あさ川進の、宗教と私

浄土真宗親鸞会に所属しながらアウトサイダーだった私(現在は会員でなくなりました)が、宗教(浄土真宗親鸞会)との付き合い方を考えつつ書いている更新頻度が低いブログ(この説明も暫定です)リンクフリーです。なお、投稿文を受け付けております。「【投稿文】」と書かれている記事は、頂いた投稿文です。

2016年04月

あさ川です。RCさんから投稿文を頂きましたので掲載します。


========(以下、RCさんからの投稿文です)========

勉強会につきまして。

RCです。

本来なら
次回の勉強会のご案内をさせていただく時期なのですが、
幾つか事情ができ、ここで いったん 勉強会の開催を停止させて頂くことにしました。

次回 参加しようかと思っておられた方
ゴメンなさい。

勉強会 再開の際には、またお知らせさせて頂きます。


せっかくですので
少し前に 築地本願寺でお聞きしました
たある先生の話しを、まとめたものを 掲載させて頂きます。

また、私 RCに
聞きたいことがある方
情報のやり取りをしたい方など
メール頂けるとうれしいです。


私のメールアドレスは、

rokujinotsudoi アットマークyahoo.co.jp
(アットマークは、 @ に変えて下さい)


◯築地本願寺で
ある僧侶の方からお聞きしたお話し。

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仏法とは仏様になる教えです

今から2,500年前にインドにお釈迦様がお生まれになりました。

インドの人達は、物質的な豊かさよりも精神的なことに価値を置きます。
日本人も前はそうだったのですが、急激な科学技術の発達によって変わってきました。
物質文明と言うものが 今世界中に蔓延し、物質的な豊かさが人間的な豊かさや 幸せに結びつくような錯覚を 我々は抱いている、というか抱かせれている。
物質的なものが私の人生に 揃えば幸せなれるかというとそうではありません、

仏法の知恵は 善悪 正邪を 超えている、
それが本当の知恵です。
それを「無分別知」と呼びます。
分別といいますのは「相対分別」ともいいますが、相い対するものがある世界です。
例えば善と悪が相対してある世界です。
相対的なことから言うと
「善とは何か」というと「悪を否定するものを善」と言う。
「悪とは何か」というと「善を否定するものを悪」と言う。
善悪の関係は お互いが、お互いを否定することで成立する。
相手を否定することによって成立する存在です。
「正邪」も同じ関係です。
「生と死」もそうです。
この世界を「善悪相対の世界」といいます。これが「分別の世界」です。
仏法ではこれを「迷いの世界」と言うのです。
「善悪正邪、分別の知恵」を迷知といい
それを 正しい知恵とは言いません。
正しい知恵とは善悪を超えた、対立を超えた「絶対 の知恵 」を、
「真実の知恵」と仏法ではいいます。

それか(真実の知恵)を私がどのように手に入れるか、
それが仏法では1番大切な命題です。

お釈迦様が悟りを開いたときに座禅を組んで悟りを開いていますから
一般的には座禅を組んでその知恵を手に入れられると思っています。
座禅を組む とは知恵を手に入れるある種の行法です。
最終的には分別を超えた知恵を手に入れる、それが禅でいう悟りです。
禅でいう 「とらわれを離れた境地」を「無心」といいます。
「無心」とは計らいを離れた世界です。
計らいを離れた世界に到達するということが禅の極意です。
計らいを離れると「行雲流水」という囚われない、無心と言う境地、悟りになります。
しかし、座禅を組むことによってこう言う境地に至る事はなかなか難しいです。

浄土真宗は「他力」によって そうなるのです。
如来の本願力によってその境地にいたる。
親鸞聖人が「自然法爾抄」ので中で、
「私が浄土に生まれて仏になるのは 元から仏様の働きによってなるのである。」自ずから 然らしめる というのは、私のはからいによって成り立つ世界ではなく
如来のはからいによって自ずからそのようになるようになっている。

