あさ川進の、宗教と私

浄土真宗親鸞会に所属しながらアウトサイダーだった私(現在は会員でなくなりました)が、宗教(浄土真宗親鸞会)との付き合い方を考えつつ書いている更新頻度が低いブログ(この説明も暫定です)リンクフリーです。なお、投稿文を受け付けております。「【投稿文】」と書かれている記事は、頂いた投稿文です。

2015年01月

最初、今回のタイトルを「投稿文を読んで」にしようかと思いましたが、やめました。なぜやめたのかということについて特に申しませんが、「読んで」の言葉に反応できた方は、たぶん10年くらい親鸞会関係のネットに張り付いていらっしゃるのだろうと推察します。


せっかく思いのこもった投稿文を頂いていたので、私もちょっとだけ感想を述べたくなりました。親鸞会をおやめになった部分についても個人的に思うところはありますが、今回は頂いた聴聞録を読んで少しだけ味わいたいと思いました。


この部分について少し。

十劫正覚以来 南無阿弥陀仏ー南無阿弥陀仏 と貴方を 喚んで 喚びずめなのです
遠くの西方十万億仏土の極楽浄土で  待っておれず 迷い続けの貴方が 六道どこに生を受けようと 常に付いて離れず 聞いてくれる、聞かせてみせると、ひたすら喚んでおられたのです。
ご木像、ご絵像の阿弥陀様は お浄土から 出て来られて 喚んで  連れて還るの 南無阿弥陀仏の姿です。



まず、「十劫正覚以来 南無阿弥陀仏ー南無阿弥陀仏 と貴方を 喚んで 喚びずめ」とあります。弥陀が喚んでいられるのですが、私が南無阿弥陀仏ーとはここで書かれていませんでした。

成仏以来、弥陀はこの私を喚びずくめ。ここでの「南無阿弥陀仏」の「南無」は、親鸞聖人が「本願招喚の勅命」とおっしゃった、「この弥陀をたのめ、信ぜよ」の弥陀のよび声だと味わわれました。

失礼ながら、最初はあまり気にせず読んでいました。今読んでふと、そう思いました。

私が弥陀を念ずることなくとも弥陀は常に、喚びずくめであったと。


次に、「極楽浄土で  待っておれず 迷い続けの貴方が 六道どこに生を受けようと 常に付いて離れず」

「六道どこに生を受けようと常に離れない」という表現も迫力があるように味わわれます。二河のたとえ話などを聞くと、弥陀は西の岸で手招きをされていると聞こえます。しかし弥陀は向こう岸ではなく常に寄り添うて、「阿弥陀仏ここを去ること遠からず」。

仏法聞いておる時も聞いてない時も、腹を立てている時も穏やかな心の時も、喜んでいる時も悲しんでいる時も。

それだけではなく過去世、自分がどこの世界にいたとしても、三悪道に堕ちているときは一緒に堕ちて、喚びずくめの弥陀であったと。


学生時代を思い出します。

学生時代、先輩は口々に、「親鸞会館はいちばん弥陀の光明に照らされている場所だ」「救いに最も近い場所だ」と言っていました。先輩だけでなくて講師部員からもそんなような話を聞いたような記憶があります。

ともすると、「親鸞会館へ行って聴聞する」という自分の行動が弥陀の救いに近づくための道具、もっと言えば自分の行動によって弥陀の救いの遠い近いが決まるような、そんな錯覚を起こさせるものであったようにも思いますし、そんな勘違いをしていました。


弥陀の本願をよくよく聞いてみれば、弥陀が先に悲しまれ、ひとり願を起こされ、寄り添い、よびかけ、たすけるぞというお心であったと味わわれます。


如来の作願をたずぬれば 苦悩の有情をすてずして 回向を首としたまいて 大悲心をば成就せり


何を当たり前のことを、と思われるかもしれませんが、頂いた投稿文をご縁に、
何もできないと知られて、全部用意された弥陀の本願念仏が改めて味わわれたのでした。

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

投稿文を頂いて、投稿文に対してのコメントも多く頂きました。ありがとうございます。


私にとって幸いなことは、当ブログに頂くコメントは(私から見れば)ほとんど記事の内容を踏まえた真摯なものだということです。立場や考えの違いから、必ずしも記事の内容に賛同するものばかりではないかと思いますが、それもまた良いご縁だと思います。前回の記事では、弥陀大悲の味わいをコメントされている方もあり、それも有り難く思います。

私としては、いろいろな立場のコメントや文章をいただくことで、より広く味わえるのではないかと思っております。




さて先日、滋賀県に行った際に土産として 「ごりの佃煮」 なるものを頂きました。
私はそもそも「ごり」というものが何なのか知らなかったのですが、妻と一緒に中身を見るなり、妻が


「私の知っているゴリとは違う」


といいました。

妻は北陸出身なのですが、「ゴリの佃煮」は当地で有名なもののようです。ネットで写真を見てみると、確かに目の前にあるものとは明らかに違いました。写真の佃煮に使われているのは数cmの小魚のように見えましたが、土産の佃煮は稚魚にしか見えませんでした。


