あさ川進の、宗教と私

浄土真宗親鸞会に所属しながらアウトサイダーだった私(現在は会員でなくなりました)が、宗教(浄土真宗親鸞会)との付き合い方を考えつつ書いている更新頻度が低いブログ(この説明も暫定です)リンクフリーです。なお、投稿文を受け付けております。「【投稿文】」と書かれている記事は、頂いた投稿文です。

2016年11月

過日、夫婦共々滋賀に車を走らせて行ってきました。腐れ縁というか、長い付き合いの住職の寺の報恩講に行ってきたのでした。住職との付き合い自体は長かったのですが、報恩講に行くのは4回目でした。

近くに住んでいるわけではありませんのでそう頻繁に行くわけでもありませんが、私どもの結婚式を挙げてもらったりと、何かと縁のあるお寺なのでした。

ちなみに、その寺の近傍には国内でも指折りの料亭がありますので、式には良い場所です。


報恩講のお話は、私なりに味わうところがありましたが、たとえば恩の話で、「恩」の文字の上にある「因」は象形文字で”ふとんの上に大の字になって寝ている人”を表しているということは初めて聞きました。話には出てきませんでしたが、よく似た字で「囚」があります。形だけ見ると布団の上に人がいるようにも見えますが、この字の囲みはおそらく別の意味だろうと思います。法を聞くということは、いろいろなことを忘れていることを思い出させることであるなあと味わわれた次第です。


さて、名号本尊ということで、いろいろな思い出があるのですが、まずあさ川として思い出すのは本尊論ブログのことです。

ちょうどブログを開いたのは、十一年前のこの時期でした。


ネタ自体は九月くらいに仕入れていたのですが、当時の私はさらに証拠を探していて、できれば『山科御坊之事並其時代事』の現物にも当たっておきたいと思っていたものでした。当時私が持っていたのは、『現代の教学問題』に引用されていたものだけだったからです。とはいえ、どこを探して良いのやら分からない状態でした。そのような状態だったのが、たまたま神田あたりの古本屋で見つけた時は小躍りしたものでした。

そのようなこともあって書いたブログだったのですが、結局その当時は親鸞会を追い出されるところまではいかずに終わりました。それが今に繋がっているのだと思いますと、これまた不思議なご縁だなと思うわけですが、その原体験を辿りますと、おそらくさらに五年ほどさかのぼった、大学一年のときに至ると思います。


以前にも書いた気がしますが、私は夏合宿での親鸞会入会の誘いを断って、当時は一人だけぽつねんと非会員の立場を続けていました。「おつとめは御名号の前でやるのが良いのだ」と言われながらも、御本尊を下付されていなかったので、手書きの名号本尊を作って一人でおつとめをしていました。その当時の思いとしては、「同じ南無阿弥陀仏に優劣など無いはずだ」というものでした。



それから程なくして、親鸞会の名号本尊を手に入れてから親鸞会を追い出されるまで、お仏壇は代替わりしたものの、私の仏壇には名号本尊が掛かっていました。本尊論ブログを書いていましたが、あの文章にも書いていた通り、別段私は名号本尊を否定していたわけでもありませんでした。

それが、親鸞会から追い出されたときに名号本尊を返却してから最近まで、お仏壇が空っぽの状態が続いていたのでした。


実は、結婚してほとんど間もない時期にそのような状態になったこともあって、妻からはずっと、お仏壇に御本尊をお迎えしろと催促されてました(ちなみに、しつこいようですが妻には親鸞会の会員歴はありません)。

家庭の事情もあっていろいろなルートが考えられました。手っ取り早くするなら仏具屋で購入すれば良いのかもしれませんし、埼玉で世話になっているお寺もあったので、そこにお願いする手もありましたが、考えた末に、夫婦共々浅からぬご縁のある大谷派のお寺から御名号を頂こうと決めました。

