あさ川進の、宗教と私

浄土真宗親鸞会に所属しながらアウトサイダーだった私(現在は会員でなくなりました)が、宗教(浄土真宗親鸞会)との付き合い方を考えつつ書いている更新頻度が低いブログ(この説明も暫定です)リンクフリーです。なお、投稿文を受け付けております。「【投稿文】」と書かれている記事は、頂いた投稿文です。

2015年02月

RCさんから4回目の投稿を頂きました。3月1日に公開してほしいという依頼がありましたので、なるべく近くなるようにはしたいと思います。


今回は、毎年恒例、というわけでもありませんが、2/26が当ブログの記念日(私の中で)ですので、私の文章です。




私が親鸞会を離れて、一年経ちました。もっとも、私は自分からやめたわけではなく、私が何日付で除名になったかも不明ですから、いつをもって一周年なのかはよくわかりません。


私は会員であることにこだわっていたような、そうでもないような、自分でもよくわかりませんが、親鸞会の中で弥陀の本願喜ぶ、ということができなくなったことが残念に思う一方、親鸞会を気にする必要がなくなった空気を味わう私があります。


幸いにも、親鸞会を離れてからも様々な方に出会い、お力添えをいただき、ご縁を受ける日々です。ありがたいことだと思います。


親鸞会に入会した当時、宗教団体に入ってしまったという、人生半ばにして捨ててしまったような絶望感を味わっていた私ですが、今のこのありがたいご縁もまた、親鸞会という宗教団体がもたらしてくれたものと思えば、おかげさまでという気持ちもあります。



さて、どっちつかずのことをダラダラ書いてしまいましたが、それも含めて今日の話です。
私がこのブログで繰り返し書いていたこと、弥陀の本願喜ぶにその場所や所属は関係ないということを、二十六日という日に合わせて書いてきました。
特にこの二月二十六日の一昨年は「卒」親鸞会、去年は「超」親鸞会。

今年は一昨年ほど気合が入ってないせいか、「忘」親鸞会とつけてみました。



ブログを始めた頃、ネット上で色々言われた私ですが、こんな私に対しても、何人もの方とブログを通じてご縁がありました。

その中には、聞法のご縁について、あるいは信心について聞かれる方、あるいはなんと聞法の心構えについて私にお尋ねになる方もありました。
その折その折で、私も答えられる範囲で私なりにお答えしてきたつもりですが、その実弥陀の本願のことに対して私が「教える」立場に見られていることについては、居心地の悪さを感じます。


だって、私には何もないわけですから。


浄土真宗について深い知識があるわけでもなく
深い人生経験に裏打ちされた人徳があるわけでもなく
死ぬような思いで善行を積んできたわけでもなく

こと仏教に対して尊い心なんて、まるでないわけで、


そんな私がいうことといえば、

誰からでも、どこででも良いので、弥陀の本願聞いてください
南無阿弥陀仏のご縁にあってください


なんとかの一つ覚えと思われるかもしれませんが、オンラインオフラインともにそんなことを言ってます。


親鸞会を離れて聞法の場を求められる、その中で、いろいろな聞法の場に収まる方もありますが、一方「ピンとこない」と言われる方もあります。それぞれのご縁なのだと思いますが、私の感想としては、親鸞会で話を聞いていた人が親鸞会の外でお話を聞かれると、いろいろと合わないところがあるのではないかと思います。


・親鸞会では因果の道理など、自力の話が多い(ように思われる)が、外ではそのような話はほとんど聞かれない
・親鸞会では念仏の話はほとんどされないが、外では念仏の話ばかり


このことは以前に書いたと思いますが、親鸞会では「自力の心」に分かりやすい話がされるので比較的イメージしやすいと思います。一方、実際の弥陀の本願念仏の話は「自力の心」にとって分かりにくいのでピンとこない、ということがあるかもしれません。
別の言い方をしますと、シンプルな話だとしても親鸞会で聞くと、Aという話を聞いたと思ったら実はBだったと言われ、Bだと納得したらBでもなかった、というような、「なんかとても奥が深そう」な話になったりします。それを弥陀の本願念仏の話にも適用して、難しく考えてしまうためにピンとこない、とも言えると思います。


難しいことを難しく、易しいことも難しく考える方がなんとなく性分に合うような気がしますが、せっかく難しいことは何もいらないように用意された南無阿弥陀仏を撥ね返してしまうのは勿体ないことだと思います。


われらがごとく下根の凡夫、一文不通のものの、信ずればたすかるよし、うけたまわりて信じそうらえば、さらに上根のひとのためにはいやしくとも、われらがためには、最上の法にてまします。たとい自余の教法はすぐれたりとも、みずからがためには器量およばざれば、つとめがたし。われもひとも、生死をはなれんことこそ、諸仏の御本意にておわしませば、御さまたげあるべからず
(歎異抄)



そういう意味では、弥陀の本願をそのままいただく、仏願の生起本末をそのままいただく、自分の口から出る南無阿弥陀仏をそのままいただく、そのままというのは言葉では易しいが難しいと感じるかも知れません。
親鸞会で聞いた話も含めて、難しく考えるその思いを忘れてしまう、自力丸出しの自分はそのままにいったん脇に置いて弥陀の本願を聞いてみる。それがまた有り難いご縁となるのではないかと思うのでした。


「聞」と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心あることなし。これを「聞」と曰うなり。
(信巻)



また、もう一つ忘れて頂きたいこと。

それは、


・善知識は「めったにおられない」


という思い。親鸞会の会員さんの場合、多くは「高森先生しかおられない」だと思います。転じて


・○○先生の話でなければ救われない


という思い。

善知識は大切ですが、南無阿弥陀仏の弥陀を差し置いてしまっては詮無いことです。


されば善知識というは、阿弥陀仏に帰命せよといえるつかいなり。宿善開発して、善知識にあわずは往生はかなうべからざるなり。しかれども、帰するところの弥陀をすてて、ただ善知識ばかりを本とすべきこと、おおきなるあやまりなりとこころうべきものなり。
(御文2-11)



もっと言えば、昨年、一昨年と言ってきたことでもありますが、もし浄土真宗に引き続きご縁があるのであれば、「親鸞会」という枠そのものを忘れてしまって、置き去ってしまって、囚われないで、南無阿弥陀仏を頂きましょう。

親鸞会をやめなければ、とか、親鸞会でなければ、とか、そんな枠は環境でしかありません。環境も大切ですが、環境がすべてではありません。


親鸞会を肯定するとか、否定するとか、そんなものは南無阿弥陀仏に関係ありません。

冒頭、私は親鸞会に対してあれこれ書きました。「結局おまえは親鸞会から離れて良かったのか、後悔してるのか、どっちだ?」といった趣旨のことをもし思われた方があるとすれば、


「そんなことはどうでもいいです」


「忘」親鸞会。
ただ南無阿弥陀仏、、


あさ川の言ってることは全然分からない、と言われる方も、少しでも共感される方も、共に南無阿弥陀仏を味わうご縁ともあれば、有り難いことだと思います。

前回は、RCさんから頂いた投稿文でした。私の説明不足により、RCさんの投稿文があさ川の文章であるという誤解を受けられた方があるようでした。失礼しました。


久しぶりに複数のメッセージを頂きました。ありがとうございます。
なお、すみませんが、2/19にメッセージを頂いた方、ご連絡先の記載が無いようでしたので、お返事ができずにおります。差し支えなければ、メッセージの本文にご連絡先を記載頂ければと思います。(連絡先記載の方法が分かりにくくてすみません)


前回の投稿文は、コメント数にはなかなか表れませんでしたが、アクセス数は投稿文を掲載する直前から見れば2~4倍になりました。今も2倍程度をキープしています。かなりの反響を頂いたと思います。


さて、


過日、さいたま親鸞講座に行ってきました。さいたまでは歎異抄の解説が続いていて、先日は第十二章でした。

この講座の存在自体は、ブログの読者の方に随分前から教えて頂いていたのですが、なかなか予定が合わずに前回の第十一章が最初でした。

大意はなんとなく掴め(たような気がし)ても、細かな部分や背景などは全く分かっていない私としては、様々な気付きやら味わいやらが生まれ、第一回から聞いてみたかったと思っておるところです。


「歎異抄」の味わいについては、以前も少し書きました


例によっていろいろ味わうところがありましたが、今回のお題でもあった「知識で私が救われるか。」に関連して、
「知識が論争を生み、論争が異義を生む」 というお話がありましたので、少しだけ私が聞いた内容を紹介します。

(前略)

ひとは、知識を身につけると自分を正当化したくなる。正当化するために、論争をするようになる。
法然上人は、七箇条の制誡で戒められている。

一 無智の身を以て有智の人にむかい、別行の輩に遇って好みて諍論を致すことを停止すべき。
右論議は、これ智者の有なり、さらに愚人の分にあらず。また諍論の處はもろもろの煩悩起こる、智者これを遠離すること百由旬なり。いわんや一向念仏の行人においておや。
(西方指南抄)



批判する人や反対する人(謗る人)と議論して、自分の信ずるところを相手にも信じさせたい、と思うようになると、それが高じて異義を生むようになる。歎異抄後序に述べられている。


念仏もうすについて、信心のおもむきをも、たがいに問答し、ひとにもいいきかするとき、ひとのくちをふさぎ、相論をたたかいかたんがために、まったくおおせにてなきことをも、おおせとのみもうすこと、あさましく、なげき存じそうろうなり。
(歎異抄後序)



(謗る人との)論争に勝とうとするために、「まったく仰せにも無きことを仰せのように」言うようになってしまうのだと言われている。

謗りを止めさせるのは私の仕事ではない、仏さまの仕事。

(後略)


私は、「論争が異義を生む」ということをはじめに聞いた時、ピンと来ませんでした。しかしながら、この歎異抄後序のお言葉に触れると、私の中である宗教団体の流れが思い浮かぶのでありました。


まあ、ぼかして言う必要もありませんね。浄土真宗親鸞会という宗教団体です。


現在では浄土真宗ですら無いと叩かれまくっている親鸞会ですが、かつては本願寺と論争をしていました。
「法戦」や本願寺シリーズをお読みになった方には伝わるかと思いますが、親鸞会は本願寺に勝とうとするために色々な「根拠」を出して必死になっていました。

その過程でしょうか。前回の投稿文で嶋田さんが指摘されてましたが、かつて「会報」に書いていたことすらひっくり返してしまうような、いろんな批判者の人から「親鸞聖人はそんなこと言われていない」と指摘されているような、「仰せにも無きこと」を堂々と(?)言うようになったのは。


思いを馳せ、歎異抄のこの言葉を読んで、改めて「自力」が教えを歪めていく、救いを曲げていくことを味わったのでした。


この「さいたま親鸞講座」の「講師からのメッセージ」にはこうあります。




「すべて仏法にことをよせて、世間の欲心もあるゆえに、同朋をいいおどさるるにや」(『歎異抄』第18章)
親鸞聖人が亡くなっておよそ30年。その教えを聞き学ぶ人たちの中に、聖人がおっしゃっていないことを、その教えだと主張することが多くなってきたことを問題にし、異なっていくことを歎き、聖人の教えを記した書が、聖人と一緒に語り合い教えを聞いた唯円によって著わされました。『歎異抄』です。
 それは、親鸞聖人の教えを明確に伝える書であると同時に、その題名からわかるように、教えから「異なっていく」人間の姿、宗教が陥る問題点を浮かび上がらせる書です。
 その異なりの姿は、「いいおどろかす」と端的に表されます。言い脅し、怖れを懐かせ、それによってコントロールする宗教。本来、人を救うはずの宗教が、なぜそのように変質し、時に暴走するのか。現代の宗教問題にも通じるこの課題に取り組んだのが、この『歎異抄』でもあります。
 特に今年は、その異なりを問題にする『歎異抄』の後半に入ります。その課題をご一緒に読み解いていきたいと思います。

(※太字はあさ川による)


人の不安をかき立て、恐れを抱かせ、そして希望を抱かせ、コントロールする「宗教」。それは親鸞聖人の面影を慕った唯円房の歎いていかれた「異」であるのだ、と言われています。


そして、そのような「言い驚かす」宗教が、「魔の宗教」といわれたのでした。

私はなんだか、親鸞会とかぶって見えて仕方ありませんでした。私だけかも知れませんが。


(2/22 引用文の表示の仕方を変更しました。本文は変更ありません)

第1回 第2回と多くの方に読んでいただき有難うございます。
特に、2回目では「阿弥陀仏のみ心」を 私の聴聞記録として お伝え出来ましたこと、大変喜んでおります。
昨年の 夏までは、親鸞会の間違えを知らず、親鸞会の教えを 熱心に広める側にいた自分が、今は、真実の阿弥陀仏のみ心をお伝え出来るようになりました。
全ては阿弥陀仏のお手回しなのでしょうが、ネットの情報がなければ、「親鸞会の間違い」も「 阿弥陀仏のみ心」も知る事は出来ませんでした。
ネットをの情報は、大変 詳細に丁寧に書かれてあり、教学的な面でも、言葉の誠実さにおいても 親鸞会とは、比べられない 高いレベルでした。
最初は、まさか親鸞会の教えが 親鸞聖人のみ教えと 違う なんて あり得ないと思っていました。
しかし、ネットの情報を読み漁り、自分でも 御文章や真宗聖典を拝読させて頂いたり、真実を説かれておられる方の著書を読んで、「 親鸞会の教えは、親鸞聖人の あちこちの言葉を組み合わせて、高森会長の 金集め、人集め に都合よく 改ざんされたもの、親鸞聖人のみ教えとは全く異なる、救われない教えである」と ハッキリしました。
ネットで 「親鸞会の間違い」と「正しい親鸞聖人のみ教え、阿弥陀仏のご本願」を明らかにしてくださった方々に、この場をお借りして、本当に心からお礼を申し上げます。ありがとうございます。おかげさまです。

第2回の投稿文を読まれた方の中には、個別にメールを頂いて「友人達と開いた勉強会」に参加された方もありました。( 余談ですが、私達の開いた勉強会は、親鸞会から妨害を受けました。親鸞会に在籍している方が勉強会に参加した帰りを 親鸞会講師と幹部会員が 駅で待ち伏せて「次の日の勉強会には参加せず、親鸞会の行事に参加するように」と説得し、その方は 次の日の勉強会に参加出来ませんでした。しかし その後、その方は、親鸞会とは距離を置き 正しい親鸞聖人の教えを聞くご縁に恵まれています。)そのような中 真実求める 私達の集いは 少しずつ 輪を広げています。
講師の皆さん 自分が正しいと思うならば 正々堂々と 法論して下さい。ネットに 親鸞会に質問している人がおられるではありませんか。
「 親鸞会の体質を問う 」と言いたいです。

また 第2回の投稿文に コメントをして下さった方の中には(たぶん親鸞会の間違いが、わからないために)阿弥陀仏のみ心が わからない方もおられました。
私自身も すぐに親鸞会の間違いが、間違いと 分かり 納得出来た訳ではないので、そういう方の気持ちも理解できます。また、親鸞会で求めて行けば 阿弥陀仏にいつか 救われるのではないかと希望を捨て切れない方も多いと思います。
しかし、間違った教えでは、阿弥陀仏に救われるはずがありません。
長く親鸞会に関わり 多くの時間、お金 エネルギーを使って、また、周りの方に勧めて来た方にとって「親鸞会の間違い」は、大変受け入れ難く、信じたくない事だと思います。
しかし「阿弥陀仏のご本願に救われる為に 自分が通らねばならなかった道」と受け止めて どうか 事実、真実 から 逃げず、進んで頂きたいと思います。
大丈夫です。阿弥陀仏の底なしのお慈悲が 導いておられます。

今回は 30年以上、親鸞会に騙され 親鸞会を信じ続けていた私が、やっと気づいた「親鸞会の教えの間違い」についてお伝えします。

私は「親鸞聖人の教えは『平生業成』で、三度のご飯が美味しくいただける時に 大事業を完成出来るから 完成しなさい と親鸞聖人が教えらました。『平生業成の身』になれるから 求めましょう」と誘われ入会しました。そして 「平生業成」になるには、当時の親鸞会は 内外廃立 聖浄廃立真仮廃立の 「三重廃立」が大切と教えていました。
当時の私の聴聞録に書かれている事を紹介します。もちろん 高森会長の説法です。

【30年前の高森会長の説法の聴聞録】
お寺の本堂は、内陣 外陣に分かれていて、内陣からば阿弥陀仏が南無阿弥陀仏の弾を私達に飛ばし、私達は外陣から 「雑行、雑修、自力」の弾を阿弥陀仏の胸に打ち込んでいるのだ。陣とは、戦場のこと、阿弥陀仏と私達が命懸けで戦うところが、聞法所。
南無阿弥陀仏の弾が私達の無明の心に当たると、無明は死んで 明るい心になる。聴聞をすれば する程 自分の罪悪と無常が知らされるが、腹底には、テレー、キョロン、ボカン、ボーっとして、全然動かない心、地獄と聞いても驚かず、極楽と聞いても喜ばない心が知らさせる。
この心に泣きながら、こんな心が聞く事があるのかと疑い一杯になるが、「若不生者」と阿弥陀仏が誓っておられるから 一念で救われるのだ。
仏法は聴聞に極まるから 真剣に聴聞しなければならない。」

一言も 漏らさず聞けと言われて聞いた事を書いてあります。
当時は「自力が廃る」のは、「南無阿弥陀仏」の働きだと はっきり説いていました。
今は、「自力が廃るまで自力の善をやらなければ 他力に入れない」「三願転入」が親鸞聖人の教えと、話すように変わっています。
そして「三重廃立」では、捨てものだった 「自力の善」が、「真実に入る為に絶対 必要な方便」と 高森会長の話しは 当時の話しと180度変わっています。
「南無阿弥陀仏の謂れ」を説かず 「親鸞聖人が、三願転入して救われたのですから、私達も同じ道を進まなければ、蟻一匹、救われません。」と いいます。
しかし「親鸞聖人が通られた道だから 私達も通らなけらばならない」と言う理屈は 正しいとは言えません。
他のお言葉を確認しなければわかりません。
その事について蓮如上人は、「御文章」で「三願転入せよ」とか「善をやらねば、求道は進まない。善に励めよ」などと全く 勧めておられません。
「御文章」の何処を開いても「雑行 雑修 自力の心を振りすてて弥陀をタノメ、まかせよ」と しか おっしゃっていません。
親鸞聖人が、非難攻撃を覚悟して、肉食妻帯されたのは、阿弥陀仏の本願が「このままの私をお目当て」であり、「このままの私が弥陀をタノメば、救われる」事を 私達にハッキリ伝える為ではありませんか。
また親鸞会では「 三願転入せねば救われない 」と教え、19願は本願文を示して丁寧に教え 「善をせよ、善をせねば信仰が進まぬ」と言うのに、なぜ、20願の「念仏の勧め」はないのでしょうか?「三願転入」が親鸞聖人の教えと言うなら「19願の善」だけでなく 「20願の念仏」も 教えなければならないのに、親鸞会で念仏を勧められた事はほとんどありませんでした。
それどころか「念仏称えたら死んだら極楽」と言う本願寺はおかしいと、非難していました。だから 講師も 会員にも念仏を称える人は ほとんど見たことがありません。
「20願の念仏」を勧めず「19願の善」ばかりをを勧めるのは、「三願転入」でなく「二願転入」ではありませんか。
更に 付け加えると、19願は「善をやれ、助ける」という願です。「聞け」という願ではありません。19願を信じるならば、わざわざ 富山まで行って一日 座って話しを聞くより 「 ボランティア活動」とか、「アルバイトをして稼いだお金を 貧困で苦しむ国の子供達に寄付する」方が 19願のみ心に従う事になるはずです。
一日働いたお金を 命の危機にさらされている何処かの国の子供の為に寄付した時に 自分が どんな気持ちになるのか見つめた方が、19願 をやっている事になると思います。

