あさ川進の、宗教と私

浄土真宗親鸞会に所属しながらアウトサイダーだった私(現在は会員でなくなりました)が、宗教(浄土真宗親鸞会)との付き合い方を考えつつ書いている更新頻度が低いブログ(この説明も暫定です)リンクフリーです。なお、投稿文を受け付けております。「【投稿文】」と書かれている記事は、頂いた投稿文です。

2016年10月

あさ川です。気がつけばもう11月です。今回はRCさんの勉強会のご案内をいただきました。

RCさんが親鸞会を退会されてから、およそ2年が経ちました。当時RCさんから電話を頂いた時はかなり意外に思ったのでしたが、あれから2年経ったのだなあという感慨があります。


電話で何回かお話しして、いろんな思いを伺って、「じゃあ文章を書きませんか」と提案したのは私からでした。

それで、このブログで「投稿文」を始めました。

そして勉強会が始まり、ご縁が広がって、RCさんからだけではなく、何人かの方から投稿文を頂きました。


どこからが弥陀のお手回しだったかなあと、投稿文を頂いて思いまして、全部かしらんと一人味わっているのでした。


========(以下、RCさんからの投稿文です)========

RCです。

「埼玉恵日会のご案内」をさせて頂きます。

今年 最後の「埼玉恵日会」です。

日時:12月4日(日)
14時10分~17時
場所:熊谷駅 直結 ティアラ21 4階
ハートピア 会議室2

熊谷市筑波3丁目202番地
(熊谷市男女共同参画推進センター
:ハートピア)
電話番号:048-599-0011

講師: 阿部信幾 先生

参加費: 2000円
(経費と お布施にさせて頂きます)

今回は JR熊谷駅直結の会議室での開催です。
JR熊谷駅は、新幹線も 停ります。

駅直結の この施設は 人気があるのか、予約がなかなか 取れなません。
ですので 遠方の方なども、是非 今回の勉強会に 頂けたらと、思っています。

火宅無常の世界で、
「阿弥陀さまの願い」を お聞きできるご縁、本当に 有難いことと 思います。

今回も、皆さまからの ご質問を 募らせていただきます。
「〇〇に ついて わからないので、教えてください」と いうことでも
「〇〇に ついて ご説明して頂きたいです」ということでも いいかと思います。

今まで 頂いた質問には、全て お応え頂いています。

もしも 勉強会には、参加出来ないけれど 質問したいという方は、私に 質問メールを送って頂ければ
私から 阿部先生のお応えをお伝え いたします。

ご質問メールは、私のアドレスに 送って下さい。

私のアドレスは、

rokujinotsudoiアットマークyahoo.co.jp

アットマークは、@に変えて下さい。

ご質問、そしてご参加を 心からお待ちしております(^-^)/

それから、
とりあえずですが、
来年の「埼玉恵日会」の勉強会の日程をお知らせいたします。
まだ、会場は、未定です。

2017年(平成29年)
1月 22日 (日曜日)
3月 5日 (日曜日)
6月 4日 (日曜日)
7月 2日 (日曜日)
9月 18日 (月曜日)
12月 3日 (日曜日)
時間は、どの日も 14時10分~17時
の予定です。

変更が、ありましたら、早目にご連絡いたします。

来年が、どんな年になるのが わかりませんが
「親鸞聖人の教え」を聞かせていただき
「お念仏」を称え 、
「ご恩報謝」(なかなかできませんが)が できるようにしたいです。

南無阿弥陀仏

先週の日曜日は、とある国家資格の試験を受けてきました。ちなみに、宅建ではありません。私個人的には別に受ける気も無く、どちらかというと別の試験を受けたかったのですが、会社からいついつまでに試験に合格すること、と言われたので受けてきました。


もともと、「人生の目的」について何かを書こうと思っていたのですが考えがまとまりませんので、今回はこの試験を受けて考えたことを書きます。こちらも全然まとまってはいませんが、いつものことなのでそのまま書いてしまいます。読みにくかったら失礼しました。


さて、何かしら試験を受けるといった場合、「不承不承でとりあえずポーズだけ」などといったケースでもなければ基本的にその試験に合格するために受けると思います。そして、だいたいの場合、一応は勉強すると思います。


勉強 → (試験) → 合格 または 不合格


受けた結果がすぐに表示されるような試験でもない限り、大なり小なり合格発表まではタイムラグがあります。
そして、少なくとも合格発表までは、自分が合格しているのかしていないのか、本当のところは分かりません。


私が今回受けた試験は、全部マークシートでした。そして、試験日の夜遅くには解答が発表されました。この場合、自分がしたはずの解答と、発表された解答を見比べれば、自分が取るであろう点数は予想できます。私も、珍しく採点してみました。


しかしながら、これも多くの場合はせいぜい「おそらく合格(不合格)だろう」止まりだと思います。マークミスやその他の不備の可能性が(僅かであっても)考えられるからです。