Google先生に色々尋ねたところ、どうやら滋賀県では同じ「ごりの佃煮」といっても異なる物のようでした。つまり、妻のいうことも合っていたし、目の前にある佃煮もまさしく滋賀県でいうところの「ごりの佃煮」であったということでした。


同じ言葉だから同じものを指しているのかと思えば、どうもそうではないらしいという話ですが、同じ言葉でも人によって意味することが異なるということはままあります。


人と人とがやりとりをする際、言葉のやりとりは「ある言葉が双方にとって概ね同じことを指している」ことを暗黙の前提として成り立っていると思うのですが、その人が置かれていた環境等のために各人の言葉に紐付けられている意味が意識しないうちに変わっているのだということを、改めて思いました。


親鸞会を離れた方が親鸞会とやりとりをされているものを読む機会がありますが、どうにも話が噛み合っていないように感じることがあります。親鸞会としては答えているのかも知れませんが、答えているように見えないとすれば話が噛み合ってないと言って良いのではないかと思います。同じ親鸞聖人という方が教えられた浄土真宗を仰いでいるはずで、同じく教行信証を根本聖典としているにもかかわらず、です。

改めて先ほどの佃煮の話を持ち出しますと、地域によって佃煮にしているものが違っていることを理解していれば話をする余地があるのですが、それを理解していないから話が噛み合わないということがあると思います。

自分の知っていることが絶対に正しいことだなんて、わざわざ意識はしていないと思いますが、知らないうちに自分の知っていることが全て(知らないことがあるという可能性を認めない)だとしてしまっている可能性はあります。


親鸞会の人(もちろん該当しない人もありますが)は、だいたい親鸞会で聞いてきたことが事実であり紛れもなく正しいことだと思っているように見受けられます。たとえば、アニメ「世界の光 親鸞聖人」は親鸞会の中では親鸞聖人のご一生を描いたものと扱われていますが、そもそも架空の人物説が出たほどご自身のことを書かれなかった親鸞聖人(という話を私は親鸞会で聞きました)の行状が、果たしてアニメにすべて史実通り正確に描かれているのかという疑問を持たれる方はどれだけあるのだろうか、と思います。


言葉も完全なものではありませんが、言葉に依ってしかやりとりはできません。


私のブログに2回、親鸞会をやめたという方からの投稿文を頂きました。端から問題にしないという扱い方もあるのでしょうが、少なくともこの方が抱かれた疑問に対して親鸞会は答えていない、この方と親鸞会とはまったく噛み合っていないと私は感じます。


難しいですが、知らず知らずのうちに染まりがちな「自分の知っていることが世界の全て」という色眼鏡を取って、外の声に耳を傾けることができないと、このような「声」の意味も伝わらないのだろうと思います。

「あさ川進さん」のブロクに「親鸞会を退会しました」を取り上げていただき 多くの方に 私の文章を読んで頂き、有難いご縁 と思っています。
また、コメントを下さった皆さん、ありがとうございます。
コメントを下さった方の多くが 「親鸞会を辞めてよかった 」と私の 方向転換を喜んでくださって 励まされました。更に 私が 救われる事を願って下さった方 ありがとうございます。
30年以上も 親鸞会の教えを信じ 聴聞、財施、破邪顕正を 心と生活の中心にして 「本当に親鸞会にどっぷり浸かっていた私」が 親鸞会を辞めて どうなるのか?最初は 自分自身でも 大きな不安や戸惑いを感じていました。
ネットの情報から「正しい親鸞聖人の教えを説いておられる方は 親鸞会の外に複数おられるみたい」って思いましたが、その方に辿り着く事が出来るのか?辿り着くまで あっちこっちご説法を 聞き歩かなければならないだろうなー。でも、親鸞聖人の教えの通りにお話しされている方か、自分で正しい判断をつける事が出来るかな?或いは、善知識 探しをしようと思う事 自体 同じ誤りを繰り返す事になってしまうのでは?

色んな気持ちが、心の中で 混在して どんな気持ちを持つのがいいのか わからない状態の時もありました。
でも 親鸞会にいた時も 親鸞会を辞めようか迷った時も 親鸞会を辞めると決めた時も その後も 「親鸞聖人の教え、平生業成」を疑う気持ちは 生まれませんでした。
私が 親鸞会を離れたのは 親鸞聖人と同じ「平生業成の身」に なりたかったからです。 ネットを見たり、手元にあるお聖教を確認して 真剣に正しい親鸞聖人の教えを知ろうと情報を集め確認して「 親鸞会の教えが、親鸞聖人の教えと違うと解った」から、「親鸞会で聴聞しても 平生業成の身になれない」と解ったから、親鸞会を去る決意をしたのです。

30年以上前に「人生の目的を考えた事がありますか?」と都内の某駅で声をかけられ 、それから30年あまり「人生の目的」を知らされた「幸せな人生を進でいる」と思っていました。「仏教」について 全く知らなかった自分にとっては 親鸞会で聞く 仏教、親鸞聖人の教えは 驚きと喜びで、すぐに親鸞会に「ハマって」行きました。仕事、家事、子育て、聴聞、で、体力的にも経済的にも時間的にも いつも大変でしたが、「今生で、後生の一大事解決しなければ、取り返しがつかない。宿善求め 進まなければならない」と教えられ、そう信じて進んでいました。

