿文を頂きました。


思いは、直接表現して頂いたほうが、伝わります。


今回はこのようなことで投稿文を頂きました。ブログを立てたりするまではできないけど、伝えたいことがある、という方はほかにもあるかしれません。全部できるとはいいませんが、投稿文を書きたい、といわれる方は文章をお送り頂ければ、ご協力できることもあるかと思います。

最近、といってもそんなに直近でもないのですが、顕正新聞を目にする機会がありました。


新聞の内容自体は、私がいた頃と相変わらずでしたので特に何ということもないのですが、頭の片隅に残っていた記事を思い出したのでした。


内容は、「仏教の根幹は因果の道理なのに、寺では全く説かれていない」という内容で、おそらく会員になって間もない方がそのように話をされているようなものだったと思います。

この内容自体、(親鸞会と縁のあったみなさんにとっても)特に目新しいこともなく、今まで何度も見ては流してきたのですが、ふと思い出したのは、思い出すきっかけがあったからでした。



実は、私が親鸞会を追い出されてしばらく後に親鸞会をやめた、という元会員さんとお話しする機会があったのです。


その方は、親鸞会が弥陀の本願の話を殆どせずに募財の話、その「根拠」である因果の道理、19願の話ばかりがなされることに嫌気がさした、という趣旨のことを言われてました。(ほかにもいろいろあったのですが、プライバシーの問題もありますので詳しくは書きません)


親鸞会の話ばかりを聞いていると、因果の道理の話ばかり繰り返されることについては「仏教の根幹だから」ということで、特に違和感も覚えないと思います。ちなみに私も、親鸞会末期の頃は随分首を傾げていたものの、ブログを始める前あたりまではそこまで違和感を覚えてませんでした。

ところが、親鸞会の外から見たら随分違和感があろうかと思います。私が親鸞会以外で聞いた話の中で、因果の道理を演題として話をする方はありませんでした。聖道門の修行の展開を紹介される中でそれっぽい話をされたことはあった気もしますが、弥陀の本願の救いを因果の道理と関連づけてという話は今まで無かったと思います。


それこそ、顕正新聞に書いてある「寺では因果の道理を説かない」は、その通りでしょう。


そんなわけで、顕正新聞では「仏教の根幹を説くのは親鸞会だけ」とでも言いたげなのですが、“そもそも浄土真宗のお寺でなぜ「因果の道理」の話がされないのか”について、考察してみてはと思うのです。


それは私が言うまでもなく、様々な親鸞会批判のブログで指摘されていることで親鸞会の弘宣局の人もご承知でしょうから、「寺では仏教の根幹である因果の道理が説かれない」という会員さんの声を紹介しているだけなのでしょうが、親鸞会の中に対しても「もっと弥陀の本願を説くべきだ」と言えば良いのではないかと思います。


そもそも善知識の能というは、「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」と、ひとをすすむべきばかりなり。
(御文2-11)



親鸞会の大好きな五重の義の手前にある蓮如上人のお言葉です。弥陀の本願の話を差し置いて因果の道理を話することが"一心一向に弥陀に帰命したてまつるべしと人をすすめるばかり"なのかどうかは、親鸞会に考えてもらうところですが、今回は「親鸞会のトリック」さんを引用します。



【因果の道理と浄土真宗の救い】
因果の道理は正しくても
因果の道理によって自分が救われるかということとは別なのです。

因果の道理という真理では救われようのない悪人の私であるから
因果の道理を超えた如来の誓いを信じることによって救われていくのです。

この区別がわかりますか。

因果の道理を否定するのではありません。
因果の道理を信じないのでもありません。
自力の心を捨ててとは、
因果の道理によって救われようとする心を捨てて、
自身の救いに於いては因果の道理ではなく、
如来(名号・念仏)によって救われるということなのです。



今回、私に連絡を頂いた元会員さんは、私が会員時代にご縁のあった方でした。この方は弥陀の本願の話を聞かれる御縁にあわれているそうですので良いのですが、「自分の問題とは言え、長い時間を使ってしまった」と言われていたことが心に残っているのでした。


今、思っていることを書きますと、

弥陀の本願を会員さんにまともに説かないのなら、親鸞会は親鸞聖人の看板を外したらいかが。

もうちょっと露骨に言うと、弥陀の本願を説かない親鸞会なら、なくなればいいのに。

浄土真宗を名乗っているのに弥陀の本願の話が聞けるのは報恩講か降誕会か追悼法要くらいだなんて、寂しい話ではないですか。いや、あるだけマシなのかもしれませんけど。


顕正新聞を読んで、相変わらずの親鸞会だなあと思ったのですが、新聞が手元にあるわけでもないので、これくらいにしておきます。

そういえば、一周年の時には「あさ川が思い入れのある記事」ということでまとめたのですが、二周年のときには特に何もしてませんでした。そもそも、一周年の時からは1年半近く経ちますが、記事の数は100本あまり(最初の一年間は182本)で少なかったこと、更新頻度がかなり落ちてしまっていたこともありまして、そんな気分にならなかった、ということもありました。


今回、この中途半端なタイミングでどうして、ということは今は書きませんけれども、PCでは右側にひっそりと「思い入れのある記事」のリンクが見えるもののスマホでは見えないため、定期的に紹介しないといけないかな、と思ったことも理由としてあります。



一周年のときの「思い入れのある記事」はこちらでした。


そして、一周年以後今日までは、パッと見た感じで以下を選びました。


・2013年06月26日 常に前向きに活動について行ける人のためだけの弥陀の本願ではありません

・2013年07月07日 「一向専念高森先生」ではやはり「助からない」

・2013年07月10日 遇(たまたま)

・2013年09月27日 「一念」に思う

・2013年11月02日 生きていてくれたから

・2014年01月02日 年頭によせて・・・『なぜ生きる2』はすてて

・2014年02月25日 つくべき縁あればともない、離るべき縁あれば離れ

・2014年02月26日 超「親鸞会」


「思い入れのある記事」の基準が、一年前と若干違っているような気もしますが、一つ言えることは、「あさ川がブログで何を書いてきたか、がなんとなく分かる」ことかな、と思います。

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