あさ川進の、宗教と私

浄土真宗親鸞会に所属しながらアウトサイダーだった私(現在は会員でなくなりました)が、宗教(浄土真宗親鸞会)との付き合い方を考えつつ書いている更新頻度が低いブログ(この説明も暫定です)リンクフリーです。なお、投稿文を受け付けております。「【投稿文】」と書かれている記事は、頂いた投稿文です。

2015年04月

近頃、思うところがありまして過去の記事(所感カテゴリ)を読んでました。書き始めた当初は、親鸞会以外でほとんどというより全く話を聞いたことがなかった私でしたが、読者の皆さんからのご縁もありまして、今では様々なご縁に恵まれています。そんな私が、当初どういうことを書いていたのかと思って読んでいたのですが、なんだか最初からずっと、書いてることは変わってないなあと改めて思った次第です。

最近、長い文章が書けなくなりました。


さて前回、RCさんより勉強会の報告がありました。その中で、勉強会にいらした「わいるどひっぷ」さんという方からのコメントがありました。
その中で、「厳しい活動についてゆけず、逃げるようにして辞めてしまいました」という文を見まして、あることを思い出しました。


過去、私のブログにも書いたことがありましたが、私が大学一年生のときに大変お世話になった先輩は、大学卒業後に、「自分は求める資格がない」と言って去って行ったと聞きました。


私は学生時代、「なんとなく負けたような気がする」のが嫌で、親鸞会をやめずに続けていました。


10年あまり前、2ちゃんねるでは、親鸞会が言っていた「人生の敗残者」という言葉による罵り合いが行われていました。


本来、弥陀の本願を聞くとか南無阿弥陀仏を頂くとか信心決定とかということは、全部阿弥陀仏の一人働きでありますから、勝利とか敗北とか、そんな性質のものではありません。にも関わらず、親鸞会で聞いていると、なぜか勝ち負けの次元に落とし込まれるような思いになってしまうことがあるように思います。


親鸞会の過去の出版物を見ると、それは親鸞会の問題であると思えます。


順境に甘えて真実の生を忘れて仏法を求めねば、そのまま奈落だし、逆境に発奮して真実の仏法を求めて大信心を獲得すれば、たちまち人生の勝利者になるからである

我々真宗人は、群賊悪獣の戦線に立って真実の戦いに、その骨を埋めるのである。
それは、この世のどんな闘争よりも激しく、苦しいものなのだ。しかし、破邪なくして顕正なく、突撃なくして勝利はない

この闘争に打ち勝つ者こそ、人生の勝利者になれるのだ。ここで倒れては、唄の文句じゃないけれど「娑婆へ出て来た、甲斐はない」し、朝に飛んで、夕に死ぬ、かげろうと等しくなる。
 初心を常に忘れず、どんなに苦しくとも、淋しくとも、群賊悪獣にだまされず、裏切り者は斬り捨てて、卑怯者よ去らば去れ、倒れた法友の屍を踏み越えて、真実の勝利に向かってバク進するのだ。たった独りになっても

(以上『白道燃ゆ』)


青年は一般に気短な傾向があるから始めは騎虎の勢いで求めるが、やがて尻切れトンボになりやすい。後生の一大事から出発したものは最後の勝利を克ちとるが、一時の感情で信心の境地に憧れたり名聞利養の為にする聞法は絶対に続かない
(会報3集)


すでに親鸞聖人のきびしい三重廃立あり、覚如上人の、『改邪鈔』がある。蓮如上人も『御文章』に「わが信心は他人の信心は如何あるらんという信心の沙汰をすべし」と、至るところに大いに信心の沙汰をせよと御勧化になっている。破邪なくして顕正なく、突撃なくして勝利はない
(会報5集)


親鸞会は「人生の目的」を布教していますが、その「人生の目的」は「信心決定すること」と定義しています。
上記の会報5集の文脈は微妙ですが、それ以外はいずれも「信心決定すること」を指していると言って良いでしょう。(違ってたらお知らせ下さい)

弥陀の一人働きを、あたかも自らの手でつかむように表現しているわけです。


だからなのか分かりませんが、やたらと勝敗に拘っているように見えます。「信心一異の諍論」の結末をこう表現しています。


「ここに面々、舌を巻き口を閉じて止みにけり」と、『御伝鈔』にありますように、またしても、親鸞聖人に勝利の凱歌があがりました。
(こんなことが知りたい2)