親鸞会では色々な財施が募られ、また ご法礼も高額なのに 会計報告がされません。
その事については 担当講師に聞いた事があります。講師の答えは「実は 一番 財施をされておられるのは、高森先生です。」との答えでした。私は 高森先生が「親鸞会の財務状況が悪い事を会員が心配したり 、高森先生が沢山 財施されておられる事を知って申し訳ない気持ちを持つ事がないようにとの 深いみ心から会計報告をしないように指示されておられるのだろう。」と自分の心を納得させていました。
しかし、我が家の近くに会館が建てられて 自分を含め多くの皆さんが かなりの高額財施をした時でさえ、売り出された物件の値段と 集まった財施の金額は 会館の幹部だったので おおよその額は知る事は出来ましたが(売り出され物件の金額の 2~3倍程の財施が集まったようでした。担当講師も「これなら リフォームをしても 当分の間は 維持費など困らないだろう」と言っていました)、その後の リフォームに使われた金額や 残高は 全く知らされませんでした。「集まった多額の財施」と「トイレの増設位の小規模なリフォーム」を考えると かなりの残高があって当然ですが。どこに行ってしまったのでしょうか。
会館取得の為に直接お金を出した地元の会員にさえ「会館取得の会計報告」をしないなんて。会員をバカにしています。そうです。親鸞会は 会員をバカにしています。親鸞会会員は 親鸞会からバカにされているのです。
聴聞の交通費だけでも 大変な中、贅沢など無縁の生活の中 切り詰めて 「宿善求めなければ」と やっと 出しているお金の使い道を 報告しないなんて バカにしていなければ出来ません。
「唯一無二の善知識の高森先生から 聴聞しなければ、後生の一大事の解決はできない。財施も精一杯して 宿善少しでも厚くしないと 阿弥陀仏の救いに逢えない」の呪縛で 「親鸞会会員は 親鸞会にバカにされながら 親鸞会から搾取されている」のが 実情と思います。
私が親鸞会に 30年以上もいた事を バカにするようなコメントをしてくださった方もありましたが 的を射ていると 思っています。
騙す人がいるのは世の常。騙されない知恵を磨いて たった一度しかない人生を 誰かの私腹と名誉欲を満たす為に 棒に降る事のないようにしなければならないと 自分の怠慢を反省しています。
私の反省すべき点は 「親鸞会で教えられている教え」について、確実な根拠を 自分の目と頭で確認する事なく「きっと 間違えないだろう」と 安易に信じてしまった事です。
親鸞会では、親鸞聖人のお言葉を根拠に話していましたが、そのお言葉の前後や 他の方々の解釈など自分で調べた事はありませんでした。
「自分の人生をかけて求めるもの」に対して どれほどのエネルギーを使い慎重に調べたのか 全く甘かったと言わざるを得ません。
また、多額な金銭を集めながら会計報告がないという非常識さを「善知識の深いみ心」などと 勝手に 解釈して、非常識な団体と判断出来なかった事も反省しています。
親鸞会を離れてみると、非常識極まりない団体ですが、愚かにも30年以上も 騙され 搾取されていました。
私の怠慢と 判断ミスで 友人まで 巻き込んでしまった事 、後悔しますが、時間を巻き戻すことも 彼等が 使ったお金をお返しする事も 出来ません。

振り返ると、私も友人も共に 親鸞聖人のように「平生業成の身になりたい」との思いで 親鸞会に入り、そして今回 親鸞会を去る事となりました。
私がすべき事は 正しい親鸞聖人の教えを知り ご迷惑をおかけした友人等に 間違えない聖人の教えをお伝えする事と思っています。
今度は慎重に、「この人だけ」「この会だけ」ではなく、広く情報を集め、ご法話、ご著書 また、それらの根拠を確認して 間違えない親鸞聖人のみ教え、阿弥陀仏のご本願をお聞きしたい。また、親鸞会の間違えに 未だ気づかず 騙され搾取されている親鸞会会員の皆さんが早く 親鸞会の間違えに気づいて欲しい。この気持ちを持って 実行できる事を ひとつひとつ丁寧に行って行きたいと思っています。

幸いな事に 親鸞会退会後、阿弥陀仏のみ心を教えてくださるご縁に沢山恵まれました。(また、騙されたんじゃないのー?って声が聞こえてきそうですが 。大丈夫です。今度は 慎重に 聞かせて頂きます。それに何も搾取されていません。ご恩を頂く事が多く 、お会い出きた不思議なご縁を心から喜んでいます。)
阿弥陀仏が 私達が親鸞会から退会して、「本当の弥陀の本願 」を探すのを 今か今かと待ち構えておられたように、「尊い方々との嬉しいご縁」が これでもか という程ありました。
「親鸞会を辞めて これからどうやって親鸞聖人のみ教えを求めて行ったらいいか迷っている」と打ち明けると お願いしたわけでもないのに 本やDVDやテープを送ってくださる方や、「どこで誰のお話しを聞いたのか」と尋ねると 「お話しを聞いたのではなく、本を読んだ」と言って 本の内容をメールで送ってくださる方や 電話で 「真実信心」を 丁寧にお話しして下さる方など・・・。
親鸞会にいた時には お金を出さずに 「本」が手に入ったり、「法」が聞けることはなかったので、別世界に来たように感じました。
少し 赤裸々な事を打ち明けますと、親鸞会にいた時は、最低 毎月 7万5千円を求道に為に遣っていました。まず 会費が1万円、富山まで(土曜日仕事なので新幹線だったので)の交通が2万円、ホテル代が5000円、ご法礼が 高森先生に、1万5千円、チラシの新聞折込み財施が 1万5千円、支部長へのご法礼が5000円、地元の会館の維持費の財施が5000円 なので合計 7万5千円です。
この他に 報恩講だ 、メニューお布施だ、ご著書のお布施だ etc。
年間100万円以上、30年間、本当にどれだけ遣ったか、考えると悔しいけれど 親鸞会を辞めて ムダなお金の流出を防げのは 老後を考えると 本当に助かったと思います。