親鸞会の教えは、親鸞聖人のみ教えではありません。だから「何の条件もない、そのまま救う。そのまま任せよ!」の阿弥陀仏のみ心を 踏みにじって、親鸞会会員を 阿弥陀仏の救いから遠ざけているのです。
親鸞会の教えに従っても阿弥陀仏の本願に救われる事はありません。
一刻も早く 高森会長の教えの矛盾に気づいて頂きたいです。

私は このように、「親鸞会は親鸞聖人の教えではない」とハッキリしましたが 私の文章だけでは、まだ 疑問が残る方もあるかと思います。

私は 親鸞会に疑問を持ち始めて、自分で色々情報を集め親鸞会はおかしいと言う思いが強くなって来た時に、親鸞会を退会した友人を通じ「私の白道」を書かれた 親鸞会元講師の 嶋田さんを紹介して頂き ました。
ネットの情報や、お聖教だけでなく、嶋田さんに直接お会いして 「親鸞会の教えの間違え」「組織の不誠実さ」を教えて頂く事が出来たので、親鸞会の間違えを確信し、迷いなく親鸞会を離れる事が出来ました。その上で「 阿弥陀仏のみ心」を 色々な先生方から お聞きしましたので、私は、混乱無く 阿弥陀仏のみ心 お聞きする事が出来たと思います。
親鸞会の間違えがわからないまま
西、東本願寺の先生から南無阿弥陀仏のみ心を教えて頂いても 阿弥陀仏のみ心は なかなか理解出来なかったかもしれません。
西、東本願寺 の先生は「第2回」のように「 南無阿弥陀仏のみ心」を教えて下さいますが 親鸞会の間違いについてはほとんど知られません。
親鸞会会員が 思っているほど 本願寺では 親鸞会のことは問題にされていないのです。
第2回の「阿弥陀仏のみ心」が、分からないとおっしゃる方に 是非 嶋田さんからお聞きした事をお伝えしたいと思います。
親鸞会の間違えを知り、親鸞会の教えを捨ててから阿弥陀仏のみ心を読ん下さい。

○18才から57才まで 40年間、人生のほとんどを親鸞会の中で求め その歴史を知っている 嶋田さんに 「親鸞会の間違え」を 以下のように 聞きました。
本当に驚きました。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 皆さん お久しぶりです  

「私の白道」を 書いた嶋田です。 あれから もう7年が過ぎました。

多くの方に 読んで頂き 親鸞会を離れ南無阿弥陀仏の 真実に 出値われた方が
多く 現われ 今も 親しく させていただいています。
これ以上の 幸福はありません。
昨年の秋 RCさんより電話があり 親鸞会での求道の悩みを打ち明けられ 六字の心を お伝えしました。

今回「 親鸞会は どこが どう 間違っているのかを 分か るように 教えてほしいと」依頼がありましたので 書くことにしました。 

その為に ぜひ知っていなければならないのが 以下のことですから お読み下さい。

● まず 仏教は釈尊の 説かれた教えと読みますが、仏に成る 教えとも 読みます、成仏の教えです。
転迷開悟、抜苦与楽の み教えとも言われます。
なぜ仏に成るのか、なぜ仏教を 聞かねばならないのかですが、
それは どこから生まれて来て、死んだら どうなるのか、全く知らないからです。生まれ来て、死んでゆく、100%確実であり、絶対に 逃れられません。
なのに、死んだらどうなるか、私達の智恵では 全く分かりません。
ノーベル賞を 取った 世界的学者でも知りません。ただ、死ぬのを恐れたり、無関心な振りして 生きているのが 私たちです。こんな 重大なことを 分からないままに生きているから真の幸福感がないのです。
   
○ 仏の智恵、五十二段、無上の覚りを得られた釈尊が この答えを 明確に 教えておられます。
釈尊は 衆生、人々は 六道を輪廻している(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上界)と 教えられました。
輪廻とは その中に有ってそこから離れることが出来ないということです。
この六道は 迷いの世界であり、苦しみ、悩みが 充満して 本当の幸福、安心、満足は無い世界であるとおっしゃま した。
この人生は 生、老、病、死の四苦八苦の世界であることは、皆さんも 毎日体験済みですね。しかも 人生は早い。日本人は平均寿命は 世界一でも 当人にとっては 早く過ぎてしまうのが実感です。(私も切に感じます)

では、私の 後生はどうなるかーーーー
人間界で 蒔いた種、行った原因によって 結果を受けると、因果の道理を説かれました。
○「善人は善を行じて楽より楽に入り、明より、明に入る、悪人は悪を行じて苦より苦に入る、冥より冥に入る」
      (大無量寿経  下巻)
ここに 悪の種まきを 根絶して廃悪修善、善根功徳の種を蒔いて、六道を出離して、無上菩提 仏の覚りを 求めようとする 聖道門 自力仏教を まず、説かれました。
しかし、この道は 難行道と言われ 特別に意志が強く、実践出来る人しか進めない道であり しかも、釈尊ご入滅後 「正法の時機」、500年間だけ 教え、修行、覚りを得る者はあっても、釈尊ご入滅1500年後の「末法の時機」は 教えは有っても、教えの通り修行する人は無く、だから 覚る者も無いと、予言されているのです。(大集経)
・「釈迦の教法ましませど 修すべき有情なきゆえにさとりうるもの末法に   一人もあらじと ときたもう」 
(正像末和讃) 親鸞聖人
この予言を 体験されたのが 法然上人、親鸞聖人です。
法然上人は27年間、親鸞聖人は20年間、比叡山で 聖道門 自力仏教 法華経を 実践されました。そして、この教えでは 助からないと 捨てられました。
インドの「小釈迦」と称えられた、龍樹菩薩は「初歓喜地、四十一段」 まで覚られましたが、とても仏覚に至るのは 難行道だと断念されたのです。 
教えは正法、立派でも 戒律だけでも250戒もありますから、在家の私達にはとても実践できない 教えです。

○ 法然、親鸞聖人が聖道門の教えを捨てられた理由は 末法である ことと、何より 聖道門 自力の 教えで助かるような「善人」ではなかった、自分は「悪人」であると 知られたからです。

・ 法然上人ーー「 愚痴の法然、十悪の法然房」

・ 親鸞聖人ーー「 愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して」、「 煩悩 具足の凡夫」「 いずれの行(善)も及び難き身なれば(出来ない)、とても地獄は一定、住みかぞかし」「 愚禿釈の親鸞」

この私は 一生 どんな種まきをしているだろうかーー ーーーー
「 十悪、五逆、法謗、闡提、邪見、驕慢、弊、懈怠」 
これが 私ならば「 悪人は悪を行じて苦より苦に入る、冥より冥に入る」の仏説は私のことであり、三悪道、逃れがたい、後生の一大事が 引き起きるのです。
釈尊はこの私に
「心 常に悪を念じ 口 常に悪を言い 身 常に悪を行い かって一善も無しーー
善を念ぜしめ、生死、善悪の趣(世界)、自然にこれあることを開示すれども、しかも あえてこれを信ぜず、心 砕きて ともに語れども、その人に益なしーー
大命まさに終わんとするに、悔擢(後悔と怖れ)こもごも至るーーー
教語開示すれども、信用する者少なし、生死やまず、悪道絶えずーーー
ゆえに、自然の三途の無量の苦悩あり、その中に展転して世々に劫を重ねて 出づる期あることなく、解脱を得がたし、痛み言うべからず。
寿(命)終わり後の世に、もっとも深く、もっとも劇(はげ)しーー-」
      (大無量寿経  下巻)

 仏の覚りを求めるどころか、後生は 「痛み言うべからず」一大事だと 何度も教えておられるのです。
こんなことが、死後 引き起こるなどと思って生活している人があるでしょうか。
皆さん、この仏語を何と聞かれますか。
ここがボケて、目的が抜けて 聞いていては 1000年聞いても 聞いたことにはなりません。
ほとんどの人は 死んだら  何も無くなるとか いい所へ行くんだろう、父母は良い人やったからなーーー
こんな程度で済ましています。

では、ご縁があって 後生の一大事を知った人はどうすればいいのでしょうか。

「 救われる道」があります。


○「如来所以興出世 唯説弥陀本願海」   (正信偈)
親鸞聖人は
「 釈尊がこの世に生を受け、仏教を説かれた目的は、唯一 阿弥陀仏の本願を説かれるためであった、弥陀の本願によってのみ『末法』でも、どんな『悪人』でも 救われるのだ」と宣言されました。
釈尊は 三悪道へ堕ちる後生の一大事を警告し、また「悪人成仏の法」、後生の一大事を説かれたのです。

弥陀の本願ーーーこれが 浄土門、他力の 教えです。浄土真宗です。
親鸞聖人は90年間教えられたのは これ以外ありません。
二つの 「後生の一大事」を 教えておられます。
・「末法五濁の五百年 この世の一切有情の 如来の悲願を信ぜずば  出離その期はなかるべし」
(六道輪廻、三悪道の一大事)
・「 弥陀の本願信ずべし 本願信じる人はみな 摂取不捨の利益にて 無上覚をばさとるなり」(往生成仏の一大事) (正像末讃 )
弥陀の本願とは、親鸞聖人のみ教えとはーーーそれは
「 第2回 親鸞会を退会して 真実を聞きました」に 詳しく書かれていますので 熟読されたなら、分かります。
もう一度、読んで下さい。分かってきます。何度 聴聞しても聞きたいところです。
私も 親鸞会を 退会して今日まで 何人もの 先生方より この六字の心 を聞かせて頂きました。
聞かせて頂いた「 仏願の生起本末 」を書きます。  

○「 果てしない昔 一人の国王がありましたが、世自在王仏の説法を聞いて 出家する決心をし 修行者となって法蔵と名のりました。
法蔵比丘は 世の苦しみ悩んでいる人々を救いたいという心を起こし、世自在王仏にそのことを 告げまし た。そして 沢山の仏の世界を見せてもらい、それらの世界がどうして つくられたのか、又、どうしたら そこに生まれることができるかを、詳しく調べました。
そして、それらの どの浄土よりも 立派な浄土をつくりたいと思い、誰でも その浄土に 生まれることの出来る方法について思案をめぐらしました。
そして、五劫という長い間かかって、それを実現するための 四十八願を建て、「もし この願を 実現することが出来なかったならば、自分も仏になるまい 」という誓いを建てました。
しかし、願いだけでは 目的を達成することは出来ません。
法蔵比丘は その為に 長い長い間 修行を積みました。そして遂に その目的を果たして仏と成りました。
その名を阿弥陀仏といい、それは 今から十劫の昔でありました。」と「大無量寿経」に説かれています。
阿弥陀とは 光明無量、寿命無量ということで、どこでも、いつでも照らしている仏様であり、この 阿弥陀様に 照らされていない人は 一人もありません。皆 この光の中にいるのです。
では、なぜ見ることができないのかと言うと 私達の目は煩悩に おおわれているからです。
丁度 太陽は全てのものを  同じように照らしていますが、目を塞いでいれば見ることが 出来ないのと同じです。
久遠劫以来 私を照らし続けて下さっているのに、私達はかたくなに それを長い間 拒み続けて きたのです。

親鸞聖人は「唯信鈔文意 」に「法性すなはち法身なり。法身はいろも かたちもましまさず。 しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり。
この一如よりかたちをあらわして、方便法身と申す御すがたをしめして、法蔵比丘となのりたまいて、不可思議の 大誓願をおこし現われたまう 」と仰っています。
阿弥陀仏というのは 本来 絶対の真如であって、私達の認識を超えた 不可思議なるものであり その ままでは 私達は 信ずることも、念ずることも出来ないので、その真如が、法蔵と名のり 修行して仏となって、因果の形を示されたのが 阿弥陀仏であります。
私達を救う仏 となられたのです。
      
阿弥陀仏の願いは 六道迷いの世界から浄土に往生させて 成仏させたい以外ありません。
それを 最も 顕した願いが 十八願です。
「 設い 我 仏を得たらんに、十方の衆生至心に信楽にして 我が国に生ぜんと欲いて、 乃至十念せん。若し 生ぜずば、正覚を取らじ、ただ五逆と誹謗正法をば除く 」
この中の「 若し 生ぜずば、正覚を取らじ 」とは、「 十方の衆生が浄土に生まれる ことが 出来なければ、自分は さとりを 開かない 」という誓いです。
衆生の往生と 自身の正覚とを 一体に誓われたこの十八願こそ、阿弥陀仏の 根本意趣を示すものですから、法然上人は 「 本願の中の王 」 と言われ、親鸞聖人は「 選択本願 」とか「 超世の願 」と言われました。
この誓願が成就して 法蔵菩薩は 十劫の昔に 阿弥陀仏と成られました。
その仏の 名号を「 南無阿弥陀仏 」といいます。
願いが成就したということは、願いが願いにととまらず、願いを実現するべき「 はたらき、力 」を備えたということです。
そうすると、本願成就の阿弥陀仏は、遠く西方浄土の蓮台の上に じっと座っておられる仏ではなく、その 本願の通りはたらいておられる仏様です。
「 われを信じ、わが名を称えよ、必ず往生させるぞ 」と はたらき続けておられる仏様です。
親鸞聖人の
「 本願を信じ 念仏申せば 必ず仏に成るべし 」とはこの心なのです。
その はたらきこそ「南無阿弥陀仏 」という名号です。
「 全徳施名 」といい、阿弥陀仏の お徳のすべてを 名にあわらわされたのです。
「 南無 」とは 「帰命」といい 「 帰順勅命 」ということで「おおせにしたがう」「おおせに まかせる 」と言うことでうから「 信心 」のことです。
「南無阿弥陀仏 」とは 「智恵と慈悲を完全にそなえた 我にまかせよ 」ということです。
親鸞 聖人はこの六字の心を 「教行信証・行巻 」に
「 南無の二字は 帰命なり、--;ここをもって、帰命は 本願召喚の勅命なり。
発願回向というは、如来 すでに発願して 衆生の行を回施したもうの心まり。
即是其行というは、すなわち 選択本願これなり 」と書かれています。

これは 「南無阿弥陀仏 」というのは、阿弥陀仏が衆生を救いたいという願をおこし、阿弥陀仏の上に出来上がった功徳の全てを 衆生に与えたいという心の こもった、喚び声です。
「 南無せしめずにおかない 阿弥陀仏 」なので す。
名号は 単なる仏の喚び声でなく、その功徳の全部を 衆生に 与えたいと願われる大慈悲心の 現われなのです。
阿弥陀仏は 光明無量、寿命無量の仏ですから、煩悩具足の私達お目には見えない仏様です。
そこで 徳の全てを名とし、声となって喚んで 下されるのが 「名号 」なのです。
「 名 」とは 「夕」と「口」と書きます。「夕になると 暗いから、相手の顔も分らない。そこで口で 自分の名前を名のって相手に知らせる 」という意味があります。
「 号 」とは、号令とか号泣とか、「大声をあ げる」という字です。
 つまり、「 名号 」は 煩悩によって見ることの出来ない私に向かって、阿弥陀仏が 大声あげて 自分の存在を示し 「 我にまかせよ、必ず救う」と喚んでおられる 名のりなのです。「音声法」なのです。
この 「 南無阿弥陀仏 仏の喚び声を聞く 」ことで煩悩具足の私達に その 仏心、功徳が 回向されるのです。

ここを 釈尊が 「 大無量寿経 」 の十八願成就文に
「 その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向したまえり。
かの国に生まれんと願ずれば、すなわち、往生を得、不退転に住せん。」と
説かれ、また 同じく「 大経 」に
「 それ、かの仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍して乃至一念せんことあらん。
まさに知るべし、この人は 大利を得となす、すなわち これ、無上の功徳を
具足するなり 」
これで、分られたと思います。
「 聞其名号 」こそ 浄土真宗の一大特徴です。
「 仏法は聴聞に 極まる 」のです。
私達 凡夫の 唯一の 六道出離。往生成仏の 法な のです。

 親鸞聖人は「 聞其名 号 信心歓喜せんこと 乃至一念せん 」を「教行信証 信巻」に
 「 経に 聞といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて 疑心あることなし、これを 聞というなり。すなはち、本願力回向の信心なり。歓喜というは、身心の悦予を あらわす貌なり。---」
        
「 名号を聞く 」とは、「 仏願の生起本末を 聞いて 疑心有ることなし 」と言われます。
南無阿弥陀仏の名号は、本願成就の名号であり、本願の尊号ですから、名号の いわれを聞くことと、本願のいわれを聞くことと同じです。
では、その 「 仏願の生起本末 」について 述べます。

{ 生起 } 

一体 阿弥陀仏が本願を起こされた理由は 何だったでしょうか。
それは 煩悩具足で 仏になるような 清らかな心はなく、うそ 偽りや へつらいの心ばかりで、真実の心を持たず、この世も 苦しみ悩み 後生は 三悪道の私が 居たからです。
若し 私に 清浄真実の心があり、仏に成れるような 力量があったら、
阿弥陀仏が 本願起こされる 必要はありません。
曠劫以来 迷いを繰 り返して 生死止まず、迷いの世界から 絶対に 出ることの出来ない私が 居たからです。
この私に向かって 「若し 生まれずば、正覚を取らじ 」と 立ち上がって
下さったのです。
ですから、この私の為の ご本願であったと知らなければなりません。
親鸞聖人は「 弥陀 五劫思惟の願を よくよく案ずれば ひとえに親鸞一人がためなりけり」と言われたのは、この心なのです。

{ 本 }
本願を起こされた 阿弥陀仏のご苦労です。
長い長い 五劫思惟されて 衆生済度の方法を考えられ 四十八願を建てられました。
それを実現する為に もっと長い計り知れない、兆載永劫の修行を積まれました。その時の 法蔵菩薩の ご苦労を 親鸞聖人は 「教行信証」に詳しく書かれて ご苦労、ご恩を 述べておられます。

{ 末 }
その結果、遂に 十劫の昔 さとりを開いて  阿弥陀仏と成られ、お浄土も成就して迷える衆生がその 浄土に生まれるために必要な条件を 全てととのえた名号を成就して 衆生の為に 今も回向されているのです。
「 南無阿弥陀仏 」と喚びづめなのです。

● この{ 末 }は、 十九願、ニ十願では ありません。間違えないで下さい。{ 疑心あること無し }これを聞というなり。
この「 南無阿弥陀仏の心 悪業煩悩の衆生よ どうにもなられんまんま、
この弥陀にまかせよー 必ず 往生成仏させるぞー」の 真実大慈悲心が、至り届くのです。
 阿弥陀仏の喚び声、仰せが私に「聞こえた」ということです、届いたことです。
聞こえたとは 「うけとれた 」ということです。
うけとれたとは 「おまかせにな った」ということです。
 おまかせになったとは 「自力の計らいが無くなった 」ということです
自力の計らいがなくなったとは「疑心 あること無しに」なったということです。
分ろう、、納得しよう、どう聞いたら、どう信じたら、どうまかせたら、の自力心は無くなってしまいます。
それが、南無阿弥陀仏の 本眼力回向の信心です。

○ この身は 限りない昔から迷い続け、いつまでたっても この迷いから
出る縁の無い 罪悪生死の凡夫であり、自分の力では絶対に 浄土に生まれられるような者でないと 知らされます。(機の深信)
○ 阿弥陀仏の 本願は こんな どうにもならない 私をお目当ての本願だった。 本願 まことだった、うちまかさせられて 往生成仏の 身に 救くわれた。本願に疑いなし。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏     (法の深信)
 