もう挙げませんけれども、こういう「教え」に触れていたからなのか、受け取る会員さんの側も同じように表現している箇所が、特に昭和時代の顕正新聞には見られました。



「人生の目的達成」を「勝利」と表現しているつもりなのでしょうが、これが「信心決定」だったり「南無阿弥陀仏をいただく」だったりしますと、「勝利」という表現は馴染みません。他者と比較して優勝劣敗が決まるものであれば、「勝利」という表現が出てくるのでしょうが、他力信心は他者と比較するものではないからです。

そもそも、親鸞会自らが「絶対の幸福」と表現しています。「絶対」なのになぜそこに優勝劣敗が生まれてくるのでしょうか。


私の学生時代を思い出しますと、私の場合、「負けたような気が」していたのは一種のレースのようなものだと思っていたからでした。一本のレールに乗ってゴールまでたどり着けば勝利、レールから外れてしまうのが負け、といった具合です。つまるところ、親鸞会で聞き続けることが「負けない」ことだと思っていたと言えると思います。


親鸞会がどうして「勝利」などと表現しているのか、まさか正信偈の「広大勝解者」の意味を取り違えているからというわけでもないでしょうけど、「勝利」の表現には南無阿弥陀仏のはたらきを自らの手柄にしてしまうような自力の臭みも覚えます。


さて弥陀如来と申はかゝる我らこときのあさましき女人のためにをこし給へる本願なれは まことに仏智の不思議と信して我身はわろきいたつらものなりとおもひつめてふかく如来に帰入する心をもつへし さてこの信する心も念する心も弥陀如来の御方便よりをこさしむるものなりとおもふへし かやうにこゝろうるをすなはち他力の信心をえたる人とはいふなり
(御文章2-1)


ここまで書いて結局何を書きたかったのかと言いますと、親鸞会のレールから外れることが「負け」でもなんでも無いということです。もとより勝ち負けもないことについて、後ろめたさを感じたり敗北感を味わったりする必要は無いということです。


今回、わいるどひっぷさんは、親鸞会から離れたところにまた、南無阿弥陀仏を聞くご縁がありました。もし、浄土真宗を聞くご縁があって、そのご縁が続いている方の中で、特に会員さんで、活動についていくのがしんどいなどということがあるようでしたら、親鸞会の活動についていける人だけの南無阿弥陀仏ではないと申し上げたい。いや、むしろついていけない方のためといっても良いかしれません。


弥陀の本願は「摂取不捨の真言」ともいわれます。


十方微塵世界の  念仏の衆生をみそなわし  摂取してすてざれば  阿弥陀となづけたてまつる
(浄土和讃)


その「摂取」の意味として

・ ひとたびとりて長く捨てぬなり
・摂はものの逃ぐるを追わえ取るなり
・摂はおさめとる、取るは迎えとる

といわれています。


陽気・陰気とてあり。されば、陽気をうくる花は、はやくひらくなり。陰気とて、日陰の花は、おそくさくなり。かように、宿善も遅速あり。されば、已今当の往生あり。弥陀の光明にあいて、はやくひらくる人もあり。遅くひらくる人もあり。とにかくに、信・不信、ともに、仏法を心に入れて、聴聞申すべきなりと云々 已今当の事、前々住上人、仰せられ候うと云々 「きのうあらわす人もあり。きょうあらわす人もあり。あすあらわす人もあり」と、仰せられしと云々
(蓮如上人御一代記聞書 309)


ご縁はそれぞれにあるかと思いますが、早い遅いの違いはあっても花開くのだと、蓮如上人はいわれています。

あさ川です。RCさんが前回(第4回)の投稿文でアナウンスされていた勉強会の報告ということで、RCさんよりメールを頂きましたので掲載します。今回はタイトルにナンバリングが無いのは、RCさんからのメールにナンバリングが入っていなかったためです。

ちなみに、私も少しご縁を頂きました。私の味わいとしましては、弥陀から私に南無阿弥陀仏、そして私から弥陀へ南無阿弥陀仏。このように味わわせて頂いたご縁でした。


====(以下、RCさんからの投稿文です)====

RCです。

「第4回 親鸞会を退会して 講師部の皆さんへ」の投稿文の中でお知らせしました 、
4月11日(土)12日(日)の勉強会 ですが、
お陰様で無事に開催することができました。