そのようなわけで、ある程度結果が予想できていたとしても、合格発表のときまではどっちつかずの日々を過ごすことになります。この間、試験の結果がどれくらい気になるかは、その人がどれくらいその試験に思い入れを持っているかに比例するかも知れません。入試などの場合は、人生をも左右しかねませんので、重大である場合も多いと思います。

私の場合は、試験結果が人生に対して与える影響は大して無いはずですが、またこの試験を受験となるのも面倒だという点において、試験結果は気にしています(現在進行形)。


そして、試験の合格発表の結果、自分が合格したかしてなかったかが分かります。ここで一応分かるはずなのですが、合格証が手元に届くまでは安心できない、という人もあるかしれません。いずれにせよ、何かしら自分の合格(あるいはその逆)を証明する事柄をもって、結果が分かります。私の場合は、来月の中旬に合格発表の予定です。


試験の場合は、以上の流れになることが多いと思います。
この間、(程度の差こそあれ)悶々とする理由を考えますと、まさに上記の通りだと思ったのでした。つまり、


①自分の努力が自分への結果に反映されることを期待している
②しかしながら、自分への結果を決めるのは自分では無い


この2つが揃うと結果が出るまでの間、悶々としてしまうのだと思うのです。逆に言いますと、この2つのうち片方だけならば悶々としようが無いでしょう。
そしてこれは、別段試験に限った話ではないと思います。

たとえば、自分の努力が完全に結果に反映されるのであれば、自分が努力しさえすれば良いのです。自分が結果に対して努力しないのであれば、結果を決めるのが自分であってもなくても、それほど結果を気にしないでしょう。

試験とは関係ありませんけれども宝くじはどうかな、と思ったのですが、考えてみますと、本気で当てようとしている人であれば大量に購入するとか購入場所を選ぶとか、結局何かしら努力していると言えるでしょう。



そういえば少し前に、淳心房さんのブログで19願の話題が出ました。臨終来迎は死の間際まで結果が分からないので、試験どころの騒ぎではありませんし、その行も比較にはなりませんが、自らの行いでもって弥陀の救いを待つという構図は、似ていなくも無いかなと思いました。試験であれば合格発表日は決められてますが、臨終来迎はいつ死ぬか分かりませんから、いつ発表されるか分からない合格発表を待ち続けていることになるかも知れません。


絶対他力という話を聞いていれば自分の善が救いに反映されるという考えは持たないと思いますし、平生業成という話を聞いていれば臨終来迎を強いて待ち望むことも無いかとは思います。
しかしながら、もし、弥陀の救いにあうために善をする必要があると思っているとすれば、今まで述べてきたような「試験の合格発表まで悶々としている」構図、しかも、「いつ発表されるか分からない合格発表を待ち続けている」構図に嵌まってしまっているのではないでしょうか。


①自分の努力が自分への結果に反映されることを期待している
→自分の善が救いの「よい因縁」となる
②しかしながら、自分への結果を決めるのは自分では無い
→絶対他力なので弥陀まかせ

→②によって、救われていないということは何かが足りてないと思う
→さらに何か努力をする
→①に戻る


絶対他力と聞いてはいても、ついつい何かをせずにはいられないのは、人生において

「自分で努力して自分の求める結果を得る」

という自力の成功体験しか持ち合わせていないからなのかも知れません。そしてこの成功体験が強いほど執着も強くなるのでしょう。


一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして、清浄の心なし。虚仮諂偽にして真実の心なし。ここをもって如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまいし時、三業の所修、一念・一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。如来、清浄の真心をもって、円融無碍・不可思議・不可称・不可説の至徳を成就したまえり。如来の至心をもって、諸有の一切煩悩・悪業・邪智の群生海に回施したまえり。すなわちこれ利他の真心を彰す。かるがゆえに、疑蓋雑わることなし。この至心はすなわちこれ至徳の尊号をその体とせるなり。
(教行信証信巻)



弥陀の救いといった時に絶対他力と言われますけれども、つまりは「自分がすることは何も無い」ということです。上の親鸞聖人の文章を読みますと、


・一切苦悩の衆生海を悲憫して
・菩薩の行を行じ
・至徳を成就したまえり
・回施したまえり


はみんな「如来」でした。努力という言葉はおかしいですが、あえてさっきと比べるなら


「如来で努力して如来の求める結果を得る」


と言えるかも知れません。であるならば、全部弥陀のお仕事ですから、私が手心を加える必要はありません。さっきの①と②も、


・弥陀におまかせ。


なんだか話を小難しくしてしまっただけのような気もしますが、南無阿弥陀仏

淳心房さんのブログのとある記事を読みまして、ふと思い出したことを書こうと思ってから数日が経ってしまいました。どの記事を読んでそう思ったのかは、タイトルをご覧になるとなんとなくお分かりになるかとは思いますが、この記事です。