名号聞くーー仏願の生起ーーー機の深心
      本末 ---法の深心

○十八願は
「至心 信楽 欲生我国 」の信心 と
「乃 至 十念 」の念 仏が
誓われています。

親鸞聖人は 三心を「教行信証信巻」に 開顕されています。
至心はまことの心、信楽は疑いの無い心、欲生我国 というのは浄土に 生まれたいと思う心です。
私達 人間には 真実の心は無い、その私達を救いたいという阿弥陀仏の願いだから、至心とは仏の真実心、即ち 智恵の心です。
また私達には 欲生我国の心も無い。
「 久遠劫より いままで流転せる 苦悩の旧里は捨て難く、いまだ生まれざる 安養の浄土は こいしからず候ふ 」とおっしゃっています 。
浄土に生まれたいと思わないのが私達の心であり、この「欲生 」は 「浄土に生まれさせたい 」と願われる「 阿弥陀仏の欲生 」慈悲の心と親鸞聖人は受け取られました。
そこで 、この「至心(智恵)」と「欲生(慈悲)」が、南無阿弥陀仏の名号と なって 私に 回向されるとき、阿弥陀仏の 仰せに うちまかされた 疑う心の無くなった「 信楽 」なのです。
だから、三心と言っても 「 信楽 」の一心に収まり、反対に 「信楽}を開けば 三心になると 教えて下さいます。親鸞聖人なら ではです。

○ 「 乃至十念 」の念仏とは
十八願は「 信じて(三心) 十声の念仏(十念)を称える者を往生させる  という誓いです。
すると、信心を頂いても 十声の念仏を称えなければ救われないように思います。しかし、その 十念には 「乃至 」が ついています。
「 乃至 」とは、親鸞聖人は「一念多念証文」に
「 乃至は 多きをも 少なきをも 久しきをも 近きをも 先をも 後をも、皆 兼ねおさむることばなり 」と書いておられます。
多くても、少なくても よいという意味です。   
ですから、「乃至十念」とは 「十声でも称えよ」と言うことで、少なければ 一声でもよい、多ければ 千回でもよいということです。
もし、念仏が 浄土往生に 絶対必要なら、そんな、あいまいなことは誓われません。
だから十八願成就文には この念仏は出ていません。
これは、他力の信心を頂いた人は その口から念仏を称えられると 誓っておられるのです。
信心正因 称名報恩と言われるのは 南無阿弥陀仏と称えることは 阿弥陀仏のお徳を讃嘆していることになり、また 聞く人に仏法に 導く ご縁にな るからです。

 ○以上で 阿弥陀仏の本願 浄土真宗のみ教えを お伝えいたしました。

親鸞聖人のみ教えは 親鸞会、高森会長からしか聞けない、親鸞会だけが、正しいということは言えません。
外には この様に 説かれる先生は 何人もおられます。
退会しても 何の心配もいりません。
組織を 離れて 自由に 聞きたい先生から聞いて下さい。
そこには すでに 退会した 人が 笑顔で迎えてくれますよ。

親鸞会が 、高森先生が、救 う のではありません、「阿弥陀仏の本願」に救われるのです。

● さて、今日の本題に入って行きます。

末法の 「悪人」の私達が 救われる、「 往生成仏」 させて頂くには
「第十八の願、 南無阿弥陀仏の心、 仏願の生起本末を聞きて疑心あること無し」
「 本願を信じ
      念仏申せば
      必ず仏に成るべし 」

 と親鸞聖人は教えられました。

・ 親鸞会の会員さんも ここまでは知っておられます。
分かっている事を、なぜ 長々書いたのか やがて分かりますから、辛抱して読んで下さい。

・ 私は18才で 親鸞会を知り、高森さんの控え室に無断で入り
「 高森さん 貴方は 異安心ですか 」と 質問したときからのご縁です。
(まさか 約50年後にも 同じことになろうとは 不思議な 因縁ですね )

当時、何も知らない 東本願寺の仏教青年部員でした。
その場で「破邪顕正」されて(?)以後、約40年間、親鸞会=高森さんは善知識であり、その教えを、 絶対無二の真実と固く、固く信じ、親鸞聖人のみ教えを正しく聞いている、伝えている自負と誇りがありました
それが 講師部 20年目で揺らぎ、崩れました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 
 ●  なぜかーーーそれには 高森さんの教えていることを検証しなければなりません。

「 なぜ生きる 2」には 
・「大悲の願船に乗る経路を問う」声が多く寄せられたがーーー
親鸞聖人は 阿弥陀仏の三つの本願で明らかにされている。
永遠の相を帯びてゆるぎない「 三願転入 」の教導である。(4P)

・「どんな人も 私の与える信楽の信心(絶対の幸福)で救う」 十八願
・「すべての人よ 真剣に善を励めば 臨終に迎えに行こう」 十九願
・「一心に 念仏を称えれば、目的を遂げさせてあげよう」 二十願(133P)
     

・十八願で「 十方衆生(すべての人)を  絶対の幸福に救う」と本心(真実)を 誓われた弥陀が、自らの約束を果たすために「必要不可欠」だと 建てられた、方便願が 十九、二十願だと 親鸞聖人は明言されている」(305P)

・されば、三願転入の仏意は 身命を賭けても伝え切らねばならね 大法なのである。

・ゆえに、弥陀の願いは ただ一つ 名号(南無阿弥陀仏)を 十方衆生に与えること以外になかったのだ(174P)
 
・では、、どうすれば名号(南無阿弥陀仏)を受け取り、大悲の願船に乗ずることができるだろうか(179P)
・「その 名号を聞く」 とは 阿弥陀仏の本願の 生起・本末を聞いて、ツユチリのほどの疑心もなくなったことを
いうのである (180P)

「生起」とは 三世の諸仏から 助ける縁なき者と見捨てられた 極悪人の十方衆生(すべての人)のためである。
「本」とは 難度の海から大悲の願船に乗せ、無碍の一道、絶対の幸福に救い、真実の浄土へ往生させると誓われている弥陀の「十八願」のことである。
「末」とは 弥陀は 十八願の誓いを 果たすために、どうされ たかたという、「末」の開示に移ろ う。
その「末」とは 阿弥陀仏の方便願である 十九、二十の願である(182P)

( ● 大問題のところです、それは後でーー)

・ そんな、邪見 驕慢な 十方衆生(すべての人)に、自力無効を知らせんがために、弥陀が建てられたのが
十九の願なのである (190P)
---------------------------------------------
○これが 親鸞会 高森教学の 全てと言っていいでしょう。
後 は 宿善まかせとも言っています。
これによって 以下の話に 発展してゆきます。


・ 横の線 縦の線を 書いて 右端に 人形を書いて 求道の 出発点から
 十九願、二十願の横線を進み 段々宿善も厚くなって 最後に 縦線にぶち当たり 自力無効 雑行、雑修自力の心が無くなって信心決定、絶対の幸福に 至ると 説明します。
・ 講師部、会員さんは これこそ 真実の教えだ あー高森先生は 善知識だとカチカチに 信じ込んでいます。

・ 阿弥陀仏に救われるには「 まず 十九の願から 始めねば 信仰は進まない」「自力一杯やった者 でなければ 自力無功が分かる筈がな い」「聞くだけで助かるなら 阿弥 陀仏が 十九、二十の願を 建てられる筈がない、無駄な本願 建てられる筈がない」
「何より 親鸞聖人が 教行信証に 三願転入して救われたと 告白なされているでないか、これ以上の証拠があるか、」

・高森先生が「 三願転入しなければ アリ一匹 助からん」と ハッキリと 教学講義に おっしゃったのだ、これを疑う者は 親鸞学徒でも何でもない。

・十九願のみ心を 釈尊は「観無量寿経」に説かれ、そこには 定善、散善  諸善万行をせよと 勧めておられるから我々も 善に励まねば 信仰は進まないのだ。
・仏教の根幹、因果の道理を深信して 実行するのが 仏教の教えを聞く者の当然の態度だ。 
親鸞聖人のみ教えは仏教、善を勧められない筈がないではないか。
善はいらぬと言う者は外道だ
     
・ 宿善とは 聴聞に行くこと、その人集め、文句言わず金集め、しかも 精一杯するのが 宿善になる
がんばれー  がんばれー もっと もっと  後生の苦しみは  そんなもんでないぞ
そんな程度の 活動で 後生の 驚きが経つと思いますか、宿善の薄い者は  本気で やらんと間に合いませんよ
分かってますか、取り返しのつかない一大事なんですよ。地獄へ堕ちてもいいんですか。
絶対の幸福に救われなくて、何のための人生ですか

・我々 親鸞学徒は 高森先生という  蓮如上人以来の 遇い難い 善知識から 直下にご教導いただいている 世界一の幸福者ではないか

これ が 現場で指導している 講師部の信仰です。
私も 20年間 こんなことを言って やれ やれ と言っていたのです。
深く 懺悔せずに おれません。

● 十九願で誓われている諸善、 親鸞会の活動をしないと信仰が進まないと 教えるからには そう教える 立場の者が その言葉通りに 実行するのが 当然です。
言行不一致では 無責任であり、教えていることもウソになります。
例えば 医師が患者さんに「これは このままでは 大変ですよ、タバコ吸っているでしょう、百害あって一利なし、絶対にいけません、あんなもの。分かりましたね、守って下さいよ、タバコは 絶対駄目ですよ」
と言ったが その医師の 机の上の灰皿 に タバコの吸殻が山のように 有ったらどう思いますか。言うことを 信用できますか。
「 顕真 」26年2月6Pにも Y崎講師が 徳育講義で
「基本が おろそかだと 問題を起こして 信用を失います。どれだけ、無上の法を話ししても 相手から嫌われて 伝わりません」
O野田講師もーーー 時間、約束の厳守が 「資産」「 親鸞学徒の 資産とは学徒からの厚い 信頼である。
約束も 時間も いい加減な人からは、法は聞けない」と 断言しています。その通りです。
 -----------------------------------●  高森さんの場合は どうか、
① 講師部の時「破邪顕正」が 講師部の使命だ、悪を見逃すな、同罪だ、と何度も厳しく教え込まれました。
弁論大会で優賞した時の記念品も 亡き深松本部長の「 破邪顕正」と書かれた額でした。
今も 仏間にかけてありますよ。
「破邪顕正」は仏弟子の 最高善なのです。目連尊者はその為に命を落としています。
だから本願寺との「宿善論争」では 全国に「どちらがウソか」とか「本願寺の体質を問う」「本願寺なぜ答えぬ」の 本を 売り歩き、「本願寺 座り込み」も当然 参加し「門主出て来い」と大声を挙げました。こっちが正しいと信じていたからです。怖いものはありませんでした。許してなるかーと本気 でした。警察に捕まっても、 ぶた箱に入っても それがどーしたーという感覚でした。(今 思うと 一方的な教えだけ聞いて、完全に マインドコントロール状態でした)
ですから「私の白道」を書いたとき、相当の 非難攻撃が有ると 本気で覚悟して書きました。
一番 気をつけたのは事実を書くこと。これに徹して 優秀な弁護士に付け入られるような 作り話、想像、推測で書かないことでした。今回のこれも 同じ気持ちで書いています。どう言って来るか、待ち構えていました。反論も用意しました。      
ところが、7年後の今に至っても、高森さんからも、親鸞会からも、200人近くいる 講師部からも 誰一人として「 お前の書いたものは 間違いだ 」と言っては来ませんでした。
親鸞会の「 顕正新聞 」「 顕真 」 に は 人工信心とか ぼろくそに書いてあるのは読みました。
 福井にも 講師部の支部長がすぐ近くに 5人もいますがこの7年 何も言って来ません。電話も1本もありません。
たとえ 高森さんから、「嶋田はほっとけ、絶対に近づくな」と言われいても、黙っておれないはずです。
しかし「破邪顕正」の気ちが無くなったのが今の講師部です。これで使命を果たしていますか、善ですか?

② 私は 南無阿弥陀仏の真実に出あえてから、6年間 年に4回ほど、もう20回以上 高森さんに 六字の心を説いて下さい、とお聖教や、会員さんの声など書いて 送ってきました。
しかし、現在まで 一度も 返信はありません。  辞めた講師部など知るか という心境でしょうか。
そうならば、私が講師部を退部して、K森、、U田、S尾、U生、K藤、M田講師達が  次々と 除名、退部しました。
皆 共通しているのは 高森さんの教えが 「 おかしい」 ということです 
それが分かった時、高森さんは 何をしたかです。
講師部の信仰が間違ったらこれ以上の 大事はありません。
しかも、彼らが間違っているなら、正しい信心を知っているのは 親鸞会では 高森さん だけのはずだから、「よし 彼を 連れて来なさい、ワシが話をしよう、間違いを正そう」と言うのが、当然です。そう、したでしょうか。
やったのは、幹部講師に「お前は間違っている」と 何日も攻め立てて除名にして、それでも気が済まず、U生講師は 教学講義の時 吉村、高森光晴講師が、受講者に2度も 批判文を 読み上げた。
講師部の こんな問題は 自分の指導責任でないか、部下の問題は 会社、上司の責任と思うのが 世間の常識なの に、それが 分からない。
どんな事も 自己反省出来ない人になったな、と聞いてて思った。
講師部には「 寝ずに反省しろ」と厳しく教えているのに、自分は別のようです。

③「 私の白道」を読んだ M本、M崎講師の息子さんが 別々に 二人 私に電話連絡で、話が聞きたい、親鸞会の間違いを知りたいと 言ってこられた。
会って話をして、本を数 冊、ご法話テープを  5、6本貸しました。
ところが やがて 親の知るところ となり 何と 親鸞会顧問弁護士から
「 未成年者に これ以上 連絡したりするな、法律で罰する」という警告書が二人分届きました。すぐ、電話して、どんな処分があるのか と聞くと、答えませんでした。
世間事の 善悪 賞罰には 頭が切れる人だが、仏法上のことを こんな法律を持ち出して 妨げるとは、 親鸞学徒精神に 反しませんか。
何より M本、M崎講師とは、20年以上も知り合いなのに、これは何ですか。
どこが どう間違っているか、正々堂々と 言ってくればいい、それほどの信仰 も、信念もない。
未成年者に 仏法の話をして悪いなら、親鸞会の大学での勧誘を止めねばなない
1年生、2年生は  未成年ではないですか。
それを 誘い込んで 大学時代の 精神 時間 お金 全てを 親に隠して  奪い尽くしているでは ありませんか。(さよなら親鸞会に学生時代の 活動が克明に書かれています)  
矛盾したことを言っている。
しかし、この講師部員が 自分で判断して 勝手に弁護士に依頼は出来ません。
やったら大変なことになります。 親鸞会に報告してそうなったのです。
破邪顕正せよと 教えていることと違う、姑息な方法で処理されました。ーーこれも善ですか

④ 昨年の 夏に、暑中見舞いを 親鸞会会員さんに 300枚以上 出しました。内容は「 雑行 雑修 自力の心を捨てて 南無阿弥陀仏の心を聞いて下さい」というものです。
 私は 6年前ほどから 相当数の会員さんに 年賀状、暑中見舞を出して
来ました。 南無阿弥陀仏に出会えた この不思議 この果報を思えば 伝えずにおれ ないのです。
本部長として、講師部として 一番お世話になりながら 正しく伝えてこなかった罪を思うと じっと しておれません。
 最初は 支部長、講師が 会員さんから 私の年賀所を 回収して「受け取り拒否」で 3割ほど 返って来ました。そんなことぐらい 今も待っておられる阿弥陀様のやるせないみ心を 思えば 何でもありません。
会員さんに 続けて 6年間も年賀状、暑中見舞、また「 六字の呼び声」のコピーも100人以上 送っているのに 福井講師部、支部長は 何の文句  反論 もせず 回収して いるだけです 。しかし、高森さんは どれほど 苦々しく思っていたのか、昨年夏 また弁護士を使って「 これ以上やったら 個人情報違反で 罰する」と警告書を 送ってきました。
このように 書かれて「 格好がつ かん」 と思い 何か言ってくるでしょうか。
それなら言いたい事が 山ほどありますから 今 ここでは 書きません。取っておきます。

⑤ 高森さんは よく 「ワシは 説法の 壇上で死ねたら本望だ」 と言っていました。
聞く度に その信念を尊敬して 高森先生のような心に 一体 何時になったらなれるのだろうか。
他力の信心は 凄いなーと 思うばかりでした。
ところが、福井県武生市(現、越前市)の 農協会館で 土曜、日曜と  二日間の法話があった時の事です。
お誘い、準備に 力を尽くし 二日間を待ち ました。
年に4回しかないご縁、幹部の方なら、この緊張感は分かると思います。
「一座のご縁が足りなくても  救われないこともあるのですよ。聴聞出来ないという理由は 世間事と違って 無いのですよ、必ず参詣して下さい。高森先生は善知識です、常に貴方の 後生を念じて 説法して下さいます。
どこの世界に、貴方の後生を心配してくれる人がありますか、命がけで説かれるのは 高森先生だけですよ」
そう話し回って、結集したのです。

土曜 、日曜と 法話が 進み 昼 3時の休憩があ り、あと一座で 二日間の 結論を話しされると思っていたら、帰ると言われて 富山県へ帰ってしまいました。
Y崎講師が 「お母さまが 危篤だと 連絡が入りましたので 高森先生は お帰りになられました。
この後はいつも聞かせて頂いていますことを、お話しします」と場を 取り繕った。
そして 高森さんから 葉書が 届いた
「 この真実 伝え切れよと母の声
   いつも聞こえる 今も聞こえる」   でした。私は 、読んで何とも言えない 気持ちになりました 。
あれほど、仏法は後生の一大事に始まり、後生の一大事の解決で終ると 言いながら「朝夕 思いはんべり」と言いながら 目前の その後生の一大事かかえた、1000名近くの人を ほったらかして どうして 帰れるのか。
しかも、お母さんはもう救われた人、後生の心配ない人と言いながら、何で 情に流されるのか。
役者でも 親の死に目に会えぬ、その日を 楽しみに 来られた お客さんのことを思うと 絶対に 迷惑かけらねぬといいます。それが 一流の役者根性、プロで す。
松平健 も舞台中、奥さんの死を知っても、舞台を務め、終ってから 葬儀をしています。
なぜ、 1000名の参詣者にあと  45分 耐えて 説き切らないのか、
葉書に「この 真実  伝え切れよ」 とは こんな 時のことではないのか。
順境の布教もあろうが、逆境に 恩愛を越えて 説き切ってこそ  三界の大導師ではないのか。
あーこんな人だったのかと思ったが、同じ講師部には 顔にも出さなかった。
 言ったら 即 除名間違いない、
「 蓮如上人500回忌 」の時も  1年以上かけて準備して 参詣のお誘いにも 数ヶ月かけ、広島から バスの手配、 富山県での宿泊の手配など 担当講師は 大変だった。
ところが 急に 変更になった。
理由を講師部にさえ言わず、会員さんからは 苦情を言われ 本当に困った。
「なぜ 講師部が 知らないのか、おかしい」が一番 多かった。
丁度 その頃 娘婿の 真生会医院長がクモ膜下出血で倒れたと聞いていた。
その 葬儀後に「蓮如上人 500回忌」は行われたが、高森さんは 日本、海外の会員さんに 大変な 迷惑をかけたのに 変更理由も 一言の謝罪も無かった
「 約束を 破ったら トコトン 謝罪しなければならない 」この指導は 自分は別ですか。
これでも善知識と言えるでしょうか 。

⑥ 「支部長制度は講師部の希望です」と  幹部会員を前に大ウソの発表をした。これは 善ですか?
その為 講師部はこれまでの 収入を 突然  ゼロにされ  10年たった今も経済的に 苦しい講師は RCさんの投稿文にあったように、中古車さえ買えず、支部会員さんが見かねて 車を買っている。
しかも、講師部を辞める者が続いて 高森さんの考えたことが
「 講師部を 退部する時は 1000万円を支払います」という誓約書です。
( さよなら親鸞会 に詳しく書かれています)
なぜ、辞める時 1000万円を払わないと いけないですか。
誰に どんな迷惑を かけることになるのですか。
全員 署名 捺印した そうですが、皆さん どう思いますか。まともですか。
払うお金などありませんから、結局  一生 講師部 辞めるなんて言うな ということです。
講師部は 法が尊きゆえに お伝えする存在なのに、1000万円で縛って
高森さんは 自ら講師部を汚してしまった。愚かだ。
親鸞聖人の「去るべき 縁がくれば  去るものだ」の精神は無くなった。