阿弥陀仏のみ心を 知った方々から、丁寧に詳しく 阿弥陀仏のみ心をお聞きする事ができて、私の為にご苦労して下さった阿弥陀仏のお慈悲に心の頭が下がります。
もちろん、親鸞会のように 無理な財施の勧めもありません。

前置きが 長くなりましたが、以下、 親鸞会を離れて 私に届けられた、善知識方々の教えを まとめさせて頂きました。
西本願寺、東本願寺、その他の先生方から 聞かせて頂きました。
(直接お話しを聴聞させて頂いたり DVDやテープでお聞きしたり、ご著書を読ませて頂いたり 電話で信心のお話を質問させていただいたり、メールでご著書の内容を送って頂いて読ませて頂いたり 、インターネットの音源を送って頂いたり 私の周り中、阿弥陀仏のみ心 のお知らせばかりになりました。)

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● 出会えた先生方々から 仏願の生起本末を以下のように聞かせて頂きました。
   聴聞記録です


「十九願は諸善をして善人になれよ、助ける(化土往生)」   ---方便願----雑行(自力)
「二十願は善が出来ないなら 念仏を称えよ、助ける(化土往生)」ーー方便願ーーー雑修 (自力)


「十八願を 親鸞聖人はこうおっしゃいました

        本願を信じ
        念仏申せば
        必ず 仏に成るべし  (報土往生)---真実願  (他力)

阿弥陀仏の本心を誓われた願だから王本願と言われます。
どんな み心で この本願 建てられたのでしょうか。
「汝には 浄土へ往けるような清らかな真の善は出来ない。たまにしても オレがあいつにこれだけしてやった、としか思えない恩着せの善しかない。
また見返りを望む浅ましい善だから、見返りが無いと、 しなければ良かったと後悔する始末。ーー十九願失格
心と口と体で 毎日どれほどの悪を造っているのか考えもしない、恐れもしない。
他人から言われても心から「悪人だとも、後生は一大事(地獄)」とも思わない。
勧められても毎日、念仏を称えられない。否、お浄土も阿弥陀仏への思いも続かない。ーー二十願 失格

それよりこの世の幸福が大事で 苦労して求め、不幸を恐れて、安心したことがない。
これが「煩悩具足の凡夫」、こ のまま死ねば後生は流転輪廻の繰り返しだ、一大事なのだ。
しかも命は無常、もう身に迫っている、一生はすぐ終わる、必ず後悔する。

そんな汝が哀れでならぬ、可愛そうで見ておれぬから 「今度は汝を救う仏に成りたい」と 仏の境界から世自在王仏のお弟子になったのだ、法蔵比丘になったのだ。
どうしたら助けることが出来ようかと、まず 一劫かかって お前の身の上、罪業調べをした。
分かったぞ、分かったぞ
この弥陀は 汝の自性、正体を骨の髄まで 見抜いておるぞ 知っておるぞ

十悪、五逆、法謗、せん提、邪見、驕慢、弊、懈怠 ーーーー恐ろしいものじゃなー 生死流転極まりないのは当然なのだ。
なぜ 慈悲もある三世諸仏に見捨てられたのか、捨てる仏が悪いのじゃない、捨てられて当然なのだ。
仏に成ろうの願も無い、貪欲、瞋恚、愚痴の塊で 善根功徳の 行も出来ないではないか、無願無行の者だ
仏に成る善根功徳を励めよ 積めよと 言っても性そのものが 永い流転で悪性となり  絶対無理と見抜いたぞ。
たとえ 三世の諸仏のお勧めを聞いて 善根功徳を励んでも 汝の自力の善では 到底 六度出離は適わないのだ
悲しいかな 自力無功の者であるぞ
(三恒河沙の諸仏の出世のみもとにありしとき  大菩提心 起こせども 自力かなわで 流転せり)