当日は、遠方から新幹線で来てくださった方や 、前日に急に参加したい気持ちが起きて 連絡くださった方など 不思議で尊いご縁の皆さんとの とても嬉しい勉強会でした。

嶋田さんから 南無阿弥陀仏 のいわれお聞きし、阿弥陀仏が 私に 叫んでくださっているのを感じました。

質問の 時間も充分あって 日頃 分らないところをお聞きし、理解を深めることができました。

本願寺の先生の書かれた 「 阿弥陀仏の願心  お目当ての心  疑い心 」のプリントも用意してあり詳しく聞かせて頂き、聴聞とはこのこと と思いました。

阿弥陀仏の十ハ願  生起本末に 絞り切った ご縁でした。

帰りには 読んだらと言われる書籍法話テープ 法話DVD が貸し出されました。
親鸞会では、考えられない事です。


参加者の中には「第4回 親鸞会を退会して 講師部の皆さんへ」を 100人以上の方に メールで送ってくださったという方もおられ、頼もしい限りです。

100人でなくても 1人でも 2人でも、親鸞会の間違えに 未だ気づいていない方々に、この投稿文読むように勧めていただけると嬉しいです。

勉強会は、これからも 続けて行きたいと 思っています。

今回 ご縁なかった方も、次回 は 是非 ご参加ください。

お待ちしています。

また お知らせいたします。

南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏

一日の記事は妻に書いてもらいました。もともとは私が記事を書こうと思っていたのですが、話がまとまらなかったところで妻に頼んでみたところ、なぜか書いてくれたのでそのまま載せました。ただ、よく分からないタイトルは私が付けました。それは、妻がタイトルを付けなかったからでした。


四日、昨年も行ったのですが、大阪八尾の光蓮寺のご縁を頂きました。始発列車に乗って一人、しかしながら熊谷からでは始発でも十時には到着できませんでした(三分遅れ)。しかし、乗り継ぎを急いでいった結果、乗換案内の検索結果より30分ほど早く到着しました。


演題は「念仏成仏是真宗」、
今回もまた、大変に味わい深く聞かせてもらいました。

いろいろありましたが、一つ、あまり上手にまとまりませんが、書いてみます。

・・・

聞、ということは、「その通りになったこと」
お釈迦様が、阿弥陀仏がこのように助けて下さるのだと述べて下さった通りになったこと。
阿弥陀様が十八願に、「乃至十念若不生者不取正覚」とお誓い下さった通りにしか私が浄土に往く有様はありません、ということ

あらゆる者を、もれなく、皆阿弥陀仏のお浄土に連れてゆくぞという阿弥陀様のお誓い

このように聞いて、「ああ、あらゆる者なのだな」と聞いているのは、その通りなっているかというとそうではない。

(中略)

関心がないと、「皆さん(あらゆる者)」と聞いても、自分のことと受け取れない。

阿弥陀仏のお誓いを聞いて、その通りならないということは、自分のこととして聞いていない。
阿弥陀仏に対して関心がない、頼りになってない。

・・・


今助ける本願を聞いて、今助かっていないのなら、「その通りになっていない」ということです。

「一念の救い」と耳で聞いていて、「今度の一座で」とか「宿善が厚くなるように」とか思ってしまうとすれば、ただ今助ける弥陀の本願を聞かずに、自分が真剣に求道する有様を頼りにしていることになります。



そういえば、先月に「親鸞会ブログポータル」(親鸞会の運営)を見ていたら、公式サイトへのリンクを除いてきれいさっぱり無くなっていました。


少し前にどなたかが指摘されてましたが、親鸞会公式サイトも更新が滞り、親鸞会関係のブログもほとんど更新がなされず、といった状態です。


そんな中、知らぬ間に記事が増えていたサイトもありましたが、寂しい限りです。
親鸞会の皆さんは忙しいのでしょうか。



そんな中、古い記事を見つけました。



まあ、最近の親鸞会で「善をすれば助かる」なんて話は、私も聞いた記憶がありません。というよりも、そういう表現はしていない、といったほうがいいかもしれません。


しかしながら、「善をしなければ信仰が進まない」とは聞きます。
とすると、ふつうに解釈すると、「善が救いの条件」と解釈すると思います。

すくなくとも、このように聞いて、救われたい人はどう思うでしょうか。

まず、「善をしなければ」 と思うのでは無いでしょうか。


「善をしなければ」となったら、それは弥陀ではなく自分が頼りになっている証拠です。


結局この親鸞会の「信心の沙汰」話も、分かったような分からないような話で終わってますが、仮に弥陀が善を勧められているとして、十九願と十八願、自分が「いのち一刹那につづまる無常迅速の機」にも関わらず、わざわざ十八願をすてて十九願にしがみつくのでしょうか。その期に及んでも、自分を頼りにするのでしょうか。