もちろん木像は木像、絵像は絵像の表現といいますか、良さや味わいがあるのですけれども、弥陀のお働きを直接イメージに表現しない潔さが良いなあと思ったのでした。あと、妻の実家が六字名号だったということもありましたが。


なぜかそうやって決めるまでに二年くらい掛かってしまいましたが、ようやく御名号本尊をお願いしたところ、大谷派では六字名号の下付は無いので、十字名号(帰命尽十方無碍光如来)と九字名号(南無不可思議光如来)のどちらが良いか、と聞かれました。

その話を聞いた時に私は、六字が無くて十字と九字があるという理由がよく分かりませんでしたが、何のことは無く、御名号本尊の設定が無いので脇掛を御本尊とするということだと理解しました。そういうことなら私は、十字名号が良いですというお返事をしたのでした。親鸞聖人といえば十字名号、という思いがあったからでした。


そして先日の報恩講で、ようやく御名号を頂いて、家の仏壇に安置できたのでした。



人間は「正見」ということができないのだ、という話を聞いたことがあります。ものごとを本当にそのまま見ることは出来ず、何かしらの思いを込めて見てしまう、というものです。それは良いとか悪いとかいう議論はさておき、そういうものだからこそ、一つのものに対しても思い入れが出来るのだろうと思うのでした。

御名号も、単純に手に入れるだけならば方法はいくらでもあったのですが、やはりこうだ、と思うのは、目の前の南無阿弥陀仏の中に、様々なご縁を味わうからなのかも知れません。


「帰命無量寿如来」といふは、寿命の無量なる体なり、また唐土(中国)のことばなり。阿弥陀如来に南無したてまつれといふこころなり。「南無不可思議光」といふは、智慧の光明のその徳すぐれたまへるすがたなり。「帰命無量寿如来」といふは、すなはち南無阿弥陀仏の体なりとしらせ、この南無阿弥陀仏と申すは、こころをもつてもはかるべからず、ことばをもつても説きのぶべからず、この二つの道理きはまりたるところを南無不可思議光とは申したてまつるなり。これを報身如来と申すなり、これを尽十方無礙光如来となづけたてまつるなり。この如来を、方便法身とは申すなり。方便と申すは、かたちをあらはし、御名をしめして、衆生にしらしめたまふを申すなり。すなはち阿弥陀仏なり。この如来は光明なり。光明は智慧なり。智慧はひかりのかたちなり。智慧またかたちなければ不可思議光仏と申すなり。この如来、十方微塵世界にみちみちたまへるがゆゑに、無辺光仏と申す。しかれば、世親菩薩(天親)は、「尽十方無礙光如来」(浄土論 二九)となづけたてまつりたまへり。
さればこの如来に南無し帰命したてまつれば、摂取不捨のゆゑに真実報土の往生をとぐべきものなり。
(正信偈大意)

先日の続きと言いますか、書こうと思いながら例によって延び延びになった今日の話です。


前回の記事に頂いたコメントへのお返事で少し書いたのですが、私が学生時代から社会人になるかならないかの頃に手にした庄松同行の話の中で、一番印象に残っていたのが、継子の話です。ご存じの方もいらっしゃるでしょうが、大ざっぱに言いますと


庄松が寺の本堂で急に寝転がった。
いっしょに来た人が、「本堂で寝転がってはいけない」と注意すると、
庄松は「親のうちじゃ、何の遠慮もいらない。そういうお前は継子だろう」と言った。


というような話です。


そういえばどなただったか、「救われる前は、阿弥陀様は怖い存在だと思ってました」と言われていた方がありました。


善をしなければならない、
おつとめをさぼってはいけない、
手を抜いてはいけない、
誰が見て無くても仏さまは見てござる聞いてござる知ってござる・・・


たしかに、こういったことを聞かされ続けていたら、弥陀に助けてもらうにはどれだけのことをしなければならないかと悩んでみたり、少し出てきた怠け心を見つけては救いから遠ざかった気がしたり、