そういえば私も、このブログで過去に何度か「親鸞会は丸太だ」と書いたような記憶があります。自分で調べてみましたら、3つくらいの記事で書いているようでした。



初出は、2013年2月26日の『「卒」親鸞会』でした。

>親鸞会も所詮は「丸太」です。


次は2013年03月31日の「高森先生の代わりにはならない」でしたが、これはちょっと微妙です。


そして、2014年01月02日の、「年頭によせて・・・『なぜ生きる2』はすてて」でした。

>言うまでも無いことですが、親鸞会も難度海に浮かぶ丸太でしかないと同時に、『なぜ生きる2』も丸太でありましょう。


今回は、この2014年1月2日の記事を思い出したのでした。


この時期と言えば、記事のタイトルにもありますように『なぜ生きる2』が発売されて間もない時期でした。私は『なぜ生きる2』を読んでがっかりしてしまい、そのことがあからさまに表現されるような記事を書いていた時期でもありました。


そして、「あさ川のブログの内容が問題だ」ということで、親鸞会を追い出された時期でもありました。


ブログのどの部分が問題になったのかなど、文章でもらってませんし詳しい話も聞いた覚えが無いので正確なことは分かりませんけれども、直近だったということから言えばこの1月2日の記事の内容が問題視されたのかもしれません。


ちなみに、飛雲さんや淳心房さんがご指摘のように、親鸞会の話で出てくる難度海と、親鸞聖人が仰る難度海とは意味合いがまるで違いますが、当時は私もその辺を分別していませんでしたので、この記事での「丸太」は親鸞会の話に出てくる難度海の、「たよりにしたらひっくり返るもの」という意味合いです。


さすがに「高森先生も板きれだ」と書いたことはありませんけれども、今にして思えば『なぜ生きる2』を丸太と書いたことで、限りなく近いことをいっていたのだろうと思いました。



当時、「親鸞会も丸太だ」とか「『なぜ生きる2』も丸太」だとか書いた私は、「出ていってくれ」と言われました。そんなことを思い出しながら、ふと2年半あまり経った今はどうなのだろうか、と思うのです。
そんなことを言う会員さん、あるいは講師部員の人はあるのでしょうか。そして、親鸞会自身も、「親鸞会にしがみついていても裏切られる。裏切ることのない南無阿弥陀仏をたのめ」というようになったのでしょうか。


「君のいいたいことは分からなくもないが」と、言われた方もあったのですが、大多数の会員さんあるいは講師部員の人はどう思われるのでしょうか。



まことに、死せんときは、かねてたのみおきつる妻子も、財宝も、わが身にはひとつもあいそうことあるべからず。されば、死出の山路のすえ、三途の大河をば、ただひとりこそゆきなんずれ。これによりて、ただふかくねがうべきは後生なり、またたのむべきは弥陀如来なり、信心決定してまいるべきは安養の浄土なりと、おもうべきなり。
(御文1-11)



親鸞会も丸太です。
『なぜ生きる2』も丸太です。

ただ南無阿弥陀仏。

淳心房さんのブログの記事を読みまして、あまり関係無いかも知れませんがその昔、(というほど昔でもないのですが) 学生時代に親鸞会で書いていた、


無上仏
諸仏
菩薩
諸神



という紙のことを思い出しました。

また、歎異抄の、


弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。仏説まことにおわしまさば、善導の御釈、虚言したまうべからず。善導の御釈まことならば、法然のおおせそらごとならんや。法然のおおせまことならば、親鸞がもうすむね、またもって、むなしかるべからずそうろうか。
(第二章)



も思い出しました。
いずれも無上仏、弥陀が先頭にあります。


人の言葉は認識しやすいし信じやすいのですが、南無阿弥陀仏はさっぱり認識できないしなかなか信じられるものではないのかも知れません。なので、どうしても人の言葉から南無阿弥陀仏の意味を探ろうとしてしまうのも無理ないことだと思います。
それが、どんな人の言葉もいらない、南無阿弥陀仏ばかりであったと味わわれる、人の言葉では無く弥陀の真言を真言と味わわせてもらう世界にであうというのは、なんとも不思議なものだなあということを、改めて思ったのでした。


今日も相変わらずまとまっていませんし、意味分からないと仰る方も多いか知れませんが、私のブログは大概このような感じですので、今日はこれだけといたします。


(10/6追記)
この記事を書いて一晩経ってから、最初の紙の話題(無上仏、諸仏、菩薩、諸神)は不要(文章の意味が通りにくい)だということに気がつきました。ですので、そのくだりは無視してお読み頂いた方が、まだいわんとしていることが伝わるのではないかと思います。

直せば良いのですが、基本的に誤字脱字以外の、構成に関わる修正はしない方針ですので、本文は特に大きく変えないことにしています。その点ご理解いただければと思います。

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