自分の善を頼りにしていては、弥陀の本願を損ねてしまいます。

弥陀の本願のご縁あるならば、自分以外に弥陀の目当てはありませんから、南無阿弥陀仏そのまま聞いて喜ばれること、それが弥陀の本意であろうかと味わわれます。

突然ですが、あさ川の妻です。

本日はあさ川に代わって記事を書くこととなりました。
よって、ご覧になる方によっては不快に思われる部分もあるかもしれません。
その点ご理解いただければと思います。

さて、そうは言ったものの何を書こうか決めかねておりまして。
なにせ私は親鸞会そのものには直接的な関わりはなかったからです。

言い換えると間接的な関わりはあったわけですが。

あさ川が一度、私の許可なくその辺りの事情を記事に載せてしまったこともありますので、今更隠す必要もないかと思われますが、かつて私の知人が(知人というにはあまりにも親し過ぎる間柄でしたが)親鸞会会員でした。
こう書いてしまうとその方は既に親鸞会を辞めてしまっているかのようですが、実際には今現在も熱心な会員です。
この点はとても心の痛む部分ではあります。

知人が親鸞会会員であることに気付いた時から、私は間接的に親鸞会と関わるようになりました。
と言っても、せいぜいが行事や勉強会に誘われて行く、という程度ですが。
その時点で私は親鸞会がどういった団体であるかをある程度は「知って」いました。
ですから、そこで聞かされる内容や行われていることに対しては随分と冷めた目で観ていたかと思います。

親鸞会と気付いた理由は、知人の家に顕正新聞や発行物があったという点です。
諸事情あって宗教嫌いの私はそれらを見かけた途端に違和感を覚え、すぐさまネット検索をかけました。
と言っても、たまたま自宅のPCが不調だったので、実際には携帯電話による検索でしたが。
しかし、その調べるには十分でない状況でも親鸞会に関するネガティブな情報はいくつも見つかりました。
(恣意的に探していたという面もあろうかと思います)

その後PCも復活し、更に調べれば調べるほど知人は親鸞会を辞めるべきだ、私が救い出させなければならない、と思うようになりました。
今振り返るとこの点は相当に思い上がっていたな、と感ずる部分でもあります。

それはそれとして、知人を「救う」ために親鸞会について、カルトやマインドコントロールについて、最後は浄土真宗の教えについてと、主にネットと書籍の力を借りて学んでいきました。
また、元会員さんや現会員さん、浄土真宗の僧侶さんにも大きく時間を割いてご相談に乗って頂きました。
この場を借りて、上記の皆様やネットで様々な情報を挙げて下さっていた皆様にはお礼を申し上げたいと思います。まことにありがとうございました。

最初は知人のためでした。
と言いますか、それ以外のことはまったく考えていませんでした。
特に、浄土真宗の教えについては自分とは無関係のことと完全に線を引いていました。

宗教嫌いな私としては、特に親鸞会に関わる上では自らの無宗教を守ろう、と構えていたのです。
正しくは、無宗教であるべき、という宗教ですが。
そんな宗教を持っている自覚もおぼろげながらですがありました。

そんなわけで浄土真宗の教えは分かりたいとも思っていませんでしたし、まったくの他人事でした。
親鸞会が言うところの絶対の幸福はもちろんのこと、弥陀の本願や救いということも私にとってはどうでも良かったのです。
ただ、親鸞会での「浄土真宗の教え」は間違ってるらしいよ、だから辞めた方がいいよ、と知人に伝えたいが為に、どこが間違っているのかについてひたすら理解しようと努めていました。
今振り返ると随分無茶なことをしていたかと思われます。

ところが不思議なもので、浄土真宗の教えが自分とは無関係ではないことに気付かされました。
本願は他人ごとではなく私のことだと気付かされたものの、宗教嫌いであることも相変わらずの私で、とてつもない困惑にも襲われました。
今思えば宗教嫌いという点も私にとっては弥陀とのご縁だったということになるのですが、それについては詳しくは書きません。
しかし、その困惑が一つのきっかけであさ川とは出会うことになりました。面白いものです。

ここまで書いて何が言いたいかと言えば、実はいまだに何も考えていなかったのですが。
ただ、ご縁は私たちの誰にもはかることは出来ませんし、用意することもこしらえることも出来ません。
凡夫が判断したことや思っていることとは何の関係もありません。私たちの本願ではありません。
これは弥陀の本願です。
そして私が念仏申す身であるという、ただそれだけです。
南無阿弥陀仏 なむあみだぶつ

ところで、今日から四月が始まりましたね。
だからなんだというわけでもありませんが、念のため。

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