真実そのものの性質として、真実そのものが、私の上にはたらいて、私に真実を悟らしめる。
私に真実を悟らしめようなはたらきがないものは、真実とは呼ばない と 仏教ではいう。

さとりを開いて仏さまになるとは、
煩悩が消滅して、一切の苦悩が消滅することです。
一切の苦悩が消滅することを涅槃という。涅槃とは、ニルバーナーという。
インドの言葉を 「涅槃」と、漢字の音を当てたのです。
ニルは、消える。バーナーは炎ですから、炎が消える、これをニルバーナー。意味は、滅度。全てが消滅してしまう。炎に例えているのは 煩悩。
「煩悩」の
「煩」は 身体があるから出て来る問題 「悩」は 心があるから出て来る問題。
私たちには、身体と心があります。
ですから、一生涯 私たちは、悩み煩いが尽きることがないのです。

悩み 苦しみがあるまんま 生きて行ける、死んで行ける、そういう境地が、親鸞聖人や蓮如上人が、歩んで来た世界。

親鸞聖人の歩んで来た世界は、
如来さまの はからい に うちまかせて行く世界。
それまでは、私のはからいで生きて来た世界。私のはからいで生きて来た世界と、チェンジする。
それが、後文章の言い方だと、
「もろもろの雑行、雑修 自力の心を振り捨てて、後生助けたまえと、一心に弥陀をたのむ」
蓮如上人以前のご門主の方々は
「弥陀をたのめ、弥陀におまかせせよ」とは、おっしゃっても、
「何を どのように おまかせするか」ということは、おっしゃっていなかった。
それを 蓮如上人が、
「後生 助けたまえと、一心に弥陀をたのめ」と教えてくださったのです。
「阿弥陀さま」という仏さまは、
「後生を助ける仏さま」なのです。

「後生 助ける仏さま」に、
「私」が
「後生 助けたまえ」と、おまかせする。
こういうことです。

「後生 助かる」とは どういうことか。
「後生」とは、は、私たちが生きている次です。私が生きているのは、「現
生」。

「後生助けたまえ」というのは、
まず、
「後生助ける」という 阿弥陀さまが先です。
「後生助ける」という 阿弥陀さまの呼び声が 私に届いて
私が「後生 助けたまえ」と 阿弥陀さまに おまかせをする。
これを 「信心を頂く 」という表現もしている。

「信心を頂く 」とは、
阿弥陀さまの はからいと 出遇って
私のはからいに 用事がなくなる。
私のはからいによって生きて来た人生が
チェンジする。
私のはからいによって、本当の幸せには、なれないのです。
私は 本当の幸せが 何であるか知らないから。
私の欲が叶えられたら幸せだと 錯覚しているだけです。
今まで だいぶ欲が叶えられたと思いますが、幸せになれましたか?
欲は次から次へ 、まだあるでしょう?

いつ 幸せになるのですか?

本当の幸せって何か 私たちは、知らない。本当の幸せを知っているのは 仏さまだけです。
「仏さまにする」という「仏さまのはからい」に、出遇えば 私自身が自分のはからいで生きて行くという人生が、仏さまのはからいにおまかせをして、仏さまのはからいによって、はからわれて 生かされて生きるという人生に変えてもらう
それが、浄土真宗の「信心頂いた」という話しなのです。
主体が変わるのです。
私が 人生の主人公で、私のはからいによって、私の工夫によって、私の行いによって、なんとか幸せに なろうと 色々とやってみるわけですが、それはダメなんです。
何故なら、真実の知恵を 私たちは、持ち合わせていないから。
やること 成すこと、迷いの分別の知恵からやっている行いだから、どこまで繰り返して行っても、迷いの世界しか 生み出さない。