と、

(語弊はありますが)阿弥陀様のご機嫌をいかに損ねないようにするか、ということに神経をすり減らすような心持ちになってしまうのかもしれません。


庄松同行にとって弥陀は、存分に心置きなく甘えられる存在だといわれているのかもしれません。
「親様」ということばもありますが、まさに親のように遠慮のいらない存在。

それは決して粗末にして良いとか軽んじて良いとかいう話ではないのですが、


たとえ悪い心が出てきたとしても、
善をする気が起きなくても、
手を抜いてしまっても、
おつとめをさぼってしまったとしても、


「そんなことをする奴はたすけてやらん」とは決して言われません。
何を言っても何をやっても、そのことによって弥陀が心変わりすることは無いということです。

とは言っても、だからといって本当にやりたい放題言いたい放題、弥陀も貶し放題、となっては勿体ないです。
一般的に、親に対しても、親の愛情を感じたら、そこまで親を故意に粗末にしようという人はそうそう無いと思います。

ただただ申し訳ないなあという心になる人もあるのではないでしょうか。ならない人もあるでしょうけど。


南無阿弥陀仏。


私がよく行く寺で、ほぼ毎月の勉強会が行われています。テキストを読んで、そしてめいめいが思ったことやら味わいやらを好き勝手言うのですが、そこのご住職は、


「仏法は遠慮してはいけない」


と口癖のように言われます。継子の話と通じるものがあるのかも知れません。


南無阿弥陀仏。

先日、淳心房さんのブログの記事に、私は珍しくコメントしました。


まさに「おまかせ~」ですね。

おまかせということは、(私の力は一切役立たないので)おまかせした結果はそのまま受け入れるということで、思う通りの結果にならなかったらどうするんだという不安があったりすると、おまかせするのはなかなか難しいかも知れないなあと思いながら、
歎異抄の、「総じてもって存知せざるなり」のお言葉が味わわれました。

南無阿弥陀仏



その私のコメントに、お返事を頂いていました。


そんな不安もありますね。あと「どうまかせたら・・・」と悩む人も(´・ω・`)
元々地獄だから阿弥陀さまのお連れ下さる先が地獄でも受け入れるしかないですよね。
歎異抄の「総じてもって存知せざるなり」は言葉通り「本当に何も知らない」「法然聖人より承りしみ教えを我も信じ人にも教え聞かせているだけだ」ということですね。私も全くもって同じです。



私の漠然としたコメントの心をくみ取って頂いて、私も同じ味わいであるなあと思いながら、さらにお返事しようと思ったのですが、そのことだけ書いても仕方ないかなあと思っているうちに日が経ってしまいました。


さて、そんなコメントをしながらふと思い出したのが、今日の話題です。
前にも同じようなことを書いた気がするのですが、忘れてしまったのでもう一回書きます。


淳心房さんが以前に紹介された、「お坊さんのつぶやき部屋」というサイトに、庄松同行の「おかみそり」のエピソードが紹介されています。


これ


全部引用するとちょっと長いので、途中からちょっと引用します。


そして庄松さんは取り次ぎ役について本寂上人の前にやってきました。
そこで庄松さんは礼儀作法も知らないので、べったりあぐらをかいて座ると本寂上人から、「今、我が衣の袖を引っ張ったのはそなたであったか」
庄松「へぇ、おらであった」
本寂「何と思う心から引っ張った」
庄松「赤い衣を着ていても、赤い衣で地獄逃れることならぬで、後生の覚悟はようかと思うていうた」
本寂「さぁその心持ちが聞きたいため汝を呼んだ。敬ってくれる人は沢山あれど、後生の意見をしてくれるものは汝一人じゃ。よく意見してくれた。併し汝は信をいただいたか」
庄松「へぇ頂きました」
本寂「其の得られたすがたを一言もうせ」
庄松「なんともない」
本寂「それで後生の覚悟はよいか」
庄松「それは阿弥陀さまに聞いたら早うわかる。我の仕事じゃなし。我に聞いたとてわかるものか」
本寂上人は、庄松さんの答えを聞いて満足し、「弥陀を頼むというもそれより他はない。多くは我が機をたのみてならぬ。お前は正直な男じゃ。今日は兄弟の杯をするぞよ」と申され、その日に一緒に酒を飲み交わし、その日以来、庄松さんは本寂上人のことを「あにき、あにき」と慕われたそうであります。