 親鸞会で 30年、40年 命じられるままに 一箇所に 留まることなく
人事移動され 参詣 財施 アニメ販売など厳しく言われ
これも高森先生のご指示、絶対服従しないと 助からない、これも宿善だ、我慢しなければとやっているのですよ。
そんな講師部を 突然 無給にして 辞めたければ 1000万円出せ。
しかも今は 支部長に親鸞会は 厚生年金は 賭けず 国民年金です。
 老後は 大変だと思います。

また 特専部員は 真生会病院の 経営が危なくなったら「自分の全財産を差し出します」という誓約書を書かされている。
なぜ 高森さんの 思いつきで始めた 病院なのに そこまで 責任を負わねばならないのか。
社会的にも まともな常識ある人達なのに マインドコントロールされて 判断できない。

親鸞会で働く 親友部員も 「 残業代は 一切もらわない」という誓約書を書かされた。
労働基準法の 違反ですよ。  
本当に 可愛そうなことをする。ひどい話です。
(さよなら親鸞会 に 詳しく出ています)
私は 高森さんの 弁護士 のK弁護士に聞きたい「親友部員の 誓約書は 法的に問題ありませんか」
 「特専部の誓約書に心が痛みませんでしたか」
弁論大会で 宮崎殺人事件を 解決した話を聞いて 親鸞学徒精神で 頑張っている 立派な弁護士だなと、本当に尊敬しました。 残念です
でも、貴方は いつか 南無阿弥陀仏を必ず聞く人だと私は思っています。

これでは親鸞会は「 阿弥陀仏の本願」を聞くところではなく「 高森さんの本願」  を満足させるところではありませんか。

⑦ S藤 講師が正月に 久しぶりに 激しい活動地から帰った 高岡市の アパートで 心臓発作で早朝 急死しました。
それを聞いて私は驚き、S藤講師の その時の 心身の苦しみを思うと涙が出ました。
また、奥さんは 元福井青年部だったか どんなに 悲しみ 苦しんでい るだろうかと思うと 高岡会館のお通夜に 妻とお悔やみに行かずにおれなかった。
ところが、高森さんの 姿は無かった。
その日は 日曜で、高森さんも 本部会館の法話も終わり 伏木の自宅へ帰る途中に高岡会館があります。帰る途中ですよ。
突然 目の前で夫が 苦しみ 亡くなる 一部始終を見た奥さんの ショック、悲しみ、これからの不安、子供も幼く、その苦しみは 誰でも 胸が痛みます。
それを思えば 何とか慰めたい、と思うのが人間ではありませんか。
自分の指示を 命として 従ってきた 講師部員が 倒れたのですよ。
会社に尽くした社員がこんな死に方をして 近くの 通夜にも出ない社長が ありますか。
講師部 聖 則に 
「 会長先生の ご指示に 無条件で従い 信心決定を 本と致します」
これを 何十年と 朝晩の勤行の後に 大きな声で 唱 和している と 思考回路が 全く、その通りになってしまいます。私もそうでした。
S藤 講師の 追悼法要に 活動地の講師が「 私達はか法友の死を乗り越えて使命に 頑張ります」 とか言っていたが、彼の 後生を心配する人はどこにも 無かった。
今、頑張ってる貴方もそうですよ。 誰も気にしなくなります。

物事の善悪、常識が曲がっていっても 本人は 高森先生が そうおっしゃるなら、されるなら それでいい、正しいと思うのです。
ウソだと思うなら、このブログ記事をコピーして 支部長、講師部に見せて下さい。その反応で分かります。
     
⑧ 「会員 さんからの浄財は  阿弥陀仏から お預かりしているだけのこと、
1円たりとも無駄にできない、仏法の為に 使うべきだ 」
と 高森さんはいつも言っていました。聞かれた方も多いでしょう。
それを信じて皆さん 精一杯されてきたと思います。
本当にそうでしょうか?

RCさんの言われるように  会計報告が一切ありません。
正本堂建立の時も 一体いくら集まったのか、建設業者に いくら支払い 残高どうなったのか、講師部さえ知りません。
会員さんに あれ程 しつこく 財施を迫 っ たことはありませんでした。
「 こんな 大きな 財施は もうありません、最後と思って頑張りましょう、
後の人は あーもっと早く会員になっていれば 財施できたのにと 悔やまれることでしょう」など 思いつく限りの ことを言って集めたのです。
それなのに、会計報告が無い。
そんなことに文句を言う者は 仏法が 分かってないのだーーで誤魔化す。
そんな 心配 批判をさせることは 善ですか?
RCさんが地元の会館建立に 多額の財施したのに 会計報告がない、
必要 以上に集まった筈なのに 残りはどこへ消えたのか?
誰が、持って行ったのか 答えるべきです。
この不審で RCさんは 疑問をもたれ退会の原因にもなりました。
全国に地方会館を 競って建てていますが、その目的は何ですか?
       
疑われたくないなら。、収支の記録は 全部ある筈です、全国の会館建立の会計報告をするべきです。当たり前です。
会員さんを 馬鹿にしていると悪因悪果もっと大事になりますよ。

 ⑨「 高森先生は 質素な生活をしておられます」
こう講師部は言い ますが、これも本当でしょうか?
富山県内に 
①自宅
②自宅近くの一戸建ての「高森先生事務所」
③チューリップ・ビル「会長特別室」
④真生会病院「会長特別室」
⑤本部会館「会長一家専用 フロアー」
⑥同朋の里 「F館 5階 会長専用フロアー」

「財施出来ないなら 家を売って アパートにでも 住めばいい」と言ったのを覚えている人もあると思います。

会員さんには 家を売れといいながら 自分は 80歳越えてまだ自分専用の 物を欲しがる。
しかも F館は 親鸞会の建物ですよ。
そこに こっそり、ちゃっかり 5階 フロアーを全部 隠居部屋のように自分専用にしてしまった。
(さよなら親鸞会で暴露されました)
わずか 30分位で 自宅から移動出来る範囲に 専用施設を5箇所も持っている人が どこかに有りますか?
何 億円かかっていると 思いますか?どうして これが 仏法の為に使っていると言えますか、○億円も自分の好きなように 使わないと 仏法が説けないのですか?

親鸞聖人は こんな  贅沢をされましたか。京都へ帰られて 親 鸞 聖人は 生活面では 大変ご苦労されたことが 分かっていま す。
 新潟へ帰られた 奥さんの恵信尼さまが 援助 されていました。
住むところも、転々とされています。 自宅を買うお金もなかったのですよ。
その中から 、当時の 最高の紙、墨を買って お聖教を書かれたことが 分ったと 本願寺の先生から聞きました。 
 自分の生活より ご苦労をして 「 教行信証」 「三帖和三讃 」を始め 多くの お聖教を書き残して下さいました。 殆どが 京都でのご製作です。
どんな 貧乏されても  問題にせず 末代の私達の為に、真実開顕されたではありませんか。
 本当に申し訳ありません。ご恩を 深く 深く 知らされます
      
これでも「会長先生は 質素な生活をしておられます」と言えますか。
親鸞聖人と同じですか。
建設資材もいい物を選び 中の調度品はやはりいい品、これで 質素ですか?
これは 贅沢でないですか?
このお金は、皆 会員さんが、 中には 少ない年金をやり繰りして 出された浄財です。
維持、管理費も 大変な金額です。ずーっと 毎月 掛かります。 親鸞会施設は会の負担ですよ。
そんな 事に 出されたのでしょうか。
会員さんが知られたら納得されますか?
これも  善ですか?

    
安心弁当の設備に5億円、絵画、書画に ○億円、  同朋の里のダムや赤い橋に ○億円、
 仏法の為に使うと言ったことは これも入るのですか?
こんな 無駄使いが 阿弥陀仏の本願に救われることと、どんな  良い 関係があるのですか?
分かるように 教えて下さい、と 誰か高森さんに質問して 下さい。

○ ここを こっそりと 読んでいる講師部員に 言いたい、これでいいですか?
自分も不自由して、会員さんにも 出せ出せと勧めて、何をしているの。
こんな事 分かっても 心から、信じ、従えますか、考えて下さい。

1000万円なんか 払わなくていいのです。法的に取れないのです。
なぜなら「 払って 辞めた講師は いないんだ」と RCさんが この誓約書のことを 聞いたら、 K玉講師が ハッキリ 言ったそうです。
高森流 こけ脅し と、見抜いているのですよ、側近は。
勿論、本人も 辞めるときは  払うはずがないでしょう。馬鹿馬鹿しいと知っています。
1000万円払いますの、紙切れ一枚にこれから一生縛られ、後悔しませんか。
     
○ まだまだ高森さんの問題は 
不倫隠し 、盗作、 豊田商事事件  華光会時代隠し、 腹切り100万円払い発言 宿善論争の顛末  18才獲信の真偽  アニメ布教の限界 
講師部会議での指導   等々あり、今回 書いても氷山の一角です。

ここまで 書かれて 今度こそ  黙っておれないと 攻撃される時は
「 第4回 親鸞会を退会してこんな非難がきました」 と書きます。
まだまだ 書いていない問題と、誰がどのように言って来たのか 克明に 書きますよ。
     
私一人でさえ これだけのことを知っていますから、他の 講師部も 私の知らない ことを 沢山 経験して 知っていると思います。
いつの日に か その隠し 抑えている扉が開くことがあると思います。
その時になって、ここまでひどいなら やっぱり 辞めますでは 遅すぎませんか。
善は急げ、決断は早いほうがいいです。 

○ 「 会長先生の深い み心です 」

疑問や 分らないこと、矛盾したことを 知ったとき 講師部も、会員さんも 皆 これで誤魔化し
「 私達の為の ご配慮 」だと 自分の心に 納得させようとしま すが、
 もう それはやめましょう。
9つ の事例で もう分 られたと思います。
深いみ心ではなく
「 我が身可愛いの 我執 」
自分の都合 勝手な言動 だから理解できないことをするのです。ただそれだけです。
     
浄土へ生まれたいと、心から願ってする、清らかな 真の善、十九願の善など実行できない という 証明です。
 煩悩具足の凡夫であり、例外はないのです。高森さんも、貴方と一緒です。
自分のやってないことを、出来ないことを 講師部、会員さんに やれ やれ と言っているだけです。
だから、30年、40年、50年と 言われた通り 求めていても いつまで経っても救われないのです。
      
それとも 横の線 もう 真ん中あたりまで来ている自覚で もあるのですか?言い切れますか?
 30年求めてる から、私はここら辺までは進んでおる筈だと 言えますか。
自分は今 どこに居るのかさえ 分からないのではありませんか。
(私は 40年聞いても 確信が全くありませんでした。)
それは縦線、横線は トリックだからです。この 横線 進むのだと 思い込まされているから 分らないのが当たり前です、

○ 大沼 法龍氏が 「八万の法蔵は聞の一字に摂まる」の本に 信前 信後が有ると 図示しています。

高森さん は ここに 人形を書き足して 「 求道の道程があ る、皆  この横線の 右端にいるから十九願からやらならないと 信仰は進まん」 と信じ込ませたのです。 
大沼氏は 人集め、金集めして 宿善厚くして この道 進めなど 書いていません。
聴聞せよ、十八願を聞け、聞く一つで助かる法だ、聞き損ないするなと書いています。
横線 進めは 高森さんの発想ですよ。(タネ明しました )

○ K森元講師が この大沼氏の本を こっそりと読んでいたのが バレて 大問題となり 講師部会合で200名の前に引き出され 糾弾され 講師部除籍されアニメ部員 にされて 東北地方へ 飛ばされ、終に 除名されまし た 。 危険人物だからです。
勿論、除名処分前に K森講師を呼んで なぜ大沼氏の本を読んではいけないのか、 信仰の指導など 高森さんは 一切していません。お慈悲は かけられませんでした。
高森さんは、「ワシは善知識だ、 ワシの 話し以外は聞くな  ワシの書いた本以外は読むな、破ったら承知せんぞ、分ったかー、K森の姿を よーく見ておけよ 」と叩き込んだのです。
だから 親鸞会講師部は 恐ろしくて 他の先生の本を読めないから RCさんに 教えの矛盾を 2つ質問されても 二人 とも答えられない  教学レベルなの です。
「顕正新聞 」「顕真」 には 親鸞会関係以外の本の 紹介はありますか?
自由に 怖くて 勉強できないのです。 バレタら除名です。
自由の無い 高森さん独裁の 閉鎖的 団体です。  
( 私は 講師部 退部して 一番嬉しかったのは どんな先生の本も話も 自由になった ことでした)
親鸞聖人はお弟子に 法友の書いた 「唯信抄」や「一念多念鉦文」を読むように 勧められました。
その上、この本の「  解説書 」 まで書いておられるので す。
ところが 高森さんは 盗作や 教えの間違いがバレルのを 恐れて ここまでをする人です。親鸞聖人と同じですか。
       
○ 今のままでは 「死ぬまで求道」 「一生 雑行 」が高森教学ですよ。 目を覚まして下さい。
早く  十八願  南無阿弥陀仏の真実を頂いて下さい。


  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー   
●  高森光晴講師局長の場合は どうか

この人も 高森さんの 行動とよく似ています。

なぜ、彼を取り上げるのか、講師部のトップ 講師局長として、また、長男として高森さんに 次ぐ 影響力を持っているからです。
 彼のことを知れば、親鸞会の  未来が見えてきます。       
        
① 昔は法話会場に「親鸞聖人の教えに 善の勧めは 有るのか 無いのか
本願寺ーーない、親鸞会ーーある」 という 大きな垂れ幕がかけてありました。
高森さんの法話の後に 1時間 高森青年部長座談会というものが 月 2回ほどあった。
半強制的参加で、参加しない者は 理由書を 書かされ ご法礼も 朝も内に 集めるという 抜け目ないやり方だった。
横浜法話の時 そこて、とんでもないことを言い出した。
財施の質問から 彼が 「がめつく儲けてきれいに使う」 仏法に出すのが善だという 話をして がめつく儲ける 方法を 披露した。
それは、自家用車 日産ブルーバード 13万キロメートル 走ってある車のメーターを Y谷自動車と 共謀して 10万キロメートル メータを蒔き戻して 3万キロしか 走ってない 車として 高く売り 儲けたと自慢した。
びっくりした。これは詐欺、 確実に犯罪行為だ。数十万円は 違法な儲けになります。( 自動車屋さんに確認しました)
世間の 法律を犯して も 仏法 親鸞会に ためなら 善 になる、と言ったことになる。
会場に かけてある「 親鸞会は 善を勧める 」 は ウソになる。
青年部のトップがこんな ことだから 何でも 仏法のため、方便だと 正当化する 体質になってゆく 。恐ろしいことだ。

○ 高森さん は  講師部に 「君たちは 十九願 の入り口にも 入っとらん」と叱った。
ところが、自分は 信心決定していると 会員、未会員に言って 入会を誘ったり財施を受けている講師がいる。
Y中、T島、O本、S名講師から 直接そう聞いた人から聞きました。
高森さんは、講師部の中に 信心決定している講師が居ることを知らないのか、
ウソを言っているのを 黙認しているのか、どっちと思いますか。
皆さんの 周りの 支部長は どうですか。
これも高森さんに 知らせたが 何も言ってこない。
「 国に一人、郡に一人と 言われるように そんなに 助かる者が 多く居るはずがない、そんなのは おかしい 人工信心だー」と日頃  批判しているのは  親鸞会ではありませんか。
私の 知るだけでも 4人もいるから、、 もっといるでしょう。
こんな ウソも 方便で済ませるのですか、善ですか。


②「 時間を守れ、 ご法話遅れ、 忘れは絶対に許されない。もし やったら 土下座して侘び 参詣者 一人 一人にお詫び状を出し 本会の  処分に 従わなければならない 」
これが 高森さんの決めたことで、私は これは正しいと 思う。
 この 規則を 守れなかった 講師は 厳しく 講師部合宿、会合で皆から指摘され、処分が 下った。
では、そう教える 上の立場の者が それを守っているかです。
東 総本部長になった彼が、九州 熊本市へ 講演に来ることになった。
結集ご法話に 九州担当講師は 必死に会員さんを 誘い熊本市に 結集した。私はアニメ頒布の活動で 熊本に居た。
ところが、朝 10時からの 始まりなのに 彼の姿が無い。
30分前 位に来て当たり前だ。
 高森さんは 「 説法に立つときは 1時間ほど前から行って 会場準備して 心鎮めないと いい話はできない」と言っていたがこれも 正しいと思う。
10時30分になっても、11時になっても来ない。11時15分ころ タクシーから 降りてきた。何も言わず 控え室へ入っていった。
 何も言わず。
その間、会場は アニメ上映で 時間調整をしていたのだ。
北海道へアニメ頒布 の活動で行った。札幌市で 彼の結集法話があり、北海道担当講師は 全道から 苦労して誘い 会員さんを結集した。
ここでもまた、考えられないことをやった。
  4時 まで 講演会なのに、3時ごろにアニメ上映にして、参詣者が まだ 会場に居るのに ほったらかして、飛行機で富山県へ帰ってしまった。
どうして、こんなことが出来るのか。
自分は  何のために、熊本や  札幌に行くのか、その根本さえ分って いない、自覚がないのだ。
 後生の一大事を、阿弥陀仏に救って頂き、往生成仏の身と成らせて頂く以外 何もない。これ一つだ。
だから、布教使は 釈迦如来の代官として 仏願の生起本末を 分るように 力一杯、時間一杯 分って下さいの思いで 説き切らなければ ならない使命があるのだ。
彼はそれをしただろうか。
遅れても平気、会場の人達は 説法すると言うから、担当講師が 遠い富山県から 弥陀の本願 説きに来られると言うから 参詣されたのだ。
帰る飛行機の都合があるから、まだ時間は 早いが 帰るそ、後は アニメでも見せておけばいいだろうーーーーー
高い交通費を出してもらい、しっかりと ご法礼をもらって、恥ずかしいとも思わず帰ってゆく。
講師部員には 時間を守らない と とことん攻めながら 自分は特別 例外なのである。
これが、現在 講師局長 講師部の トップになっている彼の 仏法に対する姿勢です。
これで、親鸞学徒の布教精神ですか?
これを見習って どうして 法が伝わりますか、講師部が 頑張ろうと思いますか?
勿論 こんな 程度なのに トップに したのは 高森さんです。
現在の親鸞会の 衰退の 原因は 高森さんであり 次いで 彼ではありませんか。 
違うで しょうか。
      
高森さんは「 同胞(はらから)よ  姿にかけた 法を説け」 
と歌まで作って 真剣に 法話に臨め、参詣された会員さんの 心に立って 法を説けと 教えていた。これも正しい。
だから、私は、余りにも ひどいので この事実を 高森さんに 手紙で具体的に 「何が あったか 」詳しく 書いた。上司批判を 講師部になって 17年目に初めてした。
しかし、何も言ってこなかった。こんな 大問題を 講師部に 発表もなく 握りつぶされた。  
こんな 人だったのか、何と 不公平なことをするんだろうと 言行不一致に失望した。 それは、自分もやっているからです。

③ その 2ヶ月後 彼の不倫疑惑が 親鸞会を揺さぶった。
これは ここでは 経緯 を書きません。
詳しくは
「 私の白道」「 捏造と捏造された 不倫事件の真実」 を読んで下さい。

この時の 高森さんは 3日間 かけて 不倫疑惑、彼の批判を もみ消すのに 鬼のような 形相になって、 言葉を荒げた。
 判決は 講師部除名 20数名のところ 皆 執行猶予付きにされた。
中には 執行猶予 20年という 講師もいた。 私は5年だった。

高森一家を守るため 理不尽 極まりない 処分だった。

彼は 自分の引き起こした問題なのに 3日間 一切 姿を見せず、幼稚園児のように 親の 後ろに隠れて 難を逃れ その3日後 4ヶ月振りに 何食わぬ顔で 本部の 総本部長の 椅子に そのまま座った。一切 処罰は受けなかった。
これも  高森さんの 判断です。 
これで 正しいですか。
    