さとりの世界は、仏さまのさとりの知恵から 開かれていく世界なので、さとりの知恵のないところには、真実の幸せの世界は、展開しないのです。

私たちは、それは知らず 私たちの分別の知恵が唯一ですから、何がいいとか、何が悪とか、いいながら生きています。
いいとか 悪とか生きていることは、私を本当に、幸せに して行くのではない。
善悪を超えた仏の働きが、私に、真実の幸せを与えようと はたらいくださっている。
その真実の幸せを 「おさとり 」とも「極楽浄土」ともいうのです。
「極楽」とは、無上のこの上ない幸せで、「仏さまのさとりの境地」のこと。
そこに 至るには、唯一、仏さまのはたらきによってしか、至ることは、できません。

そして、その仏さまのはたらきは、
「これから はたらくのではなく、もうはたらいている」のです。
もう、はたらいてくださっている、そのはたらきによって、
「私たちは 皆 仏になる」のです。

「あなたは、仏に成る人です。」

と仏さまが 私に告げてくださった、
それが
「南無阿弥陀仏」なんだと、
親鸞聖人は、「南無阿弥陀仏」を 仏さまの呼び声であると、おっしゃってくださった。

「阿弥陀仏」という名前は、ただの名前ではない。
法蔵という菩薩が、
「私が全ての者を 仏にできなければ
仏と名乗りません。」とお誓いくださった。
その 「法蔵が もうさとりを開いて、仏に なった」ということが、
「阿弥陀仏という名前が もう 私の世界に 届いている」ということです。
「阿弥陀仏」という名前を 聞いたら
私たちは、「私を仏にする仏が、はたらいている」と聞かせ頂くのです。
善導大師は、これを
「阿弥陀仏というは、即ち これその行なり」とおっしゃっています。
「阿弥陀仏」と 聞いたら もうはたらいている、もっと言えば、
「はたらきがあるから、阿弥陀仏とい名前がここに聞こえているんだ」と親鸞聖人は おっしゃっています。

どういうはたらきなのかと、いうと、
「第17願力」
本願は、48ありますが
第17願は、
「南無阿弥陀仏の名号となって、あなたの世界に届きます」という誓いなのです。
これは大切な誓いなので、48願を誓った後で、もう一度 重ねて誓っています。それが 「重誓偈」。
重ねて 3回誓っています。
重ねて誓こうらくは、私の名号が十方世界に聞こえますように。もし そうでなければ、私は さとりは開きません。
逆の言い方をすれば、
法蔵菩薩がさとりを開いて 阿弥陀さまとなったので そのおはたらきが、正に
南無阿弥陀仏の名号が、ここに届いて聞こえている ということです。

親鸞聖人は、「南無阿弥陀仏」が私の世界に届いておるということは、17願が
成就したということなのだと言われています。
その 「南無阿弥陀仏」
ご名号のお謂れですが
「あなたを 仏に できなければ 私は、仏と名乗りません」とお誓いくださった、これが「本願」ですね。
この本願が 今どうなったのか。
これが成就した。
成就したから 「阿弥陀」となられた。
本願が成就したから
「私を仏にする仏が もう はたらいておる」
もう はたらきの中に、私たちは、存在している。
ところが はたらきというものは、目に見えませんから、
私に 「はたらいている」ということを 告げなければ、私にとったら それは 救いでもなんでもない。

「はたらいておる」

「あなたは 間違いなく仏になる人である」
こう私に告げてくださる、
これが「南無阿弥陀仏」の名号です。

「南無阿弥陀仏」の謂れを聞くとは、
「私が間違いなく仏になれる法と出遇う」ということです。
「私が 間違いなく仏になれる。」
なんで そんなことが 言えるかというと、それは 法蔵が 阿弥陀となって
現に はたらいておられるから。
私がおさとりを開いた暁には、南無阿弥陀仏が 全ての世界に届いて聞こえますように。
「南無阿弥陀仏」とは、
「全ての者が、仏になるぞ」という如来の告知。
「後生が助かる」ということは、
「この人生のその次が 仏のさとりの世界になる」ということ。