親鸞会で似たような話を聞いた記憶があったのですが、なんか違うなあと思いました。思い出してみると、『白道燃ゆ』に紹介されていました。


法主の前に出た庄松は、ベッタリ、その場に胡座をかいた。そして「オレに何か用か」と不敵な笑みを漏らした。
「なぜ、ワシの法衣を引っ張って、あのようなことを言ったのか、汝の心意を申し述べよ」の法主に対して、庄松は、
「アニキ、赤い衣では地獄はのがれられんぞ。信心決定しておらぬと絶対助からんぞ。今晩出て行く後生の覚悟はよいか、と尋ねたのじゃ」と喝破した。
その時、法主は合掌し、
「ワシを生き仏と敬うてくれる者は多いが、ワシの後生を案じてくれたのは、お前一人じゃ」と喜んだと伝記にはある。
「それでは、お前は信心決定できたか」の法主の問いに庄松は、
「ハイ、信心頂きました。幸せ者でござる」と、キッパリ答えている。
法主はいたく感激して、その場で手をとりあい、庄松と兄弟の盃を交わしたという。
庄松の叫びは、決して法主のみに問われたものではない。我々の胸を叩いて、
「今宵出て行く、後生の覚悟はよいか」と今もなお、庄松は叫び続けていることを忘れてはならない。
我々は一人一人、この庄松の問いに答えなければならない。彼の問いには、代弁も許されなければ、受け売りの知識も意味をなさない。
かくて庄松は、明治四年、七十三歳で大往生を遂げたのである。



描写が違うのは性格上の問題として片付けるとしても、分かりやすいところで全然違うのは最後の部分です。
(本寂上人が庄松に尋ねていることなど、いろいろ違うのですが)

『白道燃ゆ』では、「ハイ、信心頂きました。幸せ者でござる」で終わっているのに対して、「お坊さんのつぶやき部屋」で紹介されているエピソードは、


本寂「其の得られたすがたを一言もうせ」
庄松「なんともない」
本寂「それで後生の覚悟はよいか」
庄松「それは阿弥陀さまに聞いたら早うわかる。我の仕事じゃなし。我に聞いたとてわかるものか」
本寂上人は、庄松さんの答えを聞いて満足し、「弥陀を頼むというもそれより他はない。多くは我が機をたのみてならぬ。お前は正直な男じゃ。今日は兄弟の杯をするぞよ」と申され~



と続いています。

この庄松の、「なんともない」の部分がなんとも味わい深く思うのですが、
「我の仕事じゃなし。我に聞いたとてわかるものか」の部分、この部分が冒頭の「総じてもって存知せざるなり」のお言葉に通ずるのでは無かろうか、と思ったのでした。


『白道燃ゆ』のように途中で切ってしまうと、信心そして後生の覚悟ということが、自らの確信をベースにしてしまうような気がします。それが、「知り過ぎた、知らん」に繋がっているのかも知れませんが、「知り過ぎた、知らん」では、弥陀の仕事を我がものにしてしまうことになるのではなかろうか、と思いました。もう少しオブラートをはがして言いますと、親鸞会の発する自力臭は、こういったところにも表れているように思ったものでした。


「阿弥陀さまに聞いたら早うわかる。我の仕事じゃなし。」
「弥陀を頼むというもそれより他はない。多くは我が機をたのみてならぬ。」


ここまできちんと入れてほしかったですね。


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