もちろん 説明 責任も果たさず 多くの講師部に迷惑をかけた謝罪も 今日までない。 ありましたか。あったら 訂正します。
後で バレタが 強く 否定したーーー「 捏造と捏造された不倫事件の真実 」を読んで下さい。いかに 不誠実な人か分かります。
絶対 頭を下げないーーこれが 彼のモットーと思ったらいい、そして、死んでも 忘れられない体験として講師部の 脳裡に焼きつき信用を 失った。


④ 5月に高森さん指導の講師部会合が あった。
支部長制度が 始まって 5ヶ月目だった。
高森さんは この時、 支部長制度=、高森光晴総本部長指導 の賛否を問うた。すると、120数名の 支部長で 賛成が 6,7名しかなかった。
たった 5%しかない、95%は 反対。これほど 彼は 講師部員に 嫌われている。
また、大ウソ発表して 支部長制度を 押し付けた 高森会長への反発の 現われとも言えるーーーー誰も 喜んでいない証拠です。
高森さんは この意外な 結果に 驚いたに違いない。
危機を感じたのか、この後 10講制度、10分間説法の徹底など 自由な布教活動を 約束していたのに 反故にして、更に 強固な 本会指導体制を 押し付けて きた。
そんなことをすれば するほど 締め付けばかりで やる気が無くなる。
 活動費、経費は1円も出さないのに、参詣じゃ、財施じゃー、弁当じゃー、アニメバスじゃ、と言ってくる。
これ、寺に 搾取される アニメの場面と同じではないでしょうか。
支部長は 頑張るほど、経費がかかり、全部 自分持ち、こんなことで元気 出ますか?
人を、何だと思っているのか、家来ですか? 家来なら まだいい 碌(給料)をもらえる。
だから、親鸞会は 支部長制度 になっても 参詣者は どんどん減っている。 講師部は 何でも 無条件で従う者と馬鹿にしている結果ではありませんか。
 
⑤ 講師部への指導とは
不倫疑惑でも、法話遅れ、早く帰る  でも 一切 説明責任、謝罪をしないのに講師部の 問題は 非常に厳しく追求するから、嫌われる。
問題を起こし、発覚すると 講師部合宿、会合で 前に 出され 200名近くの 同輩から あらん限りの 非難を浴びせられる。
若し、指摘を躊躇していると 甘いと見なされるので、他の人の言わなかった 言葉を考えて 批判しなければならないから、非難する方も 大変だ。
2時間、半日、2日も続くこともある。
最終的に 高森光晴局長が 判決を言い渡す。
「 君は 大変なことをしたんだぞ、分っておるか。この会合が終れば済むむと思うなよ。それでは、反省できないだろう、講師部 全員に 謝罪文を 出せ」と何人にも宣告した。
 通常の活動をしながら 200人近くの 講師部員全員に 便箋 2枚以上の 謝罪文を 書いて 出すのは 大変な 時間と労力とお金がかかり、精神的な 苦痛は大変である。
 実際 書いた人は 1週間かかって出したと言っていた。
「御同朋 御同行 」 「親鸞  弟子一人も持たず候 」
 指導者意識を 嫌われた 親鸞聖人はこんな ことをされるだろうか。
だから、同じ 講師部に 恐れられ、嫌われて  当然ではないでしょうか。
そこから、ミスを軽くしてもらいたいの おもねる心が生じ、ミスを隠そうの隠蔽の体質になってゆくのです。
これも、善ですか。
      
 ● 講師部員の言動の 善悪を 親鸞会は 問題にしましが、「 信心の沙汰 」を 全くしなかった。
20年間  高森さんの 講師部講義に 200回近く 受講したが、講師部員の 信心の沙汰は無かった。勿論  自分のことも言わない。
会長さえしないから、当然 講師部合宿、会合 400回以上参加したが
お互いの  信、不信について 問題にし 語り合うことは 全く無かった。
 これが、どんなに 重大なことか 読んでいけば 段々分ってきます。
信心決定 大事と言いながら 不思議な団体です。

⑥ お礼状を 異常に気にするーーーなぜか

講師部会合で 高森さんへの お礼状を 問題にしたことがある
「 母が 講師部員の お礼状を 全部 毎回 チェックしている。
 来たか、来なかったか、何日目に来たかも 全部だ、」と言って
 お礼状の 少ない者 、3日以上 たって届いた者を立たせて 全員に仲間の 指摘をさせた。
奥さんは こんな事をして 夫への敬意、忠誠心を 調べていると 分って、いやーな気持ちになった。お礼状で 試されている。
彼は、自分に対しても、お礼のメールが来たか、来なかったか、今度は その 内容が 良かったか  悪かったかまで黒板に 書き出し それでも足りず、 何と お礼のメー ルを そのまま 全講師分を無断で 全講師に送りつけた。 異常だ。
そんなことする人が  世の中にありますか。
常に 忘れられる、軽く見られることが 不安なのです。
人には 説法で 三輪空 私が、誰々に 何々を あげたを忘れるように
と説きながら、言行不一致です。
これで 善を実践してますか。
本当に 恩着せがましいと 思った。
     
 ○  どうしてこうなるのか、思い当たる。
福井県で 冬に 高森さんの 法話があった。
精一杯の おもてなしをしようと 昼食に 福井名産の カニを出すことになった。お土産も そのカニを 上げようと決まって そうした。
 ところが、夕方 彼から 電話があった。「 嶋田君 君は 知っとるんか」 と言うので 「何ですか」 と聞くと「 会長先生の お土産 冷凍のカニやぞ、冷凍のー」
 冷凍カニは 安物 そんな 物を  土産にしたと 怒って電話してきたと分った。
「 あーそうですか、冷凍になってましたか。あれは、今朝 早く 越前海岸の 漁師さんに M江副支部長が 特別に頼んで ゆでてもらったもので、昼に 食べられたカニと同じですよ。
悪くなったら あかんと思って  ドライアイスを入れたから それで 凍ったんですよ。 このこと M副支部長にも 話しましょうか 」
と 言ったら、謝罪も 言わずに 「言わんでいい」と電話を 切った。

貰った物は どんな物でも感謝して頂くべきだと 教えなが ら 全く 実行出来ない。 
 又も、高森さんへ 何とも言えぬ 気持ちになった。
 親鸞聖人はこんなことされましたか。
関東の同行から 届いたお金に対して 丁寧に 丁寧に  お礼の 手紙を 法語 を添えて 書き送っておられますよ。
法を説かれるから、財を下さる のですよ。
法に生かされていることを 感謝すべきです。

○ なぜ こんな非常識な 人間になるのか、
若い息子に 常に 組織のトップ、指導的立場ばかり与えたら、「ワシは偉い、人事権もある、文句ある奴は 飛ばすぞー」という感覚になって、何でも 権力、力で ねじ伏せて 我が 思いを通そうとする、人間の 我執が むき出しになるのではないでしょうか。
その例が以下のことです。

⑦ 私は 講師部を退部する年 講師部会合に 4回も 前に出されて 全講師部の指摘を受けました。年に4回は 私だけでしょう。
4回目は もう講師部も退部して 一会員なのに、騙されて 行ってみたら 講師部会合の部屋で そこで さんざん指摘され 「君は 会員除名だー」と 勝手に決められた。
20年 講師部を やっていたが会員を講師部会合呼んで来て 指摘して、除名通告するなど見たことがなかった。
それほど、私には 特別の 思いがあるらしい 。
ここまで脅せば 済みませんー、それだけは 許して下さいと 泣きついてくると思ってのここと分っているから 、詫び状も書かず ほっといた。
やっぱり、除名はできなかった。
頭に来ると、先が見えない。
 
 ● 全ての問題 の根本は 阿弥陀仏の本願、南無阿弥陀仏の み心が分らないからです。この 一点に尽きます。

親鸞聖人は 「 御同朋 御同行 」とお弟子 門徒の方々に 語りかけられました。
「 名利に 人師 を このむなり」 浅ましい 愚かな 心を持っていると
反省し 警戒されました。
皆 阿弥陀仏から 見れば  お目当ての 煩悩具足の 凡夫です。
救わずにおれない 哀れな 可愛そうな 愛しい 十劫以来  お待ち通しの人なのです。
ここに 立って 講師部 会員さんに 南無阿弥陀仏 の心を お伝えするばかりなのです。
それが、高森さんに 出来ていない、 息子にも伝わっていないとしか思えません。

彼にも 高森さんへ 便りを出す。 同じ日に出しています。
年、 4,5回です、当然 返事は 来ません。
早く、南無阿弥陀仏の心を聞いて 会員さんに真実説いて欲しいと思っています。 長い 縁です、過去世は どうだったんだろうかと 時々思います。
    
---------------------------------------
●  講師部の  場合 はどうか

高森さん、光晴講師局長の 指導で 活動 生活していますから
やはり、影響を 受けてしまいます。

① 成果の為なら 手段は 構わぬーーこれ、止めて下さい。
1番は 信心決定していないのに 獲信してると 冗談にも言 わないで下さい。
それで、未会員の顕正が しやすいからなど、決して考えないで下さい。
会員さんが 尊敬して 大事にして下されるなど 論外です。
 そんな、名利は恐ろしい、罪ですよ。  分らんから 言えるのです。
 貴方の 言動を 信後の 人の姿と思って とんでもない聞き方をされるからです。
 絶対、絶対  やめて下さい。恐ろしいことですよ。

信前なら 正直に まだ 聞けてませんと言って下さい。
何が、困るのですか。
絶対、ウソ つかないで下さい
一般の人が 助かったと思い違いしてるのと、人に説法している人の 発言とは 全然 違うのですよ。
強く、強く 自覚して下さい。


② 高森講師局長が 「 除名になった者、 今 顕真学院で再研修 受けとる者のことを 忘れるな 他人事と思うな」 と何度も言った。
その為  講師部時代の20年、 20冊の 手帳には 「 ○○講師は 何時 何をして  講師部合宿、会合で 指摘され どう処分されたか 」 がびっしり書いてあります。
10人や  20人や 30人どころではない、20年分です。
こんなこと 会員さんが 全部 知ったら 腰を抜かして 会員を辞めますよ。 講師部 の信用 は ドン底になります。
 何が善の勧めだー、自分も出来ぬくせに、 なら やってみろー、こんな 支部長の 言うことなんか聞けない、、辞めた、辞めた になります。
         
駐車違反 フルムーン切符  お金  異性問題---有りすぎます

しかし、ここには 書きません。
そんな ことが目的では ありません。
         
善をやってない支部長だから 辞める、善を キチンと やっている支部長から聞けばいい
ーーーそんなことを 言いたくて 書いているのではありません。
辛抱して 読んで下さい。
   
③親鸞会が結成されて 約50年が 経ちました。
     
この間 人生を 後生の一大事の解決にかけますと、 講師部の門を くぐった人は 300名を越えるでしょう。
 私は 18才から 約40年、見てきました。随行文を聞いてきました。
皆、仏縁のある方ばかりです。中々 そんな覚悟は 出来るものでは ありません。 これも 阿弥陀仏のお育てです。
 その中で 問題を起こして 除名や、事情で 退部した人は  120人を越えるでしょう。
約、 40年 親鸞会と 関係が あったので、一人一人の顔は思い出せます。
私は 今でも 月に 1回ほど 講師部の時の夢を 見ます。
 法話会場に 座っていたり、講師部合宿で 配膳に走ったり 指摘されたり 仏願の生起本末の説法を していると E親友部長や N居 Y崎、K西講師が 聞いていたり、起きてから あー不思議なことだなと 何十回 妻に話したか知れません。 妻も 時々 夢に見ると言います。
高森さんとは この 10年で、2回 夢で対話しました。
講師部を 退部して 不思議です。1週間として  思わない日がないのです。どうして なぜでしょうか。
私のような 恩をすぐ忘れ 怠惰な 欲深く 愚痴っぽく 気の短いこんな 男が 何で だろう、
あー阿弥陀様が
「 お前の 使命だよ 南無阿弥陀仏を知らずに 方向違いに向かって 進んで苦しんでいる 法友を 見捨てるなよ 私の お目当ての 人々なんだよ だから お前が 忘れないように しているんだよ 
お前の 使命 を果たしてくれよ  そし て 力尽きたら お浄土へおいで 待ってるよ 」
あーそうだなーと こ の頃 分ってきました。
阿弥陀様の  後押しで これを 書かせて頂いています。
さー結論に 進もう。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ここからは 「 第3回ー2 親鸞会を退会して  間違いが分りました・ 教え 」
を続けてお読み下さい。
    
今回のテーマの 「 教えの 間違い 」 に入って行きます。

● 親鸞会=高森さんの 最大の 間違い
ここから 一番 問題の 教えの 間違いを 検証してゆきましょう。

高森さんの 現在の 教えは 

○「 三願転入しなければ アリ一匹 助からん 」これに 尽きます。
縦線  横線 の道を 進んでゆく、 皆 横線の 右端にいる。
だから、十八の願、無碍の一道、絶対の幸福にするために 弥陀は 十九、二十の願を 建てられたのだ。
必要不可欠の願だから、 まず 十九願の善を実践しなければ、信仰は 絶対に進まない。
だから、活動 人集め、金集めを 全力でやれ。
獲信は 「 宿善 まかせ 」 とも 教えてあるではないか。

善をやってこそ、自力一杯の人が、出来ない悪人と知らされ、後生の一大事に 驚き、自力無効と知らされて、阿弥陀仏に 摂取されるの だ 助かるんだ。

これを、 何百回も 聞かされているから 疑問を持たずに 言われた通りになってしまいます。
カチカチ 信心の正体は ここです。 私もそうでした。
その 一番の 条件である 十九願の 善を本当にやってますか、特に 教えている人が出来でますかと 「 第3回-1 」に 長々と 実例を 示したのです。
結果は  出来ていません。
やはり、煩悩具足 間違いだらけなんです。
高森会長でも、光晴講師局長でも、ミスだらけ、迷惑かけっぱなし、で浄土往生する善の 出来ない  凡夫なのです。私も 同じです。 例外はありません。

私は 約 3年 光晴講師局長の座布団持ち、の仕事を与えられ 朝一番 法話会場に行ったら 最前列に 彼の座布団を置いて 場所取りして その 横に座って 一緒に 聴聞した縁があります。真横で3年です。
「 ワシは アホやなー 馬鹿やなー 何と 自己中心 の男だろう、あ-恥ずかしい 恐ろしい者 だー 後生は きっと  地獄だなー 嶋田君。」
 そんなこと、一言も 聞かなかった。

善をやって、信仰が進むと「 善が出来ると自惚れている自分の本当の値打ち」
が分ってくると 高森さんは言いますが、これでは やはり 十九願の入り口にも入って ないことになる。
念仏を 称えていることも 一度も なかった。
講師部のトップが、高森さんの長男が、 50年 聞いてて こんな信仰ですよ。
この 彼が 講師部を 指 導して  講師部が 会員さんを指導する。
「 善知識は針だ 信者は糸 だ  」 と、高森さんは教えています。
その 針が 十九願出来ずに 止 まっているのですよ。 糸がどうして 先へ進めますか。
 「  講 師部は 十九願の  入り口にも 入っとらん」
 「 雑行 ( 十九願) を知るだけでも 30年 40年かかる  」
 「 真実の 信心は  そんな 50年や100年で  獲られるものではないのだ」

皆さん、これを
どう 聞いておられますか。
どう 思って おられますか。
どう するつもりですか。
どう、頑張るのですか。
頑張っている支部長でも 十九願の入り口へ入ってませんよ
それ以下の 活動しかできない 会員さん、貴方は いつ助かるつもりですか?
 臨終まで  間に合いますか?
50年、100年 かかるそうですよ。
 
十九願さえ 入っていないなら、まだ  二十願にも届かない、まして 
十八願なんて
夢の夢ではないですか、、これじゃ。
      
入会 勧める時は 
「 阿弥陀仏は 「すべての  人を  絶対の幸福に  必ず救う 」と
本願を 建てておられます。
現在ただ今 3杯 ご飯が美味しく頂ける 今  助かります。
 「 平生 業成 」こそ  弥陀の本願、 親鸞聖人の み教えです。
ここを  説かれるのは 現在は 高森先生 だだお一人、善知識です。
高森先生は 18才の時 この 後生の一大事に驚きを 立てられて 真剣に
聴聞されて 弥陀に 救われて 体験と
深い教学で 導いて下さる 善知識ですよ。
さー一緒に 聞かせて頂きましょう、求めましょう」 
と言ったのではありませんか。    私も 何百回、 何千回  言って  顕正してきた。

それなのに 30年40年かかる、否 50年、100年かかると言う。
          
では、 今 70,80歳で 始めて  阿弥陀仏の本願を聞いた人は  絶対に 助からんと  言うのと同じですよ。
これが  平生業成の教えですか?
入会の時と話が違う、これは詐欺ですよ。

「 ワシ は 真実を 説き切っている 。 聞かないのは 皆さんの責任です 」と
高森さんは 責任逃れをする。

これで、浄土真宗でしょうか。 おかしいと 思いませんか。

● 論より証拠  教えていること と、現実が 全く違う。
大矛盾しているのが 高森さんの 今の教え方です。
50年 100年どころか 高森教学では 1000年  万年 求めても 助かりませんよ。


○ こんな指導を知っておられる 阿弥陀仏は どれほど悲しんでおられるのか
私にも分ります。
これ以上の 法謗罪は ありません。
このことも 高森さんに 書きましたが 返事はありません。

----------------------------- ------------
●前に 教えていたここと 今は 全く違う。
RC さんが 最初に30年前の 聴聞記録を示して それを 指摘しています。
私の母も 高森さんが 20代の龍谷大学学生時代の説法を 聞いて 後生 安心出来たと感謝していました。 私が 36才で 子供二人いるのに 講師部に 入ったので、経済的生活面を 心配しましたが、高森さんの 指導を直接受けることを 喜んでいました。
ところが、正本堂 2000畳 完成 落慶後から 参詣して  法話を聞いて言いました。
「 久義、今日の 高森さんの話は  昔と違う。 あんな 十九願の 善をやらねば 助からんような話は  絶対にしなかた。 自力で助からん、後生の一大事は 阿弥陀様の力 他力で助かる
雑行、雑修 自力の心は 捨てよと  そりゃ 厳しい 恐ろしいほどの 説法だった。何や 今日の話は、 方便からしか 真実は 入れんはおかしい、南無阿弥陀仏 聞けば 南無阿 弥陀仏になるんや。 何で 十 九、二十願の  助けがいるか。
今の  高森さんの 話し 聞いててはアカンと思う、離れて 聞いた方がいいのでないか」
と 言ったので 本当に驚いた。 
50年前の ことでも  ハッキリと覚えていた。
それほど、 後生の一大事、 自力他力廃立を 徹底して説法していたのだ。
    
● では  今の 三願転入の 前は  どのように  教えていたのか

RCさんの 聴聴記録を  もう一度 読んで見ましょう

【30年前の高森会長の説法の聴聞録】

汚寺の本堂は、内陣 外陣に分かれていて、内陣からば阿弥陀仏が南無阿弥陀仏の弾を私達に飛ばし、私達は外陣から
「雑行、雑修、自力」の弾を阿弥陀仏の胸に打ち込んでいるのだ。陣とは、戦場のこと、阿弥陀仏と私達が命懸けで戦うところが、聞法所。
南無阿弥陀仏の弾が私達の無明の心に当たると、無明は死んで 明るい心になる。聴聞をれば する程 自分の罪悪と無常が知らさせるが、
腹底には、テレー、キョロン、ボカン、ボーっとして、全然動かない心、地獄と聞いても驚かず、極楽と聞いても喜ばない心が知らさせる。
この心に泣きながら、こんな心が聞く事があるのかと疑いいっぱいになるが、「若不生者」と阿弥陀仏が誓っておられるから 一念で救われるのだ。
仏法は聴聞に極まるから 真剣に聴聞しなければならない。」