お釈迦さまと同じおさとりが、私の臨終の時に、用意がされているというのが
浄土真宗です。
おさとりを開くというのは、そのまま極楽浄土に生まれるということです。
極楽浄土とは、さとりの世界を表現してくださっているのです。
たとえですからね、
金や銀や瑠璃や 宝石で 出来ている、
そういうもので何を表そうとしているのか。
それは お互いが 相 照らしあって、お互いの光と光が、混然一体となっている世界。全ての存在が、お互いを照らし合いながら、相対立せずして一体となっている、それをさとりの世界といい 仏の世界という。対立するもののない世界。

我々の世界は、対立の世界です。
何故対立するのか、それは お互い自我に執着するから。
俺の物とか、お前の物。俺の家 お前の家、俺だ、お前だ、とかいう中に摩擦が生まれ、「自」と「他」というものが相 対立しあっている世界。そこにお互い住んでいる。これを 迷いの世界。

さとりの世界は、この逆。
お互いが対立しあう世界でなく、一体である。一つであるというのが さとりの世界。
仏と私が 対立するものでは、なく 一つである。
仏と私が 一つであるということを言葉にすると「南無阿弥陀仏」ということになります。
「南無」というのは
「阿弥陀さまにおまかせしております私」の姿であり
「阿弥陀仏」というのは、その私の上にはたらいておる如来さまのはたらき。

南無阿弥陀仏とは、
正に 仏と私が一つであるという世界。
はからいのない世界とは、
南無阿弥陀仏を生きる、
浄土真宗とは、南無阿弥陀仏を生きる。
南無阿弥陀仏を生きるとは、
私のはからいが取られて、
如来さまのはからいによって生かされて生きる 人生。
「自然法爾抄」でいうと
行者の善しとも、悪しともはからわぬのを、自然とは申すなり。

これが 禅で言ったら「無心」。
とわられを離れるということ。

我々の浄土真宗では、我々のはからいによってそうなるのではなく、
如来さまのはからいによって
私どもは仏にならせて頂く。

これに 出遇わせて頂いたら 私の側は、覚えていようが、忘れていようが
はたらきとして はたらいているのですから、
私が、お念仏をしたら はたらくという話しではないのです。

逆なのです。
はたらいているからこそ、私が 今 お念仏を申させて頂いている。
これが 第18願の 乃至十念の念仏なのです。
如来さまにおまかせをした 如来さまのはからい 、
如来さまのはからいは、既に私の上に、
はたらき続けています。
南無阿弥陀仏のお念仏となって はたらき続けています。
全てのものに南無阿弥陀仏がはたらいている。
ところが その南無阿弥陀仏のはからいから逃げている。どのように逃げているのか、「お念仏を申しません」と逃げている。
それが 念仏を申さなかった私が、「南無阿弥陀仏」とお念仏を、申す者にさせて頂いた。
それは、何度称えなければいけないという念仏でもなければ、毎日 決まった時間に称えなければいけない称えいう念仏でもない、必ず月に一度 お寺に 参って称えなければならないという念仏でもない。
いつでもどこでも 如来さまが私の上にはたらいているまんまのお念仏、

既に 届いているものが私の上に そのまま出てくる、これを称名の「称」という。とおっしゃったのが、親鸞聖人。

「称」という字は、「秤」と同じ。
秤というのは、100グラムを乗せれば、100グラムムの目盛りが出る。200グラムを乗せれば、200グラムの目盛りが出る。称名の「称」は、届いているものがそのまま出てくる、「届いているものがそのまま出てくる」とは、それが
南無阿弥陀仏のお念仏なのです。
それが 称名 なのです。
こう 親鸞聖人は、喜ばれた。
だから
「南無阿弥陀仏」 称名は、既に届いているものが そのまま 私の上に現れ出でてくださる姿です。
私のはからいによって申している念仏ではないのです。
如来のはからいによって 申させて頂いているお念仏、それが他力の念仏。
私の上に 如来さまがはたらいておられる、そのことを喜ばせて頂くのが浄土真宗である。
お念仏というのは、正に 私のうえに
はたらいておる如来さまのお姿が
南無阿弥陀仏のお念仏だと、
このように 親鸞聖人は、喜ばれた。