それを知ったら 尚更 可愛そうで、「この法蔵(弥陀)だけは 何があろうと汝を見捨てないぞー、苦しいだろうが待っておれ必ず助けてみせる」と世自在王仏にご相談すれば、悪人 女人は助けられぬ  無理じゃ 三世の諸仏も一度は助けようとしたが無駄じゃった、法蔵 苦労するだけじゃ止めておけと断られた。
三世の諸仏に見捨てられ、この法蔵も諦めたなら、悪人 女人は 未来永劫助かりません、どうかお教え下さいと頼んで三度断られたが、少しも後へは引かなかった。最後に、大海の水を 汲み干して身体を濡らさず 海の底の宝を 取ってくるような難儀なことじゃと覚悟を教えられたのだ。 
ついに 相談に乗ろうと 世自在王仏のお力で 二百一十億の仏の浄土と衆生を見せて頂いた。
その中から、汝を助ける 手立てを選び取るのに五劫思惟して 本願を建てたのだ。こうなれば、この法蔵が汝の罪業全部引き受けて 「往生させる 成仏させる 善根功徳」を兆載永劫かかろうと成就するしかないと決心したのだ(三重げ)。
その間、一度として 一時として  どんな苦しくとも 止めようか と 後悔をしたことが無いぞ 。
〈仮令 身は諸の 苦毒の中に止まるとも、我が行は精進して、忍びて終に悔いじ〉
ただただ 汝を 助けたい、わが浄土に連れて往って もう迷わぬこの弥陀と同じ仏にしてやりたい。それ以外になかったのだ。
汝に この心 必ず分かってくれる時があると信じて、その時を待ち望んで この弥陀はどんな苦難も耐えて 精進したのだ。
兆載永劫の間 生死 生死を繰り返し 六度万行 菩薩の行を励み そして 十劫の昔に正覚を取った、四十八願全て成就した、ついに 汝を助ける南無阿弥陀仏に成ったぞー 、汝の帰る浄土も成就したぞー、
往生成仏出来る 善根功徳を 受け取り易く 称え易い 南無阿弥陀仏の六字に封じ込めたぞ(全徳施名)
全部 準備、手立ては仕上がった。後は汝に受け取らせるだけだ
さー どうにもならぬ 堕ちる自性に合わせて、持ち合わせのまま救う「南無阿弥陀仏」ぞー
そのまま、この弥陀にまかせよ(南無)お前の後生は引き受けたー 、堕としはせぬぞー、往生成仏させるぞ 摂取不捨ぞー(阿弥陀仏)
光明無量、寿命無量のこの弥陀の 全財産全功徳もお前にやりたくて成就したのだ。さー受け取ってくれーやるぞー
この財産受け取ったら 汝は迷いの凡夫でないぞ 正定聚、 往生人の仲間だ もう浄土は汝の実家  大手をふって帰って来い 遠慮は要らんぞー 待ってるぞー どうか、この弥陀に助けさせてくれー、まかせてくれー、信じてくれ 聞いてくれ 罪に恐れるなー  連れて往くぞ 待っていたぞー  さー来いよー」  

○十劫正覚以来 南無阿弥陀仏ー南無阿弥陀仏 と貴方を 喚んで 喚びずめなのです
遠くの西方十万億仏土の極楽浄土で  待っておれず 迷い続けの貴方が 六道どこに生を受けようと
常に付いて離れず 聞いてくれる、聞かせてみせると、ひたすら喚んでおられたのです。
ご木像、ご絵像の阿弥陀様は お浄土から 出て来られて 喚んで  連れて還るの 南無阿弥陀仏の姿です。

南無阿弥陀仏の 南無は  信ずる機であり たのむ機であり 私に 阿弥陀仏を 信じる心  おまかせする 心が 無いと  阿弥陀仏は見抜かれて 信じる たのむ心まで ご回向なのです お与えです
これを「たのませて  たのまれたもう弥陀なれば   たのむ心もわれと  おこらじ」と妙好人は言っています
こんな  仏が  他にありましょうか、ありません
蓮如上人が「われらを 阿弥陀仏の 助けたまえる支証のために み名を この  南無阿弥陀仏の 六字に現したまえるなり」ご文章 3帖5通
 丸丸他力で  救われるから こんな私みたいな者ではーーと逃げることは出来ません、お目当てです。

また 今生 初めて 聞いたのではありませんよ
もし 聞き損なって 三悪道へ堕ちても「なぜ  しっかりと聞かなかったのじゃー、情けない奴じゃ、自業自得じゃー」とは  おっしゃらず「 あーまたも 堕としてしまったかー この弥陀の育てが  及ばなかった すまんなー すまんなー どこへ行こうと 見捨てんぞー  離れんぞー」
と泣いて下さるのが阿弥陀様です。 底無しのお慈悲とは このことです。
過去世 十劫以来 どれだけ  泣かせてきたことか

このやるせない 阿弥陀仏の大慈悲心を親鸞聖人は 多くのご和讃を作られてお伝え下さいました

・ 生死の苦海ほとりなし 久しく 沈めるわれらをば 弥陀弘誓の船のみぞ 乗せて必ずわたしける

・ 弥陀観音大勢至 大願の船に乗じてぞ 生死の海に浮かみつつ  有情を喚ぼうて乗せたもう

・ 願力無窮にましませば 罪悪深甚重からず 仏智無辺にましませば 散乱放逸すてられず

・ 如来の作願をたずねれば 苦悩の有情をすてずして 回向を首としたまして 大悲心をば成就せり
                 
・ 兆載永劫の修行は 阿弥陀の三字に収まれり  五劫の思惟名号は  五濁のわれらに  付属せり

・ 四十八願成就して 正覚の弥陀になりたもう たのみをかけし人は皆  往生必ず定まりぬ

・ 超世の悲願ききしより われらは生死の凡夫かは 有漏の穢身はかわらねど  心は浄土にあそぶなり

・ 無碍光如来の名号と  かの光明智相とは 無明長夜の闇を破し  衆生の志願を みてたもう



○四つとせー よくよくお慈悲を聞いてみりゃ  助ける弥陀が手を下げて
 まかせてくれよの 仰せとは ホンに今まで知らなんだ
    
○われ称え われ聞くなれど 南無阿弥陀仏 
ぜひに来いよの 弥陀の喚び声(南無)連れて帰るの 弥陀の喚び声(阿弥陀仏)