一言も 漏らさず 聞けと言われて聞いた事が 書いてあります。
当時は「自力が廃る」のは、「南無阿弥陀仏」の働きだと はっきり説いていました。

●  高森さん は 50年前から 「 会報 」「顕正 」 を書いています。
特に 「 会報 」 5冊は 「昭和、現代の 教行信証 」 と言って  親鸞会では 最高の 本として 講師部には  徹底して 覚え 勉強するように  指導された。
 1冊  1万円 と高価で 教学試験には ここから 必ず 出題されたので真剣に 読んだものです。 ここを 読んでいる人にも 覚えがあるでしょう。そこに 何と書かれているのか。
皆さん  落ち着いて じっくりと ゆっくりと  一言一言読んで下さい。

○ 六字の御名号とは
「 かくて、五劫の思惟と 兆載永劫の 法蔵菩薩の 御修行によって 我々を 救済する能力を有する 名号六字が成就したのである。 」 会報 2集  44P
「 南無とは タノム機の方であり、  阿弥陀仏とは 助くる法の方である。
タノム機までの方までも 十劫の昔に 六字の中に成就してある ことを 明らかにしておられる。 これを 法体成就の 機法一体と呼ぶ」  2集 46P

「 我々は 六字の名号を通して阿弥陀仏の 仏心に 直入しなければならない、 このように、阿弥陀仏の全功徳を名号の中におさめて与えようとするのだから 全徳施名というのである」2集 53P

「 如来が 我々 凡夫にこの 大功徳を 与えてやりたいとの 真心を 南無の 二字に こめて あるから  これを  発願回向と言う」 2集 45P
      
○ 真仮廃立 自他力廃立 は どう  書いてあるのか

「 廃とは捨てもの 立とは立てるもの 拾いものということである。
 その廃立すべきものに 三種あるから三重廃立といい、これをしなければ
絶対に助かることがないから 親鸞聖人の「教行信証」には 厳しくそれが
説かれている 」           
「 三重廃立の中でも 特に 親鸞聖人の 心血を 注がれたのは 最後の
真仮廃立でありーー一切の廃立の根幹になっているものである 」5集 44P

「  自力と申すことは  行者の各々の縁にしたがいて 我が身をたのみ
 我が計らいの心をもって 身口意の  乱れをくつろいで、めでとう為して
浄土に往生せんと思うを 自力と もうすなり」  5集 82P 
「 親鸞聖人の 明示された 真仮廃立の深意を 蓮如上 人は もろもろの 雑行 雑修 自力の心を振り捨てて 一心に 弥陀たのめと 御教化になっている  」  63P

・ 十九願ーーこれは 未だ 自力の我慢が 捨て切れないで 諸善万行を修め
 その功徳によって往生しようと思っている者を 助けんが為に 誓われた 方便の願だから これを廃捨しなければ 真実十八願へ 入ることはできない    5集 47P

・ 二十願ーーこれも阿弥陀仏の眼力を認めながらも 尚 自力を捨て切れ無い者を 救う為に誓われたものであるから 方便仮門の教えに 違いない。 速やかに 廃捨されねば 真実十八願へ入ることは 出来ないのである。    5集 48P 
      
・ 十九願 「 教行信証 信巻に 「 この虚仮雑毒の善を もって無量光明土(浄土)に 生ぜんと欲す、これ必ず 不可なり」 と 仰っておられる通り、我々に  真実の心は 微塵もないから 金輪際 真実になれる筈がない。
故に 「 観経 」の自力の信を 廃捨しない限り 絶対に真実の信心は獲得 できないのである。 」5集 50P

・ 二十願 「 教行進証」 に 「 凡そ、大小聖人、一切善人、本願の 嘉号(南無阿弥陀仏)を もって 己が善根と為す故に 信を生ずること 能はず、仏智を了らず、彼の 因を建立することを 了知することを 能はず、故に 報土(浄土)に入ること無し」と悲嘆なされている。
一切の善人達よ、あなた方は 自分が絶対の悪人だという 自覚がない。早く 念仏さえ 称えておれば助かるという 「 阿弥陀経 」の信心を  捨てよと叫んでいられるのだ。 」5集 52P

「 一体 どこに 十九願相応の修行をしている 道俗が 真宗に見当たるか。
どこに 二十願相応の 念仏行を やってい る者がいようか。
真宗の道俗は さも易く 「 あれはまだ十九願だ」 「あれはまだ二十願だ」
と言っているが、願の上だけなら言えるかも知れないが、それに 相応した
行が ともわない人達ばかりだから本当の十九願の行者 二十願の真宗の
道俗はいないといってもよいのだ」  59P
 「 十九願の 邪定衆 の機なら 化土へも行けるであろうが、真宗の道俗の
中に そのような者は見当たらないから 化土どころか 必堕無間こそ 間違いない 後生である」61P
「 これらの 善知識の仰せの通り 信前の者には 必堕無間の後生の 一大事があれば こそではないか。
信心決定という  難関を突破させて貰輪ない限り 誰人も 化土どころか  無間地獄に 堕在するという 後生の一大事はまぬがれないことを 深く 牢記すべきである  」  62P また
「 また  仏智の不思議を 体得して 真仮の分際を 鮮明に語る 善知識に遇っていないと 自力の心も 計らいも 疑いの心もどんなものか  教えられていないか ら、あっても 判らないだけなのだ。 」 83P
「 まだ 疑惑を疑惑と知らず 自力を自力と気づかないのは 真仮の  水際を説く 厳しい 明師に あって折らないからである」
「 これら 一切の雑行 雑修 自力の心を  捨て切った時でなければ 絶対に 真実の信心は 獲得できないというのが真仮廃立の法門である 」85P
「 生死の 断頭台上に 生首を突き出してくだされる  峻険 火を吐き、 鬼気迫る 善知識の 説法に あわなければ 突破出来ない 難中の難の 境地であることも牢記しておかねばならぬ 」
「 今日 果たして真宗の僧侶にして 誰か この願成就の仏智んの 一念を 水際たたて 説く者があろうか。自他力廃立 真仮廃立を を説く者があるか。
観経安心や、阿弥陀経安心 を説く者は多いが 誰が 廃立のスッキリした 一念の 信心を示す者があるか。
示す人の無いのは、その体験 が ないからだ。」   5集   52P  
「 仏勅を素直に信ぜられるほど 我々は おめでたい  人間に出来ていない
三世の諸仏は 誰にあきれて逃げたのか。 誰のために 釈迦の娑婆往来 八千遍はしなければ ならなかったのか。
弥陀の五劫の思案は  誰がさせたのか。知っているのか。
そこには 払うても 後から 後から現れ、奪ばえるだけ 奪ってもなお心の底にこびりつく 仏智疑情の 薄紙を破らねばならぬ。
説くものも愛想をつかし、求める者も 愛想をつかし 求道に 精も 根もつき果てて 悲叫悶絶の ドン底へ 鮮やかに 徹底する 仏智である」    
「 定散諸機 格別の 自力の三心 ひるがえし 如来利他の  信心に 通入せんと 願うべし  (浄土和讃 )
折角  聖道門仏教を 廃して 浄土仏教に 入りながら 定散自力の心が 廃らず 雑行を  捨て切れないで、 またして も 元の古巣へ舞い込こまねばならぬとは 残念至極 ではないかと 速やかに 雑行を投げ捨てることを祈念して 言われるのである  」 71P
         
○ 皆さん 読まれて分りましたか。
 
六字のご名号 南無阿弥陀仏  こそ 南無阿弥陀仏に 救う 働きがあるということです。
「 どうすれば 願船に 乗れるのか」 
「なぜ生きる 2」  には  十九、二十願と 書いてありますが、「 会 報 」 には 一切 書いて ありません。  それどころか 捨てよ 捨てよ 捨てよだけです。

どうすれば 乗れるかの「方法論 」は書いてありません。
真仮の水際、雑行雑修 自力の心を 捨てよと 説かれる 善知識の 説法を聞く だけです。  
仏法は聴聞に極まるです。

「 仏願の 生起本末を聞きて 疑心   有ること無し」 聞く一つです。
 
捨てる 為には  雑行やらねば 廃らぬ と書いてありません。
まして、 十九願やれば 自力無功が知らされる  とも書いてありません。
今は十九願の  話を  10年以上してますが これを聞いていても 聴聞には なっていないのですよ。知っていましたか。
「 観経安心や、阿弥陀経安心 を説く者は多いが 誰が 廃立のス ッキリした一念の 信心を示す者があるか。示す人の無いのは、その体験が ないからだ。」5集  52P 

観無量寿経に説かれてるから 善を  やれ やれと 勧めているのは 誰ですか? 自分の書いたものと、反対のことを 勧めている。 
「 定散諸機 格別の  自力の三心 ひるがえしーーー十九願捨てよ
如来利他の  信心に  通入せん と 願うべし 」ーー十八願 信じよ
           (浄土和讃 )

この 親鸞聖人の ご教授に 従うの 親鸞学 徒ではありませんか 。


 ○「 顕正 」にも 書いてあります

「 自力計度の機は 一念開発 信心決定の一念に 南無回向の機に よって 無くなる 」68Pに書いてあります。

十九願の 善を やった末に 自力無功と 知らされるのでは ないということです。
自力の心 疑情は 南無回向の機によって 無くなることが、これで分るではありませんか 
「 然るに、わが浄土真宗は このような  十九、二十の本願に当たる  浄土宗 とは違って 十八願の極意である、信心正因 称名報恩の仏意を 弘通する 教えであるから、信前の人にも信後の人にも 始終一貫してして 信心正因 称名報恩の 教えを勧めねばならない 」
「例えば 虎の手本を 見て 虎を描こうと思っても、どうしても  最初の間は 虎でなく猫の絵になってしまいますが、たゆまず 屈せずアキラメず 虎の手本を見て描いているうちの 本当の虎の絵がかけるように なるように手本は 如何に 信心正因 称名報恩でも  機執によって そのようになれず、或いは 定散自力の称名となり 称名正因となるもあろうが、たゆまず、アキラメズ 信心正因 称名報 恩の教えを 勧めていれば やがて その真意を体諦出来る ように成るのです」
「 未熟な人に合わせて 信心正因 称名報恩の 教え以外の 法を説いて 信心を 獲る方法には 称名せよなどと教えれば、あたかも 猫の 手本を与えて  虎を書く 方法とするようなものである。故に 教家は 常に 虎の 説法を しなければならないのであります」129P

私は 高森さんに  ここを読んでもらいたい。
自分の 書いたこと守ってますかと。
「 三願転入しなければ助からない 」 と 「常に  虎の説法を説け」 とは同じですか 。
「 どちらが 本当か 」 問います。

会員の皆さん  猫の手本では いつまでたっても 虎は書けないと 断言してあるではありませんか。

これでも 猫を 書く 練習を 続けますか。
そのうち 人生の日が暮れてしまいますよ。  
●  これで  前に教えていたことと 現在は 180度 全く 違うことを 明かしました。
高森さんは、講師部会合で このことを こう言い放ちました。 本当に驚きました
「 会員さん からの  手紙に 今はこのように話しされますが、 前の話や、本を読むと 違うのですが  どうしてでしょう、と書いてくる者がおる。
前は 前だ  今  ワシが どう話をしているか、それを聞けばいいのだ。
前が こうだ ああだと言うな」 と 言った。
その 剣幕に 恐れて講師部は 何も言えなくなった。 きっと 「深い み心だろう 」と 自分を 納得させるしか なかったことを覚えています。
これが 法を 説くものの 態度でしょうか。  
都合が悪くなると どなって  押さえつけるか 無視を決め込む。弁護士を使う。
ブログ 発言者からの 度重なる 質問にも 逃げまくっています。
こんな 人です。
「 団体であれ、個人であれ 法論は 受けける  真実開顕が  親鸞会の聖使命 だ 」 と公言したのも  
全部 うそです。

● 言うことが コロコロ 変わり通し

1 (前) 一切衆生 必堕無間 と書いた。ーーー(今)書かないし、言わない。

2 (前) 猫の絵を書くな、虎書け、自他力廃立せよーーー(今) 従仮入真、方便からしか、真実に入れない
(まず猫を書かねば、虎は書けないことになる)

3 (前)後生の一大事は、一切衆生必堕無間地獄 この解決こそ仏教の目的
  (今) 往生成仏が仏教の目的

4 (前)若不生者の 生は信楽、絶対の幸福のこと--(今)往生成仏のこと(やっと修正した)

5 (前) 「疑情」=「無明の闇」=「後生暗い心」--(今)「疑情」×「後生暗い心」ではない

6 (前) 「宿善を積む」 -----(今) 「宿善が厚くなる」と言え
     
7 (前)「体験ビデオテープ」あった -(今) 個人的体験は 聞くな、言うな

8 (前) 真宗は0点か100点 地獄か極楽か 信心決定しなければ駄目だ、会員正則もこれ。
                  (今) 「 知っただけでは何にもならん」というのは 大邪義だ
       
9 (前)釈尊の出せ本懐は十八願ーーー(今) 十九願の 観無量寿経である

10(前)親鸞聖人の三大諍論は 法友の信心調べーーー(今)「信、不信を論ぜず」その人の「説法」を正そうとされたのだ。

11 (前)人間のやる善は雑毒の善にすぎないーーーー(今) 善は、善、そんなこと言うな
まだ、他にもありますよ。退会した人から 「顕真」を 借りて、1週間 かけて読み、違ったところを 付箋紙 貼って調べました。
前の 「顕正新聞」 縮刷版 と読み比べて下さい、その多いこと。
高森さんの  ズルイのは 話を変えると その理由、 説明責任を ほとんどしないことです。
「 講師部は 言葉が 命だ 」と教えながら 自分は 無責任なことを平気で 繰り返す。
「 深いみ心 」だろうで ごまかされ、誰も 突っ込んで聞かない。聞けない。
皆さん、今、聞いている話も、数年後は 、変わって 「ワシは そんなこと 言っとらん」と言い出す覚悟して 聞かねばなりませんよ。
 真剣に聴聞せよ と教えていますが、これでいいですか。
何を、真剣に 聞くのですか?話しが ブレていて 真剣に聞けますか。
法が真実と言われるのは ブレない、変わらないからですよ。
○ なぜ こんなにも 高森さんの  教えることが 曲がったのか?
完全に 180度  ブレて  しまいました。 曲がりました。

それは ここでは  詳しく  書きませんが 「 会報 」は 高森さんが 自分で考えて書いた 本ではないからです。 自身の 信心と 教学を  元として書かれていません。 だからです。


K森元講師のところで 書きましたが、 大沼法龍先生 そして 伊藤康善先生、 その他の  本からの 盗作だからです
是はいいと思った 本の 寄せ集めで 書いたからです。 
 全部  2ヶ月かけて調べました 証拠はあります。他のブログにも 詳しく 出ています。
「 なぜ私は 親鸞会をやめたのか」に盗作が 詳しく書かれています。
 私も調べたら 100ヶ所以上も  あるのです。 それを 自分の書いた ものにしていたのです。呆れます。
          
自分で  しっかりと 理解 出来ていないのに盗作して 途中で 教えを 曲げてしまったのです。
阿弥陀仏に救われる人が なかなか現れない、講師部にもいない、 救われるには 何か聴聞以外にも方法が あるのではないか、 あーそうだ  十九、二十願がある、三願転入文がある、これだ、これだ、と。
 相当 悩んだ末だと思います。 
「 会報 」と反対のことを話しするのですから。
相当の リスクも 覚悟したと思います。高森さん、違いますか。
今の  三願転入の 高森教学は   前に書いたことと 余りにも 反していますから。
この 「 会報  5冊 」 は理由も 一切 言わず 廃版にして しまいました。
もう、販売されて いません。(盗作本だと バレタのもあるかもしれませんが)
○ 「  信心の 変わると 申すは 自力の 信にとりてのことなり」 法然上人
私は  この  法然上人の  お言葉を 深く 感ぜずにおれません。
        
 -------------------------------------------------------
○ ここまで 読まれても まだ  高森先生に  間違いはない 善知識。
確かに 昔と 教えておられることは  違っていても 親鸞聖人のみ教えを  曲げてはおられない。

① 昔と違うのは、機がまだ 熟していなかったからで、そう教えられただけだ。

② 仏願の生起本末を 説いておられるでないか

③ 三願転入の ご文で  明らかに 教えておられるではないか

④ 蓮如上人は 「 宿善まかせ」 と 教えておられるではないか
 
高森先生の ご教導の 通り「  光に向かって 」 進んでゆけば救われるときは いつか来るのだ。


・ このように 絶対に間違い、認めないぞーと 強く思っておられる 人も相当 あると思います
親鸞会と 20年、30年、40年、  中には 50年以上の方もあるでしょう。
人生の 大半を 親鸞会 高森さんと 共にしてきたのですから、その心情は 全く 理解できます。 
その心がなければ 私も 講師部に 身を投じ 40年はやってこれませんでした。
しかし、教えていることが  間違いと分かった時 その恩愛を越えました。

なぜなら 阿弥陀仏のみ心に 反するからです。
六道輪廻を  繰り返す 私の 後生を往生成仏に救ってやりたいと今も 南無阿弥陀仏を喚びづめの 大慈悲心に 背くからです。
それでは 万劫 助からない からです。

ここを 知ったとき 私は 恩愛を越えて 退会して 六字の心を 説かれる 先生の許へと 行きました。そして 救われました。

○ しかし  まだ どう  間違いか 分らない人も  あると思いますの 書きます。

 ①から ④の 間違いを 言います。

  
① 「 昔と違うのは、機がまだ 熟していなかったからで、そう教えられただけだ。」 と言う人へ

○ この様に思っている会員さんは 長い人ほど 多いと思います。
こう  思わないと  自分の心の中が 収まりつかないでしょう。
では、「 会報」 「顕正」に書いてあることは、当時の 信仰未熟な人に 合わせて 教えられたと 自信もって言えますか。
そんな、誰でも うなずける 易しい ことが書いてありましたか。
それは、どの部分ですか。
------------------------------------
○ 六字の御名号とは
「 かくて、五劫の思惟と 兆載永劫の 法蔵菩薩の 御修行によって 我々を 救済する能力を有する 名号六字が成就したのである。 」会報 2集44P

「 南無とは タノム機の方であり、  阿弥陀仏とは 助くる法の方である。
 タノム機までの方までも十劫の昔に 六字の中に成就してある ことを
明らかにしておられる。 これを法体成就の  機法一体と呼ぶ」2集 46P
「 我々は 六字の名号を通して阿弥陀仏の 仏心に 直入しなければならない、このように、阿弥陀仏の全功徳を 名号の中におさめて与えようとするのだから 全徳施名というのである」2集 53P
「 如来が 我々 凡夫にこの 大功徳を 与えてやりたいとの 真心を 南無の二字に こめて あるから これを 発願回向と言う」 2集  45P
 ○ 真仮廃立  自他力廃立   どう  書いてあるのか
「 三重廃立の中でも 特に 親鸞聖人の 心血を 注がれたのは 最後の
真仮廃立でありーー一切の廃立の根幹になっているものである 」5集 44P
「 親鸞聖人の 明示された 真仮廃立の深意を 蓮如上人は もろもろの 雑行 雑修 自力の心を振り捨てて 一心に 弥陀たのめと御教化になっている 」   63P
   