ご存じの方も多いか知れませんが、先日、元会員さんと話をしたときに、Facebookで『なぜ生きる』の映画があるらしい、という話をされました。


そういえば某ブログのコメント欄に、「親鸞会が血染めの恩徳讃のアニメを作り直したらしい」というような話題があったことを思い出しました。


親鸞会の「血染めの恩徳讃」とは、一体何にカテゴライズされるのかよく分かりませんけれども、紙芝居に素人の作ったラジオドラマをくっつけたような代物です。夢に出てきそうなインパクトのある絵に、会員さんや講師部員が声をあてていました。(その後のリメークでは、蓮如上人だけプロの声優さんになりましたが)


大ざっぱな話の内容はGoogleで調べてもお分かりになるかと思いますが、蓮如上人時代に火災で焼失しそうになった教行信証証巻(親鸞聖人真筆)を、本光房良顕が命懸けで守り抜いた、というものです。このとき、本光房良顕は、腹を切ってその中に証巻を入れて火災から守ったことから、「血染めの恩徳讃」という題が付けられています。


そのことが頭にありましたので、「血染めの恩徳讃のアニメ」と聞いた時には、「あの絵で作り直すのかなあ」と漠然と思ったものでした。



はたして、その元会員さんの紹介?してくれた「なぜ生きるの映画」は、思ったよりまともそうなものでした。今回は一般上映もするようです。とばいえ、埼玉ではなぜか幸手だけの上映と、会場数はそれほど多くないようですが。



参考


参考としてはYahoo!映画をリンクしましたが、なぜか私が見た時には、上映前にもかかわらず評価5ばかり付いていました。


元会員さんは、「『なぜ生きる』と『血染めの恩徳讃』が今ひとつ結びつかない」と言われてましたが、私が勝手に想像しますに、本光房良顕の人生の悩み苦しみ、そして蓮如上人との邂逅への道筋が、『なぜ生きる』の部分に相当するのだろう、と思っている次第です。

今回で3回目になりますが、日曜日は日帰りで大阪の八尾に行ってきました。昨年までは5日間、今年は短縮されましたがそれでも3日間(5日まで)行われている仏教文化講座でした。


今回は、真宗史の第一人者の方、とのことでした。おつとめを入れて2時間でしたので、正味一時間半くらいのご縁でした。惜しむらくはICレコーダの電池が切れてしまったため、音声を残すことができなかったことです。
演題も「真宗史との歩み」というもので、文献や絵像・名号本尊のお話など、知識としても興味深いお話でしたが、それらを通して先師のお心を味わうという点では、味わい深いお話でした。


いずれ機会があれば振り返るという話をしておきながら、そのまま時間が過ぎることが今まで多かったのでそういうことは申しませんけれども、色々味わわせて頂いた中から、最後のお話を簡単に紹介します。



今回のタイトルを見て、「慶喜一念相応後」のことだろうと思われた方は少なくないと思いますが、これは北海道の寺に残っている平仮名正信偈の一部分だそうです。


明治時代の初め頃だったか分かりませんが、北海道の開拓ということで北海道の地に行き、そこで働いて食べて寝ての繰り返しの毎日を送っていた人たち。そんな繰り返しの生活を送っていた人たちが「救われる道」に出合った。平仮名くらいしか知らず、漢字を全くと言って良いほど知らない、そんな人が、耳で聞いた正信偈を一生懸命書き留めたもの。「年」は本当は「念」と書くべきだが、そんなことは重要では無い。僅かに知っていた漢字をそこに書いたもの。貧しい中、食べて寝ての繰り返しの中で「救われる私」を懸命に生きていった、そのような人たちによって、この浄土真宗の教えは伝えられてきた。