○ この六字の真が 至り届くのです。他力回向の信心とは この南無阿弥陀仏のことです

 阿弥陀仏の必ず聞いてくれる 聞かせて見せるの 南無の機 真実心に貫かれるから
 疑い、計らい、分からん分からんと煩悶した心が 南無回向の機に 殺される、消されてしまうのです。        
 
 親鸞聖人は「帰命とは本願召喚の勅命なり」と教えられたのは「われにまかせよ、必ず救う」阿弥陀の「喚び声」でした。
「今、ここで、私を」喚んでおられるのです。
だから「平生業成」と救われるのです。
 阿弥陀仏の救いは 三世の諸仏には考えられない超世稀有の「名号法」「喚ぼうて救う」音声法であり、
  聞こえたそのまま救われるのです。「聞即信」とは このことでした。
  聞こえるとは 六字の心が 仏願の生起本末が 私 一人のためでありましたと至り届いて下されるのです。
  自分でも分からない 恐ろしいド根性、とても助かる者ではなかったと自力無効のドン詰まりの私に、そのまま まかせよ
  摂取不捨と抱きしめて お浄土へ連れて往って下さるのです

 これを親鸞聖人は「本願を信じ 念仏申せば必ず 仏に成るべし」とおっしゃたのですj

             「ああ 弘誓の強縁は 多生にも値いがたく、真実の浄信は 億劫にも獲がたし。
             遇 行信を獲ば 遠く宿縁を慶べ」 と感泣なさいました。

さあ皆さん 今生こそ 南無阿弥陀仏の不可思議功徳にうちまかせて 生死流転、六度輪廻 から出離して
共に お待ちうけの お浄土に往生させて頂きましょう。



(このように聴聞させて頂きました)



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30年間、親鸞会で聴聞してきましたが、このような「生きた阿弥陀仏のみ心」を聞いた事はありませんでした。「ただ今の私」に働いて下さっている「十八願、六字の心」を 聴聞して 本当の親鸞聖人のみ教え 、本当の「平生業成」が分かりました。親鸞聖人が 命を懸けて伝えてくださった事 に 本当に有難く 感謝申し上げたいです。

親鸞聖人が
「衆生 、仏願の 生起本末を聞きて 疑心あること無し」
と教えてくださったのは、このような お話しを聞く事だったのだと 感動しました。阿弥陀仏の深い深い慈悲のみ心、私が救われなければ 阿弥陀仏も苦しんで下さる 。そんな慈悲が私にかかっていたなんて。
「まかせてくれ」のみ心を知らず、親鸞会の間違えに気づかず、「自力が廃るまで自力の善をやろう」などと、自惚れていました。阿弥陀仏が「五劫の思惟、兆載永劫のご修行」で 私の為に とんでもないご苦労の末に 作り上げて下さって、あとは 私が受け取るだけで、私を仏にして下さる「南無阿弥陀仏」に 心を向けず 、どれほど阿弥陀仏を悲しませていただろうと 思います。
しかし 遠回り しましたが、本当の親鸞聖人のみ教え、阿弥陀仏のご本願 お聞きするご縁 に やっと 会えました。
私が、親鸞会を辞めて 「南無阿弥陀仏」に心を向けたこと 阿弥陀仏はどれほどお喜びかと思います。

親鸞会では 「三願転入」こそ、「親鸞聖人のみ教え、阿弥陀仏のみ心」と 教えますが、「凡夫往生の手鏡」と言われる「ご文章」には「雑行 雑修 自力の心を振捨てて 弥陀たのめ まかせよ」としか、書いてありません。よくよく読んでみてください。
南無阿弥陀仏の心を自信教人信で説かれる先生は、本当に一人や二人ではありません。
調べて下さい。
探して下さい。
阿弥陀仏は必ず逢わせて下さいます。

阿弥陀仏が
「早く聞いてくれよ、分かったくれよ 任せてくれよ 称えてくれよ」と 待っておられます。
「本当の弥陀の本願 」「南無阿弥陀仏の謂れ 」を1人でも多くの方が 聞かれますよう願うばかりです。

南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏

今年は投稿文を募集します、と書きまして、ふと思いだしたものがありました。

「さよなら親鸞会」でも、投稿文は結構掲載されていたような記憶がありますが、私にとってみれば、親鸞会関係で”投稿文”といえばこちらのサイトを思い出すのでした。


これ


10年近く前のものなので、親鸞会関係のブログをご覧になっている方の中でもご存じの方がどれだけいらっしゃるかは分かりません。最初は「メールより」から始まり、どういう経緯かは分かりませんが「投稿文」という体裁が始まったと記憶しています。