「 一体 どこに 十九願相応の修行をしている 道俗が 真宗に見当たるか。
 どこに 二十願相応の 念仏行を やってい る者がいようか。真宗の道俗は さも易く 「 あれはまだ十九願だ」 「あれはまだ二十願だ」と言っているが、願の上だけなら言えるかも知れないが、それに 相応した行が ともわない人達ばかりだから本当の十九願の行者 二十願の真宗の道俗はいないといってもよいのだ」  59P
「 十九願の 邪定衆 の機なら 化土へも行けるであろうが、真宗の道俗の中に そのような者は見当たらないから 化土どころか 必堕無間こそ間違いない 後生である」   61P
「 これらの 善知識の仰せの通り 信前の者には 必堕無間の後生の一大事があれば こそではないか。
 信心決定という難関を突破させて貰輪ない限り 誰人も 化土 どころか  無間地獄に 堕在するという 後生の一大事はまぬがれないことを 深く 牢記すべきである  」  62Pまた
「 生死の 断頭台上に 生首を突き出してくだされる  峻険 火を吐き、 鬼気迫る善知識の 説法に あわなければ 突破出来ない 難中の難の 境地であることも 牢記しておかねばならぬ」  「 仏勅を素直に信ぜられるほど 我々は おめでたい人間に出来たいない三世の諸仏は 誰にあきれて逃げたのか。 誰のために 釈迦の娑婆往来 八千遍はしなければ ならなかったのか。
弥陀の五劫の思案は  誰がさせたのか。知っているのか。
そこには 払うても 後から  後から現れ、奪ばえるだけ  奪ってもなお 心の底にこびりつく 仏智疑情の 薄紙を破らねばならぬ。
説 くものも愛想をつかし、求める者も 愛想をつかし  求道に 精も 根もつき果てて  悲叫悶絶の  ドン底へ 鮮やかに 徹底する 仏智である」    
○ 「 顕正 」にも 書いてあります

「 自力計度の機は 一念開発 信心決定の一念に  南無回向の機に よって 無くなる」68Pに書いてあります。
「 然るに、わが浄土真宗は このような 十九、二十の本願に当たる 浄土宗 は違って 十八願の極意である、信心正因 称名報恩の仏意を 弘通する  教えであるから、信前の人にも 信後の人にも 始終一貫して 信心正因 称名報恩の 教えを勧めねばならない」

「 例えば 虎の手本を 見て 虎を描こうと思っても、どうしても  最初の間は 虎でなく猫の絵になってしまいますが、たゆまず 屈せずアキラメず 虎の手本を見て描いているうちの 本当の虎の絵がかけるように なるように、手本は 如何に 信心正因 称名報恩でも機執によって そのようになれず、或いは 定散自力の称名となり 称名正因となる者 もあろうが、たゆまず、アキラメズ  信心正因 称名報 恩の教えを 勧めていれば やがて その  真意を体諦出来る ように成るのです」
「 未熟な人に合わせて 信心正因 称名報恩の 教え以外の 法を説いて 信心を 獲る方法には 称名せよなどと教えれば、あたかも 猫手本を与えて 虎を書く 方法とするようなものである。故に 教家は 常に 虎の  説法を しなければならないのであります」
-----------------------------------
○ これでも、機に合わせて説かれたなら、昔の会員さんは よっぽど信仰が進んでいたのでは ありませんか。こんな厳しい 説法だったんですよ。
 
因果の道理を 信じて 十九願の 方便の 雑行をやれば「信仰が進む」
雑行知るだけで、30年 40年かかる、真実の信心は 50年100年で獲られるものではないーーー何ですかこれ。
これで、平生業成の浄土真宗ですか。これで。
コロコロ 変わる 高森さん の話を信じて 30年 40年 信仰進みましたか。機が 熟して 深い教えを聞いているなら、後生の一大事 解決できましたか。
現実を見て下さい。

② 「仏願の生起本末を 説いておられるではないか 」と言う人へ

親鸞聖人は 「教行信証  信巻」に
「 聞というは、衆生 仏願の生起本末を 聞きて 疑心あることなし、これを 聞というなり。信心というは、則ち、本願力回向の信心なり 歓喜というは、心身悦豫の貌をあらわすなり  」
       
これは、十八願の願成就文の 「 聞其名号 信心歓喜 」についてその 心を示されたものです。
十八願に  阿弥陀仏は 十方衆生を 「 至心信楽欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 」と誓っておられますが、私達は どうしたら いいか分りません。
丁度 頂くご馳走を 教えられたのが本願なら、その頂き方を 教えて下されたのが 釈尊の 「 十八願 成就文 」なのです。
親鸞会の教学問題に 「本願は蔵の中の宝物を教えたもの、成就文は 蔵の中から 取り出して 頂くことを 教えたもの 」とあるのは このことです。
「 頂き方は 」 「 其の名号を聞くのだ  」と教えられました。
南無阿弥陀仏の 謂れを聞くです。それを 「 仏願の生起本願を聞きて  疑心あることなし 」
と  親鸞聖人のお言葉です。
これは、 「第2回 親鸞会を退会して真実を 聞きました」 に書かれており、 今回の 最初 にも書きました。

ところが 高森さんは それを 間違えている。「 なぜ生きる 2 」には
---------------------------------------
「 生起 」とは 三世の諸仏から 助ける縁なき者と 見捨てられた 極悪人の 十方衆生(すめての人)のためである。
「 本 」 とは 難度の海から大悲の願船に乗せ、無碍の一道、絶対の幸福に救い、真実の浄土へ往生させると誓われている弥陀の「十八願 」である
「 末 」 とは  弥陀は十八願の誓いを 果たすために そうされたかという、「 末 」の開示に移ろう。
その「末 」とは 阿弥陀仏の方便願である 十九、ニ十願である。
--------------------------------------

 ●  この様に 「 末 」を  十九、ニ十願としたことです。
教学的にも 大変な間違いです。

大無量寿経の下巻は 釈尊のご説法で 「 衆生往生の因果 」が説かれているところです。
( 真宗聖典のここをを開いて下さい)
どうして私達が往生できるのか、「念仏往生 」 と「 諸行往生 」が示されています。
「 念仏往生 」について

十一願ーーー必至滅度の願
十七願ーーー名号を諸仏が称讃の願
十八願ーーー至心信楽の願

この三願は 阿弥陀仏の 十劫正覚で すでに  成就しているから 「願いの通りの はたらき 力 」があるから 往生成仏 できるのだと 明らかにされたのです。
 その 「 十八願 」のところで 「 聞其名号信心歓喜 」と 「 十七願 成就 」の「 其の名号を聞いて」頂けよと 教えられたのです。
 十九願は 「 諸行往生 」であり 「 念仏往生 」の後で 説かれています。( 真宗聖典を読まれた方は 分りましたね )
だから 「 念仏往生 」のご説法中に「 諸行往生 」の十九願のことは 出てこないのは 当然です。
他力回向で救われる最も大事な話の最中に、 なんで 自力の話が 出てきますか。考えても 分るでしょう。

それでも、「末 」が十九、ニ十願だ 強弁するならば
「  生起本末を聞きて  疑心あること無し 」   
「疑心あること無し」は 説明つかなくなります。
十八願のお約束通り 南無阿弥陀仏の 無上甚深の功徳利益極まりない宝を頂いて 何の不足もありません。
本願 まことだったと「疑心あること 無し」です。

ところが 十九願 二十願の人はどうですか。
「 自力諸善の人はみな 仏智不思議を疑えば 自業自得の道理にて 七宝の獄(化土)にぞ いりにける」十九願の人

「自力称名の人はみな  如来の本願 信ぜねば 疑う罪の深きゆえ 七宝の獄(化土)にぞいましむる 」二十願の人

これらの人は 本願を疑う 罪の深い人であると 親鸞聖人は 「正像末和讃」に おっしゃっています。
死ぬまで 助かるやら どうか分らない。臨終に阿弥陀仏のお迎えにあえねば 助からない本願です。しかも 疑う罪のために「 行」が出来ても 「 化土往生 」です。
「 報土往生」 ではありません。これは 真宗の常識です。
死ぬまで 「 疑心 」無くならない本願ですよ。
「会報」にも 「顕正」にも 自分で書いておいて、忘れたのですか、しっかりしなさいよ。

「末」の十九、二十願を聞いて どうして「疑心 あること無し 」になるのですか。
どうして 十八願と一緒になりますか。
他力と  自力の  違いを 分ってないということですよ。
また、日本語にも なってませんよ。
 何も気づかないと思って 馬鹿にしてると 却って 自分の 無知を見せるだけです。
● これでは 他力回向の信もなければ、教学も無いというのは 言いすぎでしょうか。

高森さんを  10代の頃からよーく知っている 真宗の先生が
「 高森君は 龍谷大学で仏教学をやっていたが、真宗学の深いところが分っていない。
分っていないから、三願転入も 宿善も あんな 話をしてしまう。
あー彼は分っていない、大変なことをしているなー」 としみじみと言われました。
もう 大分 気づいてきましたか。

 ③「 三願転入のご文で 明らかに 教えておられるではないか 」と言う人へ

「 三願転入しなければ アリ一匹助からん」本当ですか。

○ 高森さん自身 「 ワシは 三願転入して救われた 」と言ったことがありますか。
誰か 聞いた人はありますか。
私は 40年近く 聴聞しましたが 聞いていません。
講師部として  20年間  高森さんの 講師部講義 200回近く聴きましたが聞いていません。 
・ 講師部は 十九願の入り口にも 入っとらん
・ 雑行を知るだけでも 30年40年かかる
・ 真実の信心は 50年や100年で 獲られるものではない

この発言と 高森さんの 信仰の遍歴を知って下さい。

 私は 18才の頃 こう聞きました
「 高森先生は 特攻隊志願だったから  戦友の死を見、また自身の死を覚悟されるようなこともあった。
寺の生まれで、龍谷大学へ入られて 後生の一大事が苦になり、毎日のように説法のある 総会所へ通って 一番前で 爪たたて 真剣に聴聞された。
布教使の話は全部 記憶して方言まで覚えておられた。
 無常を取り詰めるために、電車の線路に座ったり、葬式のあった火葬場へ行って 白骨の灰を握り締めたり、奈良の獲信された お婆さんから 一晩中聞かれた。
 朝になっても信心決定できず、「あんたは  無宿善かもしれん 」と言われて 泣き泣き京都へ帰られたーーー等
そらから 数ヶ月で 信心決定された。18才の時でした。
それから、カラスの鳴かぬ日はあっても高森の叫ばぬ日は無いと仰って
布教一筋の先生です。日本で 否 世界でお一人の善知識ですから、さー 親鸞会へ入会して 一緒に聞きましょう。」
このように 教えていました。 厳しい聴聞によって救われたと ハッキリ聞きました。
三願転入とは 誰も 決して言いませんでした。( この体験告白は 「華光誌 」にも自ら書いています。私は読みました )
高森さんが 20代で出版した本に  「 獲信の記録 」があります。
華光社出版 定価 100円です。

その内容は、奈良県の伊藤康善先生を富山県の実家の寺に招待して 説法してもらい、その後に、伊藤先生を囲んでの 座談会を本にしたものです。
そこには 高森さんの お母さんの体験や  高森さんが伝えた 4、5人の人たちの 体験、喜びが 充満しています。 皆さん、後生の一大事、自他力廃立の話はしていても、どこにも、どこにも、三願転入した、十九願の善を励んだということは  一言も書いてありません。一ヶ所もありません。
この本も 今では「間違いを書いた本」ですか。
「 獲信の記録 」も聴聞一つで助かる 聞其名号の法であることが 分ります

● 今は 三願転入しないとアリ一匹助からんと言うのなら、18才の時  聞く一つで救われたのはウソだったのですか。 数ヶ月の 間に 十九願、二十願をやったんですか。
それでは、50年100年 かかると なぜ言うのですか?
自分の 数ヶ月で 十九、二十願を通って救われたのは 例外と言うのですか。
それとも、華光会を飛び出して、三願転入して  信心決定  し直したのですか。
そらなら、「 会報 」に 「 三願転入しないと助からん」 と 30年近くなぜ書かずにいたのですか。 あれだけ、読め、覚えよと言っていたのに。
皆さん おかしいと思いませんか?
全く つじつまの合わないことを言っていること、分りましたか。
だから 正しい信心かどうかは 三業では絶対に分らないのだ、言うな、聞くなと煙幕を張って、自分の信心調べをされることを 極端に 嫌います。

○ では、高森さんの解釈が 正しいのか  見てみましょう。

「 是を以って、愚禿釈の、論主の解義を仰ぎ 宗師の勧化によりて、久しく満行諸善の 仮門を出でて、永く 雙樹林下の往生を離れ、善本徳本の真門に回入して、偏に難思往生の心を発しき。
然るに、難思往生の心を離れて、難思議往生を遂んと欲す。
果遂の誓い、良に由ある哉 」  
これは  「教行信証 ・ 化土巻」に書かれてあります。

教行信証 は
・教巻 ・・・大無量寿経が真実の経であり、 阿弥陀仏の本願が真実である
・行巻・・・十七願ーーー南無阿弥陀仏の不可思議功徳、本願力を十方の諸仏 が誉め讃えておられる
・信巻・・・十八願ーーーその名号功徳を 回向するから受け取れよと喚んでおられる。他力回向の信心である
・証巻・・・十一願ーーーその念仏行者は  必ず往生成仏する
・真仏土巻・・・十二、十三願ーーー報土は光明無量、寿命無量の功徳の世界である
以上 5巻に 
「本願を信じ 念仏申せば 必ず仏に成るべし」の 十八願の仏意を開いて 教えられたのが 親鸞聖人であります。
この 南無阿弥陀仏の心は 仏願の生起本末を聞くことによって 徹底させられる。仏智ですから、浄土真宗の 布教使は 「 虎の説法 」しかしないのです。

・化土巻・・・十九願 方便願 自力ーーーーーーーーーーー化土往生

       二十願 方便願 半自力半他力 ーーーーーー化土往生

・十九願は 聖道門 自力修行の行者に 「その諸善万行の 善根 功徳をこの弥陀に振り向けて浄土に生まれたいと 願いなさい 助けてあげましょう」

という み心で建てられた方便の願なのです。善人 諸善の出来る人の願です。

善導大師は 「 観無量寿経は 浄土を願ってない人に 浄土を願わせる為の教え 十九願を「 欽慕の願 」と教えられました。
 親鸞聖人は この大師の教えを受けられて、「化土巻 」に
「 仮令の誓願 (十九願 )まことに  かな、仮門の教  欽慕の釈
  これ いよいよ あきらかなり 」
こんなこと、高森さんから 聞いたことはありません。
「 要門 」とは 聖道門 自力仏教の人が 思いを変えて 浄土へ生まれたいと 願う入り口だから 「 要門」と言われるのです。善人 相手の本願です。
だから 浄土真宗の人、 親鸞会の会員さんは 自分は煩悩具足の悪人と思って、十八願こそ 自分の救えわれる 真実の 本願と知っておられるますから わざわざ 遠回りして 善人相手の 要門 十九願に 入る必要はありません。
悪人、凡夫 目当ての 十八願、 南無阿弥陀仏の心 一つを 聞けばいいのです。
こんな、分り易いことを、高森さんは 間違えています。
歯の痛い人は歯医者、腹の痛い人は 内科、怪我したら外科ですよ。
十方衆生と 誓われているから 皆自分と 関係あるように 教える高森さんに だまされてはいけません。
 三願の十方衆生は 同じ人ではありません。
私達は 十八願で 相手にして下さる 悪業煩悩の 十方衆生ですよ。
交通事故で出血の 大怪我してるのに なんで  救急車が 歯医者へ行きますか。
すぐ 手術も出来る 病院の緊急センターでしょう。
自分の 病気の 程度が まだ分らず どこへ行っていいか 分らないのですか?
何十年 何を 聞いているのですか。
 心を 十八願 一つに して聞いて下さい。
「 光に向かって 」とは そうゆうことではないですか。 
これも  大沼先生の言葉の パクリですが 意味が分ってませんよ、高森さん。
 おかる、山口善太郎、山本良介 妙好人と言われる  人はみな 聞法に命がけに なっています。どこかに 十九願の善に苦労したという話はありますか。
ありません。
十九願の善は 「 自惚れ心を打ち砕き 自力無功と知らされる」と高森さんは言いますが、これこそ 自惚れですよ。
刀で刀 切れません、血で血は 洗えません。座っている 座布団は自分で  持ち上げれません。
善をやったら知らされる、これはーーーー「 死ぬまで雑行の道 」 ですよ
講師部 、支部長見てたら 分ります。
十九願の入り口に入ってない ではなく入れないのです。煩悩具足の凡夫は 無理な願だからです。
私も講師部時代  アニメ販売で 19名の青年部員と 南は九州、北は北海道まで 3年半 アニメを 売り歩き、顕正部隊で2年半 50名の 顕正をしましたが、自惚れ心の粉砕も、自力無功にも なりませんでした。全く心は変わりませんでした。経験上からも 言えるのです。
「 急作 急修して 頭燃を灸ふが如くすれども、衆で雑毒 雑修の善と名づけ、亦 虚仮詔儀の行 と名く。 真実の業と名づけざるなり。 この虚仮雑毒の善をもって無量光明土に生ぜんと 欲す、これ必ず 不可なり 」( 化土巻 )
私達の雑毒の善では 駄目だ、真実報土には往生できないということですよ。 不可ですよ。
無常の命しかない 私達に どうして 助からない 諸善をやれやれと 勧められますか。しかも 30年 40年かかる。
親鸞聖人はこれ聞かれて 「高森君 君は私の書いたものを、読んでないのか、読んでも分らないのか 」
と言われますよ。まともな頭なら 分ります。
皆さん親鸞聖人の お言葉に 従ってください。高森さんじゃなくて。

「 十九願の善で 信仰が進む 」どこから 出た言葉ですか。高森さん。
自分で作った 横の線の話しが根拠ですか。通用しませんよ。
            
「 久しく万行諸善の仮門を出でて、永く 雙樹林下の往生を離れ」
これは  雑行を離れた、捨てたというお言葉です。
高森さんとは、反対です。やれでは、決してありません。
蓮如上人も 無常の命だから 
「 一日も  片時も 急いで  信心決定せよ」と書かれています。
50年 100年 かかるものなら、こんな 御文章 書かれますか。うそ書かれたことになりますよ。
三願転入の文を 「 雑行 雑修 自力の心を振り捨てて、弥陀 たのめ 」と読まれました。
凡夫往生の道は ただ、十八願だけだと「 信心獲得の章 」にあるではありませんか。
「 善知識より  南無阿弥陀仏の謂れ (生起本末を聞け 」と一生勧められました。この、ご化導に従って 下さい。
 ○ 親鸞聖人は 法然上人より  阿弥陀仏の本願を 聞かれて 救われられました。    
「 真宗の紹隆の大祖聖人(法然上人 )ことに、宗の淵源を尽くし 教の理致を極めてこれを 述べたもうに、 たちどころに 他力摂生の旨趣を受得し 凡夫直入の 真心を決定し ましましけり 」 御伝鈔 
法然上人は 自信教人信で 説法され、十九願の 雑行は  一切  勧めておられません。
奈良の 興福寺や 明恵上人は「 法然は 専ら十八願の念仏ばかり勧めて、同じ弥陀の本願の 十九願の諸善を勧めず 雑行だから 捨てよと教えている、何事か」 と非難、攻撃しています。 
知っていましたか。 高森さんの 今の主張と 同じではないですか。
法然上人は、それほど、雑行を捨てよと徹底されたのです。
こんな歴史的 事実があるのに 高森さんは、ここを 教えません。都合悪いからでです。
法然上人を最も尊敬された お弟子の親鸞聖人が 十九願の諸善を 勧められるはずがありません。
ここでも、真宗の先生の言われた 真宗学力の問題が 露見してしまいました。
       
 ○ 三大諍論も 十九願、二十願に 腰掛けて助かろうとしている 法友を見ておれず、それでは 報土往生できませんよと 正されたのではありませんか。
 十九願、二十願が 十八願への 絶対不可欠の願なら、その途中を進んで
いる法友を批判されるでしょうか。 
このままでは 助からないからではありませんか。
ちょっと、考えたらすぐ分ることです。
だから ご和讃も 十九、ニ十願の人を破邪されたものが多いのです。
「 悲嘆述懐和讃 」 には 23首もありますよ。知ってましたか。

高森さんは 自説に都合のいい根拠、ご和讃を出して 正しいだろうと言います。
その根拠の解釈間違いは 他のブログで 散々に 破られています。
高森さんの 真宗学力の 程度が 次々に露見して、質問から 逃げています。
私も  質問しましたが、返事はありません。
 