だいたい、最後はこのような趣旨のお話でした。


小難しいことを理解しなければ救われないような、そんな思いに駆られる人もあるかしれません。これだけ聞いて聞けてないとすれば、何かまだ分かっていないことがあるはずだ、と。
南無阿弥陀仏の心が聞けてない、ということはあるかしれませんが、それは知識や理解の話ではない、ということは、そもそも親鸞聖人や蓮如上人が、どのような人に向けて南無阿弥陀仏の心を伝えて行かれたかを考えれば頷けるのではないでしょうか。


真宗史の大家と言われる先生が、このような誰とも知らない人の平仮名正信偈について、「本当に価値あるもの」という趣旨のことを言われたことが、私にとってはたいへん味わい深く有り難く聞こえたのでした。


・・・


今回の記事と直接は関係ありませんが、今回のお話の中で蓮如上人の摂取論について話が出た際、蓮如上人の絵像の話が出ました。その中で、


「蓮如上人が絵像を描かれたということと、”木像よりは絵像、絵像よりは名号”という御一代記聞書の言葉について」


という話が少しありましたので、私はどういうお話があるのかと気になってしまいました。
先日、私が書いた本尊の話の中でも、蓮如上人が絵像を描かれたという史実と御一代記聞書のお言葉の整合性については、結局あのような書き方しかしませんでした。蓮如上人の本尊観が変わったからだとか、信者の信仰が深くなったからだとか、あれを書いた当時にもいろいろ間接的に意見を頂いた中で、自分なりにも推測することはあったのですが、結局それを証明する文献が手元に無かったので書きませんでした。

そんなこともあったので私は随分興味をそそられましたが、時間的なこともあってか、あるいはそこまで詳しく話をする必要も無かったのか、非常にあっさりした内容でした。


・蓮如上人の絵像は、一次史料である。(絵像の考証についてのお話もありましたが、割愛)
・御一代記聞書は、実悟が伝聞を元に編纂した二次、三次の史料である。


だいたい、こんなような内容だったと記憶しています。

気がついたら4月になっていました。私が2ちゃんねるの存在を知ってから、およそ15年が経ったわけで、月日の過ぎるのは早いなあと改めて思った次第です。


さて、このブログ自体も開設から4年近く経ちまして、読んでくださる方も随分増えました。ブログの最初に、私が10年あまり前に「親鸞会の本尊論を再考する」というブログを書いたことにも触れているわけですが、そのブログの内容について、たまに問い合わせを受けることがありました。


実は、このブログの中に文章を転載してあるのですが、時が経って分かりにくくなりましたので、改めてその記事へのリンクを貼っておきます。


PC版では、右側に「あさ川が思い入れのある記事」へのリンクがあるのですが、最近はスマホの方も増えているようで、スマホでは表示されないリンクですので、アクセシビリティの観点から言えば、カテゴリにするのが良いのかなあと思い始めている今日この頃です。気が向いたら、新しいカテゴリにします。


ちなみに、「あさ川進」の名前は、この「本尊論ブログ」の当時の「浅川進」から取っていますが、この名前は私が付けたものではありません。文章を預けてブログの開設をお願いした人が、「本名だとまずいと思ったから」知らない間に名乗っていた名前でした。


この文章を書いた当時の話をすると長くなりそうなので、今回はやめておきます。


「親鸞会の本尊論を再考する」(1)

「親鸞会の本尊論を再考する」(2)

↑このブログの容量制限のため、2分割になっています。
 これを書いた後で、親鸞会から「読んで」が出されたので、4~5時間かけて書いた再再考ブログが↓です。(こちらも容量制限のため2分割)


「親鸞会の本尊論を再再考する」(1)

「親鸞会の本尊論を再再考する」(2)

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