ご存じの方、あるいはお読みになった方はお分かりになると思いますが、この中には「現役の幹部会員」の方からの投稿文もあります。あまり長くない文章ですが、幹部会員という立場からご自身の信仰と勧誘についての見解が述べられています。また、ほかにも会員さんの文章はあります。


私が親鸞会関係のネットの情報(だいたい2ちゃんねる)に初めて触れてから、もう14年くらい経ちます。その間も長いこと会員を続けていた私は、それなりに色々なものを見てきました。かつては、掲示板等でも会をやめた方と会員さんが(それぞれ立場は異なるとはいえ)やりとりをするということは全くもって違和感の無いのことでした。

そんな感覚でいる私は、ここしばらくの間にネット上の親鸞会情報に触れるようになったといわれる方の感覚を推し量ることは難しいのですが、どのような感想を持たれるのかな、ということには興味があります。




今、改めて振り返ってみますに、今の会員さんがこのように投稿文を寄せられるということは果たしてあるのだろうか、と思います。会員さんが「外」に向けて発する声は以前と比べて今、ほとんど聞かれなくなったように思うのです。

私としては、できることなら会員さんにもぜひ文章をお寄せ頂きたいと思います。


文章を世に出して、どのような反応が返ってくるかは分かりません。私がブログを始めた当初は、「親鸞会の会員である(ということとポジショニングが謎だった)」ということでかなり荒れました。


このブログの読者の方の構成が、現在はどのようであるか、私には分かりません。文章の受け取りは人それぞれですから、文章以前に属性で受け付けられない方があっても不思議ではありません。どのように受け取られるか、思ったようには受け取ってもらえないかも知れません。


匿名で結構ですので、いろいろな立場の方から声を頂けると、ありがたいです。
親鸞会などという垣根は、弥陀の本願の前には不要だと思いますので。



前回の記事で、投稿文を募集しますというお話をしたのですが、もちろん私が何も書かなくなるということではありません。前回の記事更新の際に、私の隣にいた人から色々突っ込みを受けました。


親鸞会を追い出されて初めての正月ということでしたが、今までで一番年賀状を書いた気がします。親鸞会の会員さんというくくりでは、後輩の何人かは今も親鸞会でいるのですが、数年間賀状のやりとりを続けていた後輩と、変わる前の支部長さんに対しては今年も出しました。

返事は来ないかも知れないなと思っていたのですが、後輩からも元支部長さんからも返事が来ました。私としては、親鸞会の会員というくくりと関係無く人間としての付き合いということでいたかったので、それぞれ思うところはあったかも知れませんが、返事が来たことは嬉しく思ったものでした。




さて実は、年末に妻の実家に帰っていた時に、実家の近くの本屋で一万年堂出版の新しい本を見かけました。買ってまで読むという気も起こらなかったので少しだけ立ち読みしまして、ブログのネタにでもしようと思っていたところ、山も山さんが書評を書かれていました

私はそこまでじっくりと読んだわけではなかったので詳しい内容は把握していなかったのですが、私が少し目を通した感想は、

"『図解雑学 親鸞』のリバイバル本みたいなものだな"

というものでした。


図解雑学シリーズは結構有名なのですが、どうしたことか親鸞会弘宣部の仙波さんが著者となって、思いっきり親鸞会だと分かるような内容で出てきた『図解雑学 親鸞』でしたが、現在は絶版になっています。この本も、著者の一人は仙波さんだし、「アニメ 世界の光 親鸞聖人」を元にしていたということもあって、私の目には限りなくダブって見えたのでした。

さすがに図解雑学シリーズではアニメの話はできませんでしたが、山も山さんの書評によりますと今回は一万年堂の本なので遠慮なくアニメの話が出てきているようです。そういえば、アニメの場面のキャプチャが本の中に何カ所かあったような記憶があります(曖昧)。

詳しい内容は、山も山さんの書評を見て頂いて、購入するなり立ち読みするなりされるとお分かりになるかと思います。



前回の記事にて、久々に中途半端な味わいを述べましたところ、コメントを頂きました。(ありがとうございます)
部分的に引用します。


安楽集の引文について、私は真宗聖典を9種類程持っていますが古い聖典はどちらも「もの」とフリガナがついています。
親鸞会が使っている「柏原本」もそうなっています。
西本願寺の註釈版はひらがなで「もの」と「ひと」になっています。
東本願寺の聖典は前者はフリガナが無く後者に「ひと」とフリガナをつけています。
昭和36年頃までは、西本願寺所蔵の教行信証が親鸞聖人の御真筆と思われていたので底本が西本願寺所蔵本だったからだと推測されます。
多分、西本願寺所蔵本にはフリガナがついていないと思われます。
あさ川さんは翻刻篇を持っておられるので、坂東本のフリガナがわかっておられると思います。
前者はフリガナはどうなっているのでしょうか?
「もの」とフリガナがついているのか、フリガナが無いのでしょうか?