「定散諸機 各別の  自力の三心ひるがえし 如来利他の信心に  通入せんと願うべし」 浄土和讃ーー19願 捨てよ

「 仏智の不思議を疑惑して 罪福信じ 善本(念仏)を 修して浄土を願うをば  胎生というと ときたもう 」 正像末和讃ーー20願捨てよ


「 仏智疑う罪 深し この心おもいしるならば   19願すてよ
くゆる心をむねとして  仏智の不思議をたのむべし」 正像末和讃ーー20願捨てよ
       
このような ご和讃を書かれた親鸞聖人が「 雑行を やれ」と言われると思いますか。
矛盾したことなど、教えられません。
蓮如上人の 80通の ご文章にも  「 雑行をやれ 」 は1通もありません。1通も。

 ○「 否 捨てさせるために勧めているのだ」 これに 騙されている人が多くいます。
  私も 長い間 騙されていました。
そんな お聖教は どこにもありません。 出して見せて下さい。
子供と重い 瀬戸物の 例え話に 皆 引っかかってしまします。私もそうでした。
肉体的な 限界なら もう駄目だと分ります。
しかし、善の限界など分りますか。 どこまでですか。言えますか。
これは、死ぬまでやらねばならない道だと、途中で気がつきました。
 30年や40年 どころではないのですよ。
 現に 高森さんも、光晴局長も出来ていましたか。
「 死ぬまで精進の道 」 です。
      
浄土真宗は そもそも そんな 善をやった、どれ程頑張ったか、それで  何が分ったかを 問題にする教えではありません。自力作善をいうのは 浄土宗ですよ。
高森さん、自分で 昔 「顕正 」 にそう書いていながら、忘れたのですか。

浄土真宗は 弥陀の本願を聞け、他力回向の信心、 信疑決判 疑情の有無こそ 最も 問題なのです。
善をやったか、どうかではありません。
高森さんの  最後の  問題点  「 宿善まかせ 」 に移ります。 
   
④ 蓮如上人も 「 宿善まかせ 」と教えておられるではないかーーーという人へ

最後に こう頑張る人もあると思います。
だから、人集め 金集めが 何で悪いのかと思うのです。

私がこの「 宿善 」 のことを  最後にしたのは、理由があるからです。
高森さんが 「本願寺の 一番の問題点は 宿善だ、」と言ったのを鮮明に 覚えています。「 宿善論争 」のあの エネルギーは強烈に残っています。
しかし、今  南無阿弥陀仏の心を知らされてみると、分っていないのは 高森さんの方でした。
これから書くのは 「 高森さんへの宿善論争であり 信行両座の諍論」です


高森さんは 「 会報 」に「 宿善 」について こう書いています。
    
「まず 宿善について述べよう。我々が阿弥陀仏の救済に預かる 第一の条件は この宿善である。宿善がなければ、絶対に他力大信心は 獲得することは 出来ない」 3集 51P
「 宿善とは 、宿世の善業ということであり、宿世の善業を大きく分けると
宿因と 宿縁になる 」

「 宿因とは 過去に自分で作った 善根をいう。十九願には「修諸功徳と説かれてい る」

「 宿縁というのは 過去から 阿弥陀仏の 御方より 一度は信ぜしめ、助けにゃおかんの 御念力で 結ばされた 尊い 仏縁という。     
親鸞聖人が 「 たまたま 行信(信心)を獲ば、遠く 宿縁を慶べ 」と感泣され、蓮如上人がまた 「宿善めでたしというは悪し、ご当流には 宿善有り難しと申すが よく候「 と仰せになっているのも、偏に弥陀の願心、ご念力の賜ものであるからである」3集 53P
       
 「 では、どのように求め れば 宿善は厚くなるのであろうか。
それに対して 親鸞聖人も蓮如上人も 「 仏法は聴聞に極まる 」と断言なされている。
聞法することこそ、宿善が厚くなる 最善の方法なのである。
その根拠は「 本願成就文 」の 「 聞其名号信心歓喜 」にあることは いうをまたない。」    57P

「 聞法を嫌がるこの心を、すかしなりとも、たのんでなりとも、理屈づめにしてなりとも、 聞かせにゃおかんぞと、力む心が 宿善で この心ある人は必ず 信心決定の栄冠を勝 ちとることの出来る人なのである 」  59P

○ この様に 「 会報 」に書いていながら 人集め 金集めの 善を、やらねば 宿善 積まねば 信仰は進まぬと言うから、本願寺から その間違いを指摘され 「 宿善論争 」が 起きたのです。

● 本願寺の主張

 「 宿善は将来の獲信のために 積まねばならないという、方向で語られるものではなく、遇法獲信の 現在から 過去にさかのぼって宿善のお陰であると、その縁由を慶ぶ 方向に語られるものであるこそ 宗祖が 「 本典  」総序と 「 文類聚鈔 」に親鸞聖人が 「 たまたま 行信(信心)を獲ば  遠く宿縁を慶べ 」 と感泣され、蓮如上人がまた 「 宿善めでたしというは悪し、ご当流には宿善 有り難しと申すがよく候」と仰せられたのは この意である。」
「(親鸞会は) 宿善として 自力諸善を積むように勧めているが、当流には 他力の信心を獲るために まず自力諸善を積まねばならないという 説示はない 」
こう 逆質問だれて、30年たった 今も本願寺に 返答して いないで はありませんか。
これでは「 親鸞会 なぜ答えぬ  」 です。

○ 「 宿善まかせ 」の間違い 解釈の為に 会員さんはこの鎖から 離れられない。
私は この 被害者を多く見てきて  そして  間違いに 気づきました。

・ガンで若くして亡くなられた 福井市の G籐さんは「 私は宿善が薄いで 助からんのやー」と 病床で 泣かれた。  今も 忘れない。

・ S井さんは 30年間 「 宿善まかせ」 と教えられ、活動すべてに参加して、 財施も 家が建つほどされ、福井県でも トップクラスでした。
常に 仏法第一で 決して 贅沢はされませんでした。
聴聞は海外まで出かけ  30年で 3000回を 越えたと言われていた。
その S井さんが 80才で 突然  ガンにで 倒れた。
支部長していた時 私の支部だったので、月に2回 病院へ通い  仏法の話を 1時間ほど 繰り返した。
その内 「 あー宿善が浅い、後生の一大事も 阿弥陀仏の本願も分らん、信じられん、 分らん、高森先生  済みませんー自分は 宿善の薄 い者ですー」とボロボロと涙を 流して泣かれた。
 私はこの S井さんの姿を 自分のことと 受け取った。
そこから、40年間 疑わなかった高森さんの 話を慎重に聞くようになり、母の 諫言もあって ネットで 調べるようになり、他に 善知識の おられることが分り 急速に 心が離れ 退会しました。
正しく「 仏願の生起本末」を 聞くほど いかに  間違っていたか 分ってきました。
宿善が 薄いから助からないのではなく、すでに 悪人凡夫を助けるぞ、そのまま この弥陀にまかせてくれーの 六字の心が 聞けない、疑いがこそ問題なのです。
何でも 「 宿善まかせ 」と言っているから、「 宿善正因 」のような信心が出来て 最後の 最後まで 騙されるのです。本当に恐ろしい 罪ですよ。
  すでに 阿弥陀仏の「宿縁 」お育てにあって、今 南無阿弥陀仏を聞いているではありませんか。 自分のやった 善根功徳で 聞けたと 自惚れなさるな。
方向違いです。自分の善が 厚い 薄いを 問題にせず、阿弥陀様は 何と 貴方 に 向かって 喚んでおられるか 何百回でも 聞いて下さい。
蓮如上人は 固い石でも お慈悲の 水の力で 穴が空くと教えておられます。
宿善が薄いからなど、今日までお育てに預かった 阿弥陀様のご苦労を馬鹿にしていますよ。
「 光に向かう 」じゃなくて、すでに 届いて 十劫以来 六道どこに居ようと 貴方に 付いて 離れず はよ気づけよ、分ってくれよ 喚び詰めの仏心を聞くのです。
「 光の中にいるのです 」 
私は40年間 このように思い込んでいました。
宿善=宿因=自力の善(活動、人集め、金集め)=獲信に近くなる=横線を進む=信仰が進む=其の内 獲信   ここを読んでる会員さんもそう思っておられるでしょう。
だから活動に時間、労力、お金を使って 頑張っているのでしょう。
高森さんの話は どう聞いても そう思えてくる。「 宿善まかせ」と言われるから。
「 宿善第一 」になり、聞かぬより聞いた方がいい、ポイント集めの様な感覚になってゆく。どう聴いたか、何が分らぬか、そんなことは余り問題にしない、それより参詣したかどうか、何名 増えたかどうかが問題 になる。
「 たまたま 行信(信心)を獲ば  遠く宿縁を慶べ 」のお言葉は 獲信なされてからの こと、それまでは  宿因で 宿善を厚くしなければならないのだ、としか読めない。
        
宿縁=仏縁= 阿弥陀仏の十劫以来のお育て、南無阿弥陀仏と喚び声の話は ほとんどしない。無いと言っていい。
 宿善は「 宿因 」 と 「宿縁 」 ありますが、高森さんは、「 宿因 」ばかり強調するから 会員さんは 「 宿善信心 宿善正因 」 のような  信仰になって しまいます。
 長い人ほど、これです。

三願転入、十九願の善からやれの話ばかり 10年以上 続いている。
これは 真宗の 正しい聴聞ではありません。聴聞しているつもりでしょうが、違います。 
十九願、二十願は 善をせよ、念仏を 称えよ=行をせよという願です。
 聞法の願ではありません。
 気づきましたか。 この記事の責任者のRCさんも ここが おかしいと 気づいたのです。
十九願の人は 因果の道理を信じて 善根功徳を積んで 往生しよう 助かろうとする自力回向の心の人です。
これをやれ、やれ と言われたら この 思いが 段々強くなっでゆくのは当然です。
高森さんは、「 これで助けてもらおうの 自力の心は捨てものだが、雑行も立派な善だからやらねばならない」何度も言いました。
しかし、人間は  行動によって、心もそのようになってゆきます。
日頃出来なかった、整理、整頓、掃除を やったらどうですか、気分爽快、晴れ晴れするではありませんか。
活動すればするほど、宿善が厚くなった、獲信に近くなったと自力の信心が強くなるばかりです。
10年、20年、30年、40年、50年と やればやるほど この捨てねばならない、自力の心 が強くなっていくばかりです。自覚はありますか。どうしたら、いつになったら、この ガチガチの自力の塊が 自力無功に成ると 思っているのですか、よくよく考えて下さい。
長い年数求めていても  救われない原因がここです、大事なことです。

○しかし、善をやって 出来ない自分 悪しかできない自分を知ることは 大事ではないか  と言う人もあると思います。
私も40年間 聞いてきたので、皆さんの心、信仰は 手の平を見るように 分ります。
親鸞会の人は、私もそうでしたが 都合のいい根拠を出したり、正当化する 例えや、理屈を言うのが 得意です。
そうして 自分は間違いないことを信じている、やっていると 固まります。
トーチカー求道と言いたい。
しかし、現実はどうか、貴方は 30年求めて  後生の一大事 分かりましたか 驚きたちましたか
自力無功の者と知らされましたか?地獄一定の自分と分りますか?いつになったら分る予定ですか?
臨終まで間に合いますか?
と 斬り込まれたら 返事が出来ない。
光晴講師も 支部長も 皆 こんな 若存若亡の自力信心で皆さんの 指導をしているのですよ。
本を見ながら そうか そうかと 水泳の練習を 畳の上でやって これで大丈夫と思っていても 津波がドーと来たら溺れ死にますよ。それと 同じです。
これも  高森さんの  指導の 結果です。

アニメの戸別訪問販売で 日本を3年半かけて回りました。
見た人の感想も 多く聞きました。
その中で 一番  多かったのは 「 親鸞聖人が 法然上人に 自分は 煩悩しか無い、阿弥陀仏の本願 疑う心しか無い、 後生は真っ暗ですーと泣かれるところがあるが、あそこは  分るような気がする。そんなものかなーと思う。でも、どうして 南無阿弥陀仏に 泣いて 本願まことだったーと言われているのか分らん、どうして ああなるのですか」 と言われた。
真面目に見ているから 疑問が起きるのです。私はその時、聴聞すれば分りますとしか言えな かった。
ここです、実に ここにこそ 高森さんの 「説き切れないところ 」なのです。
「 親鸞よ それがそなたの真の相なのだ。ーーそんな生ぬるい聞き方では聞かないぞー」と 法然上人は叱られたことになっています。
これでは、たたの 「 機責め 」です。
親鸞会の人は この親鸞聖人の告白、法然上人の言葉こそ 信心決定の 決まりパターンと 思い込み そうなろう そうなろう 宿善が厚くなれば あんな心になるんだ、そこまで頑張ろうと 獲信を 「イメージ 」しています 。
信心決定の 「 予定概念 」が出来上がる アニメなのです。
他人の体験話しを聞くな、と言いながら 実は こんな 「 固定概念 」 を持ってしまっています。
阿弥陀仏の  救いは「  機ごと機ごと 」  一人一人に 南無阿弥陀仏と喚んでおられますから いつ、どこで、どの様に  聞こえるか それぞれです。 阿弥陀様の 為されることですから。
聴聞中の場合もあれば、座談会の中での人もあり、仕事中の人もあり、子供に乳を与えてる時もあり、風呂へ入っている時の人もあり、人 それぞれなのです。
「 2000畳でしか 助からない」 なんて馬鹿な考えは 捨てて下さい。
    
もう 気づかれましたか。
「 ワシは 真実 説き切っている、聞けないのは  聞くものの責任だ」と高森さんは言います。
しかし、そうではありません。
仏願の 「 生起 」を アニメに 親鸞聖人に「 煩悩一杯 疑情しかない、聞く心もない 後生は真っ暗 」の言葉で教えても 「 本末 」が 法然上人より 語られません。
「 そんな 生ぬるい聞き方では  聞かないぞー」となってます。
だから、見た人が 分らんと言うのです。
「 本末 」は 十八願と 十九、二十願だという人に 教えることは出来ません。
自分は 「 生起本末 」を聞いていると 皆 思い違いをしています。
説き間違いをしているからですよ。
だから、何十年 聞いていても「本末」が 抜けているから 救われないのです。
本ーーー五劫思惟の願と兆載永劫の修行
末ーーー願行具足 成就したのが 全徳施名の 南無阿弥陀仏
これ  一つで  往生成仏 させて頂くのです。 だから この六字の心を聞けよなのです。
アニメ 6巻 どれを見ても それがありません。
スイカ 買ったが 切ったら 中が ごっそり 無かった と同じです。外見はスイカです。

 ○ 蓮如上人は
 「善知識の能(使命)というは  一心一向に 弥陀に  帰命したてまつるべしと 人をすすむべきばかりなり」と教えておられます。
その 「 弥陀に帰命したてまつる 」を親鸞聖人は「南無阿弥陀仏の心 」 を 
「南無というは帰命なり、本願召喚の勅命なり」
と 仏意を 開顕されました。親鸞聖人のみ教えの 最も 大事なお言葉です。
         
「本願召喚の勅命」 阿弥陀仏からの 直々の強い強い 命令ということです。

○帰命ーーー阿弥陀仏が 帰せよと命ずるーー 悪人そのまま、この弥陀にまかせよータノメー 信じてくれー、助けさせてくれー
と喚んでおられるのです

○帰命ーーー私が阿弥陀仏の 命に帰するーー(この真実心が 至り届く )
おまかせいたしますー( 許諾)受け入れる
うちまかせられてしまうのです。
  { 後生たすけたまえと、タノミ申して候 }ご文章
     

「 わたしゃ 貴方に(弥陀)たのまれて  助かってくれよと  たのまれて ご恩うれしや  南無阿弥陀仏  」 
「  たのませて  たのまれたもう 弥陀なれば  たのむ心も われと起こらず 」( 妙好人の歌 )


○ この 働きが、力が、六字の名号の本願力なのですよ。 他力回向の信心です。
皆さん  ここを 聞いて下さい。
これが 本当の 聴聞なのです。
 ここを、説かれる 先生から 聞かれたら 50年 、100年 死ぬまでの求道ではありません。
「平生業成 」です。
「  今・ ここで・ 私に  」聞こえる、届く 南無阿弥陀仏です。
私は  この 生起本末を  聞いて その通りになりました。

○  蓮如上人は
「 罪の 有る 無しの 沙汰をせんよりは、信を獲りたるか、獲らざるかの沙汰を 幾たびも すべし 」
「 善知識の  悪ろしと仰せられけるは  信の無きことなり 」

これ以上のご親切はありません。これが、善知識の ご教導ですよ。

 私は、 高森さんの「 言動 」に 不審を持つことがあっても、煩悩具足の凡夫だから 仕方が無いと納得させていました。
しかし 「 教えだけは 正しい」と信じていました。
それが  崩れました。 
もう 親鸞会に留まる 理由は 完全に無くなりました。
貴方は まだ ついてゆけますか。

どうか、早く 真の知識を求めて 救われて下さい。

  
○ 私は 一昨年 定年退職しましたが、昨年2月に 心筋梗塞で  日赤病院で  3回の 手術を受け  助かりました。(少し伸びた だけですね )
人生はこんなように 予告も無しに 終ってしまうものだと 知らされました。
入院中  このまま死んでは 阿弥陀様に申し訳がない。
後生 心配ない身に して頂きながら 何の ご恩返しも出来ていない。
退院したら 南無阿弥陀仏の心と 高森さん信心で今も苦しんでいる人に
その間違いを 伝えようと決心しました。
そして、今回の ご縁を頂きました。本当に有りがたく 心から感謝しています。

親鸞会が、 高森さんが、貴方の後生を助けるのではありません。
南無阿弥陀仏によって救われるのです。
阿弥陀様が 早く気づいておくれ、待っているぞ  と喚んでおられます。
何度も 言いますが 南無阿弥陀仏の心を 知らされ、自信教人信の説法される先生は 日本中に何人も おられます。
私は今も 4人の先生と ご縁があります。聴聞に出かけます。本も読みます。

どうか  本当の 聴聞を始めて頂きたいと  心から念じ申しあげます。
長い長い文章を  読んで頂きまして 有難うございました。

南無阿弥陀仏  南無阿弥陀仏
 

若し、何か 聞きたいことや、相談が ありましたら 下記に ご連絡下さい。

土曜、日曜以外は 家で出来る仕事を  していますので

 朝 8時30分より 夜 10時までは 大丈夫です。
---------------------------------------------------------------------

嶋田  久義


〒 918ー8134
福井市  下莇田町  27-1-32

TEL 090ー2375-8256

 メール  simahisa62アットマークyahoo.co.jp
(あさ川註:「アットマーク」は半角@。スパム対策のため)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


以上嶋田さんからのお話しです。

嶋田さんとのご縁のおかげで、自分も友人も 迷いなく、親鸞会を離れられました。
そして 親鸞会の外で 頑張って活動されておられる方々から 阿弥陀仏のみ心 お聞きする事が出来ました。

激動の日々でしたが、
今は、阿弥陀仏が 私のために ご本願を立ててくださり 「南無阿弥陀仏」を完成して下された ご恩を知らされ、「光明無量、寿命無量」を詰めこんで下さった 「南無阿弥陀仏 」を 尊く 有難く 称えさせて頂いております。

長文を読んで頂きありがとうございました。
親鸞会の教えに長く迷っておりましたが、この投稿文を読まれて、親鸞会の間違いに気づき、正しい親鸞聖人の教えを求められる方がお一人でも現れたならば 、私の愚かさも生かされる事になります。
私の親鸞会での30年間が、誰かの尊いご縁になりますように、念じます。

私とこの投稿文を読まれた方とは、深いご縁があると思います。
きっと 「あなた」と弥陀のお浄土で、再会出来ると思います。

私に直接にご連絡を希望される方がありましたら 以下のアドレスに お願いします。

rokujinotsudoiアットマークyahoo.co.jp

アットマークは、 @に変えて下さい。

このページのトップヘ