白状しますと、このコメントにより今年初めて翻刻篇を開きました。宝の持ち腐れ状態で申し訳ない気分ですが、このようなコメントを頂くことで、翻刻篇の味わい方の参考にできるというのは有り難いことです。

というわけで、翻刻篇を開いたところ、前の部分には「ノハ」とありました。私には漢文の理解が難しいので、キャプチャ画像を貼ります。赤線を入れた以外の加工はしておりませんので、興味を持たれた方はそれぞれご確認頂ければと思います。


写真 (4)




今日はこれくらいといたします。

年が明けました。今年もよろしくお願いします。


なお、先回思わせぶりにしておりました投稿文については、もろもろの事情により公開見送りになりました。年明けに改めて、といわれていましたので、いただいたらまた改めてということにしたく思います。更新が滞りまして失礼しました。



過去2年、年頭によせては以下のお題で書いていました。

年頭(平成25年)に寄せて 「弥陀の真似でも」
(平成25年)

年頭によせて・・・『なぜ生きる2』はすてて
(平成26年)


今年は何を書こうかと考えまして、次のお言葉を出すことにしました。


前に生れんものは後を導き、後に生れんひとは前を訪へ。連続無窮にして、願はくは休止せざらしめんと欲す。無辺の生死海を尽くさんがためのゆゑなり
(教行信証化身土巻)


これは親鸞聖人が、『安楽集』のお言葉をひかれたものとのことです。わざわざ「者」の字を「もの」「ひと」と読んであるのは、「さきに生れん」人に対しては「のちの人」を導く責任を「もの」という読み方で説き、「のちに生れん」人に対しては「ひと」と読むことで、浄土真宗に縁のあった同行としての喜びを呼びかけ、また、是非とも弥陀の本願念仏の教えを訪ねていってほしいという願いを込められていると味わわれます。

ここで「前(後)に生まれ」というのは、この世の誕生日の早い遅いということではなくて、浄土に生まれるということだ、と言われます。


私(たち)にとりまして、「前に生れん人」の代表は親鸞聖人でありましょう。


親鸞聖人の生涯のすがたを通して、また、教行信証をはじめとする書物に教えをまとめられたことによって、「後に生れん」人が「前をとぶらう」ことができます。


そうやって「後に生れん」人が今度は「前に生れん」人になって、連綿と続いていく。
その中には、親鸞聖人のような気概と学問に強い方だけでは無く、「私」のような人も続いていきます。


とはいうものの、親鸞聖人のように気骨の生き様を見せられる方ばかりではなく、また、誰しも教行信証のような書物を著すことができるわけでもありません。


親鸞聖人、あるいはその前の善知識方から連綿と続く流れは、その方その方で表現の仕方も変わってくるのだろうと思います。


弁の立つ人は、その弁によって
筆の立つ人は、その筆によって
あるいは、念仏喜ぶその姿にかけて




さて、もう2年近く前になるような気がしますが、かつて私はこのようなことを書いていました。


私には願いがあります。 願いの一つが、会員だとか退会者だとか、そういったこと関係なく弥陀の本願を賛嘆できるようなコミュニティを作りたいということ。


今のところそんなコミュニティはできていないのは、私の怠慢によるところでしょうが、その一つの形として、皆さんの表現の場を作る、ということもあるのだろうという思いを持ちました。たとえば、


・弥陀の本願についての喜びや味わい
・弥陀の本願を知るまでの道のり
・浄土真宗の教えについて


など、語りたい言葉を持ち合わせていてもその場が無い、と言われる方がもしあるならば、投稿文をお寄せください。(このブログでかまわない、という場合)


上記のことについてと例に出しましたが、必ずしも上記の内容でなくてもかまいません。たとえば


・弥陀の本願がどうもよくわからない
・○○という考えの方を自分は信奉している


といったものでも結構です。このブログは「宗教と私」と言いながらもおおむね浄土真宗についての話題になっていますが、当ブログの趣旨に合う(とあさ川が判断できる)ものであれば良いと思います。


現時点で○や×を事細かに書くことは難しいですが、例えば以下のようなものはご遠慮ください。


・当ブログと関係ない内容
(お金持ちになったとかいう体験談等)

・特定の個人または団体への帰依を求めるような内容


あとは、お寄せいただいた文章を読んで、あさ川が非公開と判断することもありますが、その点はご理解ください。


投稿文の送り方は、

①あさ川への連絡先をご存じの方は、そちらからお送りいただければと思います。

②ご存じで無い方は、右上(PC版のみ)のメッセージフォームに連絡先をお書きいただくか、
 skai_asa(アットマーク)yahoo.co.jp
 にお送りいただければと思います。(アットマークは@に変えてください)

③メールをお送りいただいたら、数日以内に何かしらのお返事をさしあげる予定です。
 五日ほど経ってもあさ川から何の返事が無い場合は、
 ・メールが届いていない
 ・メールが見られなくなっている(迷惑メールに振り分けられた等)
 ・メールを見ていない
 などが考えられますので、この場合はお手数ですがお問い合わせいただければと思います。

④いただいた文章が公開前提となる場合、何度かやりとりをさせていただきます。


この運用が軌道に乗るのか、そもそもこのような需要があるのか、よく分かりませんが、これもまた縁なのだと味わっております。もし、弥陀の本願念仏のご縁となるのであれば、そのように動いていくだろうと思っております。


改めまして、本年もよろしくお願いします。

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